常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。


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引き続き城里町の神社です。城里町には13社の内9社が武甕槌を祀る神社で、そのなかの三社が鹿


島神社の名称を使わない神社です。風隼神社、春園神社、そして今回報告する草懸神社がそれです。



 鳥居



 拝殿



 本殿 千木は男千木

境内の由緒書

詳細を茨城県神社誌から引用。


祭神は武甕槌命。創立は承徳元年(西暦1097年)

 

配祀として別雷皇大神。

 

境内社は富士神社(木花開耶姫命) 天満神社(菅原道真) 素鵞神社(素戔嗚命) 稲荷神社(宇迦

玉命) 白山神社(菊理比咩命) 子安神社(木花開耶姫命) 荒神社(興津彦命) 筑波社(筑波男

大神、女神)


由緒沿革

 

上古武甕槌大神の軍、当地鎮定にあたって頑強な敵軍と大激戦が展開され、いったん後退の止むなき

に至って、玉体を掛簣の中に隠され一土民更に上に草をかけてかくした。追撃の敵兵ら気付かず走り去る。機を見て群をたてなほされ、後背から不意打ちをかけて遂に大勝を収め大鎮定された。神祠をたて

大神の御偉業を敬仰した。鹿島河原と呼ぶ。神体木像。後略。



この神社の向きは東南東ですが、参拝者は高久の鹿島神社向いているような感じです。



高久の鹿島神社は既に報告(46.鹿島神社探険記(城里町高久) )していますが、この神社は悪路王≒


アテルイの首の彫刻が奉納されていることで有名でした。



武甕槌と坂上田村麻呂を意識的に混同して伝承を創作した感が否めないのです。


あるいは前九年、後三年の役のことを上古の物語にしているのかもしれません。


いずれにしても、イカスリ武士軍団が蝦夷地を征伐したことに違いはありません。


さて、由緒にでてくる玉体とは、「コトバンク」によれば、


1 玉のように美しいからだ。2 天子または貴人の からだ。3 他人を敬って、そのからだをいう語。


ですから、武甕槌そのものを示します。


その玉体を「玉体を掛簣の中に隠され一土民更に上に草をかけてかくした」のです。


掛簣がなにかは思い浮かびません。簣はあじか。もっこ。物を入れたり土を運んだりする竹などで編ん


だかご。


「簣」の画像検索結果 も 「簣」の画像検索結果


簣(アジカ)のようです。しかしこれでは「玉体」を隠すことは難しそうです。


もっこという意味では  「もっこ」の画像検索結果


田舎の農家では今でも使っています。ショイカゴと当所では呼んでいるものです。これなら隠れることが


できそうです。この中に隠れ、さらに土民が草をかけてかくしたようですね。


武甕槌=海幸彦は、草部吉見ならぬ草懸吉見になってしまいます(笑)


冗談はさておき、境内社を見れば武甕槌の系統がよくわかります。


 境内社 素鵞神社(素戔嗚) 富士神社(木花開耶姫)


荒神社(興津彦) 子易神社(木花開耶姫) 白山神社(菊理姫)


境内社 天満神社(菅原道真)

木花開耶姫、興津彦(=長髄彦)、菊理姫、素戔嗚宇迦御玉筑波男大神、女神=イザナギ、イザナ


ミ、そして菅原道真。 下図のようにすべて血縁者になります。




新解釈系図 海幸彦(ニギハヤヒA)が武甕槌


五瀬命と神俣姫(丹生ツ姫)は常陸国ではまず見かけることはありません。それから、海幸彦の子と目さ


れる彦太忍信(ひこうずおしのぶ)=彦坐王を祀った神社もありません。このあたりがこの系図の弱いとこ


ろです。常陸国北部(つまり常北)における鹿島神社の数は、光圀が八幡社を嫌い、鹿島社に変えたこ


とを差し引いても、多いことには違いないので、五瀬命や彦太忍信が武甕槌にすりかえられているのか


もしれません。このあたりは今後もフィールドワークで確認していきたいと思います。


彦坐王は古事記では開化天皇と丸邇臣(和珥臣に同じ)祖の日子国意祁都命の妹の意祁都比売命の


子とされていますが、百嶋系図では彦坐王が60年も年上としています。


古事記の日子国意祁都命はヒコクニオキツと読めますから、百嶋系図では長髄彦となり、その妹の意


祁都比売命(オキツヒメノミコト)はオキツヨソタラシヒメに相当します。われわれは百嶋資料と系図の矛


盾の分析(この場合は長野県上田市の生島足島神社の資料)や、当時の宗教(ミトラ教)の研究から長


髄彦とコノハナサクヤヒメを双子としており、ともにスサノヲの子であると推定しています。「興(おき)」と


は一般的にいう秦の始皇帝の別称嬴政(えいせい)を引き継ぐ瀛氏(いんし)、金山彦系を示すものとの


理解であり、コノハナサクヤヒメも当然瀛氏となるのですから、意祁都比売命(オキツヒメノミコト)つまり


瀛の姫になるのです。こういう理由から、彦坐王をコノハナサクヤヒメの子としているのです。


また彦坐王は日本書紀では四道将軍丹波道主の父親とされています。丹波道主は丹波に派遣されたと


されています。律令制以前は但馬、丹後も含み丹波国造の領域だったようですから、丹波国造を但馬守


(たじまのかみ。タジマモリ)と考えることも間違いとはいえません。したがって、彦坐王(=ヒタカ)--タジマ


モリ(=安曇磯良=ヤマトタケルA)--吉備津彦とつながるわれわれの系図は一瞥程度には値すると自


負します(笑)


(謙遜しているだけですからね。正しいかどうかは別にしても、本心はこの系図の整合性を理解できない


研究者は通説に惑わされた理解度の浅い研究者だと思っているのですよ)


最後に「懸」や「掛」についての妄想を記して本稿を閉めたいと思います。(笑)


由緒には「玉体を掛簣の中に隠され一土民更に上に草をかけてかくした」とあったように、二回も「かけ」


が使われています。


沓掛や烏帽子掛は地名として多く残っています。


沓掛は、旅人が草鞋(わらじ)や馬の沓をささげて神に旅の平穏を祈ったことに由来するといわれますが、


掛けの本来の意味は掛け合わせたことだと推測しています。


つまり、その場所で男と女の営みがあった場所ということです。彼は単なる男ではなく、玉体といわれる


ほど高貴な方の行為だったと思われます。


沓や烏帽子はその象徴でしょう。沓や烏帽子を脱ぐということはそういうことだと思われるのです。


これらの地名を残す部落には、貴人と呼ばれる人の子孫の名残があるはずです。そんな伝承を発見し


て見ませんか?

現代で言えば、今話題の加計氏の様な家系が見つかるかもしれません。


百嶋由一郎先生の演会CD、資料、神代系図を入用の方は、常陸国ふしぎ探検隊河野まで。

メール k_kplanning @yahoo.co.jp


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