2016年01月27日(水) 23時47分17秒

天皇皇后両陛下・フィリピン鎮魂の旅

テーマ:ブログ
天皇皇后両陛下は1月26日から30日までフィリピンを公式訪問されています。

到着から一夜明けた27日、両陛下は大統領府であるマニラのマラカニアン宮殿で行われた歓迎式典に臨まれました。



フィリピン訪問ご出発に当たり、天皇陛下はおことばを述べられました。

おことばでは「フィリピンでは,先の戦争において,フィリピン人,米国人,日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては,膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き,この度の訪問を果たしていきたいと思っています。」とお話しされ、国や立場にとらわれず、すべての無辜の魂にお心を寄せられました。


陛下が言及された通り、先の戦争では、マニラをはじめとする各地域で激しい市街戦が行われ、日本人だけで50万人以上、さらには全島で100万人以上の現地民間人が亡くなったそうです。


国と立場を問わず、多くの無名の魂がこの島に眠っています。



今回のご滞在中には、ルソン島東部にて、両国の戦没者の慰霊に臨まれるそうです。

これは両陛下のたっての希望とのこと。



私も遠く離れた日本から、陛下とともに祈りをささげたいと思います。
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10 ■天皇皇后両陛下・フィリピン鎮魂の旅 その5

1945年4月にアメリカのルーズベルト大統領が死去し、後任にトルーマン大統領が就任します。トルーマン大統領は硫黄島でのアメリカ軍の死傷者や沖縄での県民の軍への協力から、これ以上、戦争が長引くと選挙を通して政権が維持出来ないと考えたと思われます。
従来の方針が変更され、1945年7月に連合国から日本に対して降伏条件が示されるのでした。

1945年8月、日本は昭和天皇の裁断によりポツダム宣言を受諾します。
8月15日の昭和天皇の玉音放送は、「日本国は連合国の降伏勧告を受け入れる事にする。米英に宣戦したのは日本の生存と東アジアの安定の為であり、侵略の意図は元からない。
陸海軍将兵の勇戦、公職者の精励、国民の奉公は最善を尽くしたが戦局は好転しなかった。国際情勢も我が国に有利に働かず、それのみか原爆まで使用され、このまま戦争を続ければ日本民族の滅亡だけでなく、人類の文明も破壊され尽くすだろう。この事が政府にポツダム宣言の受諾を命じた理由である。

東アジアの開放に協力頂いた諸国にはこのような結果になり申し訳なく思う。また国民について、戦場で戦死し、職場に殉じ、戦災に倒れた者、及びその遺族の事を思うと体が引き裂かれそうになる。さらに戦傷を負い、災禍を被り、家財や職業を失った者の健康や生活も深く案じている。
我が国の今後は困難を極めるだろう。国民の苦しみも良く理解しているが、耐えられない事も耐え、未来の為に平和な世界を開こうと思う。

日本国が消滅する事は無く、国民が苦しい時に私だけ苦しみから逃れるような事はしない。
もし感情の赴くまま事件を起こしたり、同胞を排斥するような事をして、世界から信用を失うような事があってはならない。
任された務めは重く、道は遠い事を自覚し、総力を将来の建設に向け、世界の歩みに遅れを取らないよう。
我が意思を良く理解し行動するように」と、この様な感じだと思うのです。

国民は戦争に負けた事を知り、戦闘は停止するのでした。

・・・平和な世界を、適切な防衛政策を。。。

9 ■天皇皇后両陛下・フィリピン鎮魂の旅 その4

1945年4月になると、米軍は九州侵攻で物資の集積や兵士の休養に適し、日本本土が攻撃圏内に入る沖縄に来襲します。当初は3月に侵攻の予定が一カ月延びたと言われています。
沖縄の当初の防衛計画は3個師団を配し、敵の上陸を1個師団で抑え、その間に2個師団が応援に駆け付け上陸部隊を海上に押し戻す計画だったそうです。

ところが台湾沖航空戦の誤報でレイテ決戦が指向され、台湾にあった2個師団がフィリピンに移送されます。そして、沖縄と共に台湾も大空襲された為、米軍は沖縄を通って日本本土に来攻するか、台湾から中国大陸に行き劣勢の蒋介石を助け、それから日本本土に来襲するか、大本営では判断が付かなくなってしまったようです。その為、2個師団を抽出した台湾の穴埋めに、1944年12月に沖縄の1個師団を台湾に移動させました。

沖縄の防衛軍は2個師団に減少された為、防衛計画は日本本土での決戦の準備の為、洞窟に籠り持久戦で一日でも長く米軍を拘束する方針に変更します。

フィリピンでの決戦に失敗した日本軍は、次の決戦場として南九州を想定し、これを決号作戦とします。但し海軍は沖縄沖に集結する米艦隊に致命傷を与え、日本の戦争を有利に導く目的で航空決戦の天号作戦を実行するのでした。

沖縄戦では、陸軍の航空部隊も海軍の指揮下で作戦を実行します。(あってはならない事ですが)特攻攻撃はあの時のあの環境下では、成功率だけで見ればとても合理的な戦法でした(2度とあってはならない事ですが)。特攻隊員は昭和18年終盤からの学徒出陣した学徒兵の数カ月の速成訓練や、開戦前後の募集に応じた予科練や少年飛行兵が主力になっています。

地上戦では沖縄県民が看護に炊事、物資運搬に伝令と献身的に軍に協力しました。

- つづく -

8 ■天皇皇后両陛下・フィリピン鎮魂の旅 その3

陸軍はフィリピンのルソン島で決戦の準備をしていましたが、海軍の米艦隊壊滅の情報で方針を変更します。艦隊が壊滅したのに無理にフィリピンのレイテ島に上陸を強行しようとする米軍に対し、これに打撃を与える絶好の機会と、ルソン島からレイテ島への決戦の変更が指示されます。フィリピンの現地では敵の空襲が減らないのと独自の情報分析から「様子がおかしい。誤報ではないか?」と何度も意見するのですが、大本営はレイテ島での決戦を強行させるのでした。

ルソン島からレイテ島への兵力増強で、兵員の海上輸送は最初の数回は成功したのですが、以後の輸送は航空攻撃により海上で封殺され、日本軍は大損害を被ってしまいます。
レイテ島での決戦に大敗北した陸軍はルソン島での決戦も放棄し、山中に籠もっての持久戦に方針を変更します。この時、陸軍はマニラ市の無防備化を強く希望したのですが、マニラの海軍陸戦隊はマニラ湾に面した要衝マニラ市の死守を選択するのでした。

そして、陸軍は最も精強で健康な部隊を要地に配し、軍事的合理性を度外視した戦闘で米軍を食止め、その間に残った兵員と資材を山中に移送します。移送が終了に近づく時点で要地を守備する部隊に撤収を命じますが、部隊は全滅寸前になっていました。このようにして山中に籠った陸軍は、一日でも長く米軍を拘束して、日本への接近を少しでも遅らせようとしたのでした。

太平洋では1945年2月に硫黄島での戦闘が始まります。マリアナ諸島の飛行場から発進するB29を護衛する戦闘機の航続距離で、飛行場に適した島として硫黄島が戦場になっていました。ここでも日本軍は一日でも長く戦い、日本への米軍の接近を遅らせる戦闘を行います。

- つづく -

7 ■天皇皇后両陛下・フィリピン鎮魂の旅 その2

米国は戦争当初から枢軸国が無条件降伏するまで徹底的に戦う事を宣言していました。
日本は独伊の不振と、海軍がマリアナ沖海戦で空母部隊が壊滅し、絶対国防圏も突破された事から、陸軍主体で米軍に大打撃を与え講和の糸口を模索します。

敵の進攻地域を予測して、フィリピンを捷(しょう)1号、沖縄・台湾を捷2号作戦とし、作戦が発令された時は戦力を集中する決戦の準備をします。
陸軍はフィリピンの軍司令官にエース級の人材を配し、新鋭機も送りこんでルソン島での決戦を企画しました。

1944年9月、米軍はフィリピン奪取の為、フィリピンに近く飛行場に適したペリリュー島に来襲しますが、陸軍の持久戦にフィリピンへの進攻は2カ月は遅れたとされます。

この頃、日本はあまり気付いていなかったようなのですが、米艦隊はサイパンに来襲時は硫黄島に、フィリピンに来攻する時は沖縄・台湾に、硫黄島の時は関東地方に、沖縄の時は九州・四国を大空襲しています。日本軍には戦力は無かったのですが、米軍は上陸時の後方からの反撃を封殺する為に後方地域を攻撃していました。
アメリカ機動艦隊は捕捉しきらないと、気付いた時には敵機は頭上に迫って空襲が始まっているような状態で、日本側としても脅威の的だったようです。

1944年10月10日、フィリピン攻略の為に沖縄が大空襲され、10月12日に台湾も大空襲されます。この時、米機動艦隊を捕捉した海軍は、米艦隊に致命傷を与える為に台湾沖で航空攻撃を仕掛けます。
劣勢を補う為、日没寸前や日の出直後、特別な訓練を受けた部隊が夜間攻撃を行いますが、操縦士の技量不足や視界不良で戦果は誤認に次ぐ誤認で、米艦隊に大損害を与えた大誤報に至ってしまいます。
日本側では台湾沖航空戦と命名されていますが、アメリカ側は戦闘記録が有るのみで特に命名も無く被害僅少で、日本航空部隊が一方的に壊滅していたのでした。

- つづく -

6 ■天皇皇后両陛下・フィリピン鎮魂の旅 その1

それでは、、、フィリピン戦あたりでも、、、

開戦当初は陸軍が「独伊の勝利を前提に持久戦を」、海軍は「アメリカ艦隊を撃滅して短期決戦を」、と目論んでいましたが、1943年5月にアリューシャン列島のアッツ島の玉砕もあり、日本政府は「絶対国防圏」を設定します 。
しかし、密かに日本の敗戦を予見する見地もありました。そこで、敗戦後の日本に少しでも有利に働くよう、米英の白人国家以外は植民地の現状を維持する大西洋憲章に対抗する形で、1943年11月に大東亜会議で植民地解放の理想が謳われるのでした。

同じ月に戦局は絶対国防圏外のギルバート諸島に及び、タラワ島が玉砕します。帝国海軍の陸戦隊が守備しており、戦闘は3日で終結しますが、万全を期したはずのアメリカ軍に予想外の損害があり、アメリカ世論は悲鳴を上げ、以後の上陸作戦の教訓とされるのでした。

1944年6月には絶対国防圏のマリアナ諸島のサイパン島に米軍が来襲します。
帝国陸軍は教訓に基づいた戦術教科書の通り、上陸軍の戦力が最も落ちる海上からの上陸寸前を攻撃する準備をします。火力も米軍の火力を重大視し、戦術教科書の砲撃範囲当りの最大火力以上を配備したのですが、米軍はさらにそれを上回る火力で来襲したのでした。

陸軍は善戦敢闘しますが、サイパン島の要塞化は1944年秋頃を予定していた為、難攻不落を願ったサイパン島は7月に入ると玉砕してしまいました。
この戦いで、当時は日本の委任統治領だったサイパン島は在留邦人も多数おり、一万人近くが戦いに巻き込まれ落命してしまいます。この事態もありペリリュー島や硫黄島など小規模なケースでは、ほぼ全員の疎開が実現する例も現れています。

敵を上陸寸前で叩く水際作戦が米軍の前に破綻しますが、その教訓はペリリュー島、硫黄島、沖縄と洞窟に籠もった持久戦へと活かされて行きます。
(第一次大戦の欧州の教訓から敵の戦力の最も落ちる上陸寸前の水際防御が、戦争の近代化で航空攻撃と艦砲射撃で水際陣地が壊滅されてしまう為、その攻撃を無効化する為に洞窟に籠もり、上陸後の縦深的な防衛戦術に変化するのでした)

- つづく -

5 ■陛下にはいつもハッとさせられます!

今上陛下にはいつもハッとさせられます!
フィリピンの戦争遺族の方々を悼むお気持ちが最優先~俗な私など思いが至りませんでした。人としていつも正しい方向に向かれておられます。

4 ■両陛下

私は両陛下を心からご尊敬申し上げております。

3 ■平和の想い

率先した行動をなされます。外交とは?平和とは?の答えは ここにあります。

2 ■無題

天皇皇后両陛下におかれましては、いつ変わる事なく分け隔てなく、私たちはその尊き御心を賜わらせて頂きまして、誠にもったいなく有り難い事です。

この度の行幸啓の際の民間でのお見送り時には、わざわざ御車の窓をお下げになり御手をおふりなされますそのお優しさには涙が出ます。

一方それとは別に、米軍がフィリピン侵略と植民地化でおこなった事を私たちは知っておかないといけませんよね。

米植民地支配下のフィリピンでの日米交戦についても。
一例では
「習近平よ、反日は朝日を見倣え」高山正之氏著のP173にも、米軍の無差別爆撃による10万人の犠牲者の事や、米側は日本人と現地の住民の区別がつかないので原住民は皆殺しにしたとの事なども記されていますね。 他の書籍でももっと詳しく色々と学べる事でしょう。

私達日本国民も諸事の真実をふまえた上で、日本人の英霊を貶める事無く、国籍や人種に関係無く慰霊の祈りをささげさせて頂きたく思います。

1 ■夜分恐れ入ります

この様な慰霊の旅をまたまた本来の目的と事実を歪曲しこれも平和憲法9条死守したいというお考えだとか報じるひどいメディアがあった様です。


女性誌もこういう記事歪曲や天皇政治利用はひどいですね。今後選挙が近づき憲法改正が現実的になるとこうしてお涙頂戴のけしからん事をする護憲勢力が現れるかもしれません。



ただ今は東南アジアで静かに眠る方々の御冥福をお祈りしたいです。因みにこの戦前世代の戦場から生還した方々の中には現状を嘆き改憲に理解を示されてる方々も多いみたいですね。

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