2009-10-27 12:41:26

中島たい子著「漢方小説」を読もう(スバル文学賞受賞)

テーマ:漢方関連本紹介

漢方大好き! 漢方薬大好き!-漢方小説

内容はこんな感じです。

①「五人目の医者」

耳慣れているサイレンだけれど、自分のために鳴っているのを聞くのは初めてだった。遠くでポッと点るようにそれは鳴り始め、一直線にやってくると高音のピークで止まった。実家から間違って持ってきてしまったオヤジのパジャマを着て、ユニクロのパンツがはみでているお尻を玄関にむけて倒れているという、何か一つでもどうにかしたい状況だったけれど、それどころじゃなかった。アパートの外階段を上る複数の足音がして、寝ぐせで髪がおっ立ってる大家さんと一緒に、水色の上っ張りを着た三人の救急隊員が入ってきた。


「どうしましたか、ご自分で話せますか?」 

私はセルフ・ロデオマシーンになっていた。突如として体が暴れだし、自らの生みだす振動にかれこれ小一時間はガタガタとふりまわされていた。マシーンの回転数はますます上がり、いっそ振り落として欲しかったが、乗ってるのも暴れてるのも自分だから降りようがない。私が何を言ってるのかよくわからないので、大家さんが代わりに私の名前を彼らに告げた。私は流しの上にある近所の総合病院で出してもらった胃薬を指さして、それを飲んだとたんこのように全身がふるえだしたことを彼らにわかってもらおうとした。が、これまた指がかってに三拍子を振ってしまってポイントがさだまらず、三人の救急隊員はヤカンやカレンダーや蛍光灯を見るはめになった。救急隊員の一人がやっと薬を見つけ、内容をメモした。私より背の低い彼らに、よいしょ、と床から起こされて、あやつり人形のように他力で階段を下りて救急車のストレッチャーまで移動した。救急隊員は私を横にして、黄色の重たい毛布をかけてくれた。それに顔をうずめると、厳かにも嘔吐の残り香がした。それが本日のものなのか、歴史的に積み重なってきたものなのか、そんなことは今はどうでもよくて、ただ毛布の暖かさがありがたかった。大家さんも一緒に乗ってくれるのかと思ったら、部屋の鍵はちゃんと閉めといてあげるから、と手をふって見送ってくれた。救急車の後部扉が閉じられて、ロケットが発射を待つような間があった。


「えー、三十一歳の女性」 

運転席の救急隊員は無線の相手に告げた。例の胃薬を出した総合病院の救急に受け入れが決まったようだ。当然だ。再び私のためにサイレンが鳴り始め、私は白い曇りガラスの中の人になった。血圧を測っている救急隊員に、いつからどのように胃の具合が悪いのですか? と聞かれた。 


二週間前に六本木ヒルズに行ってからです。正確に言えば、昔つきあっていた人が北海道から久しぶりに出てきて、彼が六本木ヒルズに行きたいと言うので連れていってあげたら、運悪くキアヌ・リーブスも来ていて、彼も見物客の中に分け入っておもいっきり手をのばして携帯でキアヌを撮ったりしていたくせに、急に人混みに酔ってしまって、植え込みに座りこんで彫刻に悪態をつき始めたので、しょうがないからそこから連れ出し、六本木のはずれにあった妙に空いている居酒屋に入り、そこでオリジナルうどんを頼んだら具に牡蠣がまぎれこんでいて、それを食べてから胃の具合が悪くなったんです。ちなみにRの月はとっくに終わってました。気づくべきでしたが、彼が、地元で中学が一緒だった女の子と来月結婚すると言うのを聞き、ツルッと飲み込んでしまったんです。今さらこの人と結婚している自分なんて想像できませんでしたが、正直しまったなと思いました。私は「えー、三十一歳の女性」で、結婚どころか最近はつきあっている人もいなくて、その彼は何年か前に私と結婚したいと言ってくれたんです。このような時に顔をひきつらせて「おめでとう」と言える人はまだ余裕がある方で、私の場合、彼の後ろに張ってある『初鰹カルパッチョ風七百五十円』のお品書きを見つめ、店を出るまで三百万回ぐらいそれを読みました。なので会計をしめてもらう時、店員に「おあいチョ」と言ってました。満足げな彼と地下鉄の改札で別れ、混んでいる大江戸線の中で一人になると、今度は車両に乗っている私以外の人がみんな結婚しているのではないかという恐怖感に襲われ、すると急にお腹が張ってきて痛みだしたんです。牡蠣にあたったのかと思ったら、吐くわけでも下すわけでもなく、たった一個の牡蠣が胃をカチンと固めてしまったようで、以来、何を食べても胃が動かず、ずっと調子が悪かったんです。 


救急隊員にどこまでつっこんで話すべきだろうかと黙考していると、私の気持ちを察してくれたようで、つらかったら無理に話さなくてもいいですよ、と言ってくれた。 


切れの良いブレーキがかかるたびに、ストレッチャーは進行方向に引き寄せられて、車が曲がるのを感じながらアパートから総合病院までの道を思い描いたけれど、もうどこを走っているのかわからなかった。クッション材で保護されている医療器具や車内の設備などをぼんやり眺めていると、あれっ、と思った。血圧計のピンチを指にはめている自分の手を見た。ふるえが止まっている。全身、ピクリともせず、呼吸だけが穏やかに波打っている。今までの騒ぎが嘘だったかのように普段の自分がいた。私は血圧計の数値を見ている救急隊員の方をチラッと見た。ふるえが止まってホッとした反面、救急車に乗るほどのことだったのか急に自信がなくなってきた。そわそわし始めた私は救急車に乗っている必要性を必死で探し、救急隊員が読み上げている血圧と体温の数値に期待をかけたが、端数を切り上げても大の男三人に運ばれる値ではなかった。最後には演技でふるえ続けてみようかとも思ったが、向こうはプロなので、正直に症状が止まったことを申告した。救急隊員は、


「そうですか、よかったですね」

 と暖かい言葉を返してくれて、ますますいたたまれなくなった。そこらでタクシーをひろって帰るので、モチをのどに詰まらせてるようなもっと緊急を要する人のところへ行ってください、と言いたかったけれど、救急車はそのまま信号を無視して走り続けた。


(…この続きは本書にてどうぞ)


漢方小説 (集英社文庫 な 45-1)/中島 たい子
¥420
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