著者の言わんとすることは実際のところ何なのか、まともにわかったことが無い。
要するに、本を読む技術が無く、理解の幅も深さも足りないということである。
では、その前に、そもそもしっかりと理解しようという心構えはあるのか。というと、それが希薄だったのだ。どうせ著者が言いたいことなどわかりはしないから、面白いと思うところだけを切り出して自分勝手に解釈して使えればよいのだ。と考えていた。さらには、もっと肯定的に評価して、誤読をすることには価値がある。なぜならば間違うという行為を通じて意図せずに創造性を発揮することができるのだ、というところまで独善的な考え方まで到達していた。
昨今、心構えを見直すことにした。著者の言いたいことを理解してみようと。ただし名著として定評のある本に限って。
名著にはすでに解釈の定説があるから、自分が理解した内容と、定説との間でどこがどう違うか測定することができる。その偏向のあり方がわかれば、自分の誤読のパターンが把握できる。そこに操作を加えれば、新たな誤読のパターン(創造性!)を生み出すことも可能だし、場合によっては“正しい”読み方に近い読み方も可能となるのだ。
そう思って、いろいろ取り組んではいるものの、正しく理解するための技術不足はいかんともしがたい。努力不足をご都合主義の解釈でごまかしてきたツケはものすごく大きい。