2009-05-28 10:04:08

ピュタゴラニズム

テーマ:学問未満

 わたしはあんまり本を読むほうではないので、「これはあの本で読んだ話だよね」って、覚えていたりします。読書家だといちいち覚えていられないのではないかなあ。博覧強記の人は覚えているでしょうし、「読書ノート」をつけているような、精神生活が整然とした人もまた別でしょうけど。


 覚えているといってもかなり前に読んだ本のことは当然ながらあやふや。

 ― これは、中公文庫の『思想の運命』(林達夫)で読んだんじゃなかったっけ?― ぐらいにアバウトに覚えているだけなのですが、その中で林達夫さんは、ラッセルの「西洋哲学史」についてですが、こんなことを言っていたのです。

 「ラッセルが、全ての現象の背後に法則があるのを、イデアリズムではなくピタゴラニズムと言ってるのはあたってるよね。」


 うーん。かなりな意訳のうえに勘違いの可能性が濃厚だな。

 でも、現象の根底にはイデアがあるという考え方と類似して、というかその一部かもしれないけど、宇宙は数理的な法則により運動しているという観念を取り出して考察するのっておもろいなあ、と思った記憶があって、その時に目を引いた言葉は、たしか「ピュタゴラニズム」という言葉だったと思うし、書いてあったのは林達夫氏の本だと思うのです。

 「やる気のないブログ」を自認して雑談モードでつづっていますから、確かめないで書いちゃいますが。


 ピタゴラス というギリシャの思想家が、ヘンテコな教団 を率い、万物の根源は数だと言っていたというのは、小学生でも知っている話。60年代には「岩波少年少女文庫」というのがあって、ブルフィンチの『ギリシャ・ローマ神話』というのが入っていました。そこにピタゴラスの話もあって、中学校の数学で習う前に、小学生はピタゴラスの名前をそれで知っていたはずです。


 小学校でも三角形とか四角形とか習いますから、数についてピタゴラス教団の人がどんな考え方をしていたのか、その『ギリシャ・ローマ神話』に書かれていたことを、「へー」と思って覚えているのですね。

 こどもの頃の本はみんな姪っ子に譲ったから、手元になくて調べられないけど、たしかこんな感じ。

 

 1は全ての基本。2は分裂を生む数。3は完全な数。・・・

 4も正方形が完全な形で、調和した数だったのではないかな。

 あとで、ウィキ先生にピタゴラス学派の言うところを聞いて追記しましょう。


 ピタゴラスとその教団の観念では天体の運行では音楽が奏でられるとしていた、と『ギリシャ・ローマ神話』(ブルフィンチ)には書いてあったように思う。そのとき、20世紀の子どもは、どう感じたのかもう覚えていません。

 ただ、大人になって、中国の古代の音階とか、インドネシアなどの音楽の話を読んだりすると、古代人のコスモロジーと音楽は密接な関係なんだなあと想像はしました。そして音楽って、数理観念の発達にあずかって力があった。協和音程が弦の長さの整数比で生まれるのは、昔の人にとって神秘だったのでしょう。


 そして、今にして思うと、この「神秘」という観念は、数理的な世界観と親縁しているのですね。森羅万象の根底に法則があるという観念は、「神秘感覚」を随伴して人類に訪れたのだと思う。

 「世界を法則で記述する」という態度とと「神秘主義」は正反対だと思うのは、多分違う。現象の背後にはまだ知られぬ法則があるはずだ、という感覚は、近代合理主義の前からある。今は教育で、世界はこういうものと教えられているから、「神秘」というのは単なるレトリックぐらいに感じるけど、人類の知性の発展史をたどれば、ピタゴラス教団の神秘主義(趣味かな)も、数学や合理主義の揺籃なのでしょう。 


 「神秘」感覚を非合理と言って放逐すればいいってものではない。といって、「やはりいわく言いがたい神秘ってあるのよねえ」なんて恍惚としているのもアホな話で、「なんで人間は神秘を感じてしまうのか」と自己を対象化して考えないと、人類の知的遺産の継承にはならない。

 ある数が、特別な数だ、と観念するのは、何故なのか、という疑問を持つと、見えてくるものも多いと思う。  

AD
いいね!した人  |  コメント(2)  |  リブログ(0)
2009-04-26 07:12:13

題に芸術論

テーマ:学問未満

 どうも「芸術と文化」なんて大テーマを看板に出すと、いい加減な偏痴気論がやりにくい。こどものピアノのおさらい会やカラオケを芸術行とみなすか、などと思考実験はしてみたのだけど。


 で、ここでは「第二芸術論」の話をしようと、タイトルをもじりました。


戦後まもなく、「第二芸術論」といる論文が雑誌『世界』に載ったんですよ。

 文庫本でよんだことがありますが、原文が電子化されているかわからなかったので、関連したURLをいくつかあげておきます。


 「俳句第二芸術論再考」

 http://www.geocities.jp/mirai21mirai2002/dainigeijyutu-saiko-0.html


 今も続く「第二芸術論」の衝撃

 http://www1.odn.ne.jp/~cas67510/haiku/kuwahara.html


 「俳句の不可能性への架橋~第二芸術論を読む」 田島健一  週刊俳句

 http://weekly-haiku.blogspot.com/2008/05/blog-post_319.html


 第二芸術論再読 (夢幻と湧源)

 http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_179a.html


 坂口安吾「第二芸術論について」

http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42885_27504.html


 面倒くさい人は「第二芸術論再読」から抜き書きさせてもらいますので、その簡明な記述をお読みください。


選句」をめぐる議論といえば、桑原武夫の「第二芸術論」が有名だ。
フランス文学者だった桑原は、京都大学人文科学研究所を中心に、ユニークな共同研究の組織者として活躍したことでも分かるように、広い視野とバランス感覚の持ち主だった。
その桑原が、俳句は心魂を打ち込むべき芸術ではなく、その慰戯性を自覚した方がいい、と論じたのだった。
岩波書店発行の雑誌「世界」の昭和21年11月号に掲載されたもので、原題は、『第二芸術-現代俳句について』である。夏石番矢編『俳句百年の問い」 講談社学術文庫(9510)に収録されている。


桑原が、俳句を「第二芸術」と断ずることになるきっかけは、自分の子供が国民学校(戦時中の小学校)で俳句を習ってきたことである。子供に実作の指導を依頼されたことから、手許にあった雑誌に載っている諸家の俳句を読んでみようという気になった。


 高浜虚子は、その当時この「第二芸術論」について、「それでも芸術のうちに入れてもらえるのか」と言ったとか。それについて渡部昇一氏が、虚子の人物の大きさを感じたと書いているとどこかで読んだけどね。

 でも、素直に考えれば、虚子は俳句を芸術だとは思ってなかった、てことですね。このエピソードは。


 「第二芸術論」は、文芸としての俳句の奇妙さを指摘しながら、その文化・社会現象としての側面を批判しています。「きちんとした批評が成り立たないで、社中で仲間褒めしているよね、あの人たち」という感じです。日本文化批判や文明論として読めるから、結構話題になったらしい。


 わたしが文庫本で呼んだのは、もうポストモダンなんて言い出している頃だったと思う。だから、俳句を西欧近代小説などと比べているところなど、何か古い感じがしました。有名俳人の句と素人の句を匿名で並べて優劣をつけてみるみたいな「イタズラ」はおもしろかったのですが。


 江戸時代から明治にかけて点取り俳諧が盛んであったのを、正岡子規が出て革新したというのが大雑把な教科書的流れでしょうが、実際にはそれほど単純ではないみたいです。


 月並俳諧   秋尾 敏 (「明治俳諧の世界」)

http://www.asahi-net.or.jp/~CF9B-AKO/haikai/tukinami.htm


 わたしは岩波文庫で出たので、子規の「歌詠みに与ふる書」と「俳諧大要」を呼んだことがあるのですが、子規の旧派を論難する舌鋒に、前になんかを読んだ時にこの爽快さを感じたよなあ、と思いました。そしてそれが「第二芸術論」を読んだときのことだと思い至りました。


 「第二芸術論」については、有名俳人は反応しなかったみたいですが、自戒する人たちもいるみたいです。

 文明論、社会批評の文脈はおもしろいけど、俳句という文芸の特質を深く考察したようには思えませんでした。その後、「俳諧連句」などに興味をもったので、日本文化の理解としては狭いんじゃないかなあ、とも思えた。

 ただ、俳人が「作りもしない門外漢が浅薄なことを」みたいなことを言うのだったら笑っちゃいますね。漢詩を作る私が、作らない人間は理解もしないで杜甫は素晴らしいといっている、って馬鹿にしたらくだらないことです。


 また、俳句は芸術だとして、川柳はどうなのかも気になります。俳句と川柳の区別って、つけなければいけないものなのかな。

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2009-04-25 17:24:50

芸術と文化 (3) 大衆性

テーマ:学問未満

マイセンの高級な食器を芸術と呼んでもおかしくないのに、スーパーで売っているお皿を芸術と呼ばないのはなぜか。芸術とは世の中が芸術とみなしているもののことである。って定義したらばかばかしいけど、言葉の使われ方として、「芸術」の語はいろいろ差異があるようです。


 「音楽」は「芸術」の範疇だ、という時。ベルリンフィルの演奏会にいって、「ワグナーの芸術は素晴らしい」という時。こどものピアノのおさらい会に行って、「素晴らしい芸術だ」という時・・・、フツー言わないか。

 あんまりバイエルの芸術性を云々しないけど、芸術でないとはいえない、でも自分がカラオケを歌って、芸術活動をしている意識を持つ人はいないだろうなあ。


 「芸術」という言葉は高尚なものというイメージがあって、それがよそよそしいと思う心理もあるようです。

 六代目円生が、テレビで、「芸術なんて言われるけど、わたしらは術なんか使わない。芸といわれるので十分」みたいなことを言っていました。たしか夏目漱石は小説の主人公の口をかりて、三代目の小さんを「素晴らしい芸術家。同時代に生まれて幸せ」云々と激賞していたはずですから、落語を芸術と呼ぶのはそんなにおかしなことではない。

 でも、美空ひばりを大芸術家とはあんまり言わない。これは習慣で、別に歌謡曲は芸術範疇から除外するって決まりがあるわけではないと思います。


 よその国ではしらないけど、日本の近代では大衆文化と高級文化を分けたがる傾向がありました。

 今でも少しはあるでしょうけど、むかしは、「純文学」って言い方があったぐらいで、文学にはほんまものがあって、ハイブローとか小難しいとか高級とか大衆を寄せつけないとか思われていた。


 音楽だって、芸大生だった藤山一郎が歌謡曲を歌って退学になったとかいいますから(要確認)、外国から入ってきたクラシック音楽と、大衆音楽とは画然と区別がありました。


 大衆音楽はあんまし芸術だと思われない。


 絵画でも、映画館の絵看板やお風呂屋さんのタイル絵を芸術として尊ぶ習慣はなさそうですが、それは何故なのかと考えると、作者もそれを見るほうも絵を「芸術」と思ってないからという以上の答えがみつからない。


 ともかく、「芸術」という言葉は価値意識を持って使われる。「芸術性」があるとかないとか言うのは、そう判断する実質があると思うからでしょう。

 でも、人によって判断が分かれるだろうから、どういうものを「芸術」というかは、考えれば恣意的です。


 街角で歌っているお兄さん、お姉さんがうまいと芸術性が高いということになるのかな。

 流しの演歌がすごく上手で感動するというのは、「芸術を享受して得られる感興」ですよね。それは音楽のジャンルにかかわらず同じだと思うけど、あんまり新宿三丁目で「芸術鑑賞」したとは言わない。なんでかと言ったら、社会の習慣、世間の相場なんだろうと思う。


 

 

AD
いいね!した人  |  コメント(4)  |  リブログ(0)
2009-04-24 11:13:47

芸術と文化 (2) 用と美

テーマ:学問未満

 昨日の続きで大テーマを考えていきますが、早くも一服モードで気楽なエピソードから。


 以前、学生時代の友人とどこかコンサートにいった帰り、喫茶店に入ったとき。絵皿かなにかを見て言ったのだと思うけど、そいつが、皿などが芸術だなんてのはおかしい。実用的なものではないか、というのです。

 驚いたのですが、彼によると絵画や彫刻などと違い、工芸品は芸術とは言えないという意見。大昔からの美術品に皿や壺はいくらでもあるじゃない、と反論したかどうかは、例によって記憶があまり定かではありません。

 でも、実用的なものを芸術範疇から放逐した彼の大胆さには驚いて、そこは覚えています。


 うーむ。新幹線の車両の流線型に美を感じる人は多い。「美しい」という人もいるけど、東京駅に「ちょっと芸術鑑賞に行く」人はいなそうだから、工業デザインを芸術と言い張る人は確かにいない。

 でも、益子焼の食器を実際に使っているからといって、民芸は芸術ではない、という人もいなそう。浜田庄司の作で実際に料理なんか盛りつける機会は、そうそうはないけど、そりゃ何かあったら大変とか別の理由でしょう。

 絶対に実用に供しない限りにおいて、陶芸作家の仕事を芸術と認めるなんてことはない。


実用的な大量生産の陶磁器を芸術とは言わないけど、陶芸家が「オブジェ」としてわけのわかならい非実用的なものを作ったら芸術で、皿や水指だったら実用品で芸術じゃあないと判定する人は、世の中にいないぞ。

 

 下手とかダメとかにかかわらず、芸術として作った作品が芸術だ、とするのが、一番いいのかもしれません。

 ただし、歴史は朝鮮半島の生活雑器を、日本の茶人が取り上げて、美術品として尊重したような例がありますから、制作者の主権が優先されるとは限らない。


 自分が、または世の中が芸術扱いしているものはなんだろうね、という至って帰納的な方法で、芸術とはなんじゃろ、という疑問を考えているのですが、今回は実用的なものは芸術か、という殆ど意味のなさそうな問いを立ててみました。

 でも、世の中が、芸術をどういう観念だと思っているのか、見えてくるものがあるかもしれません。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2009-04-23 16:24:03

芸術と文化 (1)

テーマ:学問未満

 ドクタンが、「芸術、文化、って、よくわからんねえ」と言っているので、あたしもうだうだ考えてみようというエントリー。こういう場合、「文化」はいかにも広すぎる概念だと思えるので、「芸術」から考えるのがこつかな。


 「芸術」とは何かと考えるのではなく、自分は芸術ってわかっている、という前提から考え始めるんです。それでね。何を自分は「芸術」と思うのか、どんなものを「芸術」の名で呼んでいるか、を内省する。


 「芸術観」という言葉はあるでしょう。「芸術」とはどんなものか。どうあるべきかという考え方かな。そうではなく「芸術感」という言葉にしてみる。


 どんなものが「芸術」って感じがするのか。

 とりあえず、自然の風景を芸術とは思わない。感動したとしても。

 といいながら、京都のお寺の庭の美というのを、感じるわけですよ。

 美というほどきりきり考えないでも、「いいなあ」、「きれいだなあ」と思う。そして借景、遠くの山なんかまで、その庭の美として鑑賞している。

 まあ、しかし、だから、風景は芸術だ!という人はいないし、あたしも言わない。

 ただ、建築などは、どこに建てられているかが重要で、そして建築は、芸術のうちに入れられるでしょうから、芸術は、自然と相互作用をもつ作品を含むね、とは言えるでしょう。


 そこから考えを進めて、建築を、おいらは芸術のうちに入れているな、と思う。パルテノン神殿とか、ルーブル宮殿の建物は、あれはつまりは箱だから、芸術範疇から放逐する人っているかな。

 いたとすると、建物に施されているレリーフなども芸術ではないというのか。あるいは壁紙とかタペストリーとかいうものは、家具や調度は芸術か、という疑問がわく。

 そうすると自分は、それらをあんまり「芸術」という言葉で呼ばず、「工芸」という言い方をしていることに気づく。


 そうなると、宮殿や教会のような建物を、芸術だと思っているけど、その中に入って見て、壁紙や調度を芸術と称しているか、というと、「工芸」というように呼んでいるな、と自覚する。

 「工芸」という言葉を思いだして、自分が美術館、あるいは歴史的な建物に飾られていた絵画の前に立って鑑賞することを考える。

 そうすると、その鑑賞場所を切り離しても、絵画は鑑賞できると思える。

 どこで鑑賞してもモネの絵もラファエロの絵も、作品として自立しているはず。そして額縁を変えて鑑賞に影響は多少あるとしても、そんなに変わらないと考える。一方、額縁だけを、うーむ見事な芸術だ、といって感心したりはしないだろうな、と自分で思う。


 額縁の細工にも感興を催す。美を感じることはあって、それを「工芸」という言葉で自分は呼ぶだろうと思う。


 そうすると、絵画本体は芸術。額縁は工芸と自分は分けて観念しているように思う。

 ただし、自分は「芸術」という語を広い意味で使って、工芸もその中に含める場合もあるだろうな、とも思う。


 めんどっちくなったから、続きは明日。

 

いいね!した人  |  コメント(7)  |  リブログ(0)
2009-02-24 00:03:57

日本文学は二番目に老舗だとさ #*$

テーマ:学問未満

 以前、「日本 」(学生社)という本がありました。新日鉄が編集した本で、日本のことを日英対訳で説明している本です。

 いつものように記憶が大雑把ですが、その中に、「日本の文学」について、「日本文学は中国文学に次いで、世界で二番目に古い文学」と書いてあったように思います。

 面白いでしょ。


 言われてみると、確かに「万葉集」って8世紀にはできている。「ベオウルフ」よりは前に文字に定着しているのでしょう。

 フランス語も10世紀とかそれぐらいに形成されてきたとすると、ヨーロッパ諸国と比べて、「日本文学」は古くから形が見えてきたといえそうです。

 

 でも、こういう話を聞くと、誇らしいというより「何か変?」って感じがしますよね。お国自慢が国粋的だからだめとかいうのではなくて、「何々文学」というときに、現存の国民国家をもとに、その「一国文学」の古さを比べているのがへんてこりんな感じ。

 ラテン語で書かれた作品も、ギリシャ悲劇も、インドの古代叙事詩も、アラビア語の詩歌も、現代のある国の国民文学の淵源として、連続的かつ一意に対応しているのでなければ、「国民文学」の伝統とは考えないみたい。ギリシャ文学は、現代のギリシャ文学と言語的にかけ離れているから、その一体性がないという判断なのかな。

 ペルシャ語などもそうなのかしら。


一国文学という考え方を全て無効だとは言わないけど、近代国民国家に一個一個対応させてそれぞれの国民文学を考えるものなのか。本屋の都合で「北欧文学」とか「東欧文学」なんてまとめ方もするのか。あんまり精密な概念規定とは思えません。

 スペイン語文学とスペイン文学は違うでしょう。イギリス文学とアメリカ文学は別に考えたほうがいいと思うけど、イギリス植民地の作家はどこに分類するのか。

 スイス文学ってあるのかな。スイス国籍の作家の文学ということでしょうか。

 でも、そうすると、これから日本国籍を持たない日本語使用者も増えるだろうから、日本語文学と日本文学が分裂すると期待してよいものやら。


 と、とりとめのないことを書き付けて、ここで議論になったことの続き。

 http://ameblo.jp/kandanoumare/entry-10211057232.html#c10285162599


 もともとは、このエントリーの話。

 http://blogblues.exblog.jp/7870713/

 言語の話になったけど、ここでは「国民文学」なんてものの実体ってあるのかなあ、というそこはかとない疑問から、ぼんやり考えています。


 「日本近代文学」って確かにある。それが世界史の中で重要だと、わたしも思うのだけど、それは「英語」が世界を席巻するのに抗するって話なのかなあ。

 「近代的自我」って、ヨーロッパには普通にあって、日本では知識人が苦闘の末たどり着いたなんて思われているけど、実は「日本近代文学」の発明品で、ヨーロッパにはそんなものなかったぜ、なんてことはないかなあ。


 最初に「日本人論」スタンスがあって、それからものを考えているとかさ。

いいね!した人  |  コメント(33)  |  リブログ(0)
2008-12-04 11:31:29

めったにありえない必然

テーマ:学問未満
奇跡って信じる? ブログネタ:奇跡って信じる? 参加中
本文はここから

 ブログネタ運営局のゲーリーさん。帰省して遊園地に遊びに行ったとき、行きのタクシーと帰りのタクシーが同じだったのに驚いて、「これは奇跡だ」といっています。
 この場合、めったにないこと、殆どないこと、を奇跡という のでしょうねえ。

 でも、宗教的な意味合いでは、奇跡って、海が裂けて道ができたとか、処女懐胎とか、聖者が病人に障ったら 治ったとかいうものなのですね。
 普通に考えればありえないことが起こるのを奇跡という。確率が非常に低いことだから奇跡というのかどうか。

 公衆電話の10円玉を投入すると、ごくごくまれに落ちた10円玉が直立することがあるという話を読んだことがあります。そうするとカウントされないのかな。
 回り将棋というのがあるでしょ。金を4枚ふって、表がでると駒が進められる。金が横に立つと5つ、直立すると10目、金の駒が逆さまに立つと100だっけな。進められるルールでした。
 めったにありえない順に点数が高い。

 こういうめったにありえないことを奇跡というと、奇跡度が高いとか低いとか量の問題になって、ありがたみが薄いなあ。
 「イエス様は、80%の確率で病者を癒された」
 って、天気予報じゃないんだからさあ。

 そんなわけで、「奇跡を信じる」と聞かれたら、キリスト教徒は「信じる」と答えるでしょう。

 反対に、奇跡を説かない建前なのが仏教です。といっても土俗信仰と習合したりいろいろですから、霊験譚のたぐいは山のようにありますね。
 『日本霊異記』とか『今昔物語』とか、古文と言ってもそんなに難しくないから文庫本なんかで読むでしょ。
 まあ、「ごうつくばりり」にも観音様におねだりしていい目をみようという話が多い。
 病気になったらすがりつきたい気持はわかるから、現世利益を全部否定はしないけど、欲望そのものを制御しないと平安は得られない、というほうが宗教的ですね。

 それはさておき、あるとき友達がこういうことを言いました。
 「角にたつビルがあってその屋上からオレが下を見ているとするだろ。片方の道からお前がやってくる。そして、もう片ほうの道からM(共通の友達の名前)が歩いてくる。オレは、ああ、二人は角で出会うな、とわかっている。
 そして、お前とMは、角でばったり遇っていう。『こんなところであうなんて偶然だね』 でも上からみるオレには
二人が出遇うのは必然なんだ」
 わたしが、「ふーん、それで?」と聞くと、彼は、
「人間の目には偶然に見えるものも、神の目からは必然だということ。わたしが哲学の教師ならこういう問題を考えさせるね。」
 
 ゲーリー君の行動も運転手さんの行動も、天から見ている神様から見れば、必然で奇跡ではないともいえますね。
 
 ところで、減らず口の好きなわたしは、後日、こういう手紙をくだんの友達、Y君に出したのでした。

 「Yがビルの屋上から下を見ていると、片方の道からわたしが、もう一方からMがきて、ビルの角でばったりで合った。二人は、「君はどうしてこの道をきたの? こういう用があって、何時ごろ家を出て、この道を通った?、ぼくはかくかくの所へいく途中で、こういう経路でここまで来た。そうすると、ぼくらがここで出会ったのは必然的だね。
 一方、Yは言う。ぼくがたまたま下を見ていたら、ぼくの友人同士が下の角で出会った。なんて偶然なんだろう」

 必然、偶然というカテゴリーって、わかっているようでよくわからない。わたが友達をからかったのは、心理的な納得を、偶然、必然の問題としてかたっているんじゃないか、という指摘です。 
 その上で、哲学するとちょっと面白いかも。
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2008-10-25 09:41:38

「おたく」のアーケオロジー

テーマ:学問未満

 まえに麻生氏とオタク文化をめぐってエントリーをあげたので、オタクそのものを考えてみます。

 議論の範囲を決めようと思ってウィキ先生を見たら、新書1章分ぐらいも記述 がありました。


 「おたく」という言葉が、コミックマーケットの参加者同士の呼称から広まったというのは読んだ記憶がありました。それから世間に広まっていった認識はわたしも共有しているんだけど、ネガティブなことばだという感覚がない。幼女殺人の「M」の事件で、自宅がアニメ、ビデオ、コミックの山だったというのは大きく報道されて、そのジャンルの愛好者が偏見を持たれたのは記憶しているけど、そんなに「おたく」という言葉が差別感、蔑視感を持たれていた印象がありません。まあ、自分の疎さをもって判断してはいけないんでしょうが。


 どちらかというと、「ブリッコ」もそうですが、新しい人間類型という感じがしていました。

 

 あと、こういうエピソードを記憶しています。

 93年に、会場はみなとみらいのパシフィコ横浜だと思ったけど、第1回の横浜フランス映画祭が開かれました。いろんな映画が上映されまして、(こんなの )、あたしは、ジャン=ジャック・ベネックスの『ディーバ』と、カトリーヌ・ドヌーブ主演の映画を見ました。

 上映の後にフランス映画祭にきた映画人の代表格のジャンヌ・モローやベネックス監督との質疑応答があったのね。で、あらかたは忘れたのだけど、そのときにベネックス監督が、「いま、日本のオタクに興味を持っている」と答えていたのだけは覚えています。


 「おたく」という人々、あるいは言葉は、そのころにはもう、少なくともクリエイティブな人たちの間では、世界的認知度があったのでしょう。

 

 「M」の事件の影響はともかく、90年代前半は、そんなに「おたく」って蔑視感のつきまとう言葉だったとも思えないんですけどね。


 「おたく」という言葉は、ともかくも何らかの実体は持っているのでしょう。それは、なんらかのまとまりをもった「社会集団」として観察されうるものなのか。あるいは、形容詞的に、ある人の属性として「おたく」であるのか。


 「マニア」や「ファン」という語は前からあるわけです。それとどういう差異で「おたく」という言葉が使われるのかな、という興味が、わたしなどは先に来るのです。

 

 「社会現象」に疎いから、言葉の問題を吟味するわけですが、もう一つ、「おたく」というのは、二人称の機能として、昔っから使われてきたわけですね。そこと切り離して考える必要があるのか。

 つまりね。わたしの子どものころ、1960年代から、「おたくのご主人、いつも身奇麗にしていらっしゃるのね。あなた、お偉いわ」なんて言い方はあったわけですよ。会社だって、「おたくの製品は性能はいいけど、今回はちょっと価格面で折りあいませんので」と言っても変な日本語ではない。

 「おたく」って「お宅」で相手の家とか家族をさす言葉だったでしょ。それを流用して、サラリーマンが、「おたくの言うこともわかるけどね」なんて会話は、70年代だってあったと思う。

 

 自作のコミックなどをマーケットで見せ合うコアなコミックファンが、互いに「おたく」と呼び合うと、あたしが初めて聞いたとき、別にへんな感じは持たなかったと思う。違和感があったら記憶していると思うんです。もし、多少とも変な感じをもったとしたら、若い男の子(女の子もいたのかな)が、「おたくは」と、おばさんや会社員みたいな呼びかけ方をしているというところでしょう。

 相手のことを「おたく」っていうのは、実に普通のことです。なんでそれが「おたく」(初期には「おたく族」というくくりだったらしい)というまとまり感をもつ類型にされたのか。


 まずそこから考える。そして「ミクロ言語学」で「おたく」と言う語の発話心理を分析する。

 つまり社会一般の言語現象として「おたく」がどう使われているのか、ではなく、一個人として、「おたく」という発話する心理機序を内省する。


 早い話が、「なんで、「キミ」とか「あなた」とか言わないで、「おたく」はっていうんだろうね、という身になってみて考えるということです。でも発話行為とか心理機序なんてエラソーにいいたいじゃないさ。


 考えれば、顔見知りではない関係で、「あなたは」とか「お前」とか、日本語話者はいわない。若者同士、「お前、それ、見せろよ」「いいよ」っていうだろうけど、それって親しくなってからでしょ。コミックマーケットであった相手に、「あなたの」とか「きみの」とか言わない。お互いに英語を使ってやり取りしていたらyour comic, とかなんとかいうんだろうけど。

 「あなたはほんとに画がうまいね」って、コミック描いている若い人は、なんか言いたくなかったのだと思う。よそよそしいと思うのか。「おたくの画、すごいね」だと、親密さと距離感と同時に出せると思うんじゃないかなあ。

 そういうわけで、初期の「おたく」たちは、親しき仲にも礼儀あり。実に正しい日本人だったに違いないと思うんですね。


 人称代名詞を使うことを忌避する日本語の特性が、「おたく」という言葉の背景にはあるんだと思うよ。

 女性たちが、「おたくの息子さん、今年が受験? 」 ときくのだって、「あなたの子ども」なんて」いったら翻訳調で自然な日本語ではないからでしょう?


 もう顔見知りになっても、相手を「おたく」と呼び合うところに、人間関係を作れない若者病理があるなんて言うのだったら、ちょっと因縁だと思うしねえ。「君子の交わりは淡きこと水の如し」と昔から言うんです。コミックマーケットに集まりました。互いに顔見知りになりました。みんなで飲み会をして盛り上がりました。って、必ずしなければならないものではないと思うんです。 

 

 「おたく」と呼ばれる人、「人間類型」に対するネガティブな見方がなぜ生まれたのか、一向にわからないわけですが、コミックとかアニメなどジャンルに対する価値意識の問題というのが次にあるでしょうね。

 でも、話がそれまくっているから、また今度。

いいね!した人  |  コメント(6)  |  リブログ(0)
2008-10-05 14:16:02

「常識」感覚

テーマ:学問未満

 「逍遥録」さんが麻生氏のマンガ趣味を、「気色悪いんじゃない?」としているのにたいし、コメント欄で、「普通」感覚を持ち出すのはいかがなものか、という意見が出ております。(アバウトな要約だから元のエントリーとコメント欄を読んでください)

 http://ameblo.jp/seitennkyuu/entry-10143033049.html#cbox


 ここでは、逍遥録(発掘屋)さんのあげたケースとそこでの議論を引き継いで考えるのではなく、―「普通」とか「常識」って、あるっちゃーあるけど、さてどんなものかは言いにくい変なものさね― という議論をうだうだ考えたいと思います。

 

 こういうことがあったのよ。

 バブルがはじけたぐらいの頃だったかな。新聞にあった記事です。ある時代劇で町奉行所の与力だか同心だかが、髷を結わないで長髪だったらしい。若い人気俳優さんのルックス優先ということなんでしょうねえ。そのことを新聞記事は、「いくらなんでもめちゃくちゃな。今の時代なら、一部上場企業のサラリーマンが長髪・茶髪みたいなものでありえない」と批判していた。


 その新聞記事のことを、わたしはある人に話したの。そしたらその人が、「だって江戸時代のことなどわからないから、そういう与力がいたかもしれない」というんですよ。江戸時代って服装とか身なりにはやかましいですからね。ありえない話だとは思うんだけど、そういうの。で、わたしが「そんなら丸の内のサラリーマンだって、長髪の人がいるかもしれないじゃない」と言ったら、その人は「そんなことはありえない」という。

 同時代の「常識」として、普通の企業のサラリーマンに長髪だの茶髪だのがそうもない、というのは常識かもしれないけど、それの立証って、するとしたらどうするかな、と思う。上場企業全社の就業規則に全て禁止規定があるとか、調べ上げれば論証できるかもしれません。でも、明文で規定していないかもしれない。

 でも、おそらく誰でも、一部上場企業のサラリーマンが長髪・髭もじゃ、ジーパンはいているなんてドラマがあったらリアリティに欠けるとは思うでしょう。漫画原作で最初から外した設定を押し通すってことが、ドラマの場合ならあるかもしれないけど、現実にいるとは思わない、という「感覚」を大多数が多分、持っている。


 江戸時代は、町人と武士では髷の結い方から違います。そうした法度集があるのかどうか分かりませんが、あの時代は、「個人の自由」なんて観念はありませんからね。異形・異装の町奉行与力なんて現在以上にありえない、というのがわたしの「常識」感覚なんだけど、そう思わない人もいるみたい。でも、そういう人でも、現代のサラリーマンの身なりについての「公序良俗」は、常識として疑っていないようなのです。


 この、何かを「常識」と思う感覚とはなになのか。その根拠は?

 そして、観念的には厳密に立証されたわけではないとするとしても、実際には、「一部上場企業のサラリーマンが長髪・茶髪などありえない」という感覚は、その当時(バブル崩壊直後)ではとくに「常識」ではあったでしょう。

 それが「普通」だったろうと思う。

 人は、なぜ、そういう感覚を持つのか。

 サラリーマンはきちんとした身なりをすべきだという当為としての「普通」や「常識」ではなく、現実がそうなっているという意味での「常識」として、「一部上場企業サラリーマンには長髪・茶髪はいない」と、なんとなく思っている。その「当たり前 」感覚をクリティークするとどうなのかな、と思ったのです。

 人はその感覚を、今までの経験から構成するのか、とか考えるとm、哲学っぽいじゃないさ。


 

 お知らせ 

 10月21日の0時から24時までのあいだ、当ブログにアクセスすることはご遠慮ください。

いいね!した人  |  コメント(4)  |  リブログ(0)
2008-09-07 11:36:08

無意味言葉の意味 ミラバケッソの研究

テーマ:学問未満

未ラバ家ッソ


すなおに押したら、こう変換。


ミラバケッソ って ミラバケッソ  のことです。


味蕾が化かさせるそーめんの略とか。ダイハツのミラば欠損をだしたべな、とか。


なんか、「なんだろう」と思わせる意図がみえすいたキャンペーンですね。

未来に化ける新素材、なら ミラバケシンじゃないの?

これから、ミラバケシンのほうを流行らせるキャンペーンをしよう。



意味不明なことばを投げかけるというのは、昔からあった。

「あばらかべっそん」っていう有名な本があります。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0170.html



「あじゃらかもくれん」 とかね。

どういう字ですか、などと聞かれても返答に窮する言葉が、昔からある。


このような、「無意味」というか、わけのわからない言葉が、とはいいながら単語として定着、流通するというのは、言語学ではどう考察しているのか興味があります。


言葉(単語)が、意味を持っているということ自体を異化しようとする言語行為とも思えますねえ。


噺家ばかりでなくコメディアンも、「アジャパー」とか決まり文句を流行らせたものですが、それも言語の社会現象というだけではなく、語彙論、意味論、文法論にひきつけて語ることはできないのかなあ。


学者さんというのは、実に、どーも。あかでみしゃん でございやすね。(と、なんでもかんでも意味不明に、あかでみしゃん、ということばを連発する遊び)

いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。