2008-12-07 20:05:00

池辺義象『偉人幽斎』―足利義晴の御落胤説をめぐって― その1

テーマ:読書の冬

今回は、歴史学者の池辺義象(1861-1923)が著した

『偉人幽斎』(吉川弘文館、1910年)を紹介します。



  かんがくかんかく(漢学感覚)


池辺は、東京大学古典講習科 の出身で、第一高等

学校で国文学を教授し、明治28年(1895)4月帝国大学

史料編纂掛 が設置されて修史事業が再開されると、

その編纂委員に任じられてその中心の一端を担いました。


はじめ池辺を編纂のメンバーに推挙したのは、大学時代に

池辺がその教えを受けた水戸学者の栗田寛(1835-99)でした。

栗田は星野恒(1839-1917)・三上参次(1865-1939)とともに

史料編纂事業を分担することになっていましたが、老齢を

理由に激務が予想される編纂を辞退し、その分を田中義成

(1860-1919)と池辺の二人が担当することになったのです。


明治28年当時、池辺はやはり大学時代の恩師である小中村

清矩(きよのり、1822-95)の養子となっており、小中村の姓を

名乗っていました。



池辺は熊本の出身であることから、熊本に縁の深い人物に

ついての研究をいくつか著しています。

本書『偉人幽斎』で取り上げた細川藤孝(1534-1610)は、

関ヶ原の戦いの後に豊前小倉藩主となりましたが、その子孫は

熊本藩主となったため、その廟所は熊本市内の立田山緑地

(立田自然公園)に存在しています。



  かんがくかんかく(漢学感覚)


池辺は、夙に明治36年に金港堂より『細川幽斎』を刊行し、

また宮本武蔵遺蹟顕彰会の編として明治42年に刊行された

『宮本武蔵』も池辺の著作です。

なお『宮本武蔵』は、2003年に熊本日日新聞社 より復刻版

が刊行されています、



ところで細川藤孝は、室町幕府の将軍足利義晴(1511-50)の

落胤ではないかという説がありますが、池辺義象『偉人幽斎』

その立場を正面から主張した本の一つで、歴史研究者が著した

書物としては面白いものとなっています。


次回は、池辺義象『偉人幽斎』で描いた細川藤孝

足利義晴落胤説を紹介します。

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