L'espace en Temps

公共的なアカデミズムと、私的な内的発展の両傾向に引き裂かれながら、2者の接続と対話を体現する、接続の哲学。
接続は、しかし、唐突に切断される。同一者から差異を語る、同一哲学でありながら、離散する根拠の、多神論。


テーマ:
これから、数回に分けて、私の時間論について述べることにする。
それらはもっぱら、外部主義、超越的パラレリズムと私が名付けたものに基づいている。
外部主義や超越的パラレリズムについては、超越的パラレリズムの哲学ーtransendent parallelismを参照のこと。
そこではまだ時間論が述べられておらず、導入的なことを書いている。だからこちらではその少し先取りをすることになる。

目的は、「強迫観念、強迫神経症の認知的克服!!!」である。

そんなことが出来るのか。現に私は出来ていないが、哲学的に、強迫観念とは何か、なぜ生じるのか、を問うこと、またそれを克服するためのプログラムの提示、といったことはできる。

なので、今日は一言だけ。

「一念三千」、という言葉がある。

天台宗の教旨で、日常の人の心の中には、全宇宙の一切の事象が備わっている、ということを意味する。
これは、私の哲学で解釈すると、無の点のネクサスが、過去ー未来のあらゆる時間を含み込んでいるのと似る。ハイデガーや、あるいは西田から西谷に至る京都学派のように、日常から本来性へと至るところに、過去の反復を打ち砕き真に創造的自己となる、というのとは違い、日常が即、超越的無の点の作用化作用、ネクサスである。日常においてこそ、非日常としての新しいもの、つまり未来的な事象が、出来事的に到来するのである。

「無の点」「無の点のネクサス」「作用化作用」については、上記のブログで詳論する予定であるが、ちょこっとだけ。

無の点というと、内容を持たないようでいて、無が本来、何かと何かを繋ぐ媒介であることを考えれば、極限化作用を経て凝縮された一つの無の点とは、全てと繋がっている、ということである。従って無の点は一つ一つがネクサスとして働いている、ということになる。無の点同士が、項として、ネットワークを形作るが、一つ一つが即存在の全体性であるので、つまり全く同じ内容を持つので、ライプニッツの不可識別者同一の原理に従って、無の点は一つしかないとも言える。すると、一つしかない無の点が、存在の全体を内容として持つとは、この唯一の無の点が、当の存在の全体性に内在している、ということである。なぜなら、存在の全体性の方から見れば存在とは己の外部などない包摂の極限であるからである。不可識別者同一の原理は、内在の立場においてのみ成り立つ。

いわゆる、多即一、という即非の論理を用いている。任意個数の無の点は、即自的存在の外部に離散しているが、唯一の無の点は、全体性としての有に、有それ自身における他者として内在している。二つの事態は同じことを言っている。

まあ無の点についてはこれくらいにして、次回からは具体的に、強迫観念、強迫神経症を分析する。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ



AD
いいね!した人  |  コメント(4)  |  リブログ(0)

くれさんの読者になろう

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。