BLOGkayaki1

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※更新は絶賛停滞中。
 今年中に、再開したいとは思います。
  その間、「BLOG2」 はほぼ毎日更新しています。

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『日本の文章』外山滋比古/1984.8
『旧約聖書の英語』西尾道子・バーバラ片岡/2000.12


 世界の著書が翻訳されるとき、原文忠実主義の呪縛から逃れられず、したがって読みにくい書物がこしらえられる。
 日本の読者が外国の書物を敬遠してしまう(「どこか“しんどい”と感じている。」)原因が翻訳にあるというのが外山先生の持論だ。
 確かにいびつな日本語が並んでいるのはすらすら読むことを阻害している。しかしそれ以上に読みにくいのは、特に古典と呼ばれる「名著」は文語体で書かれていることによる。

 特に聖書は、難しい言葉で書かれている、という認識を子供のころに持ってしまった。
この個人的な認識は、小学生のころだったか、家族旅行でとあるホテルに宿泊した際、ホテルの引き出しに入っていた、やたら分厚い本を読んだことにより抱く羽目になった。
 よほど古い日本語訳で書かれていたらしい。多分、もっと後に読めば何ら問題なかったのだろうが、いかんせん小学生には小難しい文体であった。それ以来聖書は、読みにくい書物だと思うようになってしまった。

 池上彰・佐藤優共著の『大世界史』(文春新書)の中で両氏は、日本人がキリスト教圏の人々の施行を理解するためにも、教養として聖書を読むことが必要と訴えている。それには同感した。
 しかしそのためには、読みやすい翻訳の聖書が必要ではないのか。いや、すでに読みやすいことで定評のある新訳が出ているのかもしれない、それならばよいのだが。そうでないなら今後日本人が欧米と上手いこと付き合っていくためにも、原文忠実主義から脱した読みやすい日本の文章らしい新訳を出してもらいたい。
 聖書という性格上、余計に原文忠実を求められているのかもしれないが、教養として読む人は別にキリスト教に帰依するためでもキリスト教研究をするわけでもないのだから、読みやすさ第一で大胆に翻訳したものを出してほしい、と思う。(そういえば「超訳」というものが一時期流行ったけれども、多分同じことを差すのだろう。「超訳聖書」があっても面白いと思う。)

 ところで、「旧約聖書の英語」は実に簡単な英語で書かれていることに、改めて驚いてしまった。読みにくい文語体日本語よりも、最初から英語で読んだ方が楽かもしれない。
 だが驚いたのはそれだけではなかった。冒頭の一文、「God created the heavens and the earth.」の箇所である。神は天と地を創造された、というものだが、「地」が「earth」というところに衝撃を受けたのだ。
 「earth」は日本人は「地球」のことだと思っている。しかし英語圏ではこれを「地面」だと捉えている。これはもしやすると、欧米人は「earth」を未だに平べったいもの、TOマップのような地上の世界と捉えているのではないか…。
 さすがにそれは考え過ぎだが、聖書を英語で読んでいくと、「earth」と同様に日本人の訳語と欧米人の英単語に微妙な認識の違いがあることに気づかされる。(「man」と「woman」の違いもそうだ。逐語訳しただけでは日本人には全くぴんと来ない。)これが積もり積もって文化の違い、思想の差異となっていくのだろう。

 教養として、日本人も聖書を読むべきとする主張には賛成したい。その暁には、英語原文と「日本の文章」で書かれた名訳とで、併せて読みたい。
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『カレーライスの誕生』小菅桂子著/2013.3

 2013年にユネスコの「世界無形遺産」に登録された「和食」の範囲はどこまでか、というのが登録後に話題となった。
 特に「ラーメン」が「和食」としてフランスに紹介された折、果たして拉麺は和食か否かが議論になっていたことを記憶している。
 「拉麺」が中国語であることからして中国の食べ物である。しかし、日本様式のラーメンを中国で食すには、日本のラーメンチェーン店以外に無い。日本独自の料理と言える。かくして「ラーメン」は和食とする説が浮上した。今は「日本食」という言い方で落ち着いているようだが。

 

 これと同じように、「カレーライス」もまた日本独自の料理であり、ラーメンに並ぶ「国民食」と呼ばれるものである。
 カレーライスの場合は和食か否かといった議論はあまり聞かれない。ラーメンよりも歴史が新しいということもあろうが、「カレーはインド」という認識が広まっているためでもあろう。
 しかしながら、インドのカレーと日本のそれとは、あまりにもかけ離れている。(冒頭の写真参照。写真はスリランカで食したものだが、インドでも大体同じ。)ならば、堂々と日本独自の料理として宣言できないものだろうか。

 

 今の日本のカレーは明治時代にイギリスから入ってきたものだ、だからカレーライスは寧ろ洋食であり、独自性はイギリスにある、と言われるかもしれない。何を隠そう自分がそう思っていた。
 実際に、イギリス海軍のカレーライスは日本のそれと全くと言っていいほど同じものだ。だからカレーライスを「日本食」と呼ぶには苦しいかもしれない。

 

 しかし、日本にカレーが紹介された当初の状況が続いていたのなら、カレーライスは「和食」になっていたかもしれない。
 何しろ、明治初期には「カレー三種の神器」(と、本書では紹介されている)である3野菜、つまりジャガイモ、人参、玉葱が無かったのである。(漢方の朝鮮人参はあったが。)
 それでは当時、どんな野菜をカレーに入れていたのだろうか?ということが本書には書かれているわけだが、もしも西洋に追いつけ追い越せな3野菜の栽培事業が遅れていたら、そのまま日本独自の料理として発展していったのかもしれない。
 だが結果的には、北海道での栽培に成功した3野菜は晴れて国産野菜の代表となり、カレーライスは結局元の西洋風に戻ってしまった。その一方で、ビーフシチューの作成に失敗して今や「和食」となった3野菜の料理「肉じゃが」が爆誕したのだから、世の中はわからないものである。

 

 「国民食」と言えるカレーライスは果たして「日本食」かはたまた「和食」か見極めるためには、本書のような「歴史書」(と言ってもいいだろう)が必要である。
 冒頭のラーメン問題も、迂闊に断定すると中国からの反発を招きかねない。逆に、中国に反論するためにもやはり歴史をしっかり学んでおく必要がある。本書のようなラーメン版も、ぜひとも欲しいところである。
 さらにカレーの話に戻すと、ネパールもインドの文化圏であり本家カレーが食されているのだが、とある食堂で西洋カレーが出された時には驚いた。(2枚目の写真)


 もしもインドで西洋カレーが出されて、本家のカレーはおいしいなぁと思うようでは、本来の文化や歴史を見落としてしまっている。
 日本の回転寿司にも、アボカドを使った西洋アレンジの巻物は普通に供されるようになった。ハンバーグ寿司なるものも今や回転寿司の定番だ。すでに「和食」や「国民食」の定義は曖昧なままになってしまっている。
 だから本来の「和食」を世界に発信しようと、世界無形遺産への登録の機運となったのだろう。本来の文化や歴史を見落とさぬための、良い手段であると思う。一方で文化は変わるものだし歴史は今もつくられている。アボカド巻きもインドの西洋カレーも、無下に否定する必要はないけれど。

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 本件、ブログ2「【ETV】ウルグアイ・コシヒカリ・ラウンド」の転載です。


・ETV特集「地球の裏側で“コシヒカリ”が実る」を観ました。
 面白かったです。
 気になった点は、以下、箇条書きで。

・世界進出を果たした「スシ」だが、いままでは
 中粒米などのパサパサしたお米が使われていたのか。
 ひょっとしたらそれで寿司など日本食を勘違いされたり、
 日本食嫌いを生みだしているとしたら由々しき事態だ。

・アメリカでおいしいコシヒカリがたくさん作られている。
 アメリカで、おいしい日本食が食べられるという恩恵を
 もたらしめた日本人や日系人の努力に脱帽。

・アメリカで効率優先で作られた安いコメが
 自由貿易化で日本に入って来ると日本の農業は打撃だと
 言うのは然りだ。しかしアメリカのコメも 日本と同じくらい
 手間暇と高度な技術が使われて初めて収穫されているのだとわかると、
 アメリカのコメもちょっとは食べてみたいものだ。

・ウルグアイで作られたコメが、台湾にめでたく出荷となった。
 台湾もコメが主産業だ、わざわざ日本のコメを、しかもわざわざ
 ウルグアイから持ってくるなんて、という抗議運動が
 起きそうな気がするが、さてどう折り合いをつけようか。

・日本から台湾へコメを輸出するよりも、ウルグアイから台湾へ
 輸出した方が安いとは驚きだ。それは生産コストのみならず、
 輸送コストが比較にならないくらい安いという。
 その理由については大いに驚かされた、なるほどなぁ。

・中国や台湾から工業製品を大量に輸出する。
 しかし持って帰るものが少ない。輸入量が少ない。
 工業製品を大量に詰め込んだコンテナ船は、時に手ぶらで
 帰って来るのだと言う。だから帰りの便は安い。
 そういえば、行きはナイルパーチを詰め込んだ飛行機は、
 帰りに別のものを詰め込んできたという映画があったなぁ。

・日本の農学は、農学部にいたときから「農学栄えて農業滅ぶ」
 という言葉を聴いてきたくらい、農業に貢献できていない。
 そもそも、米が余って減反までしている国に
 ミラクルライスなんていらない。だが世界的に見れば
 食糧危機はもうすでに起きており、ミラクルライスの開発が急がれている。

・ブラジルでも日本食ブームは高まり、日本の高品質米の需要は
 増えているという。だが、関税によって日本米の輸入が阻まれている。
 なんてことだ、自国のコメ生産を守るためにコメの関税を
 かけているというのに、それによって米輸出が阻まれているとは。

・ウルグアイで生産すれば、ウルグアイと貿易協定を結んでいる国々に
 無関税及び低い関税で米を輸出することが出来る。
 日本がコメの関税にこだわっている間に、米の輸出ビジネスが
 他国によって抑えられてしまうことを考えると末恐ろしい。

・だから今すぐに関税撤廃をセよというわけではなく、土壌整備が必要。
 たくさん輸出できるくらいコメの生産量を増やす(規制緩和する)ことで
 余剰生産米を「確保」したところで撤廃していけばよいのではないか。
 ただしそのためには日本米の高品質、ブランド化を確立させておかねば。

・日本のお米が、低質化しているという。なんてことだ。
 確かにコンビニや外食産業のお米は、「国産米」は謳っているけれども、
 古米だったり高品質からあぶれたコメを安く仕入れて使っている。
 国産だからいいというわけではない、一つの事例なのだろう。

・日本のお米が低質化しているというのは、今後のコメ輸出を考える上では
 あまりにもマイナスなのはもちろんのこと、味覚に対する
 日本人の感性が変化(もしくは「劣化」)していくという
 おぞましき文化的廃頽が待ちうけている。非常に問題だ。
 あと、外国人観光客の方が舌が肥えていて、何だ本場の食はこんなものかと
 思われてしまっては、観光業としても大打撃ではないか。

・日本の高品質なコメを生産し続けていくために出来ることは何であろうか。
 美味いコメを食べること、だから美味いコメを選んで買うことだ。
 美味ければ2倍くらい高くったて買うといい。どうせコメ消費量は昔と比べて
 半減したんだ、ならば2倍くらい値が張るお米を買っても差し支えない。



※元記事および番組内容は、「ウルグアイ・ラウンド」と何も関係ありません。
 だからブログ2の題を改めた上で転載した次第です。

※日本のコメ以外のコメはまずいのか。日本人からすれば、まずいですよね。
 この間の中国の機内食はまずかった。実にパサパサした米だった。
 しかし逆に言うと、粘り気の無いコメはチャーハンにすると美味しい。
 日本のコメでチャーハンなんて作れない。日本のコメ以外のコメも、
 各地域の食文化に必要だから、各地域で作り続けられるべきである。

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『明六社』大久保利謙/2007.10

 最近のテレビや雑誌は、明治時代をよく取り上げている。
 特に最近になって感じられるのは、明治時代が、平安時代や江戸時代と同じような歴史的位置づけで語られていることである。(気のせいかもしれないけれども。)
 つまり、明治時代とは「近代」であって、江戸時代の「近世」とは異なる次元で語られてきた。いや、正確にいえば、明治が今と同じ次元で語られ、江戸以前はどこか今とは異なる遠い昔として語られてきた感がある。

 しかし今や、明治は今とは異なる世界の話として扱われるようになった(気がする)。
 昨今のIT革命など、科学技術が進化しすぎて、2000年前後をいったん歴史的節目として切り離す必要が出てきたことと関係があるのではなかろうか。
 また、明治生まれの方が、10年ほど前は珍しいけれどもそう遠くない存在だったのが、今では本当に珍しいことになってしまったこともあるのではないか。(生年月日の記入欄に、最近は「明」もしくは「M」を見なくなった。)

 それでいて、今日の明治時代回顧ブームである。
 激動の時代、国家再構築及び世界埋没の危機的状況にある中で、いかにサムライたちは乗り切ってきたのだろうか。
 それはあたかも、織田信長やナポレオンのような英雄伝探しや神格化し奉っている印象を受けている。
 坂本竜馬に端を発したブーム(正確にいえば前々年の篤姫からか)だが、今や竜馬の足跡は、弘法大師の足跡のごとくにありがたく巡礼する人々で絶えない。(単に、江戸時代から日本人お得意の「観光資源」と見ることもできるが。)

 そう簡単に「英雄」として、その時代の人々を褒め称えるだけでよいのか。
 彼らも一個人の人間であり、今と時代は異なっても、確かに今の時代と通じる、今の次元と同じ世界の中にいた、我々と変わらない人物である。
 それゆえ、もっと「英雄」と同じ立場に立って、何を考え、何を学んでいたかを、知る必要があるのではないか。
 今の時代に必要なのは、「英雄」という他人任せや懐古ではなく、その時代の人々が考えんとする「意(こころ)」ではないだろうか。

 それを強く意識して、本書を手に取った。
 本書については、明治6年結成のの学術結社「明六会」の設立から自然解散に至るまでの、学術的資料を提示したものである。
 やや資料的要素の強いものではあるが、しかし文章は当時の明治人が、森有礼や福沢諭吉が記した本音の文章が、ふんだんに掲載されている。
 正直、読み物としてはやや詰まらないものだったが、「文明開化」と一言で括られがちな激動の時代で何とか指針をこの国に示そうとした「明六社」の活動、およびその思想の手掛かりを知れる、良い本であった。
 さらに「明六社」研究およびその啓蒙思想の中身を解説した本を待ち望む。
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