call

この映画は本当は観るつもりでエントリーしたものではなかった。でも「ALWAYS 三丁目の夕日」と比較するブログなんかを読んで、それならば…と思って出かけた。ALWAYSがそれなりに良かったもので。

そう、“それなり”だったということが、「カーテンコール」を観てよくわかった。映画という枠のなかでエンターテインメント性を求めるなら、ALWAYSの方がかなり優れている。でも「カーテンコール」を観た後に、ALWAYSを思い出そうとしても、あの映画が何を描いていたのか、思い出せなくなっている。半面、カーテンコールは、わかりすぎるくらい主題がわかる、ある意味単純な映画ともいえる。だから小品として、受け入れられているのだろうし、そういうポジションがまたぴったりの映画でもある。あの空気感に触れたい人だけがそっと観て感動するのが似合う。TVCFがガンガン流され、キレイな映画館で、込み合ったなかで観るのは似合わない、そんな作品だった。


『カーテンコール』  佐々部 清監督 伊藤 歩/藤井 隆/鶴田 真由主演


なんとなく観るまで勘違いしていたが、こちらはまさにリアルタイムの現代劇である。昭和30年代後半から40年代にかけてのこともふんだんに出てくるが、これは回想として。

伊藤歩演じる香織は、下関出身でひょんなことから福岡のタウン誌の編集者になる。そこに1通のハガキが届き、それは下関の古い映画館で昔幕間芸人をしていた男(藤井隆→井上尭之)を探してほしいというもの。訪ねていった下関のみなと劇場は、昔の面影のまま残っていて、当時から働く宮部(藤村志保)の記憶を手がかりに、幕間芸人探しが始まる。

現代を軸に回想といまが交差に描かれる。香織と宮部の役割はほとんど狂言回し的で、それはそれでいい(香織は昔の恋や今の親子関係など、一応主役として描かれているが、あくまで主題を引き立たせるための機能としてある感じ)。ただ、ひとつこの映画に不満を言えば、回想部分が説明的な感じがした。すべては現代での親子の30年ぶりの再会シーンのための…。だからなのか肝心の幕間芸人・安川を理解しきれない。在日への差別が大きなテーマだが、彼が本当に芸と映画を愛し、それでも差別が日本での居場所をなくしたということが明確に深く描ききれていなかったような気がする。もちろん主役は聖人である必要はないので、汚れた部分やだらしない部分があってもいいのだが、そういう部分もいまひとつわからなかった。

回想に感情移入をするのは本当に難しい。結局終わったことの説明なわけで、その点だけは一時代の話で全編を通していたALWAYSを超えなかった。でもすごいのは、ALWAYSが舞台をCGなど技術でつくっていたのに対し、おそらく大部分をロケで通したこの作品。今も下関あたりにはこういう場所が残っているのかもしれない。もちろんセットでやっている部分も多かったけれど、圧倒的にロケ地の風景は素晴らしかった。そして何より時代描写のリアリティと、しっかり暗い部分にも目を向けていた、作者の視線。少なくともこれを観て何週間か経ても、「何の映画だったっけ?」とはならない。地味だけれど、情感豊かな作品だったと思う。

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inhershoes

最近アメリカの映画からは遠ざかり気味だった。たまに観てもほとんど満足できるものに出会えなかった。単純なラブコメディや技術が壮大なばかりのSFなど、ひとりひとりの人間の思いや人生のありようを描いているものは少ないように思えた。でもこの映画は違う。私の中での久々のヒット。特に私もそうだが、姉妹のいる女性にとっては、少しは感じ入るところがあるのではないか。

こういった超大作とはいえない類の映画にしては長めの2時間強の尺も、まったく苦にならない。アメリカの映画らしくハッピーエンドだが、そこに行き着くまでは決して単純・単調ではない。ストーリー、シナリオがしっかりしていて、ウイットに富んでいる。2人の主人公はもちろん両親や祖母、老人たち、恋人、婚約者に至るまで、きちんと描かれているのもいい。


『IN HER SHOES(イン・ハー・シューズ)』  カーティス・ハンソン監督 キャメロン・ディアス/トニー・コレット主演


ローズ(トニー・コレット)とマギー(キャメロン・ディアス)は姉妹。姉(ローズ)は頭脳明晰な弁護士だが、容姿に自信が持てない。妹(マギー)は容姿やグラマラスさは抜群だが、計算にも国語力にも弱く、仕事が長続きしない。ローズのアパートや実家でコソ泥のように小銭を盗んだり、服や靴、車を勝手に使ったりして、厄介者扱いされている。特に実家の父親はどちらかといえばマギーのことは可愛がっているが、母親は2人にとって継母でどちらとも折り合いが悪い。そういう意味では、2人はかけがえのない姉妹であり、理解者であるはずだった。けれども姉の恋人を誘惑したことで、姉妹の不仲は決定的になり、同じ頃に生きていることを知った母方の祖母のところをマギーが訪ねる。祖母はフロリダの老人ホームで暮らしていた。

老人ホームでの日々がマギーの心を徐々に溶かし、自分らしい生き方に出会う。マギーは仕事のパートナーでもある恋人を妹に誘惑されたことで、弁護士事務所を休職し、新たな恋人との未来を見つける。

こんな風にざっと書いてしまうと、何だかベタな連続ドラマのストーリーみたいだが、そんなことはない。ディテールがしっかりしていて、登場人物すべてが魅力的だからだと思う。老人ホームの老人たちもただの表情のない高齢者として描かれていない。メインストリームではない寝たきりの老人まで、その人が生きてきた歴史を感じさせ、さらに主人公・マギーに大きな影響を与える。

俳優たちの演技も秀逸で、特に主役級の人たちは、ちゃんと物語の序盤と後半で、表情や顔つきまで変わってくる。

何だかもう一度観たいと思える作品だった。


*原作本もあるみたい↓

ジェニファー ウェイナー, Jennifer Weiner, イシイ シノブ

イン・ハー・シューズ

ジェニファー ウェイナー, Jennifer Weiner, イシイ シノブ
イン・ハー・シューズ
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always

テレビCFでしつこくこの映画の宣伝を観ても、行きたいと思わなかった。理由はいろいろ。

「昭和ブームの集大成?」「日テレだからCFがうまいだけ?」「原作マンガでしょ?」「(キャスティングが豪華すぎて)誰が主人公なの?」etc. 早い話穿った見方をしていたわけだ。そして封切られたら評判は上々。それでもちょっと疑ってかかっていた。でも観てみると、これが意外と良かった。派手さはないけど(キャスト以外)、じわっと泣けてくるような感じ。観る前に思ったように、街の人々みんなが主役のようなところは否めなかったので、ややそれぞれの人物像、家族像が浅めに描かれていたのが残念なところといえば、残念といえる。でもそれを覆すだけの役者のパワーはさすが。主要な大人の役者だけでなく、子役もうまい。麻木久仁子や奥貫薫が、ちょい役なのも、ある意味さすがのキャスティング。

風景がCGだということも、知っているからなるほどね、というくらいで、そんなに気にならない(確かにちょっぴりテーマパークチックだけど)。


『ALWAYS 三丁目の夕日』  山崎 貴監督 吉岡 秀隆/小雪/堤 真一/薬師丸ひろ子主演


時は昭和33年。まだ日本は貧しく戦争体験を持った人も多い時代。町内会で繰り広げられるアレコレが描かれる。主軸となるのは、車の修理工場「鈴木オート」の鈴木一家(堤・薬師丸が夫婦役)と、その向かいで駄菓子屋兼しがない作家をやっている茶川(吉岡)と飲み屋の女将のヒロミ(小雪)の2人と子どもたち+鈴木家の住み込み従業員の六子。

貧しく荒っぽいけど、平和に暮らしていた三丁目に、集団就職で六子、飲み屋の女将としてヒロミ、引き取り手のない子ども・淳之介がやってきたところから、いろいろな出来事が巻き起こる。一歩間違えればドタバタ劇なのだが、ちゃんと時代の空気と事実を捉まえて、ストーリーメイクされているので、ドタバタにはならない。昭和30年代など、私はもちろん知らないのだけど、何だかちょっといいなぁ~と思えてしまうのが不思議。例えば鈴木オートが買ったテレビに町内中から人が集まり、力道山に歓声をあげるシーンなんか、ストーリーの本流ではないのだけど、ありきたりな設定だなと思いつつも引き込まれる。

考えてみれば、あの時代から何百年も経っているわけではない。それなのに、日本は随分変わってしまったなぁ~と感慨深く思う。人は本当にあんなにあたたかかったのか、あんなに一生懸命だったのか、今になってみればよくわからないけど、確かに社会とか福祉とか、そういう無機質な解決手段に頼らなくても、子ども1人くらい、どうにか地域で育ててあげたようなところがあったのかもしれない。

何が良かった、誰が良かったと言われると、ちょっと悩んでしまうが、全体に流れる空気がいい。だからといって、単にノスタルジックな感傷ではなくて、何だか現代が底の浅い、薄っぺらな時代に思えてしまう。そういう意味でもちょっと哀しい。


*原作、オフィシャルDVDなど↓

バップ
-ALWAYS 三丁目の夕日-夕日町のひみつ
西岸 良平
三丁目の夕日 特別編
ALWAYS 三丁目の夕日 オフィシャル・フォト・ブック
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kumu

この映画は以前観た「オールド・ボーイ」 と同じ監督。「オールド・ボーイ」の印象は決して良くはなかったのだが、なぜかこの作品も観たくなって初日に足を運んだ。最終回にもかかわらず、結構な人の入り。

ビジュアル的には、韓国映画独特の重ったるさと今っぽいスタイリッシュさ、映像技術・演出を融合した感じは、「オールド・ボーイ」を彷彿した。でもあの映画ほどの暴力シーンの凄まじさを感じなかったのは、主人公が女性だったのが幸いしたのかもしれない。その代わりといえばいいのかわからないが、女性特有のわが子への愛情が物語の根底にあって、ある意味ありきたりなのだが、こういう空気感の映画なら、中和されてちょうどいい感じになっていた。結論的には「オールド・ボーイ」よりは、こっちの方が私は好き。でも手ぬるいところもあったので、物足りなさを感じた人もいたと思う。


『親切なクムジャさん』  パク・チャヌク監督 イ・ヨンエ主演


クムジャさんはペク先生の罪をかぶり、誘拐殺人事件の犯人にされ、13年間刑務所に送られる。クムジャは、18歳で妊娠し産んだ娘(←父親に関する情報なし)をペク先生に誘拐され、警察に自首しないと殺すと脅されたからだ。その娘・ジェニーは、収監後にオーストラリアに養女に出される。(従って、英語しか話せない14歳くらいの娘として出てくる)

クムジャは刑期が終えた後の復讐の念のみを胸に、刑務所では同じ服役囚のために、時には介護をし、時にはいじめられたり、犯されたりしている者を助け、その相手を殺すことも厭わない。そのため、出所後は多くの元服役囚がクムジャの味方になる。

出所したクムジャは、元服役囚の助けを借りて、ペク先生への復讐に燃える。その過程でさらなるペク先生の罪状を知ったクムジャは、他の被害者遺族を巻き込み、壮大な復讐計画を実行する。

全体にちょっと観ている途中では、ストーリーがわかりにくい。連続性に乏しい変わった演出と構成がこの監督の作品の持ち味だからなのだが、観終わった後にはちゃんとストーリーがつながるのが、途中では、回想と現在進行形が入り乱れるのが気になって、内容を追うのに必死になってしまう。だから感情移入する暇がないのだ。それと肝心な部分が省略されているのと、中途半端にコメディタッチの描写が所々に出てくるので、主人公の悲しみが伝わりきらないのが残念だ。

唐突だったけど、おもしろかったのは、急に復讐する仲間が増えたくだりから。クムジャONLYや元服役囚との関係性の中での復讐だと、どうしても暗く、重く、エグくなってしまうのだけど、違うにおいを持った人たちが出てくることで、厚みが増してきたのは良かった。あと、脇役だけど、ちょっとぼんやりしたオーストラリアの娘の養父養母の存在も、ホッとする要素になっていた。好き嫌いはあるだろうが、バランスは悪くない作品。ただやっぱりちょっと丁寧さに欠けるつくりなのは否めない。韓国では大人気だったらしいが(本当かな?)…。

本田美奈子.
アメイジング・グレイス (DVD付)

“アメイジング・グレイス”は、賛美歌である。賛美歌からは結婚式も葬式も連想するが、特にこの曲のメロディには死生観を感じ、そして悲しみのイメージが強い。本田美奈子.さんがこの曲をリリースしたことは、亡くなるまで知らなかったが、ドラマ“白い巨塔”のテーマ曲をはじめ、さまざまなシーンで使用されてきた。

シンガーとして比較的若くして亡くなった美空ひばりさんは、亡くなる前に“川の流れのように”をリリースし、石原裕次郎さんは“わが人生に悔いなし”をリリースした。プロデューサーが死を予測し、彼らの最期をよりドラマティックに演出するために仕掛けたような気がして、若い頃はちょっと後味の悪さを感じた。

そしてアメイジング・グレイス。同じ流れを感じつつも、今は忌むべき話ではないような気がしている。

ミッションを持って生きてきた証を最期に残せることは、表現に生きた人々にとっては幸せなことで、死をも演出することも、表現の集大成としてありかなぁと思えてきた。翻ってみれば、私は何か残せる仕事はあるのかと思うと、ちょっと虚しい。でも明日すぐに命が終わることはないと、多分思うので、これからの時間の中で、何かできればいいとも思う。別に有名になるとかそういうことではなく、誰かに影響を与えられる、生きるミッションを持ちたい。

歌野 晶午
女王様と私
本の帯を見てつい買ってしまうことが稀にある。これはまさにそう。装丁だけでは絶対に買わなかった。ちょっとコミックぽい感じだったし、「女王様と私」というタイトルも、タイトル文字の感じも、いまいちだった。その私の財布を開けた帯のキャッチコピーとは?
「戦慄的リーダビリティが脳を刺激する超絶エンタテインメント!」って、だけなのだけど、何で買ったのだろ?そんなわけで、まったく作家にも内容にも予備知識がなく、ただ読み進めたわけだが、戦慄的かどうかは別だが、リーダビリティは確かにある。アキバオタクを彷彿させる、描かれている妙な話し言葉に好き嫌いはあり、私は嫌いだが、それでも次へ次へと先が気になる。この作家のアイデア力と筆力はすごいと思う。

『女王様と私』  歌野 晶午  角川書店


この物語は、44歳引きこもりの主人公「真藤数馬」が、ある日妹(といっても人形)と出かけた日暮里で来未という小学6年生のスタイリッシュな女の子と出会う。この女の子のまわりで、同級生、教師など、次々殺人事件が起こり、真藤はその渦中に巻き込まれていく。そして挙句に真藤が犯人として警察に逮捕される。無実を証明すべく、脱走し、来未に会いに行くが、来未は真藤のことを知らないという。最後に突き詰めた真相は、思いもよらないもので…簡単に書いてしまえば、こんな感じ?ここまで要約すると、そんな単純な話と思われるかもしれないけれど、そうではなく、かなり突飛な要素もあり、おもしろい。ストーリーの組み立ては、なかなか絶妙だ。
それでもミステリーなのだけど、ミステリーなのかなぁ~と思ってしまう理由は、物語の大部分「真藤数馬」の妄想だからだ。フィクションである以上、突き詰めればすべてが誰かの創作物(ある種の妄想)なわけだが、創作物の中にさらに妄想を詰め込まれると、さすがに興ざめしてしまうことは確かにある。この小説の最大の批判的な感想の源は、この部分につきる。プラス、主人公への嫌悪感。44歳、無職、親掛かりの引きこもりのキモイ男なのだ。こんな致命的な2つの要素がこの物語の柱でありながら、途中で投げなかったのは、作者のストーリーを創るアイデア力と、筆力に尽きる。
それでもちょっと皮肉を書かせてもらえれば、リアリズムを追求したフィクションには必ず矛盾や引っ掛かりがあるが、妄想なので引っ掛かりようがない。奇想天外でOKだから、矛盾がないわけだ。だからテーマ性と物語の展開に集中できる。このテーマが今の私に親近感が持てるものかと聞かれれば、NOだか、現代社会の病理は確かについている。
ただ、真っ当に生きている(と思っている)人が読んでも、何の感動もないことは確か。そして主人公をはじめ、すべての登場人物にひとかけらも魅力は感じない。かといって、オタクの引きこもりが読んだら、どうなのだろう?やっぱり感動はしないと思う。この小説にそういう真っ当なものは求めてはいけない。

*そのほかの歌野晶午作品↓

歌野 晶午
葉桜の季節に君を想うということ
歌野 晶午
世界の終わり、あるいは始まり
歌野 晶午
動く家の殺人