写真家「ナダール」(3)-1 | Issay's Essay

写真家「ナダール」(3)-1

460 小倉孝誠著『写真家ナダール』(中央公論新社刊)の表紙カバー

 昨年(2016)10月、『写真家ナダール』という新刊書(小倉孝誠著、中央公論新社刊)が目に付いて購入し、あらためて知りえた感動もあってメモ的に記しておきたい。
 ナダールという写真家の名前は知っていたが、それは画家ドラクロワ、ドーミエ、マネ、音楽家ロッシーニ、ベルリオーズ、小説家ビクトルユーゴ、ジョルジュ・サンド、詩人ボードレール、女優サラ・ベルナールなどの有名な肖像写真であり、ほかの写真が影を潜め、彼が気球の飛行でパリの風景写真を撮ったことなどがスキャンダラスで奇抜な行動家として伝えられたことくらいの知識だった。
 あらためて、今まで見ていた写真の歴史に関しての本を開いて見ると、彼の業績として、地下シリーズなどが文章として触れてあってもその写真や内容にさほどの重点は置かれていなかった。ところが、『写真家ナダール』を読んで思ったことは、写真術が誕生してまもなく、その技術を駆使して写真の機能を活かそうとして記録したテーマは、驚くべき報道写真家だったことに気付かされた。
 以下は『写真家ナダール』からのメモである。
 彼(ナダール)は、1820年4月にパリ中心部で印刷出版業の家族に生まれた。やがて家業の傾きがあって学業途中から小新聞などに短編小説や文学批評などを応募、20代にはボヘミアン生活者(気ままな放浪者)として文学の領域に10年ばかりを過ごした。本格的にジャーナリズムと文学に身を置いた頃、フェリックス・トゥルナッションという名前をナダールに変えている。
 この頃、政治的には左翼的な心情を持ち、ひと時は義勇軍としてポーランドに向かうなど、警察当局もひそかに彼を監視していたようだが、1848年6月にはパリに戻り、それからは、あらためて剣をペンに持ち替え、新聞や雑誌に風刺画を描き始めた。
 物理学者アラゴーがフランスの科学アカデミーで、ダゲレオタイプを発表したのが1839年(天保10)8月20日、これが写真発明の日となっているが、その後写真化学は急速な進歩を遂げ、人の表情が記録できるほどに露光時間も短縮され、ナダール自身も、ようやく活用され始めた写真に惹かれ、1854年にはパリ西部にスタジオを構えた。そして、ボヘミアン時代からの交友関係、友人知人らを数多く撮影し1850年代後半には当代の著名者ら数多くの傑作肖像写真(前記)を残すことになった。
 写真は小倉孝誠著『写真家ナダール』(中央公論新社刊)の表紙カバー