池辺義象『偉人幽斎』―足利義晴の御落胤説をめぐって― その1
テーマ:読書の冬今回は、歴史学者の池辺義象(1861-1923)が著した
『偉人幽斎』(吉川弘文館、1910年)を紹介します。
池辺は、東京大学古典講習科 の出身で、第一高等
学校で国文学を教授し、明治28年(1895)4月帝国大学
に史料編纂掛 が設置されて修史事業が再開されると、
その編纂委員に任じられてその中心の一端を担いました。
はじめ池辺を編纂のメンバーに推挙したのは、大学時代に
池辺がその教えを受けた水戸学者の栗田寛(1835-99)でした。
栗田は星野恒(1839-1917)・三上参次(1865-1939)とともに
史料編纂事業を分担することになっていましたが、老齢を
理由に激務が予想される編纂を辞退し、その分を田中義成
(1860-1919)と池辺の二人が担当することになったのです。
明治28年当時、池辺はやはり大学時代の恩師である小中村
清矩(きよのり、1822-95)の養子となっており、小中村の姓を
名乗っていました。
池辺は熊本の出身であることから、熊本に縁の深い人物に
ついての研究をいくつか著しています。
本書『偉人幽斎』で取り上げた細川藤孝(1534-1610)は、
関ヶ原の戦いの後に豊前小倉藩主となりましたが、その子孫は
熊本藩主となったため、その廟所は熊本市内の立田山緑地
(立田自然公園)に存在しています。
池辺は、夙に明治36年に金港堂より『細川幽斎』を刊行し、
また宮本武蔵遺蹟顕彰会の編として明治42年に刊行された
『宮本武蔵』も池辺の著作です。
なお『宮本武蔵』は、2003年に熊本日日新聞社 より復刻版
が刊行されています、
ところで細川藤孝は、室町幕府の将軍足利義晴(1511-50)の
落胤ではないかという説がありますが、池辺義象の『偉人幽斎』は
その立場を正面から主張した本の一つで、歴史研究者が著した
書物としては面白いものとなっています。
次回は、池辺義象が『偉人幽斎』で描いた細川藤孝の
足利義晴落胤説を紹介します。








