前回記事(『安倍政権終焉秒読み・・・?~愛国幼稚園は戦前日本の出来損ないのパロディーである~』)で、ソウルメイトさんがワリと長めのコメントを書いていましたので、今回はその紹介と返答を中心に・・・


無題
高木さんの感性とか感覚に非常に近いものが自分にも宿っていることを白状します。

わたしは、戦後生まれでアメリカ流の民主主義や自由は無条件で良いものだと信じて育ちました。しかし、その行き過ぎがなんでもありの新自由主義で、私の利権が公に優先して一般の国民の生存すらおぼつかなくなる事態を左翼やリベラル派が有効に阻むことのできない無力、無能なていたらくに愛想を尽かし、経世済民を説く三橋さんの主張のまともさにヤラレてしまったわけですが、左翼やリベラル派がダメなところは、国家、とりわけ国民国家における国家の機能や働きをいだずらに敵視するところにあって、国民の生存や幸福な生の営みに国家の働きは欠かせないというあまりにも当然な事実に目をつぶって、まるで民主主義や平和を唱えていたら虚空から生存の保障や豊さがもたらせるかのような幼稚な幻想にに浸っているのが左翼やリベラル派だとすれば、三橋さん代表されるような経世済民の思想家に宿っているのは、まぎれもなくリアリティだろうと思います。そのリアリティには、戦後の日本人は、曲がりなりにも民主主義と自由、人権尊重を受け入れて、その上で政治や司法制度を構築し、結果、それなりに日本人はある程度の幸福を享受してきたというこれまたまぎれもない事実を踏まえた上でのものだと言っていいと思います。三橋さんや中野さんは、けっして戦前に回帰しようなどとほ主張しておられませんし、戦後、日本人か享受してきた自由や平等なんてものも特に否定してはおられないと思います。それにたいするに、安倍晋三氏と彼を支持する者たちの思考は、支離滅裂で異常とさえ言いうるものだと思います。彼らには日本人の生存や生と営みの充実にどれほどの配慮があるのかと思います。そういうものをもたないものは、信用するにあたいしないと思います。
ソウルメイト 2017-02-27 17:24:44

 

人権思想に関する問題や、憲法の問題に関して、私がどうにも右派の思想にも左派の思想にも共感しないのは、私自身は日本国憲法など単なる紙切れだと思っているからだと思います。

 

私自身の憲法9条に関する考え方については、過去記事(『憲法9条におけるネタとベタの構造、及び民主主義の構造的欠陥・・・』)で解説してあるので、参照にして欲しいのですが、まあ一言でいえば、日本国憲法の理念がオカシイとか間違っているからといって、それで日本人の精神そのものが支配され同時に腐敗するなんてあり得ねーだとというのが正直な感想です。

 

もちろん、立憲主義の国家である日本では、立法において憲法が国家の最高法規であり、憲法に違反する法律は無効であるという意味においては憲法は重要ではあるのですが、特に保守派の議論においては、そのような基本的な考え方とは別の次元で、つまり「戦後日本人の精神の在り方とアメリカから押し付けられた不当かつ劣悪な憲法」というへんてこりんな論理のもとに結論のつかないような神学論争を延々おこなっているような気がしてなりません。

 

憲法問題、人権思想問題に関して議論すると非常に長くなってしまうのですが、まず一つは、基本的には支配される側の人間である一般庶民、まああえてネトウヨの好む言葉を用いるなら「普通の日本人」ということになるのでしょうが、そのような特別な権利や権限をを保有しない人間が、「人権思想はオカシイ!!」などと言っているのをみると、思わず「いや、お前の言っていることの方がオカシイ!!」と思ってしまいます。何故なら、理由は非常に単純で、「我々庶民自身が、まさに人権や人権思想によって財産権や生存権といった様々な権利を保障されているから」ということです。

 

これは単純に考えて思想的倒錯と呼ぶべきであって、いうなれば毎月千円のお小遣いをもらっている小学生が突然おかしな思想にかぶれて、「私には毎月千円のお小遣いをもらうだけの資格を有していない!!これからはお小遣いの額は毎月300円までに制限すべきだ!!」と主張しだすようなものです。

 

まあ、コレはコレで殊勝な心掛けであって「なるほど、立派に物事の筋を通そうとする子供だ!!」と感心するかもしれませんが、仮にこの小学生が、「全国のあらゆる小学生は、毎月も千円以上のお小遣いをもらう権利など有していない!!」などと言いだして、「小学生のお小遣いを毎月300円までに制限しよう!!」という政治運動を行いだしたとしたらまた話は変わってきます・・・さらに、このような「小学生のお小遣いは300円まで運動」を毎月千円のお小遣いをもらったままでその小学生が行っていたとしたら・・・?

 

その点、三島由紀夫は認めますよ!!「骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか?!」と絶叫して、実際に自分は憲法に身体をぶつけて死んでいったワケですから、ですが、現在日本国憲法や人権思想に抗議して焼身自殺したり、切腹した人間が何人いるんですか?え?さすがに、死にたくはない?てことは、やっぱり憲法の枠に守られて自分自身が戦後民主主義的な日本国憲法的な生を体現しているんじゃないんですか?

 

もちろん、ニーチェやオルテガに触発され、貴族的な生と道徳を体現しようとすることは非常に立派だと思います。正直言って私には、ニーチェやオルテガのいうところの貴族的な生や貴族的な道徳を体現することなど到底できません。どれだけ、頑張ったところで畜群もしくは大衆人としてしか生きられないでしょう。

 

しかし、かといって、現実にはこれらの現行システムや戦後民主主義の日本の中でのうのうと生きてきた人間が、突然、大衆を畜群呼ばわりして、「連中が畜群であるのは日本国憲法がオカシイから教育勅語の復活だ!!」と言い出したり、国会議員(現在の民主主義の制度において国会議員は大衆的な価値を投票という行為を吸い上げることによってより濃密に集約し体現します)にまでなって「人権思想はオカシイ!!」などと言ったところで、私にはほとんど先の「小学生のお小遣いは300円まで」運動に身を投じる小学生と思想的な深い相違は見いだせません。

 

唯一の可能性は、まさに三島が体現したように、「憲法に体をぶつけて死ぬ」ことなのでしょうが、残念なことにそれを実行したのは三島一人です。

 

多くの保守派の論客は認めたがらないでしょうが、このように明らかに戦後民主主義の日本に生き、現行憲法のフレームによって守られながら、日本国憲法と人権思想を批判する保守論客というのは逆説的ですが、ある意味で裏側からつまり戦後民主主義と人権否定という立場からこの上なく強烈に戦後の思想的フレームを支えていると言えるように私には思えます。

 

あるいはそうでないとしたら、それはせいぜい知的遊戯、つまりちょっとしたインテリぶった抽象概念をこねくり回す思考実験に過ぎないのではないでしょうか?

 

 

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