ありのまま認める×EFTの足掛け8年に渡る取り組みは
●2009年~2010年
●2011年~2013年春
●2013年春~2015年秋
●2015年秋~2016年春
●2016年春~2016年末
●2017年~
といった具合にそれぞれ「テーマ」があり、流れが違います。


もっとも、「テーマ」があったと気づいたのも、流れが変わっていたことも、「テーマ」から「テーマ」へと繋がりがあると気づいたのも、2016年の春から2017年にかけての話です。


2016年の春。

2013年~2015年秋~2016年春までの、ちょうど3年間の時間の流れが終わったと感じていた頃のことです。


それまで、私は

・望み
・疑問
・答え

・行動
と言った具合に、それぞれ全く別物のように捉えていたことを、初めて意識しました。

 

何故かというと、ありのまま認める×EFTの取り組みを通じて、私の中では、望みの実現は、疑問と答えと実行が1セット になっていたからなのです。

 

自分は~したい。

どうしたら、行きたい所へ行けるのだろう。

これをやる必要がある!

実行する!

 

実体験が先行した状態で、知識が旧型のままになっていたと気付いて、実体験と新しい知識が自分の中で合致した と表現したら、何となくイメージがつかめるでしょうか。


私は、沢山の疑問を抱いていました。


色々な情報を経ても、決して行けなかった所へ、何故かわからないけれど、自分で自分をありのまま認め満たしたら、行けた。

どうしていけたのだろう。
なぜこれまで、行けなかったのだろう。
何が、起きていたのだろう。

それを知りたい。

 

また、自分の変化が面白かったから、自分で自分をありのまま認め満たす、この先に何があるのかを見てみたい。


「何故、自分で自分をありのまま認め満たすことが、変化に繋がるのか」を「経験や実感」だけではなく「知識・言葉」としても知りたい。


クライアントさん達からも、たくさんの質問を頂くので、クライアントさんが納得して取り組みを続けたり、行動したりできるように説明したい。


サロンを立ち上げるにあたっての7か月間、1人でひたすらEFTに取り組んでいた私ですが、
クライアントさん達へセッションを開始してからしばらくたって、1人で取り組んでいた時には、意識することのなかった疑問が生じてきました。


「クライアントさん達は、皆、生まれた時代も場所も、育った環境も、入った学校も、勤務先も、結婚・子供の有無も、現在生じている問題も、異なるのに皆の訴えが、同じに聞こえる。何故なんだろう。何が起きているのか知りたい。」


私は、自分の取り組みやクライアントさんとのセッションを通じて「経験や実感」を「言語化して知識化」「体系化」する作業をしていました。


「言語化して知識化」するにあたってやっていたのは、過去の自分やクライアントさん達の、セッション前・中・後の視点・思考・言動・得た結果・その後といった動きを細部も含めて、言語化するということです。

 

※細部の言語化については、ホームページのアイホージュのあれこれに書いたので、詳しくはこちらをご覧ください。


細部の動きを言語化してから、クライアントさん達の躓きが生じる動きと、ありのまま認める×EFTの立て直しの動きを繋ぎ合わせて、全体図を見た時、2つのことに気づきました。


それは、クライアントさん達に表面上生じている問題はそれぞれ違うし、皆、それぞれ別の言葉で表現しているけれど


・皆、同じ所で躓いて、同じようなことを訴えている
(本質・特性を自ら抑え込んだ状態で、うまくいかないと訴えている)ということ。


そして
・大人の人生とは、大人として生きるとは、自分の本質・特性を発揮し、発展し続ける為に、自分の視点・思考・感情・選択・言動・得た結果といった「欲」をありのまま認め満たすことの連続であり、積み重ねである ということ。


今、ありのまま認める×EFTでは、「問題解決のプロセス」として、本質・特性を、知らず知らずのうちに、自ら抑え込むことを良かれと思い込んで実行した結果、「うまくいかない」と訴えるクライアントさん達が、本質・特性を発揮できるようにする為の取り組みを提供しています。


何故、自分で自分をありのまま認め満たすことが、変化に繋がるのか。
自分の変化が面白かったから、自分で自分をありのまま認め満たす、この先に何があるのかを見てみたい。


望みや実現したいことがあるから、疑問が生じる。


疑問を1つずつ解いて、望みに近づき、望みに到達する。


到達先で、新たな疑問が生じる。


望みや実現したいことがあるから、疑問が生じる。


疑問を1つずつ解いて、望みに近づき、望みに到達する。


私は、1つずつ、1つずつ積み重ねをしながら、この先に何があるのかをひたすら追い求め続けて、2015年の秋に「この先」に辿り着きました。

 

「この先」にあったものを、今後実行して、また次の「この先」に行くにあたって、私の躓きがどこにあるのかを改めて確認する取り組みを、2015年秋~2016年春にやっていました。


2016年の春に、ここに至るまでの流れを振り返って、思い出したことがあります。


交通事故に遭った時、私は「いつ、この状況が、どのように終わるのか前もって知りたい。そうしたら、今から準備しておけるのに。」と思っていました。


被害者の立場を終える為の取り組みをしていた時も、同じような事を思っていました。


でも、実際に、被害者の立場を終えた時、「いつ終わるのか、何が起きるのか、前もって知らなくて良かった。」と思いました。


仮に、誰かが私の未来を予言したとして
「これが終わるのは、●年後です。

その後、あなたはアイホージュという名のサロンを立ち上げます」
と言われたとしたら、あの頃の私は、誰かの予言に従い、●年後まで、何もせずに、被害者の立場を終えて、サロンが立ち上がることをずっと待っていただろうと思ったからです。

 

そして、迎えた●年後。

「何も変わらない現状(というより問題が悪化したと思う)」に対して「どうして、何も変わらないのだろう」という疑問を抱いたのではないかと思います。

 

ぼんやりと、あの頃のことを思い出しつつ、いつ、どんなことが起きるのか、何も知らなかったから、私は、2009年から2016年に至るまで「この先」を追い求め続けられたのだと改めて思いました。


もし、2009年の段階で、この先に何が起きるのかを、予め全部知らされていたとしたら、私は、完全に足がすくんでしまって、やる前に放棄した挙句「結局、私って、何をやってもダメなんだ」と言っているであろう姿が、容易に目に浮かぶのです。

 

納得を追い求め、夢中になって取り組みを続けていましたが、同時に、ここまでよく堪えたなあと思った時、ふと頭の中に「楽しむ」という言葉が浮かびました。

 

「楽しむ」って何を?

そもそも「楽しむ」という感覚が、よくわからないのですが。

 

「楽しむ」が何を意味しているのかも、これが新しいテーマの始まりであることも、当時の私は気づいていません。

 

2017年から始まるテーマに向かって、私は、この先に進むために必要な、持ち物を確認する時間帯に入ります。

 

次回に続きます。