今日TVを見ていたら、元レスリング選手でメダリストの方が
「目標が無いと生きていけない」
(レスリングは)「プレッシャーが無いとやっていけない」
という発言をしていた。
私はこれに非常に共感するものがある。
私は常に「○○しないといけない」という外圧による心の負荷が無いと生きていけない。
心の負荷があっていつもいつもとてもつらいし、逃げたいとか辞めたいとか365日思っている。
この負荷のせいで「自分は駄目なんじゃないか」「自分は勉強が足りないんじゃないか」などと延々と考えている。
普通に考えるとこれは精神衛生上良くないんじゃないかと思うだろう。
ところが、私はある時期このような負荷が一切無い時期が3年程続いた。その時の私の感想は
「脳が壊死しそう」。
負荷を取り除いて初めて判ったことである。
人にはいろいろいるが、私のように常に心の負荷が無いとむしろ精神に悪影響が出る人というのもいるのだ。
私は余りに負荷が無くならないように常に何か負荷を探している。
今現在は9月いっぱいまで負荷がかかるようなことをしているので負荷がある。
多分、これが終わった10月1ヶ月位は負荷がなくても持つだろうが問題はその後だ。
次の負荷として何の一手をうつかだが...今は今の負荷で手一杯で考えられないので
10月に考えることとしたい。
ああ、ブログ書いている場合じゃない、はやくやらないと...
うん。この負荷が重要です、私には。
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今回もまた、世間で言われていることに反旗を掲げたい。
「大学なんてどこでも同じ」
誰がこんなこと言い出したのか。
出ている大学がその人の人となりに大きく影響している。
これは、大学時代、あるいは卒後すぐには大きくは現れないので
私も当初ははっきりとは認識していなかった。
しかし、卒後一定期間が経ってOB会などを催してみると、
実にみな同じ傾向の人間になっている。
なんとそれは中退や退学の人にすらあてはまる。
世間で各大学に言われていることがやっぱりそのまま当てはまっている。
その中でも特に顕著に感じる特徴を以下に列挙してみたい。

1信州大学卒...ぼんやりとして印象が薄い
2電気通信大学卒...人生に対する見積りが甘い
3早稲田大学卒の女子...私は優秀だということを前提にしている
 早稲田大学卒の男子...アングラなことに精通している
4慶應大学卒...服飾文化がある
5京都大学卒...自分が変わっていることを売りにしている
6明治大学卒...元気で活発
7青山学院大学卒...歳をとっても青学ファッション
8東京工業大学卒...思想が屈折しているのが自慢
9一ツ橋大学卒...エリート意識を全面に出している

で、10番目に東京大学と書きたいところなのだが、東京大学卒の
人は本当にいろいろで、実は共通点が見つかっていない。

最初に「大学なんてどこでも同じ」と言ったのはひょっとして東大の人なんじゃないか...
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服飾文化教育の提案

テーマ:
前の日記で、私は頻繁に「お洋服がちゃんとした人」という言葉を使うと書いた。
お洋服がちゃんとしているとは、みだしなみができているという意味である。
私がこういうとおしゃれな人と間違える人がいるが、そこまでは
要求していない。
要するに、小学校低学年の時に習った、
「朝起きたら顔を荒い歯を磨き、髪の毛に寝ぐせがついていたら直し、
お洋服のボタンはちゃんと閉めて、
くつは磨いて、かかとは踏まないで、そこが減ったら直して、
身ぎれいで清潔なな格好で登校しましょう」
程度の事をさしている。

ところが、社会にでるとこの程度のことが出来ていない人が沢山いる。
身ぎれいの中には、学校や会社など公式の場に出る場合にはそれ相応の服装をしましょうというのも含まれる。
私は大手企業に勤めているが、
会社にパジャマにしていたのではないかと思われるスウェットの上下で来たり、
背中に沢山ふけの乗ったままの状態で出社してくる人も中にはいる。

私はこうした現象が 学校教育において先生自体の服装がちゃんとしていないことに起因しているのではないか と思う。

なぜ学校の先生は体育の先生でなくてもジャージを着ているのか。
ジャージは運動用の格好であって、普通の教科を教える先生も着る必要は無い。

それに先生自体が身ぎれいでない場合も多々ある。

先生がこれじゃあ、子供はちゃんとした服装が何かを判らないで育つわなぁ。

そういう意味でも制服はよいと思う。
公式な場には公式なものを着てくるという教育はこれでされる。

そう思うと、学校教育の場において、やれる服飾教育はもっといろいろあると思う。

是非、義務教育に服飾文化を教えるのを組み込んでいただきたい。
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私の定義するババア

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私のなりたくないもの、それはババア。
多分結婚できなかった理由にババアになりたくないという強固な思いが関係していると思う。
もちろん歳も歳なので、見た目はババアです。
しかし、私の定義するババアにはなっていないと思う。

私の定義するババアとは
動きが遅い(病気の場合を除く)
後ろを見ていない
・お世辞を言う(あーら奥様そのお洋服すてき)
・駅で電車賃を譲り合う(いえいえここは私が、、いーのよいーのよ)
・言葉遣いが妙に丁寧
・妙に道徳的
・服装に意思が無い
・たいして面白く無いお笑いでいちいち大声で笑う
・講義・講演を聴くときやたら前に座り相槌を打ちながら聞く

といったところである。
私も体調の悪いときには動きが遅かったり後ろを見ていないときもたまにはある。
しかし、この点が最も気をつけたい点だと思っている。

服装についてだが、服装や肉体の外観を気にする人は結婚しにくいといわれているらしい。
その典型的な例が柴田理恵が結婚していて久本雅美が結婚していないということ。
私を含め、私の周りのいい年こいた独身女性はたいてい服装に並々ならぬこだわりがあり、
しばしば「服装をかまわない人だけは駄目」だとかいうようなことを言う。
かく言う私も本当に若い頃から頻繁に「お洋服がちゃんとした人」という言葉を発してきた。
自分では人は見た目では無いと言っているが、実際肉体的には見た目ではないと思っているが、
服装については見た目だと思っているようだ。
典型的な縁遠い女である。
私の周辺にいる男性だけでしょうか。
私が思うに、一般に男性の方が向上心が低く、新しいことを初めるのに弱いという気がします。
もちろん比率の問題であって、女性でもそういう人は多々います。
けれど、偉大な思想家や宗教家が男性であるにも関わらず、
「より高いものになろう」としている男性の方が少ないように見えます。
確か、「向上心の無いものは馬鹿だ」と言ったのも男性本人であった気がしますが。

時間が余るとマージャンとかパチンコとか競輪競馬といった賭博系に走るとか
通勤中に漫画を読むとか酒浸りになるとか商売女に金を貢ぐとか、
こういうものはだいたい男性特有の現象です。
その点女性は比率的にこのような時間つぶしはしません。
書物を読むとか、何かの作成に励むとか、インテリアに凝るとか、芸術鑑賞をするとか、一般教養としていろいろな勉強をするとか
有意義事に時間を使いたいと思います。
時間に余裕があるならもっと有効利用しようという気持ちは無いのでしょうか。

それから、努力して「やれるようになろう」あるいは「より効率の良いやり方をしよう」
としないのは何でなんだろうかと思うことがよくあります。
その端的な例が家事全般。
女性の場合、嫌いなこと、出来ないことでも必要なら仕方なくやろうとします。
不得意なことなら道具を使ってでも出来るだけの事はします。
これに対し、男性は、「やりたくない」というのと「できない」を混同しており、やりたくなければ「できない」といいます。

男性は特別な障害でもない限りどう考えても出来ないはずはない事も
「やりたくない」とか「面倒くさそう」思うと、
努力すらしないで「できない」と言います。
女から見たらこれは本当に責任逃れでずるいと思います。
努力しないんですか?向上心はないの?

例えば、親の介護が必要になったとき、
自分の親であるにもかかわらず「できない」と言って
お嫁さんに介護をさせたりします。
お嫁さんにやらせるなというのではありません。
「誰の親なのか」をもっと認識して欲しいし、
自分がまず介護する立場にあってお嫁さんは手伝うというのが本来のスタンスです。
だってあなたを育てくれたお父さんお母さんですよ。
介護が力仕事なので実はむしろ男性の方が向いている位なのに、
やりたくないからという理由で「出来ない」というのはいかがなものでしょうか。

男性は身体に特別な障害がある場合を除いてもっと自分のもてる力を100%使うように努力して欲しいと思います。
そして、常に「より高い人間になろう」と思い続けて欲しいと思います。
女は常に"大人になる"のを強いられています。男ができるくせにやらないから。

無駄な能力~大容量の私の脳

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私は多分記憶力が人の倍くらいある。
といっても、全ての事項に対してではない。
「どうでもいいこと」は本当に良く覚えていて、大事なことはたいして覚えていない。
どうにもアンバランスなのだが、どうでもいいことの記憶力が人の倍位ある
というのは 34歳過ぎてから気がついた。
どんなことで気がついたか。それは、あるとき、
食事会で女性の先輩が何度も「もう私っておっちょこちょいだから~」を
連発し、おっちょこちょいを売りにしてはしゃいで話をしていたので、
翌週に会ったときに話の流れで、
「もう○○さんたらおっちょこちょいナンだから~」と話したところ、
「私のことおっちょこちょいだって言うの?」と不服そうな顔をした。
自分で言うのはいいけど人に言われるとカチンとくるのか?と一瞬思ったが、
その後すぐにそのことに気がついた。「あ、彼女、自分で言った事を忘れている。」
実は彼女との間に似た様な事が少し前にもあったが、
その時はもっと話の間があったし、気分を害するようなことでは無かったので
流してしまったのだ。

どうでもいいことを覚えているのは女性の方が多いといわれている。
そこで、このような体験がたびたびあることを年の近い男性の友人に話したところ、
彼も忘れっぽいという。確かに、その時話した
「東華軒と大船軒のどちらの鯵の押し寿司弁当に紫蘇巻きが入っているか」と
いう話を1ヶ月後位にしたところ、
その話をしたこと自体すっかり忘れていて本人も認めていた。

私はしばしば「前と言っていることが違う」と感じて「この人信用ならない」と思うようなことがあった。
ひどい人では午前と午後でもう言うことが180度変わっていた。「この人って嘘つき」。
私の言ったことを覚えていない友人にも、「私のことなんてどうでもいいんだ...」。

でもこの事件から考えを改めなければいけないということが判った。
私の側が普通でないのである。
普通の人は悪気は一切無くどうでも良いことはどんどん忘れてしまうのだ。

つい最近も転勤で5年ぶりに会った友人に
7年以上前の彼女の言動を引用して話したら覚えていなかった。
自分で言ったのにどうして覚えていないのと結局心の中で思ってしまう一方、
私の脳みそっていったいどうなっているのだろうとも思う。

私の脳にはディレクトリが無い。
沢山の、どうでもよい、少し前の過去から何十年も前の過去の事象を連続したものとして覚えている私。
その人に合うという信号が入ると記憶の海からするするとその人との過去の会話を読み出せる私。
ここまで良く覚えていると実は人と違う世界に住んでいるのではないのかと思うこともある。
記憶ってなんなんだろう。誰か私の脳で何か実験してみませんか?