カマルフリーダ
をスタートさせた背景には私たちがはじめた賎業への旅がありました。今私たちが地球環境の問題としてリサイクルを奨励する文化にいきていますが、実は何百年も何千年もの間重要なリサイクル部門とそれにつながる生と死の儀礼に深くかかわった人々が賎民視されてきた事実があります。
現代のリサイクルの問題でもっとも大きなものが糞尿であり、ゴミであることはいうまでもありません。
全世界でいまだに70億人もの人々がトイレへのアクセスを断たれており水の問題と同様に世界保健機構では21世紀の最重要課題のひとつとしている。インドでは村落部で90%がトイレがない生活を続けていると推定され、多くが被差別カーストや原住部族民です。ひょんなことで助けをもとめられた南インドタミルナードゥ州のコヴァラム村で今までやったことがないコミュニティ開発プロジェクトをはじめることになったのが2005年のことでした。
実は私は自分をちゃんとした学者だとはとても思えなかったのです。ロンドン大学のLSEというところで社会人類学を学び博士号をとったのはいいのですが、正直いって私は象牙の塔の学者にはむいていないと早々と悟りました。確かに英語で論文もかいて海外でも何本か出版はしているけれど、とても真正の研究者とはいえない。。。と内心思っています。 母校のLSEで教授たちと話をするたびに彼らの「アカデミズム」にはとてもついていけないと思い、よく知られているジェンダー研究家のヘンリエッタ・モーアさんなどをインタビューすると「やっぱりああはなれない」と自分を引き比べて自己嫌悪。というよりやっぱり私は生粋の学者じゃないのです。
ところが、数十年間、無駄に情報を蓄積しながら被差別カーストの生活改善になにも役に立つことをしてこなかったじゃないか。。。とある時気付いたことがあります。トイレがなくて野外排泄をしているのは知っていました。それがインドであり、人類学者としてフィールドに入る場合は最初の仕事はトイレをつくることだったとき、なぜこの人々がトイレをつかわないのか考えてみたことがあったのか。そこがとても重要なターニングポイントでした。
一方、インドに学生たちをつれていくにつれ、学生たちによくしてくれる村人たちに感謝する気持ちを表そうと資金を集めることが続いたのです。
ある時その村の女性が子供の遊び場プロジェクトの最中、トイレがほしいといいだしました。そして調査がはじまりました。現地にあったエコサントイレにたどりつくまでトイレ問題を解決しようとする苦闘の日々が始まったわけです。
それまで調査対象としてしか接していなかった村人たちとの悪戦苦闘。糞尿を分別してそれぞれを有機肥料にかえるUDDTトイレ(エコサントイレ)によって尿と糞をそれぞれ肥料として用いることができるエコサントイレを設置しはじめたのですが村人が使わずにトイレが打ち捨てられていく惨状をまのあたりにもしました。いつのまにかJICAのプロジェクトとしてコヴァラムとの格闘が続いていたのです。
村をしきるのは被差別カーストの上にいる漁師カーストの男たちです。とにかく脅威にみちた漁師カーストの男たち。彼らの団結ぶりは「自分たち以外のコミュニティには利益を一銭もわたさない」というスタンスで、被差別カーストの人々を追い詰めてしまうのでした。
インド洋沖津波被害のときも被差別カーストの人々のほうがずっと被害が大きかったのに彼らには一銭も支援がいかないのを当然のこととしていたのにもつきあたりました。そこで異色の社会活動家、ナーラーヤナンに出会ったのは2003年です。
彼は父親がなくなり5年生で学校を中退して漁師になったが正直ものでヨーガと社会奉仕を心がけ近隣の超高級ホテルでライフガードを長年務めて表彰された人でした。その後独立して女性互助組織を支援する基金をたちあげ子供たちの補習校も経営しているひとです。
しかし不思議なことに彼の互助組織はみな周辺の村の被差別カーストの女性たちばかりで彼の出身の漁師カーストはひとりもいないのに気付くのに1年以上かかりました。
彼とJICAプロジェクトをやるなかで大きな騒動にまきこまれました。彼を快く思わない漁師カーストの一部が彼に無実の罪をなすりつけ、彼から身ぐるみはぎとろうとして警察を抱き込んで追手をさしむけたのです。彼は半年間の逃亡生活を余儀なくされ、デイブは彼の弁護のために裁判所に出向き「彼は一銭も基金のお金を私していない」という報告書を提出しました。スイスの支援団体も同じようにしました。信じられないことですが、彼がよく御寺にお参りするのは御寺に金の延べ棒をかくしているのでそれを見に行くのだ、といったうわさがまことしやかに流されていて、彼を牢屋にいれろ、といったデモまで組織されたことでした。
地元の警察は漁師の村にははいりません。自治組織なので彼らは手出しできないのです。この事件のときにはほんとうに漁師村は物騒でした。でも被差別カーストの人々の多くもこの根も葉もないうわさを信じていました。。。
ヤングリーダーをつくりだすトレイニングと並行しておこなったエコサントイレ設置のプロジェクトはとにかく苦闘が続きました。もっとも大変だったのは当該の被差別カースト集落の男性たちのやる気のなさ、他力頼み、謀略と係争の渦にまきこまれることでした。
これにまきこまれながらトイレをつくりつづけるなかで、不可触性・排他性などの普遍的なテーマを日本とインド・ヨーロッパをつなぎながら考察してゆく道をたどったのが昨今の私の生活です。
私は宗教学も勉強したのですが、そのときインド独特の宗教概念であると考えられてきた浄・不浄の対立にもとづく「カースト」について村での調査もふくめてかなり勉強しました。
ところが、これはきわめて類似したかたちで日本に存在しているだけでなくヨーロッパにも存在したということを最近発見したのです。今フィリピンのスラムの問題を考えていますがあのスラムの背景にあるのは支配者としてはいってきたスペイン系の人々とインディオとよばれた現地の人々との間での居住区の差別と通婚圏の違いによるクラスの形成です。
なぜ行政援助が届きにくいか、という点は開発途上国の問題でありそのプロセスを追ってゆかねばならないとも思いました。そして今私は各地の被差別コミュニティの人々が自らを「特異な文化をもつ人々」として誇れるようになるにはどのような視点が必要なのであろうかを自らに問いかけています。
ある被差別カーストの女性を通して、カーストからの上昇志向が特にジェンダー問題としてもクローズアップされる「結婚市場」についても考えてみます。低層に生まれ教育を受けた女性が陥る悲劇、アラキメリーという女性は彼女の父が運動家として先導した「ふたつのタンブラー事件」の話などをしてくれました。ふたつのタンブラー事件とは茶店で同じタンブラーを使うことを拒否されそれに抗議した人々が焼き討ちされた事件のことです。その渦中にあった父と給食賄い婦として一生を終えた母をもつアラキメリーの生き方、被差別カーストで私たちが2年あまり学資を援助したアレックスとその父ジョーゼフについても語っていきたいと思います。日本の事例では私が取材した大阪の浅香と釜が崎のまちづくりの事例もあげてみたいと思います。そこで先導役をしたSさんを中心に日本の被差別地区への差別と人々の「消滅」を考えてみたいとおもいます。望ましいことでありつつも被差別部落がになっていた文化が消えることでもあります。実はアイヌ民族の問題としても、最近これを考えたこともありました。元宣教師のSさんが訪ねた先で祖先への弔いとしてのイチャルパという行事についての思いをかたってくれました。そして部落解放同盟のFさんを案内人として東京の部落を外国人留学生たちと一緒に歩いてみた話も書いてみます。実はカマルフリーダの副事務局長のロビンルイスはこの部落ウォークに加わり、「今までまったく知らなかった日本を発見した」と語りました。ロビンは私の学生だったのですが、日本のマイノリティについて論じたクラスをとって「今まで自分の周囲の日本人はなぜこの話をしてくれなかったのだろう」と思ったそうです。
実は東京の部落産業で目に付いたのは外国人労働者の姿でもありました。5人のうち3人が外国人労働者である実態。私の家の隣人のドイツ人ぺトラは一緒にドイツ語の本を読んでくれました。そのなかにあった「不名誉な仕事」についての記述は日本やインドの被差別カーストについての記述にそっくりだったのです。
今40代前半の彼女の記憶にも差別を感じた感覚はいきていました。大道芸人たちが彼女の町を通り過ぎる時は母親は洗濯物をだしておいてはいけないといったというのです。「盗まれるから、ああいうひとたちは信用ならない」と。あるいはアメリカ人のデイブがおもいだす床屋の話には昔の賎業としての姿が浮かび上がってきました。
いろいろと脱線しますがこれからブログでインドとフィリピンの活動について語っていきたいと思います。