勝又ジムのアドバイザーとして元東洋チャンピオンの歌川善介さんが来てくれました。




歌川さんは福島県の出身で、名門福島商業から甲子園出場した高校球児です。高校卒業後上京して当時墨田区錦糸町にあった勝又ジムに入門しました。





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(歌川善介アドバイザー)

その頃、勝又ジムは昭和37年に完成した小岩の自宅兼練習場から錦糸町北口へ移転して阿蘇行憲(開行憲現ロッキージム会長)を筆頭に新進気鋭のジムとして賑わっていました。歌川さんは江東区にあった名鉄運輸の寮から勝又ジムに通っていました。

歌川さんが入門した時のことは私も鮮明に覚えています。その頃私は小学2年生でしたが、字が汚くていつも両親に叱られていました。ところが、歌川さんは入門の申込書を素晴らしい達筆で書き、名誉会長の不在中に残していったそうなのです。その入門申込書をみて「ほう、達筆だなあ」と言っていたのが今でも私の記憶に残っているわけです。


時に昭和44年(1969年)、ライオン古山vs阿蘇行憲あの悔し涙の一戦があった年でした。デビュー戦こそ引き分けでしたが、名誉会長は歌川さんを「10年に1度の逸材だ」といって、育成に没頭することになります。


そのころ、協栄ジムの金平会長、三迫ジムの三迫会長、国際ジムの高橋会長。。。歳の近い会長たちが鎬を削って選手の育成を競っていました。


名誉会長も昭和43年にジムを移転したとき、「5年以内に世界チャンピオンをつくりたい」とマスコミに抱負を語り、その目標に邁進して来る日も来る日も練習生を鍛えていました。


阿蘇行憲こと開行憲さんが引退すると、勝又ジムは歌川善介を一枚看板にして地方興行を重ねます。


歌川さんの上司であるK支店長(のちに代表取締役)が素晴らしい理解者で、歌川さんが引退するまで絶大なご支援をいただきました。


歌川さんは試合前になると自宅下を改築した寮に缶詰にされ、内弟子たちと合宿するのですが、私にとってはその時が一番うれしい時期です。「歌川兄ちゃん、歌川兄ちゃん。」と纏わりついては試合前の選手を気遣う母にたしなめられたものです。


東洋チャンピオン(後のOPBF)になり、名実ともにジムの看板選手になると、歌川さんは選手・練習生たちの憧れの的ととして慕われ、尊敬されました。


ジムの入り口に立っただけで、ジム全体が引き締まるような雰囲気でした。


名誉会長は、そんな歌川さんを世界チャンピオンにすべく東奔西走し、ついに昭和49年7月9日、ロサンゼルスでルーベン・オリバレスとのWBAフェザー級王座決定戦のチャンスが巡ってきます。

ルーベン・オリバレスは、生涯戦績104戦88勝(78KO)13敗3分の名ボクサーで、牛若丸原田さんを始め多くの日本人と戦いましたが、一度も日本人に負けたことがなかったのは周知のとおりです。

名誉会長は「強気のマッチメーク」を旨としていましたが、この決定戦にも充分な勝算があったようでした。

歌川さんの武器は比類なき運動神経によってもたらされる左ジャブとフットワーク。圧倒的なパンチ力をほこる元世界チャンピオンを翻弄しようという作戦。

しかし、勝利の女神は、ほほ笑むことがありませんでした。7R、オリバレスの強打の前にキャンバス深く沈みました。


その後、歌川さんは東洋のベルトを防衛しつつ世界再挑戦の道を模索しながらも、好敵手と目されていたロイヤル小林さんとの戦いに敗れ引退します。悪化していた盲目剥離による視力の低下が引退の理由です。生涯戦績36戦27勝(8KO)7敗2分。


引退後は、故郷の福島市に戻り、名鉄運輸に社員として勤める傍ら、拳ひとつで建てた自宅の庭に小さな練習場を作り、おもに子供たちにボクシングを教えました。




数年前、心から愛する母を失って再び上京。石神井スポーツジムのトレーナーとして後進の指導に当たっていました。



2年前、名誉会長が倒れた際、「会長のそばにいたい。。。」との希望をお聞きしましたが、このたびやっとそれが実現したのです。

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名誉会長直伝の左フックと歌川アドバイザーの左ジャブを手にした長井祐太の活躍が今から楽しみです。
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