断定急ぐべからず その3

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さて続きと参りましょう、性懲りもなく展開図の右下をご覧ください、

3枚の断面がUの字に曲げられたパーツ、

上の二枚は袖の一部で下の一枚は面頬の垂れ(のど元を守る部分)の

最下段です、

その根拠は他に板状のパーツと言えば草摺りですがこの時期の草摺りは

ここまで深く曲げこみませんし(室町時代の高級仕立ての中にまるで半円と

言わんばかりに曲げ込んだ物があり「割り竹」と呼ばれていました

竹を半分に割ったみたいに見えたのでしょう)

草摺りであるならばこんなに大きければ草摺りの分割数に達しません、

この5枚胴タイプならば以下の写真のように

幅の狭い物が6~7セット胴に取り付けられます、

そして面頬のパーツでないと言い切るのは面頬は必ず

下が一番広くなる末広がりの扇形になっているためです、

最下段より幅が広くてサイズが合いませんね、

ですからこれは袖のパーツなのです。

 

まびさしの上の3枚の板は勉強不足のため判別不能ですすいません、

 

以上大まかに部品各位を見てまいりました、ここからは老人の思う所を

お話していきます、

 

妙な箱書き

 

この具足をおさめた桐箱にこのような事が書かれているそうです

以下新聞記事から抜粋、

 

1934(昭和9)年の箱書きには「海野小太郎御誕生の祝いの品として、京都から下賜(かし)され、児子(子ども用)の具足一領」とある。

 

オリジナルでない家の誰かが書いた箱書きに信憑性や疑わしさは付き物で

例えどんなに汚かろうが古かろうが痛んでいようがオリヂナルは保存しなくてはならない

例えそれが本物でも裏付ける記録がなければ疑われ

本物として認定できない状態になります、努力して保存し伝えた先人に

合わせる顔がありませんね、

これは気付いた人が絶対に真実と物を守り抜くための鉄則です、

そいつが金になるならないではなく醜い欲を排除して行うべし、

 

もっともらしく書かれてはいるのですが妙な気もしなくはありません

海野家の赤子の誕生祝として京都から・・・真田という京都につながりがあるか

分からないような(おそらくない等しくあったとしても御所内でも真田昌幸

だれだそりゃのレベルでしょうその臣下など殊更で御所では地下以下と

言ったところでしょう当然そのレベルに下賜などあろうはずがありません)

田舎大名の家臣がだれと縁があって下賜されたと言うのだろうか?

下賜という言葉が出ていると言う事は天皇家などかなりの高身分と思われるが

(大名などだと普通は拝領とくるでしょう)

正直関西で使用例や製作例がろくにない5枚胴をどこの誰がたかだか子供の誕生祝に

贈るのかいささか怪しいものです、

そして天皇家からこの当時にこのような安くもない具足が下賜されると

言うの常識的に見ても首肯するに無理があります、

(天皇家はいずれの御世でも貧乏なもので酷い時には下着の着替えに

事欠くとか歌の会で歌を書く紙すらないなど聞くは笑い語るは涙の

話でてんこ盛りです、この具足も完成当時は決して安い物ではなかったはずです

当時の天皇家はそういう下賜品すらにままならないほど貧乏だったのです)

そしてこの具足は小ぶりに見えますが子供用ではなくしっかりと復元すれば

150~160cmほどの人物が着るサイズであり子供用ではありません

当時で言えば平均身長サイズの範囲内です、

(諸説ありますが当時の日本人男性の平均身長は155~160cm前後との由)

 

箱書きは本来別の子供用具足の物であったか具足の付加価値を上げるために

先人が捏造した線を疑って良いと思います、

 

箱書きはただの落書きではなくその本人や家柄を誇り伝えるための

大切なアカシックレコード/記録であり悪ふざけの落書きではありませんから

誉れの誇示のため思い付く限りに正確に事細かく書くのが常識です

そうでなければ子孫に誉れと記録を正確に名伝えられないからです

こんなにぼやけさせた箱書きは疑わしく思うが如何でしょうか?

 

そしてパーツだけ持ってきてその箱書きを展示しないのはなぜでしょう?

何かの意図があっての事なのでしょうか?

すでにないであろう昭和9年以前の箱書きを忠実に写したのなら

資料として閲覧者にみて判断してもらうことに躊躇する理由はないと思うのですが

如何でしょうか?

 

続く

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