パンズ・ラビリンス

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今もっとも注目される監督の一人、

スペインのギレルモ・デル・トロの「パンズ・ラビリンス」


わたしは彼の作品は初めてだと思っていましたが、

出てくる虫を見て、「ミミック」の監督だったのかと分かりました。

あれは英語でしたからね。


このスペイン語にわたしは弱い。


世界一詩的な言葉なんじゃないか、と常々思っています。

なんかひとつひとつの名詞までもとてもドラマチックに聞こえるのはわたしだけでしょうか?


そんなスペイン語で「昔々~」と御伽噺がはじまる。

それだけで物語に吸い込まれていく。


そしてこの美しい映像!




幻想的なシーン


道を標す本には最初何も書かれていない


パンとつながる素晴らしいデザイン

美しいヒロイン!



肩に王女である印が・・・


そして残酷で容赦のない世界観!

いやあ、素晴らしかったです。


時間が許すならば、もう一度最初から繰り返し観たかった・・・


幻想の世界でも現実の世界でもオフェリアが許さなかったものについて

わたしは延々と考え続けた。


それは正義とも愛ともちがう。


まして自己犠牲ともちがうもの。


ならばいったい何なのか・・・とても清く尊いもの。

少女から大人へ変りつつあるものが持つ純潔。これだと思った。


ファシズムに最も欠けているもの、それは純潔だ。


弱気ものの血はたとえ1滴でも流させないという使命感には感動する。

しかしぶどうは食べちゃだめだろ・・・

このあたりの危うさ、アンバランスさがまた少女だけが持つ特有のものなのかもしれない。


この作品にはたくさんの血が流れる。

そしてパンの言う試練は満月の夜までに終わらせなければならない。


血は死のイメージでもあるが、赤ん坊も血とともに生まれ、

少女が大人の女性になるためにも血がつきまとう。


そういうイメージが非常にダークでビターな作品につながってます。

もっと時間的に長くてもよかったんじゃないかなとも思うけれど、

それほど壮大にせず、オフェリアの章とビダル大尉が暗躍する現実の内戦の章が

うまく交差していて飽きることなくどっぷりと浸れました。


オフェリアはナナフシを妖精だと思い、やがてそれがオフェリアにとっての

現実となる。(オフェリアというと水に浮かぶ少女、ミレーの絵画が思い出される)

妖精がいざなう迷宮に住むのはパンと名乗る牧神だった。

(パンはパニックの語源になったと言われる神で唯一「死」を経験している。)


パンは悪魔か、神か


パンは全てのものを司るという。

全てとは善も悪も何もかも全てだ。

パンはオフェリアこそこの迷宮の女王様なのだと言う。

しかし真の女王なのかどうかは3つの試練を潜り抜けてこそわかるのだ、と。


第1の試練に出てくるがまがえる!

がまがえるがぐわーっと何か出すシーンは「千と千尋の神隠し」にも通じるシーンです。

ここでは古木を蘇らせ花を咲かせるために根っこに居座るがまがえるに魔法の石を食べさせないと

いけません。ここは結構スムーズにクリアするんですよね。


迷宮が横に広がっていくのではなく、縦に広がっていくのも魅力でした。

侵入者が来て、宴のごちそうを1口でも食べたら、

目玉を手のひらにくっつけて追いかけてくる第2の試練に出てくる

ペイルマンが素晴らしいキャラクターです。

いないいないばあみたいだ(笑)

このペイルマンが支配する部屋へ行ったオフェリア、

砂時計が落ちる前に戻ってこなくてはならない。


結局この試練で失敗してしまうオフェリア。

しかも自分の犯した罪で妖精が死んでしまいます。


この作品にはいくつもいくつも印=暗喩が出てくるが、

砂時計は全体の大きなイメージともつながると思います。


地下から天上へ天上から地下へ・・・・

オフェリアが試練を果たすために行き来するその垂直な

世界の中でまるで時空をもてあそぶかのように砂時計の中の砂も無常にも

流れ続ける。

そしてビダル大尉(セルジ・ロペス)が持ち続ける父の形見の割れた懐中時計。





ビダル大尉はまるでひげをそるのと同じように人を殺す。

もう動けない人にも最後のとどめを必ずさすような本物の怪物として

描かれている。


しかし完全な悪玉として憎めないのは、内戦によって父を亡くし、

内戦の中でしか生きられない生霊のような存在だからかもしれない。

彼の人生は正常な時間の中では流れないのだ。


生霊といえば、地下牢に住むペイルマンもまた

拷問されて餓死した兵士の生霊なのかもしれない。

あるいはビダル大尉の父親の亡霊なのかもしれない。


御伽噺の好きなオフェリアにはこう見えるのかも・・・

そう思うとこの迷宮は想像上のというよりも現実をオフェリアがこう捉えているのだと思えてくる。


オフェリア演じるイバナ・バケロと母親カルメン役のアリアドナ・ヒルがすごく雰囲気が似ていて

本物の親子のように見えた。

(しかし母親の役名が情熱的な女性の代名詞カルメンとは!)

体調のすぐれない母を想い、

おなかの中で暴れる弟におとぎ話を聞かせるオフェリア・・・

「ママが苦しまないように生まれてね、この世界はつらいこともあるけれど

生まれてきてママの笑顔をみればきっと楽しいわ」

このシーンではもう涙止まりませんでしたね。


レジスタンスとして大尉の懐に入り、寝首をかく

使用人頭のメルセデス(マリベル・ベルドゥ)も興味深い人物だ。

(ここでもメルセデスっていうと頑丈なベンツを連想。何か名前にも全て意味ありげ)

完全に大尉に服従しながら、レジスタンスの弟とともに

活動を続け、この内戦を終わらせようとする強い女性。

「女だからこそ、できる」


赤ん坊のために新しい夫との生活のために体も心も弱っていく

オフェリアの母親とは対照的な女性像。

しかしオフェリアにはメルセデスのようにはなって欲しくない。

対照的ながら、心を閉じ込めてしまってる女性ということでは

やはりオフェリアの母と同じだから。


そして人間味あふれる医師も出番は少ないながら

この過酷な状況で「人」として出来ることの意味を問いかける。


彼の最期のセリフはかなり胸を打ちますね。。


パンは失敗したオフェリアに最後のチャンスを与えてくれます。

その指示通り、オフェリアが赤ん坊を抱いてパンの元にやってくる。

第3の試練のために。


無垢なるものの血を捧げよ。

それが第3の試練・・・


パンの言うとおりにすることが出来ないオフェリアは弟を抱きすくめる。

するとパンは怒り、もうあなたは王女にはなれないと言い残して去っていく。

「ではオフェリア、好きにするがいい」


パンが去ったのと入れ替わりに現れ、オフェリアを追い詰めるビダル大尉。

このシーンでは鳥肌が立つほどでしたね。

すごくうまい演出。

さきに書いたようにやはり砂時計が流れている世界。

砂がなくなってもまたくるりとさかさまにされてしまう。永遠に行き場がない。


そう考えると、オフェリアがたどった運命は当然なのかもしれないと思った。

ああするしかここから脱出できないのだから・・・

しかし、ビダル大尉のしたことは野に咲くまだつぼみの

花を踏みにじるような許しがたい行為で、わたしはこの結末はわかってはいながら憤りを感じる。

少女はこの迷宮の中で試練と闘っていたというのに・・・・


ラストできらびやかな黄金の世界にいけたオフェリアがふっと笑顔になるのが

また悲しい。


そしてこんなひどい現実の中で犠牲になるオフェリアのような存在のために

昔々~ではじまる御伽噺が生まれていくのだなと感じた。

御伽噺は子守唄同様に鎮魂歌そのものなのだ。


オフェリアの望んでいた世界へ

この作品を今年のナンバーワンにしているブログも多くあるし、

みなさん大絶賛ですね。


わたしもかなりやられました。

しかしこの作品、奥がすごく深い。

1度や2度ではわからない部分が多いと思う。


最後にこの映画はレミーのおいしいレストランと同じく、PG-12指定。

どちらも12歳以上ならぜひ、劇場で観て欲しい映画だ。


追記;パンフレットが豪華!最初が絵本仕立てになってます。

    そうこの物語が昔々の物語になってる。最初のモアナ姫のお話のように・・・

    こうして残酷できびしい現実の争いは時を経てシンプルで普遍的な

    御伽噺になっていくのだな、と実感できるパンフレットなので

    買って損なし。

    

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