クリスティーナ女王(1626-1689)はおそらくどの時代のどこの君主と比べても、個性の強さでは抜群じゃないでしょうか。
強国時代(これについては何度も書きましたね)に生まれて6歳にして父をなくし王位についた女性です。
スウェーデンの歴史では女帝というのはとても珍しい存在らしいです。
最初はもちろん摂政を立てていました。
1644年、18歳にして成人となり、女王として戴冠します。
その後、誰とも結婚することを拒み、1654年、退冠し、1年後にカトリックに改宗、ローマに行き、1689年、63歳で亡くなるまでローマに住みました。

生まれたときから王位継続者として教育を受けていました。
ということは王様になるための教育で女王になるためではありません。
非常に聡明で、ラテン語、フランス語、イタリア語など当時の外交に使われる言葉を自由に話し、歴史、宗教、政治学などを学びました。

父親はグスタフ2世アドルフ、母はマリア・エレノラ(ドイツ人)でクリスティーナの前に何人か子どもが生まれているのですが、全員生まれてまもなく亡くなっています。
ですからクリスティーナが生まれる時もみんな大変心配しました。
後に彼女自身が書いた自伝によると、生まれたとき、体中に毛が生えていて、低い泣き声だったので、産婆さんも男の子と思い、王様始め、みんな大喜びだったそうです。
すぐに、間違いが分かり、おそるおそるグスタフ・アドルフ王に報告したところ、王様は怒るどころか「おお、お前は生まれて直ぐに王まで騙すような子か。将来性があるのう」と言ったとか。

$北欧からコンニチワ-クリスティーナ女王
クリスティーナ女王。
(お母さんは絶世の美女だったそうですが、彼女はお父さんに似たのでしょうか。どこか男っぽい)

男勝りなところや、結婚を拒否したり、政治でも才能を発揮したところなどで性的変換みたいに思われていますが、1965年にお墓が開けられて、骨を調査した限りは、完全な女性ということになっています。

彼女は当時の常識をことごとく破った、と言う意味で個性的だったと思います。
おじいさんが国をカトリックからプロテスタントに変えて、お父さんはそのためもあって戦死しているというのに、王位を降りたとたんにカソリックに改宗したのですから。

クリスティーナは文化の理解者としても知られています。
特にデカルトをストックホルムの王宮に招きいたことでも有名です。この哲学者はかわいそうに、スウェーデンの冬の寒さに耐えかねて、肺炎かなんかで客死していることでもまた有名。
この頃以来、科学アカデミーを作ることが夢で、ローマに行ってからやっとかなえることができました。

そのほか、音楽も手厚く庇護し、フランスやイタリアからいろいろな音楽家を招きました。
オペラなども上演させたということです。
次はこの音楽家たちの一人、ヴィンセント・アルブリチについて書きます。






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前回はバッハのお兄さん、ヨハン・ヤコブ・バッハについて書きましたが、今日は時期を同じくしてカール12世の軍隊でロシアのポルタヴァで戦い(1709年)、捕虜になってシベリアのトボルスクに流され、14年間抑留、1723年にスウェーデンに返された音楽家、グスタフ・ブリードストロームについて書きます。
シベリアの抑留生活は厳しいものだったらしいです。1万4千人が送られて、14年後にスウェーデンに帰ってこられたのは千人程度だったそうです。
音楽家は少しは優遇されたらしいですが。

この人の名前がなぜ今に伝えられているかというと、彼は抑留中、1715年に自分が故郷で吹いていた曲を、小さなノートブックに書き留めていて、それが今でも西スウェーデンにある博物館に残っているからです。
シベリアの生活は厳しかったから、暇にまかせてとか、退屈だったから書いたとはいえないと思います。
やはり音楽家として、よほど故郷が恋しかったのか、音楽がしたかったのではないでしょうか。
自分のパートだけ書いたところが、なにか涙ぐましい。
北欧からコンニチワ-Blidstrom-1
これがその表紙。

Cantus Secundus
March Book
Sampt Primus på
Menuetter och Polska Dantzar
Tobolskij d. 10 Martii
1715
G.S. Blidström
この表書きによると、ブリードストロームは行進曲は第二オボイスト、ダンスはメロディーを弾いていたのでしょう。

行進曲は40曲。現存する随一の軍隊音楽です。
続いてダンス音楽300曲。メヌエットやポルスカです。
北欧からコンニチワ-Blidstrom-2
楽譜の例二つ。
上はマーチ (この曲は第一パートもある)、下はダンスの譜面です。。

スヴェンは2005年に「戦争と平和」というコンサートをしました。
ブリードストロームのノートブックを基にした音楽です。
以下、その時のプログラム・ノートを参考に書きます。 

17世紀から18世紀にかけてのスウェーデンの軍楽隊は4部声で構成されていました。
楽器の編成は第一、第二パートがディスカント(ソプラノ)・シャルマイ、第三パートがアルト・シャルマイ、第四パートはドゥルチアン。
当時は未だ音楽家はオボイストといってもオーボエばかりではなく、屋外の行進にはもっと音量の大きいシャルマイ、ポンマーが使われました(ヨハン・ヤコブ・バッハもオーボエのほかにこういうのも持ち替えていたのでしょう)。

北欧からコンニチワ-Blidstrom-3

スヴェンはこのコンサートのために、新しく東ドイツで遭遇した楽器製作者に注文、上の写真のようなアンサンブルを作りました。
右側の二人と左端が新しく到着したドイッチェ・シャルマイ、左から二人目はルネサンス・ドゥルチアン(この時代にしてはやけに古い楽器です)。
自分の思っていた音が出せてご機嫌でした。

ダンス音楽のほうは宮廷の室内楽の場合はオーボエを使いました。
ブリードストロームの楽譜はどちらかというといまもそこここに残っているスペールマンの音楽に似ています。
多分、彼はバイオリン(フィッドル)も弾けたのでしょう。
コンサートではバイオリン2台とリュートで合奏していたと思います。

この音楽史、次回は時代が前後します。
カール12世のおじいさんに当たるグスタフ・アドルフの時代の音楽について書きます。







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カール12世が14世になっていました!改訂します。

カール12世とバッハのお兄ちゃん

強国時代の王達は個性が強い人が多かったみたいです。
それに教養もあって頭もよかった(別に絶対君主の賛同者ではありませんが)。
当時はヨーロッパ全体が伏魔殿で、昨日の味方は今日の敵。条約などさっさと捨てて、他と手を組むのなんかなんとも思ってなかったみたいです。
鳩山さんや小沢さん程度の政治家だったら国はとっくに消えていたでしょうね。 

今日は強国時代最後の王、カール12世(1682-1718)と従軍した音楽家の話です。
カール12世はここの国粋主義者のマスコットです。
毎年、命日11月13日にはいわゆるニュー・ナチストたちが行進をして平和主義者と小競り合いうを繰り返しています。

王位についたのが15歳。スウェーデンはデンマーク、ポーランド、ロシア、ドイツのザクセンと対立していました。
その4国と同時に戦争を進めて、一生を終わります。
18歳でストックホルム城を出兵、以後36歳で戦死するまで、一度もストックホルムに戻りませんでした。
ケイタイ、インターネットもない時代に、遠隔で国政をとっていたとか。

さて、この王宮にJSバッハの直ぐ上のお兄さん、ヨハン・ヤコブ・バッハ(1682-1722)が仕えていたのをご存知ですか。
ストックホルム・バッハというんだそうです。
オーボエ奏者で多分バイオリンも弾いていたそうです。
弟バッハは別れに当たって彼のためにカプリチオ(鍵盤楽器用、BWV992)を作曲したそうです。
1704年から王宮直属の軍隊に所属し、カール12世に従ってヨーロッパだけでなく、トルコまでを廻っています。

下の地図はカール12世が走り回ったヨーロッパの地図です。
これをたどっていくと、この王様は本当に戦争しかしていなかったことになります。
$北欧からコンニチワ-カール12世
先ず、南スウェーデンでデンマークを黙らせておいて、そのままエストランドに出かけ、レニングラードの近くのナルバでロシアと戦います。ロシアはピヨトール大帝の時代です。
そうこうしている内にポーランドが宣戦布告してくる。
それで、ワルシャワ、クラコヴなどで戦い、ワルシャワで和平成立(1705年)
この頃からヨハン・ヤコブは従軍していたのでしょうか。
その後ピヨトール大帝と手を結んでいたザクセン候を平定します(ここまでが地図上オレンジの線)。
いよいよ宿敵のロシア、ピヨトールと対戦すべくモスクワへ向かいます。
1707年から08年にかけて、西へ西へと向かいますが、冬になり、1709年ポルタヴァの大戦で負けてしまいます。

そこから命からがらトルコに逃げ、オスマンの王様に優遇されて、6年もそこにとどまります。兵隊もいっしょに。だからヨハン・ヤコブも。
トルコ滞在中に、彼はフルートを習ったそうです。
かの有名なクワンツの先生だった人についたとか。
どうしてそのフランスのフルートの先生がトルコにいたのかは分かりませんでした。
ヨハン・ヤコブはストックホルムに戻ってから退役、以後亡くなるまで宮廷音楽家としてフルートを吹いていたそうです。
1722年にストックホルムで葬られたそうです。
どこにお墓があるのか、ちょっと調べてみましたが、分かりませんでした。

さて、カール12世に戻ります。
これ程大きな軍隊が動くということは、もちろん色々な音楽家が従軍していました。
ポルタヴァで負けたとき、一部の隊は王様についてトルコに逃げましたが、ピヨトール大帝に捕まって、捕虜になった兵士もいます。
シベリアに送られて、厳しい自然と闘って生きていたそうです。
1709年に捕らえられてなんと14年間、1722年に故国に帰れたのは14.000人のうち8%のみだったそうです。

その捕虜の中にブリードストロームという音楽家がいました。
次回はこの音楽家について書きます。
 




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今日は後期ヴァーサ王朝、ヴァーサ王の孫の時代のお話です。
グスタフ・ヴァーサの記事はこちら
ヴァーサの息子達についてはこちら

1611年から1721年までの百年ちょっとはスウェーデンの強国時代と呼ばれます。
日本では大体江戸時代初期(1614年、大阪冬の陣)から中期(徳川吉宗、享保の改革)ぐらいまでの時代です。

強国になるための基礎はすでにヴァーサ王と息子達によって築き上げられていました。
彼等の政策は富国強兵に力をいれ、カソリックから新教への宗教改革により権力や富を神の世界から人間の世界に移行したことなどです。

この時代はヨーロッパ中の国々が、領土を確立させていく時代で、喰うか喰われるか、ちょっと気を許すととんでもないほうから攻めてきて、国が小さくなってしまう、実にダイナミックな時代です。

$北欧からコンニチワ-瑞と周辺
本題に入る前にクイズです。
次の国々を上の地図に書き入れられますか。
これが分かると、スウェーデンの強国時代が理解しやすいです。
(なんて、偉そうなこと言ってますが、私も今世界地図を引っ張り出して確認しました)

はい、国の名前は、
フィンランド、ノルウェー、デンマーク、ロシア、エストニア、ラトビア、リトアニア、ベラルーシ(白ロシア)、ポーランド、ドイツ、オランダ。
これは現在の国々の位置です。ですから当時とは国境が違いますが、大きな国は形成されつつありました。
そして政略結婚や、戦争などで、取ったり取られたりしていたのです。
ざっと見てもデンマーク/ノルウェー、ロシア、ポーランド、ドイツ、オランダ。回りの国はみんなにらみ合っている。
そのうえ、イギリス、フランスは何にでもちょっかいを出してくる。みんな虎視眈々としていて、油断も隙もありません。まるで陣取りごっこみたい。

$北欧からコンニチワ-1617
 
この地図は1617年。 
ロシアとの戦争で、スウェーデンは地図の紫色の部分を勝ち取ります。
これによってロシアはバルト海への出口を完全に塞がれてしまいます。
強国時代の始まりです。
スウェーデンの強敵はロシアの他にデンマーク。強かったんですね、この国。今は小さいけど、当時はノルウェーも国とは名だけ、ほとんどデンマークに牛耳られていました。
上の地図で、スウェーデンの西海岸を見てください。
北はノルウェー、南はデンマークの領土で、スウェーデンはイェーテボリ一箇所だけポツンと北海に面していました。 
やっぱり西にも進出したい。
それで、時の王、グスタフ2世アドルフはこの地にイェーテボリを設立する、と宣言しました。

北欧からコンニチワ-GustavII-1
これがグスタフ・アドルフ。グスタフ・ヴァーサ王の孫です。
銅像は市庁のある広場に立っています。
指差しているところにイェーテボリ作った、と言うのは嘘で、当時はもっと川上だったそうです。
そして大きな砦を作り、町には外人をたくさん移民させた。
多くがドイツ、オランダから来た商人だったそうです。
以来、商人の町として栄えていきます。

$北欧からコンニチワ-1658
これは強国が最大となった1658年の地図です。
紫色が新領地。
ここに来てやっとデンマークから西海岸と南スウェーデンを取り込みます。
その上ノルウェーのトロンドヘイム(Trondheim)地方も手に入れます。
ここまでは運がよかったのですが、以後次第に勢力が落ちていきます。

$北欧からコンニチワ-1721
強国の終焉。1721年です。
緑色が失った地域。ロシアに負けて、エストランドやリトアニア地方を取り返されてしまいます。
振り出しに戻ったみたいですね。
まだフィンランドは残っているけれど。

この100年間はヨーロッパ中で戦争をし合っていました。
なかなか個性的な人物がいるのですが、その人たちの話は次回で。

$北欧からコンニチワ-1809-1814
話はそれますが、地図をあとふたつ。
左が1809年、右が1814年です。
左。スウェーデンはロシアにフィンランドを取られてしまいます。
フィンランドの独立はなんと1919年です。

右。1814年、スウェーデンはデンマークからノルウェーを勝ち取ります。
以来、連合国の形をとり、ノルウェーが独立するのは、1905年です。
ゆえに、ノーベル平和賞はノルウェーが委員会を持ち、授賞式はオスロで行われます。




時は1582年、日本では本能寺の変です。
ピエ・カンチオーネスという歌曲集が出版されました。
編集したのはテオドリクス・ペトリというフィンランド人、印刷はドイツのグライフスヴァルトです。
$北欧からコンニチワ-ピエ・カンチオーネス・2
これが表紙です。
私が出したCDのうち、"Old and New World Christmas (MRCD-007)" には5曲、"The Time of Maying (MRCD-002)" には二曲収録しました。(下記参照)
$北欧からコンニチワ-ピエ・カンチオーネス・1
これは大変有名なクリスマス・ソング二曲。

MRCD-007「新旧世界のクリスマス」の解説をご紹介します。

『ピエ・カンチオーネス』(正しくは「旧司教の敬虔なる賛美歌および学校唱歌」)は16世紀当時のヨーロッパで盛んに歌われていたラテン語の歌を集めた曲集で、その一部は中世から寝ず良く伝承されています(一番古いものはカルミナ・ブラーナにも収録されています=里の猫注)。フィンランド人、手踊りクス。ペトリ・ニューランデンシスによって収録されました。曲集を編纂した目的は、大教会堂付属学校での厳しいラテンゴ教育を緩和して、生徒達に少しでも楽しく学ばせるためでした。この曲集はスウェーデン系フィンランド(当時はフィンランドはスウェーデン領だった)で普及し、非常な人気を博しました。その後、改定されながら、18世紀に至るまで版を重ねてきました。

収録されたものはほとんどが単声でメロディーのみが残されています。
CDではスヴェンの編曲を聞くことが出来ます。
4年前にピエ・カンチオーネスだけで録音しました(MRCD-012)。2曲だけ私がNGを出し、録音しなおして、後は全体の監修だけというところまで出来ていました。その秋(2006年)に私の会社の録音を一手に引き受けていたマッツ・ヘルベリが亡くなり、そのどさくさで音源が消えてしまいました。
上記のようにピエ・カンチオーネスの曲は中世のものからルネサンス後期まで、いろいろなスタイルが見られるもので、スヴェンは残っているメロディーにそれぞれの性格に合わせて、実に巧妙に編曲しているのです。
どこかにあるはずなのに、どうしても見つからない。実に残念です。

この印刷方法はグーテンベルグが発明した活字版を応用したもので、それぞれの音符と五線がハンコのように作られています。それを一つ一つ拾って束ねたもので印刷します。だから良く見ると五線が少々ギザギザになっています。
この方法で16世紀にはずっと簡単で、迅速に印刷出来るようになりました。
$北欧からコンニチワ-MRCD/007MRCD-007
新旧世界のクリスマス

$北欧からコンニチワ-mrcd002 MRCD-002
春が来た