2009-10-29 09:11:14

歌謡曲は低俗 と、昔は言われた

テーマ:新釈世間噺

 1960年代、70年代の昔話をして、ご機嫌をうかがっておりますが、しばらくお付き合いのほどを。


 アメブロ「お気に入り」に登録してある小山田春樹さんのブログで60年代歌謡曲がいろいろ取り上げられております。小山田さんは子どももころから、歌が好きだというので詳しい。当方は音楽に疎いものですから、昔の流行歌の印象が薄い。それでもある程度は知っておりますから、昔の歌は広く流行したのでしょう。


 うちはあんまり歌番組を見なかった。親なんぞは普段見ないから、一年にいっぺん、紅白歌合戦を見て間に合わせようという料簡で、ぜんぜん歌謡曲に同情がなかった。昔はね。「こまどり姉妹」とか「畠山みどり」とか、「うる」歌手が結構いて、またそういう音楽を嫌う人も多かった。

 一つには、浪花節に対する軽蔑感が東京市民の一部にあったためでしょう。義太夫は芸術のうちで浪花節は乞食芸というのは、差別意識の一種なんでしょうが昔はそういう差別感覚は多かった。

 

 それは日本伝統音楽の範囲での「貴賎意識」でしょうが、もう一つ学校教育、公式なものと土俗のもののヒエラルキーもあった。学校教育音楽は、明治以来、小学唱歌です。日本の五音階に近いという配慮からスコットランド民謡をとりいれたとしても、長調、短調、1オクターブ12音の西洋近代音楽がベース。

 さらに、歌詞からは色恋は排除されている。明治以前の感覚では、音楽というには遊芸で、町人の基本教養で堅気のうちの娘だってならうんだけど、あんまり上手いと「それしゃあがり」みたいでよくないという感覚もあったようです。これも差別チックな「中庸の徳」でして、いま、ピアノがうますぎるお嬢さんが偏見を持たれるということはなかろうと思います。


 学校の音楽の先生は音楽学校出で、ト二イホロ嬰へ嬰ハで育っていますから、クラシック音楽偉い!という観念が強い。歌謡曲を排斥するクラシック原理主義者が多かったとも思えませんが、60年代は、流行り歌ばかり聞いてないで、クラシックとか世界の民謡とかを聞いうくのが普通の教養、と思われていたはず。


 かてて加えて、歌謡曲の歌詞の多くは色恋ですから、子ども向きではない。東京市民は昔なら長唄で「女郎の誠とたまごの四角、あれば三十日に月が出る」なんて唄わせていたのだから、言えた義理じゃあないんですが、歌謡曲は低俗という観念も、世の中にはあった。東京、山の手には少なくともあったと思うよ。


 音楽の教師が、歌謡曲のことをよく思わなかった理由の一つは歌唱法なんでしょうね。口を大きく開けて歌詞をはっきり歌うのがいいとしているのに、口先でつぶやくように歌うなんてのはいささか困る。まあ、なにも合唱コンクールのときに、奥村チヨみたいな歌い方をするわけじゃあなし、歌によって変えればいいわけです。シャンソンのクープレと言われる、ごにょごにょ言う部分だって、朗々と歌うわけじゃないんだから、別にいいようなもんですが、音楽学校を作って移入した西洋音楽が偉いという立場からは「歌謡曲もねえ」という意識はあった。


 こうした歌謡曲批判は、今から見るとスノビッシュな偏見とか料簡の狭い西洋かぶれに見えますが、よってきたるところは、日本土俗へのいらだちとか大衆社会状況への違和感とか、さまざまあったのだろうと思います。

 

 小山田春樹さんのエントリーで『函館の女』が取り上げられています。

 http://ameblo.jp/oyacon/entry-10373973139.html

 65年だったんですね。

 

 この北島三郎の歌を指したと思われる文章が、毎日新聞夕刊の右肩のコラムにあったと思う。筆者は柴田錬三郎で、その言うところには、「逃げた女を追ってきたなどという歌詞を、蝶ネクタイの身なりで歌うもんかよ」といった感じでした。ドレスアップした身なりで卑俗な歌詞を歌うのに違和感があるという趣意ですね。

 柴田錬三郎に「クラシックはお芸術ざますが、歌謡曲はぺけさんす」みたいな俗物根性はなさそうですから、戦中派、昔の秩序意識を知っている世代として、歌謡曲のキッチュなところに小言をいった んでしょうか。


 そのご 時代は移って流行歌も多様になり、一般の音楽の素養も高まった。糸に乗るような音楽は廃っていったかもしれないけど、民謡などは逆に享受者も歌う人もすそ野が広がったと思う。

 牽強付会と言われるかもしれないけど、70年代以降、文化相対主義が強まったから、歌謡曲がダメで西洋音楽はいいという観念もなくなったし、学校教育も工夫されるから、ポップスが学校の音楽教科書に載るようになって、ジャンルのなかでの、ヒエラルキー感覚は全くなくなったと思います。

 それだけ世の中、進歩したとも言えますが、大衆的に人気が出ればそれが一番いいのだ、というのでは、商業主義による秩序だてで、それも変だよね。武道館をいっぱいにするアーティストが、音楽的にも優れているなんて話はないわけだから。


 人それぞれの好みだから、高級な音楽ジャンルがあるわけじゃない、というのはいいんだけど、どんな音楽もどんな演奏も平等無差別、どれも同じ、っていうのでは批評性もなんもないからなあ。

 

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2 ■高級、低級

BLOG BLUES さま

 ポイントの一つにコメントありがとうございます。
 このエントリーは、趣意が二つ。
 「音楽ジャンルに高級・低級はないよ。平等だよ」という相対主義はいいんだけど、相対主義を貫徹して、いい音楽とか趣味がいいとか、うまくできている曲とか、価値観が全部壊れたら、それも困るんじゃない? という疑問を最後に出しまして、そこも大事な論点。
 もう一つは、昔からある音楽ジャンルの秩序意識の戦後版を概括しようということです。

 まあ、文化相対主義への疑問は、話の流れで出てきたんで、最初は、60年代の音楽観を伝えようと思ったのです。

 この、音楽(に限らないけど)の高級、低級意識はもう少し考えていきます。

1 ■相対主義はつまらん

こんにちは。音楽は、そりゃモーツァルトでしょう。芸術表現としての高見が、歌謡曲等の大衆音楽とは隔絶している。ひれ伏すしかありませんよ。

大体、学校教育でポップスとか取り上げるんじゃない。んなものは街中に流れてるんだからさ。学校では、意識して聞かないと聞けない音楽を取り上げるべきです。でなきゃ「知」が広がらない、深まらない。食べやすいものばかり食べさせちゃ、顎が発達しないのと同じ理屈。

もちろん、畠山みどりの「出世街道」はいい、大好きだ。♪~ひとに好かれていい子になって 堕ちていくときゃ一人じゃないか 俺の墓場はおいらが探す そうだその気でゆこうじゃないかぁ~なんて、グっと来るぜ。

ラーメンには、ラーメンのうまさがあり、無性に食べたくなるときもあるが。料理としてどっちが立派かと言えば、そりゃラーメンより本格中国料理だろう。文化度がまるっきし違う。それを一緒くたにしちゃあ、文化そのものが廃れてしまう。

しかし、どうゆうわけだか、最近の日本の風潮として、サブカルが幅を利かせ、本格が追いやられる傾向にある。僕には、分からんなあ。天才のみが成し遂げられる神業とか、ほんと凄いもんなあ。それは、大衆的なものからは得られない貴重なもので、仰ぎ見るってことも、素敵なことなんだけどなあ。

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