こんにちは、karinatatsuoです。
今回のテーマはというと、また室町時代に戻ったの
というと、そうなんです。やりのこしがございましたので、しっかりとやっていきましょうね。
鎌倉時代の経済の復習が必要ですので、まだマスターしていない方は、『鎌倉時代の経済』 で復習してからお読み下さいね。
それでは、『室町時代の産業と経済』 はじめます。
室町時代になると、鎌倉時代では畿内などの一部の地域でしか見られなかった、麦を裏作とする
二毛作が、全国へと普及しました。その一方で、農業の最先端をいく畿内地域では、米・麦・そばを栽培する
三毛作(サンモウサク)が始まりました。そのことは、宋希璟(ソウキケイ)の書いた
『老松堂日本行録(ロウショウドウニホンコウロク)』という文書に記されています。
その一方で、稲にも品種改良が進み、関東などの冷害の影響を受けやすい地域では
早稲(ワセ)・
中稲(ナカテ)が、関西地区では
中稲とともに、
晩稲(オクテ)が栽培され、普及していきます。
それに伴って肥料も進歩し、汚い話ですが、人や馬などの糞を使った下肥(シモゴエ)が使用され始めました。
さらに、鎌倉時代からも行われている商品作物の栽培も行われ、紙の原料の楮(コウゾ)・染料として使われた藍(アイ)・明かりなどの油に使われた荏胡麻(エゴマ)に加え、桑や茶、漆(ウルシ)や
苧(カラムシ)が商品作物として栽培されるようになりました。
ちなみに、楮・桑・茶・漆は四木(シボク)と呼ばれています。
くだらない覚え方ですが、四木は「 皇族は(楮・桑)茶(茶)売るし(漆) 」と音で覚えるとよいです。「皇族が茶売ってるし」って感じですね。
< 諸産業の発達 >
商品作物が栽培され、売買されるようになると、それ以外の商品も市場に出回るようになります。そんな中、絹織物では
加賀(カガ)や丹後(タンゴ)、高級織物である
京都西陣織などが登場していきます。
木綿(モメン)では三河(ミカワ)が、紙では
美濃(ミノ)の美濃紙や、
播磨(ハリマ)の杉原紙(スイバラガミ)、
越前の鳥の子紙などが作られ、さらに美濃・尾張では
陶器が作られました。
刀
は備前(ビゼン)、釜は能登(ノト)や筑前(チクゼン)、鍋は河内(カワチ)など、さまざまな産業が日本各地で発達していきました。
その産業の中に、塩を作る
塩田があります。初めのうちは
揚浜(アゲハマ・自然浜)式といって、ほとんど人の手を加えず塩をGETしていましたが、室町時代になって需要が高まるにつれて、堤防で囲った砂浜に塩の干満を利用して海水
を導入し、塩を作る
古式入浜(コシキイリハマ)が登場していきます。
これはその後
入浜塩田となっていきました。
そして
酒造業では、京都・河内・大和・摂津などの畿内地域で盛んになりました。
< 室町時代の商業 >
でも、産業が発達するには、需要がある程度なければいけませんよね。そこで商業も発展するわけです。
室町時代には、応仁の乱後各地が安定し、月6回ひらく
六斎市(ロクサイイチ)が一般化します。「斎」の字注意です。
一方、商品作物などを連雀に載せて、肩に担いで売り歩く
連雀商人(レンジャクショウニン)や、天秤棒(テンビンボウ)などに商品をつるして肩にかけて売り歩く
振売(フリウリ)などの
行商人(ギョウショウニン)が増加します。
連雀が想像つかない方は、カチカチ山が出てくる昔話がありましたよね。あの中でタヌキがまきを背負って山に登り、ウサギが火をつけるシーンがありますが、そのタヌキが背負っているようなやつが連雀です。
行商人の中には、京都の大原から炭や薪を売りに来る
大原女(オハラメ)や、京都桂からの鵜飼い集団で、鮎を売るなどする
桂女(カツラメ)などの女性の行商人が京都で活躍します。
さらに、常設の小売店であった
見世[店]棚(ミセダナ)が、京都などの大都市で一般化し、米を売る
米場が京都に、魚を売る
魚市が淀に設けられたりするなど、商業が発展していきました。
< 座と新興商人 >
室町時代になると、座がさらに普及し、座衆(ザシュウ)という商人団体は本所に、労働で奉仕したり物などを納める
座役(ザヤク)を行い、そのかわりに、本所から仕入れ・販売の独占権や、営業税、関銭の免除などの保護を受けます。
その中には、天皇家が与える
供御人(クゴニン)という称号や、大寺社が与える
神人(ジニン)という称号を与えられ、関銭の免除や独占販売権を認められる座もありました。
その具体例を見ていきましょう。
A
灯炉供御人(トウロクゴニン)・・・鋳物師で、朝廷の権威によって関銭を免除された。本所は蔵人所(クロウドドコロ)
B
大山崎油神人(オオヤマザキアブラジニン)・・・油座で、10カ国近い油の販売権、荏胡麻購入の独占権を持っていた。本所は石清水八幡宮(イワシミズハチマングウ)ということで、離宮八幡宮(リキュウハチマングウ)油座ともいわれる。
C 他にも、
北野神社
酒麴座(サケコウジザ)、
祇園社(ギオンシャ)を本所とする綿座・材木座、興福寺を本所とする
大和猿楽四座(ヤマトサルガクシザ)などがある。
それに対して15世紀には、座に加わらない商人が登場し、
新興商人と呼ばれました。でもここで考えてほしいことは、全国の座がみんな本所に保護されているってわけじゃないってことですね。いいですか![]()
< 遠隔地取引の発展 >
従来は商品の中継ぎと運搬が主な業務だった問丸は、室町時代に入って
卸売商人に発展し、
問屋(トイヤ)と呼ばれるようになりました。彼らは、商品の運送・保管・売買のほか・商人の宿もかねていました。
商品の需要が増える中、大量の商品を積めこんだ
廻船(カイセン)の往来が頻繁になり、一方で陸上の運送業者である
馬借(バシャク)・
車借(シャシャク)なども活躍の場を広げ、商品が流通するのを手伝います。
< 貨幣経済の発達 >
ただ、商品が流通しても買えなければ、意味がないわけです。そこで鎌倉時代までは現物納が多かった農民たちも、年貢・公事(クジ)・夫役(ブヤク)を貨幣で支払うようになり、
代銭納(ダイセンノウ)が広がります。
さらに為替の利用も盛んになる一方で、宋銭(ソウセン)・元銭(ゲンセン)とともに
明銭(ミンセン)が輸入され、使用され始めます。
明銭には
洪武通宝(コウブツウホウ)、標準貨幣として一番流通した
永楽通宝(エイラクツウホウ)、そして
宣徳通宝(セントクフウホウ)などがあります。「通宝」の前の二字は、発行された時の明の皇帝の名前です。
しかしながら、そのようなお金、つまり良銭が流通する一方で、偽造されたものも出回り始めます。
この偽造された貨幣を
私鋳銭(シチュウセン)とか、
鐚銭(ビタゼニ)といい、総称して粗悪な貨幣として
悪銭と呼ばれました。
こんな悪いお金と、本当に価値のあるお金、どちらが後で価値がありますか
もちろん純粋なお金の方がいいですよね。
そこで、悪いお金を嫌って、良いお金を選ぶ
撰銭(エリゼニ)が行われるようになります。
しかし、それでは戦国大名たちは
困るんです。
どうしてかというと、人々はよい
お金を持っていた方がいいと考えますから、
お金を使わないように貯めてしまいますね。お金を使わなくなっちゃうから、
貨幣が流通しなくなります。
そうすると、買ったり売ったりの行為が少なくなり、経済が発展しなくなってしまうわけです。![]()
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ということで、幕府や戦国大名は、悪い銭と良い銭の混入比率を定め、一部の悪い銭の流通を禁止する代わりに、それ以外の貨幣の流通を強制する
撰銭令(エリゼニレイ)を出します。
そのような中で、富裕な商工業者のなかには酒屋と高利貸しである
土倉(ドソウ)を兼ねているものが多く出てきたのもこの時代です。
< 都市の発達 >
室町時代も後期になってくると、戦国の時代に入りますよね。だからといってどこもかしこも戦いをやっているわけではありません。戦国大名の治める領地では、城が建造され、それに伴って城下町が造られます。
戦乱で不幸に見舞われた農民たちは、心のより所としてさらに神仏などへの信仰を深くしていきました。そこで、大寺社・地方の中小寺院の門前には
門前町(モンゼンマチ)が形成されていきます。
具体的には、
善光寺(ゼンコウジ)の門前町で、ayaka0karina さんが住んでおられる
長野、延暦寺(エンリャクジ)の門前町である
坂本、東大寺や興福寺などの門前町である奈良や、伊勢神宮の内宮(ナイグウ)の門前町
宇治、同じく外宮(ゲグウ)の門前町
山田などがあります。
さらに浄土真宗の寺院や道場を中心に、
寺内町(ジナイマチ)が形成されます。
具体的には、
摂津の
石山、山城の
山科、加賀の
金沢、河内の
富田林(トンダバヤシ)、大和の
今井などがあります。
これらの寺内町には防御的な機能をもつ街もあり、 浄土真宗を信仰するとともに、信者を争いから守る役目も果たしていたんですね。
そして、各地の戦国大名は財を得るために外国との貿易をしていました。それに伴って港町が発展していきます。
具体的には、
和泉の
堺(さかい→いずみ)、筑前の
博多 などはよく発展し、それ以外にも、
陸奥(ムツ)の
十三湊(トサミナト)から海運で、越前の
三国・敦賀(ツルガ)、若狭(ワカサ)の
小浜(オバマ)に運びます。
そこから、陸上交通である馬借を利用して琵琶湖まで行き、琵琶湖を通る琵琶湖水運で近江の
大津まで運び、京都へと運ぶというルートが採られ、
日本海交易が発展します。
そして、天皇の氏神・皇祖神(コウソシン)などへのお供えとして、
桑名(クワナ)で獲れた海の幸などを
大湊(オオミナト)まで運んだりしたため、この二つの町も発展します。
その他、武蔵の品川、山城の淀、摂津の兵庫、備後(ビンゴ)の尾道(オノミチ)や、同じく備後の水没した
草戸千軒町(クサドセンゲンチョウ)や、琉球との貿易で発達した
薩摩の坊津(ボウノツ)などがあります。
< 自由都市 ( 富裕な商工業者たちが自治組織を作って市政を運営した都市 ) >
自由都市とは、言ってみれば商工業者たちの自治組織が治めている都市のことですね。ではその具体例に行って見ましょう。
①
京都は上京(カミギョウ)と下京(シモギョウ)に分かれ、都市民の自治的団体である町が生まれます。京都はこの町が集まって
町組が組織されました。
そして、富裕な商工業者である
町衆(マチシュウ)が町の運営の中心となり、町衆の中から選ばれた
月行事(ガチギョウジ)が月ごとに代わり、自治的に運営され、
町法などを定めたりもしました。
ただ応仁の乱で荒れ果ててしまった京都では、人々は希望を見失っています。彼らがどうして京都を再興できたのかというと様々ですが、その一つには祇園祭
(ギオンマツリ)を町衆の祭りとして再興したということがあります。お祭りで元気付けよう
って感じですね。
②
堺は日明貿易の根拠地
として発展し、
会合衆(エゴウシュウ)とよばれる豪商が36人集まり、合議によって市政が運営されます。
③
博多も日明貿易の根拠地
として発展し、
年行司(ネンギョウジ)とよばれる豪商が12人集まり、合議によって市政を運営されました、覚えにくい方は、「一年=12ヶ月」ですね。だから年行司は12人だなって覚えておくとよいですね。
その他にも、摂津の平野(ヒラノ)や、伊勢の
桑名や大湊も自由都市としての発展をしました。
今回はこれで終わりです。まだ外交が残っていますから、しっかりと復習をしておいてください。
お読み頂きありがとうございました。
それでは!!!






