2010年08月16日(月) 01時14分19秒

『歌舞伎修行 片岡愛之助の青春』 松島まり乃 著

テーマ:歌舞伎の本

『歌舞伎修行 片岡愛之助の青春』 松島まり乃/著

NHK出版 生活人新書 714円 新書判 2002年7月発行 ISBN978-4-14-088034-0

https://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=0130&webCode=00880342002



歌舞伎見人(かぶきみるひと)

■出版社の案内文

上方歌舞伎のホープ、片岡愛之助の半生を通して描く、まったく新しい歌舞伎入門書! 9歳で入門し、後に片岡家に養子として入るひとりの少年の目を通して、わくわく、ドキドキの舞台裏、厳しい稽古を体感して下さい。初めて観る人へのおすすめ演目、歌舞伎クイズなど豆知識も充実。手軽に読めて歌舞伎通になれる一冊です。



■目次


はじめに

プロローグ もう、振り返らない


1 「お芝居、でてみる?」

     おとなしい子/初めての舞台/歌舞伎ショック

     ●歌舞伎ガイド1 初めて観る歌舞伎・お勧め演目


2 子役の日々

     京の顔見世/芝居に入り込む/二人三脚/運命の再開

     ●歌舞伎ガイド2 歌舞伎の家と片岡家


3 「歌舞伎役者になりたい」

     踊りのお稽古/「千代丸」初舞台/憧れの人/松嶋屋のお正月/厳しさを知る

     ●歌舞伎ガイド3 踊り・よもやま話


4 子どもから大人へ

     初めての「女形」/大人を演じる難しさ/おとなしい子?

     ●歌舞伎ガイド4 愛之助のお化粧講座


5 愛之助襲名

     養子縁組/新しいお稽古事/在るべき姿

     ●歌舞伎ガイド5 三味線音楽と歌舞伎


6 「役」に取り組む

     初役つづき/名題試験

     ●歌舞伎ガイド6 歌舞伎クイズ


7 別れを重ねて

     神様のような人/生き抜いた四年半/息子の誇り

     ●歌舞伎ガイド7 上方芝居の諸相


8 受け継ぎ、想像すること

     新たな仲間(の卵)を得て/役の心を受け継ぐ/創ってゆく楽しさ

     ●歌舞伎ガイド8 大阪ぶらり芝居散歩


エピローグ 過去でも未来でもない、今



■歌舞伎見人メモ (抜き書きの部分もあれば、まとめた部分もあります)


・「はじめに」にあるように、この本には3つの貌がある。一つ目は「歌舞伎入門書」。二つ目が、歌舞伎という

 伝統芸能の命の探究。三つ目が、ある青年の半生を追った「評伝」。とくに、主人公が修行の途中にある若い

 人であり、本当の最終章は、今後彼が取り組む舞台の一つ一つにある点が隠し味。


・小学生の頃、給食が好きで、牛乳は必ず二本飲んでいた


・体育が一番好きで、器械体操部に入って前転宙返りやバック転に励んだり、父から柔術を教えてもらったりした


・小学校に入る前から、子役として松竹の芝居に出ていたが、四年生の年に、歌舞伎の名門、片岡家に

 入門することになり、本名、山元寛之の他に、「片岡千代丸」というもう一つの名前を持つようになった


・生まれてから中学に上がるまで、祖父母、父、母、妹とともに暮らしていたが、家が工場地帯の中にあって

 危険だったため、家の中で妹とひっそり遊ぶうちに、おとなしく内向的な少年へと育っていった


・五つの時、両親が友達作りのために芸能プロダクション「松竹芸能」のオーディションに連れて行った


・澤村宗之助も、愛之助同様のきっかけから、芸能界に足を踏み入れている


・松竹芸能の芝居に子役として出演していると、「歌舞伎に出てみませんか」という連絡があった。

 両親は歌舞伎を見たことがなく、「あの難しいお芝居やろ。素人が出させていただけることなんて、

 めったにない、一生の記念や」ということで、挑戦することになった。


・歌舞伎初出演のときの演目は「源氏店」。

 寛之少年の役は、終盤、提灯を持って多左衛門を案内する丁稚。その時の多左衛門役の優しいお兄さんは

 後に叔父となる十五代目仁左衛門。仁左衛門曰く、「かわいい子やなあ、と思ったのは覚えていますが、

 まさか、役者になるなんて思いませんでした。当時、関西の方で素人のお子さんが歌舞伎の役者になると

 いうことは、ほとんどありませんでしたから」


・山元家は武士の家系だったこともあり、家は古風でしつけに厳しかった


・歌舞伎の稽古期間は非常に短いが、それは役者たちが確立された技法を体得しているという前提があって

 のことで、子役たちにはそれは通用しないので、子役たちは事前に子役指導の先生から指導を受け、

 台詞や動きを完全に覚えた状態で、大人の役者との稽古に臨む


・「勧進帳」の太刀持ちの役を演じることが多かったが、じっと座っているだけのこの役でも退屈することはなく、

 弁慶や富樫の台詞を耳で覚え、心の中で一緒に台詞をつぶやいていた


・寛之が務める「勧進帳」の太刀持ちに注目する人物がいた。「とても行儀良く座っている。芯がしっかり

 している。この子はいい」と直感的に思ったその人こそ、秀太郎だった。


・稽古場にはつきっきりで母もやってきて、ダメ出しされたことを一つ一つメモをして、後で二人で一生懸命

 稽古した


・四年生の夏休みが終わり、ある日算数の授業で見慣れないものに気がついた。分数というものだった。

 「さっぱり、分からん」。母に打ち明けると大問題になり、芝居はやめさせようということになった。

 だが、ある日片岡秀太郎と再会し、「あの子は役者にしないの?」と聞かれた母が、今月いっぱいでやめさせる

 ことを伝えると、弟子入りしないか、という話になった。秀太郎は寛之を部屋子として入門させたい、と

 提案した。しかも、自分より父の名が出た方が何かと良いだろう、ということで、十三代目仁左衛門の部屋子

 となり、「片岡千代丸」という名をもらって、歌舞伎修行は始まった


・江戸では、観客は先代から型や芸風が子に継承されてゆく様を見て喜んだが、上方では、役者は血が

 つながっていなくても自分の評価する者に芸を継がせるという実質主義的傾向があった


・仁左衛門家では、三都で活躍できるようにと、正月の三が日の御雑煮が京風・大阪風・東京風と日替わりで

 出てくる。「京」のお雑煮は白みそで、丸餅が入っている。カシライモという具が入っており、これを食べないと

 座頭になれない、ということになっているが、カシライモは大きすぎる上にコリコリして、ちょっと食べにくい

 ものだった。弟子の中で一人だけ、クーッと食べきったのが九歳の千代丸だった。みんなびっくりして、

 十三代目はひとこと。「これはいい役者になるわ」


・片岡家に入門し、踊りのおけいこが始まり、秀太郎の姉で舞踊家の花柳寿々に師事することになった。

 東京在住のおしさん(師匠)は月に五日、大阪の秀太郎宅で出稽古をするので、この五日間、

 寛之は毎日母に付き添われて稽古に通った


・振りを覚えるコツは、まず音(歌詞)を覚える。概ね、歌詞に即した動きが出てくる。だいたい決まったパターンが

 あるので、あとはパターンの組み合わせになってくる


・昭和五六年十二月、南座の顔見世で「片岡千代丸」として初舞台を踏んだ。初舞台の役は、愛着のある

 「勧進帳」の太刀持ちだった。


・小学生のころは、舞台出演は年に二、三カ月のペースだった。月によって秀太郎や仁左衛門と一緒の楽屋に

 入ることもあれば、子役部屋に入ることもあった。徐々に、師匠の世話をするという弟子としての仕事も

 こなすようになっていった


・幹部俳優にはたいてい複数の弟子がいるので、師匠のお世話を誰がどのように受け持つかということは、

 毎月、初日に決まる。決まるといっても、話し合いをするわけではなく、各人が初日に行った作業が自動的に

 その後の二五日間の仕事となるので、意欲的な弟子の間では、初日にひそかな争奪戦が展開される


・小学六年の頃、学校の作文で「将来なりたいもの」という課題が出た。自分には片岡千代丸という名前があり、

 舞台に立ってもいる。すでに役者なのに、将来の希望と書くのはおかしい。結局、「立派な歌舞伎役者に

 なりたい」と書いた


・「踊り」というのは口語表現で、正式には「舞踊」。「舞」は古来、人々が神事で水平に体を回した行為を起源と

 する「回転(ヨコの動き)」。「踊り」は民衆の「念仏踊り」などに見られた「躍動(タテの動き)」。


・日本舞踊では、感情は全身で表現するもの、という考えがあるため、表情があまり動かない。顔で踊ると、

 そこから下(の体)は死んでいる、とよく言われる。でも、目は使ってよい。


・初めて本格的な女方を演じたのは、中学二年のときに出演した歌舞伎講座。「仮名手本忠臣蔵」八段目の

 「道行」の小浪を演じた。それ以後、千代丸、そして愛之助は立役・女方を半々の割合で演じて来た。

 後年、「源氏物語」の夕顔(2000年5月歌舞伎座)、「小栗判官譚」の照手姫などで好評を得、注目も集めた


・大きくなるにつれ、千代丸の肩はがっしりとして来たが、これは女形を演じるのに大きな悩みだった。

 よく、背中の肩甲骨を中心に寄せるとなで肩に見えるというが、千代丸の場合、そうすると肩が余計に

 立派に見える。あれこれ試行錯誤を繰り返した結果、二〇代半ば以降、片方の肩を下げ気味にして、体を

 若干斜めにして見せることで盗むことにした


・中学一年の夏に声変りが訪れ、大人の役を演じるようになったが、「その他大勢」役には台詞がなく、

 台本を見てもどこでどうしているのかわからない。ビデオも普及していない時代だったから、

 過去の映像を参考にすることもできず、稽古にのぞんで初めて、どのタイミングでどの位置につき、

 何をすべきかが分かった。稽古はだいたい三回しかないので、緊張した


・昭和六一年に、中学三年生の千代丸は「雁のたより」で仲居おやす役を演じたが、芯の役者の邪魔にならず、

 存在感をコントロールすることは大きな課題だった


・従兄たちは千代丸をこのように見ていた。

 進之介「礼儀正しくて何も喋らない、物静かな少年。お父さんに『男は喋るものじゃない』と言われていたそう」

 孝太郎「おとなしくてまじめな少年。祖父の楽屋にちょこんと座っている姿が印象に残っている」

 秀太郎いわく、「とにかく寡黙な子で、お行儀よくニコッとしているだけで、声をださない。『何か言ってごらん』

 といっても『ハイ』。『笑ってごらん』と言えば『ははは』でおしまい。でも、踊りの稽古は絶対に休まなかった」


・千代丸は大食いだった。それは二〇代前半まで続き、楽屋で食べた店屋物の器を店員が回収に来ると、

 「天丼、もう一杯」と頼んでは呆れられたとか、ご贔屓との会食の前にはあらかじめ食事を済ませておいた

 という逸話がある。これは、中学一年のときに、祖父の家から家族で引っ越しをし、母が手料理をふるまう

 ようになって、何もかもが余計美味しく感じられるようになったから


・中学時代の千代丸は喧嘩に強く、集団に絡まれても受けて立ち、絶対に負けなかった。勝つコツは、

 「まずは走って逃げる。すると敵は追いかけながらも、だんだん疲れてバラバラになってくる。

 一人ずつになったら、振り向いて倒すの。我ながら頭ええと思った(笑)」


・高校には進まず、一つでも舞台を多く踏みたいと思っていたが、両親の説得で高校には進学した。

 高校を無事卒業後、千代丸は張り切って芝居に専念し始めた。車の免許も取得して、仁左衛門の送り迎えも

 するようになった


・高校卒業直前、母は秀太郎の楽屋でこんな言葉を口にした。

 「あの子を大学に行かせないで良かったのでしょうか。このまま、役者としてちゃんとやってゆけるでしょうか・・・」

 胸を突かれた秀太郎は、何ヶ月か思い悩んだ末、千代丸を自分の跡取りにと考えた。(当時、秀太郎には

 子供がいなかった)。そして養子縁組の話が山元家に持ち込まれた。父はきっぱりと言った。「男は仕事が

 大事や。一生この仕事をしていくつもりなら、最善の環境に行きなさい」。その一言で千代丸の迷いは

 吹っ切れた。


・養子縁組がきっかけとなり、新しい名前をいただくことになった。「丸」というのは子どもを表す名前であって、

 高校を卒業した年齢の役者が、ずっと子どもの名前というのは具合が悪い。

 片岡家の良い名前の中から、十三代目仁左衛門と秀太郎が選んだのは、「愛之助」だった。

 「愛之助」という名前を聞いたとき、千代丸の率直な第一印象は「恥ずかしい・・・・・・」だった。

 「だって『愛』ですよ、愛」 愛される名前で、役者としては理想的ですよ、との筆者の言葉に、

 「そやけど、一九歳の男の子としては、恥ずかしかったの!」


・二十歳にも満たない若者の役者の襲名は、上方では久々のことだったので、取材が相次いだ。「寡黙な子」

 として定評のあった千代丸も、努めて喋るようになった。誰もが話し上手と認める秀太郎が手本だった。


・三味線や鼓のおけいこも始まったが、鼓の方は性に合っていたらしく、「マイ鼓」を購入しようと思うほど熱中した


・三味線や鼓は踊りのためのお稽古だったが、義太夫は主に台詞のためのおけいこごと。


・部屋子から師匠の養子になり、環境が大きく変化した。十年間「師匠」と呼び、尊敬してきた人が自分の父と

 なるわけで、まずは呼び名からと思い、言葉を発するたび、頭に「おとうさん」をつけてみたら、秀太郎に

 「お父さんお父さんて、うるさいよ」と笑われた


・幹部俳優の養子になるということで、役柄のポジションも上がったが、責任も大きくなった。襲名の舞台で、

 気がつけば、体重が七キロ減っていた


・秀太郎の養子になったことで、必ず台詞のある役をいただくようになったが、「その他大勢」精神からの脱却が

 難しかった。「前に出てください」と言われてもどこまでいいものかわからないし、「自分を出して」と言われても、

 どうしたらいいかわからなかった


・襲名から二年、怒涛のような「初役つづき」が続いたが、「そろそろ名題試験を」という話が出た。

 試験を受けられるのは、一〇年以上のキャリアを持つ役者。

 名題披露をすると、立ち回りでトンボをきったり、馬の足を担当することができないことになっているので、

 敢えて名題試験に合格しても披露しない、あるいは試験を受けないベテランもいる


・平成六年三月、二二歳のとき、秀太郎とともに国立劇場での「けいせい浜真砂」に出演していたとき、

 十三代目仁左衛門が亡くなった。十三代目は信仰心篤く、感謝の心に溢れ、周囲への気遣いを忘れない

 人だった


・平成七年の正月、二二歳の愛之助は国立劇場の「因果小僧」で、現・松緑の恋人・お吉を演じていた。

 ホテルで寝ていると、早朝電話が鳴り、実家の母から「今、大地震で大変やったんよ」と電話があった。

 阪神・淡路大震災だった。

 その数日後、母が吐血して倒れた。気管支に末期の癌が出来ており、医者には「あと二、三週間でしょうから、

 ご家族とお過ごしください」と言われ、入院すら出来ずに返されてしまった。

 山元家は臨戦態勢に入った。子ども二人の務めはそれぞれの仕事を頑張ることだった。愛之助は芝居に

 打ち込んではいても、正直なところ「いつ死ぬのか」と気が気ではない日々を過ごした。


 母は元気で、ニコニコしており、愛之助は「このままずっともってくれれば・・・・・・」と期待を抱いた。

 平成八年には「御所五郎蔵」の傾城逢州、九年には「新口村」の忠兵衛、十年には「吉野山」の佐藤忠信など、

 大役をいただき、充実の日々が続いた。

 

 そうして平成十一年、愛之助二七歳、余命宣告から四年以上が経過したある日、母の具合が悪化した。

 夏になると、母は酸素マスクをつけるようになった。


 八月、愛之助は大阪・中座で「夏祭浪花暦」に出演していたが、千秋楽の翌朝、母は息を引き取った。

 聞けば、「千秋楽が終わるまでは」と頑として病院に行こうとしなかったらしい。役者の母だった。


・翌年、夏に母の一周忌が住むと、九月の末、国立劇場の「小栗判官譚」に照手姫で出演するため

 車で東京に向かったが、父がクモ膜下出血で倒れたとの知らせが届いた。一日だけお休みをいただき、

 脳死に近い状態の父を見舞い、大阪を去った。そして月半ば、父逝去の知らせがあった。


・幾重にも重なる身近な人々との別れにも愛之助は動じず、常にしっかりしていた、と秀太郎は言う。

 「決して涙を見せませんでした」


・気がつけば、上方に残る役者は数えるほどになってしまい、やはり東京に住まなくてはならないのかと

 愛之助は苦悩したが、上方歌舞伎塾創設の話を聞き、秀太郎ともども跳び上がって喜んだ


・平成十一年に中座が閉鎖されたが、「上方の楽しい創作芝居」は十四年八月、シアター・ドラマシティで

 「平成若衆歌舞伎」として新たな発展を迎えた


・愛之助は実は、どちらかというと不器用なタイプであると自認している。上方の役者は立役、女形両方出来る

 ことが望ましいことを承知しながら、平成十三年以降、立役に専念しているのも、その不器用さが理由。

 「力の無い立役になったり、男っぽい女形になってしまうような気がして・・・・・・」

 ある程度自分の立役に納得できるようになってから、女形にも再挑戦したいのだという。


・「いつも、悔いはないですよ。思ったように生きているもの。今出来ること、やりたいことを精一杯やっているもの」


コメント

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1 ■はじめまして

気になっていた
本の話題だったので
嬉しくて、コメントしました。

ぜひ、購入しなきゃ と思わせられました。

ありがとうございます。

2 ■Re:はじめまして

>千さん

はじめまして。

私のメモがご覧のように膨大になってしまいましたことが示しておりますように、大変に読み応えのある本です。
この本を読んだ人は、10人が10人とも、愛之助さんを応援したいという気持ちになると思いますし、こういった評伝を若いうちに書いてもらえた愛之助さんもまた、幸運な方だと思います。

おそらく書店にはすでに在庫がないでしょうから、中古本か図書館でお探しになることになるかと思いますが、ぜひご覧くださいませ!

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