くも女

テーマ:

相変わらず目が覚めるのが早い

そして夢を見る

最近のテーマ「ブログ」は、およそ「夢日記」という感じになってきた


が、今回は夢というより思い出に近い


昔、小学生の頃「お稲荷さんのお祭り」があった。

今でもあると思うが、今とはイメージが多分全く違う。

かなりいかがわしく、怪しく、そして魅力的だった。

怪しいテントに看板絵、そして呼び込み

その中で印象に残っているのが、「くも女」だった。


特に呼び込みは大変強く印象に残った。


「寄ってらっしゃい見てらっしゃい、
親の因果が子に報い、

産まれいでたる異形の子、

父はアル中母ヤク中、

かわいそうなのはこの子だよ

寄ってらっしゃい見てらっしゃい、

さぁさぁさぁさぁほうらほら、

くも女がやってくるよ

(ここで呼び込みやは後ろを向き、)

 ○○ちゃんこっちにお出で。

 ごあいさつをし。

(そしてまた正面を向き、)

何てきれいな女の子

何てみにくいこの姿、

恥ずかしいがこの日のために

ここから先はテントでないと見れやしない、

見てのお代は片目片足片手は半額、

孕み女は二倍だよ、

寄ってらっしゃい見てらっしゃい・・・

(こんなにはっきりと覚えているわけではもちろんない。

多くは、寺山修司などの本などから後になって明確になっていった)

 

語りやの隣に大きな看板絵

 そのありようは蜘蛛の体に女の顔の絵、

 これ(この妖怪)を見たいと思いました

「本当にこんな人(もの)が見られるのか。すごい」

お金は(当時小学生の自分には)大金600円。

高いだけに(当時小学生の自分には)真実味が感じられた

というわけで、600円を払ってテント小屋に入った。

いつまでも口上が続く

もちろん頭に入らない

見たいというそれしかない


「・・さぁてお待ちかね○○ちゃん出ておいで」

女の子の頭やシルエットが出る

ついにと思ったら

また口上が始まる


そうして終了時間となったことをじわりと感じ始める

しばし呆然としている

くも女は出なかった。

だまされた恥ずかしさと、そして大金を無駄にした悲しさで外に出た。

あの看板絵をもう一度見たいと、そしてあの口上をもう一度聞きたいと思う

AD

ダムに入る

テーマ:

2


夜空に飛んでいく

大変うれしい


住宅街を離れ、田園風景が広がる


林を抜け、高く上がっていく


山の遠くにダムが見える

水面に入り、そのままもぐっていく


なぜか、水中でも息ができる


水中遠くに、ぼんやりと灯りが見える

小さな家のようである

中に入ってみる


とても感じのよい声で、

「どうぞどうぞ」

と、笑顔で迎えてくれる

知っている人だった


話は変わるが映画「太陽」を観ました

動きも音も少なく大変眠かった。

最後の場面が最も印象に残った。

天皇・皇后(イッセー尾形と桃井かおり)の会話であるが、二人とも「あ・そう」が多かった。

「あ・そう」の応酬、という感じがした。

演じた者のためかわからないが、とにかく「あ・そう」が軽かった。



「トゥモロウ・ワールド」も観ました

こちらは動きも音も派手で早かった。

出だしは、ある年から、人類に子供が生まれなくなった、というものである。

「なんでだろう。」と思いながら観つづけた。


映画の中盤で、妊娠した女性が登場した。

「なんでだろう。」と思いながら観つづけた。


後半は、主人公の逃走劇になった。

強引な展開だが、はらはらどきどき的な描写が素晴らしい

突然聖書的な場面になった。

ミサイルや銃が激しく飛び交う地獄のような場面である。

そこを、赤ん坊抱える主人公が歩いていく。

兵士たちは静かに攻撃を中止していき、それがひろがっていく。

その後、赤ん坊と母と主人公は小舟に乗って海へ出る。

大きな船「トゥモロー号」がやってくる。

突然エンディング。

「締め切り厳守」という印象をもった。










AD

深い谷

テーマ:

7


山道を6人の仲間と歩いている

全て男性である


深い谷に出くわした

台風のためであろう、あるべきばずの橋がなくなってしまっている

ロープが残っている

一人ひとり、ロープにぶらさがって、向こうに渡っていくことになった


3人が無事に渡り、自分の番になる

ロープを手に取る

ぶらさがる

 すると真っ白の世界になる

 重力がなくなる

 そのような気分になる

ロープを放したら最後だという感覚になる

最後というのは、下に落ちる、ということではない

この世界から消えてしまう、という感覚である

必死の思いで、一手一手、手を動かしていく


ついに向こう岸についた

 重力が元に戻る

 視界が元に戻る

 そのような気分になる

仲間が「遅かったな」と声をかける

特におかしがる様子はない

しかし自分にとっては、三途の川から生還してきた、というほどの安堵感であった


山道を進みつづける


再び、深い谷にでくわした

この谷を渡れば、あとは無事に戻ることができる

しかし、先ほどと同じように、今度も橋はない

そして同じように、ロープがあった

「しょうがない、またさっきと同じように渡っていこう」

ということになった


自分は今度こそ危ないと思い、自分の先ほどの心理状態を話した。



ロープにぶらさがる。

普通、自分の下半身は下にさがると感じる。

しかし自分の場合、どこに向かっていっているのか、わからない。

両手でロープをつかんでいる。

そして片手を離す、一つ先のロープへ移動しようとする。

そのたび、自分の体がどこか遠くへひっぱられる感じがする。

ロープをつかんでいる片手が離れそうになる。

両手が離れたら、全てが終わるという恐怖感におそわれる。

必死の思いで、離れていた片手を、一つ先へ動かし、そしてロープをつかむ。

先は見えない。

いつまで続くのか、わからない。

しかしとにかくこのままでやめるわけにはいかないことは強く感じている。

そんなことをまたやるのはかんべんしてほしい。


話し終わると、リーダーが自分に向かって、

「わかりました。じゃ、やめよう」

と、言った。


「え。いいの? 言ってみるものだなぁ」


という安堵感とともに目が覚めた。

AD

山歩き

テーマ:

oze3

最近は日曜に山歩きをすることが多い


この日は天気がよくすれ違う人が多かった

まず、上が長袖・下が半ズボンで走っている若者がいた。

その後、上が半袖・下が長ズボンで歩いている年寄りが何人か続いた。

その後無意識に、長袖半ズボンを若者スタイル、半袖長ズボンを年寄りスタイルと呼んでしまう。

年によって熱くなる個所がわかれたが、偶然なのだろうかと考えて歩いた。


体が温まってきた。

まずジャージを脱いだ。

さらに温まってきた。

また上着を脱いだ。

さらに温まってきた。

年寄りが近づいてきた。

「あ‘-す!」と発声した。


 これは「おはようございます!」という意味である。

 声をかけてきたのではなく、発声した、という感じになるのは山歩きや散歩ではよくあることである。

 まるっきり知らない人に声をかけるのもなんとなくいかがなものか、ということで中途半端な感じになるらしい。

 向こうから人がやってきて、その人があいさつするのかしないのか、それはもちろんその人の自由だが

あいさつされたら返さねばならないと自分は思う。

それは当然だろうと思う人も多かろうかそうでないことも多い。


さて、で、「あ‘-す!」の方に「おはようございます」と返した。


また体が温まってきた。

上着を脱いだ。

その上着の下は、ワイシャツだった。

温まってくると袖をめくる。

下はジャージで上はワイシャツ、これはおかしいと思っていたところに、お年よりグループ4人と出くわした。

にぎやかに話していたが、私を見るなり静かになった。

2,3秒して何も見なかったような感じでおしゃべりが始まった。

ワイシャツを脱いでジャージを着ることにした。

思いがけず、自分の姿は年寄りスタイルから若者スタイルに変わっていった。


後ろから、「あ‘-す!」の方がやってきた。

けっこうなスピードで折り返してきたようだ。

そういえば今日は全国いたるところで走っているのだなのと思った。


その後、展覧会を見て映画を二本観た。

パスケットボールをして福島から鏡石に帰った。

いつものパターンである。





午前3時

テーマ:

夜中の3時頃に目が覚める

最近多い

5

2年前と同じことが起きた。

突然風呂場から水が出てくる音がして、すぐに止まった。

(風呂場はベッドから近いのでそれとわかる)


2年前にも同じことがあった。

そのときは、半分寝ぼけていたようでもあった。

だから実際は、水は出ていなかったのかもしれない。

実際どうだろうとうつらうつらと考えていると不安になり、そして恐くなった。


しかし今回は違う。

はっきりと覚醒していた。

だから、水は出たと、はっきりと感じられた。


灯りはつけていないので真っ暗である。

はっきりと目(意識)が覚めているためか、2年前のような恐怖感はなかった。


2・3分後、また水の出る音がした。

「やな感じだな」と思った。


また2・3分後、また水の出る音がした。

何かを想像せずにはいられない。

かといって、誰かがやってきて、水を出す場面を想像するわけではない。

何か目に見えない気配のようなものがやってきて、水を少しずつ出すように感じる。


そろそろ、また水が出るんじゃないか、と、自動的に神経を集中させてしまうようになってしまう。

音がしたような感じがする。

幻聴のような気がする。

結局、2年前と同じように恐怖を感じ、さらに強く感じた。


そうして夢を見た。

学校にいる。

誰かが大勢の前であいさつをししている。

次は自分の番だ。

さて、自分は何を言いたいのだろうか。

このあたりで目が覚めてくる。


朝になり、部屋の整理をしていたら20年くらい前のノートがでてきた。


デッサンにせよ文章にせよ、拙いが、新鮮である。

年をとっていくことが、らせん状の階段を登っていくことのように感じられる。

この先を想像すると、らせん状の階段の円は小さくなっていくようで、それならば、階段から落ちてみる(降りてみる)のもよいのではないかとも思った。









ノルウェイの森

テーマ:

村上春樹の代表作。

もっと素晴らしいものもあるかもしれないが、彼を一躍国民的に有名にさせたのはこの作品だったように感じている。


感想も20年前に読んだときと比べ大きく変わった

その中に

 主人公と彼女はよく散歩をした。

 東京中を、何時間も、ただただ歩いた。

 目的的に歩くのではない。しかも、

 いつまで歩くのかも、どこへ向かっているのかも、

 わからず、彼女に合わせて歩く。

といった描写がある。

 ところで彼女は、恋人ではない。

 親友の恋人であり、つまり主人公にとっては友人である。

 しかし親友は死んでしまったため微妙な感じになる。


20年前に読んだときの感想は

「何が面白いのだろう。全く理解できない」

だった。

最近になって理解できるのか、というと、なんともいえない。

最近よく散歩するが、世の多くの人々の散歩とほぼ同じである。

自然鑑賞も兼ねた軽い運動を目的としたものである。

「ノルウェイの森」においてはそうではなく、

 心のやりとりや心の整理を目的としたものようにも感じられる。

 ただ、主人公の、「よくわからないが、それはそれでよい」という気持ちには、「読み物としては」好感をもてた。

  今では、おもしろみやら深みやらしみじみやらをより強く感じるようになった。


「ノルウェイの森」を20年前に読んだときは

 けっこうなまなましいように感じた。

 「文学ですよ」といった語り口で、あるいは販売のされ方とは、反対の側にあるようなものがあった。

 こころの病みと性に関する不安をおしゃれに肯定的に描き出した(特に装丁やタイトルなど)ファッショナブルな小説と感じられた。

「プレゼントできる、飾れる、語れる」小説であり、オブジェだった。

そうしたためか、それまでに読んでいたものと比べると読みやすかった。

つまり、(文学的であるからこそ)飽きそうになると(文学的とは思えないような)刺激的な描写が出てくるのである。


で、最近また読みました。

 やはり読みやすい。

 ただし以前刺激的と感じていた描写は逆になくてもよいと感じる。

またあらためて感想を書いてみたい小説である。 


死亡年齢

テーマ:

ある小説のあらすじ


30歳を前に、自分の死ぬ年齢と死因がわかってしまう

自分は、62歳で死ぬ

死因は、ガン

主人公は、24歳で商社マンになり、25歳で美しい女性と結婚し、仕事の成績を上げるためにバリバリ働き、同僚の誰よりも早く出世している

数多くの人間と濃い関係を築きあげてきた

貫禄もついてきた

つまり、太ってきた

ある日、ある者から自分の家族の三人の死亡年齢と死因を聞く

「死の予言」である

もちろん信じない

しかし、二人の死亡年齢と死因が予言通りであった

 つまり、言われた年齢に、二人が死んだ

 二度あることは三度ある

 などということを思い出し、そのため、自分の死亡年齢を半ば信じる

そのうち、信じる、のではなく、そういうことなのだ、という考えになり、日々生きていくようになる


そして31歳になり、主人公は人生の半分を過ぎたことを自覚する

この物語のポイントは、31歳になった自分が、死ぬまでの人生計画を明確に規定し、それにのっとって生きていくことである


話は少しそれるが

「生きる」という黒澤明監督の古典名作がある

この作品は、多分「あと半年で死ぬと知ったら人はどうなるか」ということを前向きに描いた作品だったと思う

あと「半年」という時間は、確かにリアリティが出るだろうと思える

映画の内容も緊迫感が持続する


しかし、あと「31年」という時間は、ピンとこない

ピンとこないとは、つまりはそれ(31年後に死ぬこと)を本気で信じられず(信じたとしてもその危機感が持続せず)、必死に生きようという気持ちは持ちにくい

それで、「自己規定」してしまう(自分は31年後に死ぬ「ということにする」)

という描写は、なるほどなぁと思った


で、物語に戻る

あと31年で自分は死ぬのだと自己規定した主人公が第一に考えたことは、

 残りの「人生の方針」を明確にすること 

で、その方針とは、抽象的でまた非常にありきたりである

それは、「前向きな気持ちで充実した人生をおくる」

 ということ


バリバリ、ゴージャスに生きてきた主人公のライフスタイルを、どちらかというと、地味でストイックなものに変える

そのための手立てとして第一に立てた目標は、身体の数値を向上させることである

体重と身長、その他、いわゆる職場の健康診断で出るような数値を、10年前の状態に戻すこと

そのために、食事と睡眠時間と運動についての計画を立て、それを3年間実行する

オチもなく、突然物語は終わる


などと書いていて思うのだが、このあたりの描写は、物語というより人生哲学書のようで眠くなるような感じがする

が、そうした描写を飽きもせず読み、しかも強く印象に残っている理由は、もちろん、「身近なこと」として感じられたことが大きいと思う


しかもその印象の強さは年々強まっていく感じがする

 またさらには、最近は毎週一回くらいは考えているような気がする


出家する人のような心境のような感じもする

 またあるいは、初めて走る24時間マラソンで半分を過ぎた人のようでもある


マラソンの折り返し点を過ぎると、ゴールまでの距離感や物理的状況のありようが明確になる

しかし、自分の体力と精神力がどれほどの残っており、また、どの程度のペースで減っていくのか、という見通しは、明確でない

明確でないが、体力または精神力がゼロになったら、止まるしかない

止まることとは、例えば、病院で寝たきりになったりするようなことで、自分にとってはこれほど退屈で恐ろしいことはない