悪のサービスマン~イス大王の「舐められたらおしまい!!」精神/栗栖正伸【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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第159回 悪のサービスマン~イス大王の「舐められたらおしまい!!」精神~/栗栖正伸





「車の運転でいえば、ヒールはドライバーで、ベビーフェースは同乗者。試合をコントロールするのは、あくまでもヒールなんだ」

これは伝説のプロレスラーであるブレット・ハートが残した名言である。
ヒールは試合をコントロールするドライバー。
しかし、そのコントロール術はさまざまである。
己の型にはめたがるヒールもいれば、相手の良さを引き出しながら操縦するヒールもいる。またキャラクターやギミック先行のヒールだっている。
ヒールのスタイルは千差万別だ。

栗栖正伸のヒールスタイルもまた異色だった。
ギミックはなければ、決められたキャラなどない。
ただ己の情念と怒りを全面的にぶつけていくというリアリティー溢れる悪役である。
凶器でありトレードマークであるイス攻撃はプロレス界ではケンドー・ナガサキと双璧を成す使い手であり、人呼んで"イス大王"。
175cm 100kgと体格には恵まれなかったが、それ以上のスケール感を誇ったのが栗栖だった。
今回はイス大王と呼ばれた一人の悪役レスラーの物語である。

栗栖正伸は1946年11月15日鹿児島県肝属郡に生まれた。
父は営林署勤めの公務員だった。
その影響もあり次々に転校する生活を送っていた。
高校時代から柔道を始めた。
この頃から栗栖は将来はプロレスラーになりたいという想いを抱くようになる。

「子供の頃からプロレスはテレビで観ていたし好きだったから。俺、7歳のころ力道山、木村正彦組対シャープ兄弟をテレビで観てるよ、町内の金持ちの家の庭先からね」

ちなみに手に負えないワルだったという栗栖は高校卒業間近に、校長先生と衝突し退学処分を食らい、1年間の留年をしている。国士舘大学に進学すると、栗栖は日本ではなく海外でプロレスラーになりたいと想うようになる。

「俺自身はね、もうその退学になった一件から日本が嫌になった。しがらみにない海外に行きたい、外国に暮らしたいなって。金を出してくれた親の手前、大学の卒業証書が欲しかっただけだから、卒業したらもう海外でプロレスラーになろうって。だから大学時代は渋谷の日本ボディビルセンターに通っていた。ジムの費用はコカ・コーラの配達のアルバイトして。当時から国士舘の柔道は強いって聞いてたけど、俺は一般入試だからお呼びじゃないよね。レスラーになることしか考えてなかったし」

大学を卒業した栗栖は一度は就職し渡航費用を稼ぎ、1年後にアメリカ・ロサンゼルスに渡った。そこで日本食レストランで皿洗いのアルバイトをしながら、ボクシングやボディビルのトレーニングを積んだ。しかし、なかなかプロレスラーになることはできない。
そんな日々が一年が続いたある日、ロサンゼルスのレストランにアントニオ猪木が現れた。
猪木は当時、新日本プロレスは旗揚げしたばかりだった。

「あの時、猪木さんはなんでロスにきたのかな? 一人だったから試合ではなかったと思う。とにかくレストランの親父さんは"猪木さんが新しい団体を作ったから、そこに行ったらどうだ?"みたいな感じで俺に勧めながら、猪木さんを紹介してくれた。印象良かったね。ぜんぜん偉そうなところはないし、要はナチュラルなのよ。だから親父さんが"お前、行って猪木さんの力になれや"っていう感じでいうわけよ。それで、俺はナチュラルにそれを受け入れたんだよ」

1972年4月に栗栖は帰国し、新日本プロレスに入門する。
25歳になった栗栖はようやくスタートラインに立った。

「4月に帰ってきて寮に入ったけどね、ジェントルマンの木戸修さん、それに藤波辰巳さんがいて、浜田とドン荒川がいた。ミスター・ポーゴはもういなかったね、辞めたみたいで。俺の後に藤原喜明、小林邦昭が入ってきて、坂口征二さん、木村健悟、キラー・カーンに大ちゃん(大城大五郎)かな? 練習は山本さんが仕切っていたね。それは厳しかったよ! 厳しかったけど、俺はそれが当たり前だと思ったから受け入れることができた。こんなものだと解釈してたから。今になれば、山本さんは筋が通ってたって思えるから。そのおかげで練習が身に付いたし。もう目が覚めたら練習っていう日常になっていて、汗流さないと落ち着かないんだ。俺は猪木さんの運転手もやっていたから猪木派みたいに言われた」

同年9月26日のリトル浜田(グラン浜田)戦でデビューを果たす。
浜田と栗栖は犬猿の仲で、二人は後にメキシコで抗争を繰り広げるライバル関係となる。

栗栖は創成期の新日本でもまれた男、いわば"新日魂"が彼のプロレスラーとしてのアイデンティティーである。新日本と言えばやはり尋常じゃない練習量とスパーリングである。
これは元新日本プロレスで後に全日本プロレスにも参戦した新倉史祐の証言である。

俺もジャパンプロレスにいたから全日本の練習を知ってるけど、「新日本とこんなに練習方法が違うか」ってビックリしたもんだよ。新日本はフィジカルが7割、セメントが3割。受け身の練習は空いてる時間に勝手にやれって感じでしたよね。練習にマスコミの取材が入るとシュートの練習はやらないんですよ。バーベルやスクワット、プッシュアップ、コシティを見せる。あれは取材用の練習でもあるんだよ。会場でシュートの練習をやるときは取材陣を全員外に出してね。誰にも見せないのは猪木さんの方針なんです。あとシュートじゃない練習をやってると猪木さん機嫌が悪いから(苦笑)。シュートの練習をやってると機嫌がいいんだよねぇ、猪木さん。
【Dropkick 道場破りから前田日明vsルスカまで……新倉史祐「俺が見た昭和・新日本プロレス伝説」】

栗栖はこう語る。

「スパーリングは随分やらされたよ。じゃあ誰が強いかって、みんな似たり寄ったりよ。前座の頃は特別に誰が強いなんてないし、ドングリの背比べだね。みんな練習してるから。でも、そこからもっと練習して初めて距離が出てくるんじゃないの? こういうのって、人に教えられるじゃなくて自然に覚えていくものだから。人がやってるのを見て、モノマネからやってみたり。でも一番は体で覚えていくことでしょう。だから生意気なヤツは食らわせなきゃいかんっていうのは、そこなの。自分が弱いってことを教えてやる、教えられたら強くなろうとするじゃない? 食らわしたり、どついたりは絶対に必要なの。猪木さんは強いですよ、グラウンドとか。強くなきゃアントニオ猪木ではいられないよ。俺の場合、足を極めるのが得意だったから、普通の相手なら"あー、イテテテッ!"って言わせられるのに、猪木さんの足は極めようと思っても極まらないんだよ。柔らかいし、逃げ方も知っているから」

栗栖は長年、猪木の付き人を務め、可愛がられた。
長年、猪木のスパーリングパートナーを務め、用心棒と呼ばれたのが藤原喜明で、栗栖は運転手兼付き人として猪木を支えたのが栗栖だった。
ちなみにこの二人は犬猿の仲だったという。
猪木の付き人でありながら栗栖は新日本時代は常に前座戦線に甘んじていた。
後輩レスラーの初白星献上役を担うケースが多かったのも栗栖だった。
小林邦昭や佐山聡がシングル初勝利を挙げた相手は栗栖だった。
この頃の栗栖は新人に「プロの厳しさ」を叩きこむ前座の番人のような立場だった。

「その役目は小林や佐山相手までで十分だったよね。第一、俺は若手の教育係をやるために新日本に入ったわけじゃないから。俺だって海外へ修行に行きたかったよ。ただ、俺は後輩が先に海外に行っても悔しがったりはしなかったよ。それに自分から"行かせてください"なんて擦り寄るのも嫌だったから。今のカミさんと結婚することが決まって、"このままじゃここで使い込まれて死ぬだけだ"と思ってね。初めて新間さんに"そろそろ行かせてください"と頼んだよ」

こうして栗栖はデビューして7年後の1979年3月にメキシコ遠征に旅立った。
当時のメキシコのメジャー団体の一つであるUWA入りを果たした栗栖はルード(ヒール)の地位を確立する。
ちなみに栗栖とほど同期で因縁のある浜田はグラン浜田というリングネームでリンピオ(ベビーフェース)として活躍していた。栗栖と浜田は入門では栗栖の方が二か月遅く、デビューでは半年遅いがほぼ同期といっていい間柄だ。
ここからは因縁のある浜田との関係について記すことにする。
栗栖は浜田についての独白である。

「俺はね、昔からそんなに勝ち負けにはこだわらなかった。だから、誰ともうまくやってきたけど、あいつは別だね。浜田は先輩やプロモーター、タニマチに媚を売るのが異常にうまかったよ。裏から手を回したりするのがさ。勝つためには何でもするヤツですよ。あいつは生え抜きの後輩に負けるのを嫌ったんだよ。確か1973年の秋頃からだったと思うけど、若手同士や若手の中堅が組むタッグマッチが頻繁に行われるようになってね。あいつは色々と根回しをして、毎日のようにタッグに出ていたな。シングルよりもタッグの方が楽ができるからさ。それに変に自分が傷つくこともないしさ。出てくる後輩は潰し、先輩とは極力摩擦を起こさないように根回しする。逆の見方をすれば、世渡り上手なんだよ」

「メキシコは波長が合ったけど、だけどまさか浜田にあそこまで意地悪されるとは思わなかった。人間としてやっちゃいけないっていうかね。俺は賢い人間じゃないけど、人を陥れるようなことはしないから。日本に帰れば新間さんにもけっこう吹いていたらしいよ。"栗栖が邪魔する"とかさ。あれはジェラシーなのかなぁ?  今となれば関係ないし過去の事で済んじゃうけど、俺は俺なりに苦しんだ部分はあるんですよ。だって、俺は向こうに行ってすぐタイガー・ジェット・シンがいる前で言ったもん。シンの見ている前で喧嘩したんだよ。"お前がここの親分なんだから、ちゃんとせんかい、このボケが!"ってね」

だが皮肉にも浜田との怒りと恨みが栗栖をトップルードとして大成させてしまったこともまた事実だ。マサノブ・クリスは東洋のルード大王だった。

「俺は好きに暴れているようだけど、色々と頭は使ったよ。やっぱり参考にしたのはタイガー・ジェット・シン。俺はシンの初来日から、ずっとあのスタイルを見てきたからね」

マサノブ・クリスの活躍ぶりはあっという間にメキシコマットを席巻している。初登場から2か月余で破格の扱いを受けた。UWAの総本山エル・トレオで、いきなり浜田との一騎打ちが組まれたのだ。大スター浜田を追って日本からやってきた大悪党という触れ込みだった。2万5000人収容の闘牛場、エル・トレオは超満員の観客で膨れ上がった。そこで展開されたのは、新日本流のストロングスタイル。そこに浜田の空中戦と栗栖の反則攻撃がスパイスされていた。これが観客のハートをしっかりと捉え、この一戦は30年に1度の名勝負とまで周囲から絶賛されている。この一試合で、「日本から来た悪くて強くて嫌なやつ」の地位を確立した栗栖は、徐々にルードのトップクラスへ昇り詰めていく。
(中略)
同年11月4日、ついに栗栖にとって大勝負の時が来る。空位になっているUWA世界ライトヘビー級王座決定戦で浜田と対峙した。場所はエル・トレオだった。この日が栗栖の晴れ舞台となるはずだった。それほど栗栖のルード人気はピークに達していたのだ。しかし、結果的に新王者となったのは浜田だった。
(中略)
この千載一遇のチャンスと最高のタイミングを逸したことにより、それ以降、栗栖がメインのベルトを巻くことはなかった。もしかしたら、同じ団体(UWA)で浜田と敵対するルードでいる限り、栗栖がベルトを巻くことは永遠に不可能だったかもしれない。栗栖には政治力もなければ、プロモーターへのコネもないし、何より人に媚を売るのが大嫌いだった。結果的に、栗栖はいくつかのローカルタイトル、タッグベルトは巻いているようだが、それも正式な記録としては残っていない。
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その一方でメキシコの関係者から栗栖はルードとして高評価をもらっている。

エクトール・バレロ(「エル・アルコン」誌編集長・UWAフィクサー)
「私は多くのルードを取材してきたが、その中でもクリスの憎まれ方は異常だよ。クリスは度胸が据わっていて狂気じみたレアルなルードだよ」

リカルド・モラレス(「ボクス・イ・ルチャ」誌記者)
「1970年代初頭から日本人選手に特別な興味を持って取材してきたけど、初対面でいきなり殴りかかってきたのはクリスだけだよ(苦笑)。彼は客を怒らせ、興奮させるためのツボをよく知っていた。本当に客を呼べるルードとは、クリスのような選手のことを言うんだよ」

悪役レスラー・栗栖正伸はメキシコで花開いたのだ。

「3年ぐらいいたかな? 今思うと自分で凄いことやってきたっていうのはあるし、もう満足したよね。日本では"お前は力はない、これしかない"って決めつけられたものに対して、プラスアルファを出すことができたもん。あれだけやりたいことやったら悔いないもんな。一度たりともプッシュされたことのない人間が、あれだけやれたんだから。ここまで憎まれるヒールっていうものをさ、じゃあ日本にいる他の人間ができるかって言ったら絶対できないっていう自信もあったよ」

1982年3月に栗栖は新日本に凱旋した。
しかし、メキシコでの活躍とは裏腹に日本では相変わらずの前座や中堅のまま。
スポットライトなど浴びない日陰の生活が続く。
東洋のルード大王は鳴りを潜め、後輩レスラーの後塵を拝した。

当時は今と違って、2本のプロレス団体にはルード修行をして戻ってきた選手の受け皿がなかった。帰国後は元の鞘に戻って中堅のまま燻るか、マサ斎藤や上田馬之助のように一匹狼で海外を放浪するしかなかった時代だ。また、この頃は初代タイガーマスクの絶頂期だったが、新日本側には日本人のライバルを作る考えはなかった。小林邦昭が凱旋し、"虎ハンター"となるのは栗栖が帰国して半年後のことである。栗栖は小林よりも佐山との対戦経験が豊富で、ルチャの動きにも順応できる。もし帰国のタイミングがもう少し遅かったならば、栗栖が"虎ハンター"になっていたのかもしれない。栗栖本人は「すべてわかってましたよ、俺には…」と最後まで言葉にしなかったが、この時の扱いは「使い捨て」 「お荷物」 「捨て石」ということだったのだろう。
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栗栖は帰国から2年後の1984年9月、長州力率いる維新軍が新日本を離脱し、ジャパン・プロレスを結成して全日本プロレスを主戦場に変えていった。
栗栖はそのメンバーに名を連ねていた。

「それは俺が大塚さん(直樹=ジャパンプロレス社長)とツーカーだったからだよね。だってあんなに仕事できる人はいないじゃない、新日本の営業を一手に担ってね。宿も一緒だったよ。別に長州力には何もないんだよね。大塚さんが長州に賭けるっていうなら、結果的に俺もそれに乗っかったことになるだけで」

ジャパン・プロレスに移籍した栗栖は全日本プロレスに参戦し、テレビマッチに幾度となく登場することになる。ちなみに全日本の御大ジャイアント馬場はジャパン軍で評価していたレスラーはアニマル浜口、ヒロ斎藤、栗栖正伸だったという。

「馬場さんは俺にちゃんと接してくれたっていうか気を使ってくれたような気がする。俺はそういうところは嬉しかったよ。試合に関してどうこうは何も言われたことないんだよね。全日本の人間はね、もうほとんどの選手が栗栖が固いっていうか、"あいつはトンパチだから"っていう見方をしていたよね。何を言われようが、どんな試合やろうが、最終的にプロレスやってるんだから。ビシッとやるんだからね」

しかし、ジャパン・プロレスは長州を筆頭とする主要メンバーが新日本にUターンし、栗栖は谷津嘉章や仲野信市とともに全日本に残留する。しかし、栗栖の立場は前座戦線に甘んじていた。
栗栖は1989年に引退をすることなった。
しかし、これは表向きで、実際のところはリストラだった。

「理由はなんにも聞かされてない。谷津と永源遥になんかそういうことを説明されて。ゴタゴタ言ったってしょうがないから、"あ、そう"って感じ。もうグチャグチャした人間関係はいいやと思ったしね。あれを名古屋で聞いたときは泣いたよ、独りでさ。やっぱり泣くよ」

1989年8月30日の全日本・大阪大会で栗栖は不本意ながら引退セレモニーを行った。
そして翌日に大阪市平野区に栗栖正伸トレーニングジムをオープンさせた。
そのきっかけは栗栖が尊敬するアニマル浜口の影響だった。
浜口は1988年にアニマル浜口トレーニングジム(浜口ジム)を設立している。

「これはね、浜さんの影響が大きいよ。あの人は最高だよ、俺がレスラーの中で一番好きなのは浜さんだし。そういう浜さんがジムをやってるのを見て刺激を受けたね」

この栗栖正伸トレーニングジムは浜口ジムと同様に西のプロレスラー育成所とも言われ、金本浩二、雷陣明、奥村茂雄、日高郁人、伊藤崇文、泉州力、中西百重といったプロレスラーを輩出したが、2004年に閉鎖している。

プロレスを"強制的引退"をさせられた栗栖だったが、練習を欠かすことがなく、体力と肉体は全く衰えていなかった。
そんな栗栖に声をかけたのが、FMWを旗揚げしたばかりの大仁田厚だった。
大仁田のオファーに応えた栗栖は引退後すぐにFMWに参戦する。
1990年の「第一回総合格闘技オープントーナメント」を優勝を果たす。
栗栖はFMWで覚醒する。
ハチャメチャなインディー団体FMWで栗栖はパイプイスを手に大暴れし、猛威を振るった。
"イス大王"という異名はFMW時代に生まれた。
時には若手選手の顔面を思いっきり蹴り上げ失神させ、試合後の強烈なイス攻撃で悶絶させた。

「俺は俺の闘いをやるだけだよね。イス大王っていっても、べつに俺はそれを売りにしようとしたわけじゃなくて、あまりにも(プロレス界の)ルールを知らないヤツばかりだから、ああいう結果になっただけでね。俺は俺で理由があってやったんですよ」

「プロレスは殺し合いじゃないけど、ヒールを貫くってことはさ、いつでも喧嘩できる度胸がないとダメなのさ。だから、ナチュラルに強くなくちゃダメ」

大仁田との抗争で名を上げ、悪役レスラーとしての地位を日本でようやく確立した栗栖になんと新日本プロレスから復帰のオファーがかかる。

「永島と倍賞が俺のところに会いに来た。場所は忘れたけど、どこかで会って飯食いながら話したよ。そこで俺の中ではギャラどうこうは関係なかったね。新日本のところよりギャラがいいとか悪いとか、そんな話はどうってことないんだよ」

そして、栗栖の心の奥底には師匠・アントニオ猪木への恩返しをしたいという気持ちもあったという。

「猪木さんに恩返しするために帰ってきた。自分のルーツをたどって行ったら、そこにやっぱりアントニオ猪木がいるわけだからね」

1990年6月26日の両国国技館大会で栗栖は5年10か月ぶりに新日本復帰を果たす。長州力、越中詩郎、小林邦昭、星野勘太郎、佐々木健介VS スーパー・ストロング・マシン、後藤達俊、ヒロ斎藤、アニマル浜口、栗栖正伸。栗栖は浜口、マシン率いるブロンド・アウトローズの刺客、客分として参戦した。しかもこの試合はメインイベント、今まで新日本在籍時代には当然立ったことがないメインのリングにイス大王は立っていた。

新日本で前座マットしか知らなかった男が、両国のメインイベントのリングに立った。耳をつんざくばかりの大ブーイング。イスを手に荒れ狂い、敵も味方も殴りつける栗栖に浴びせられた罵声、帰れコールは過去に類を見ないものだった。日本人レスラーでここまでブーイングを浴びた男は、恐らく上田馬之助以来だろう。試合後、観客の罵声を浴びながら国技館の花道を引き揚げて来る栗栖は、半ば錯乱状態だった。視界に入るものはすべて敵。なんとマスコミ界の大御所であり、私の師匠でもある竹内宏介さんの尻を蹴り飛ばした。たまたま竹内さんと目が合ったからだ。
「上等じゃないか! どうせ俺は棺桶に片足突っ込んでるんだから、何も怖いものはない…。舐められちゃおしまいよ!」
(中略)
栗栖は観客の反応に愕然とした。なんでも受け入れる覚悟はできていたはずなのに、ほんの少しでも感傷を抱いていた自分を恥じた。現実を思い知らされた。自分はヒールであり、招かれざる男なのだ。新日本ファンはFMWというインディーで成り上がった栗栖のことを認めていなかった。いや、「認めないぞ!」というメッセージ代わりのブーイングを送りながら、栗栖を値踏みしていた。
【元・新日本プロレス 「人生のリング」を追って (金沢克彦 著 /宝島社)】

栗栖はこの日を境に決意する。

「だったら俺は潰れるまでやってやる!」

どうせ俺は棺桶に片足を突っ込んでいる男、怖いものなどない。
そして、心にはどんな時でもある情念を秘めている。

「舐められたらおしまい!」

栗栖はブロンド・アウトローズの客分から一匹狼として新日本で暴れ回る。兄貴分の浜口とも長州ともシングルで対戦した。闘魂三銃士や馳浩、佐々木健介ともやりあった。どんな対戦相手でも栗栖は”イス大王"の商品価値を落とすことはなかった。

そんな栗栖が後世に語り継がれる伝説の名勝負を残す。
対戦相手は"破壊王"橋本真也だった。

1990年8月2日、後楽園ホール。この橋本 VS 栗栖戦は私の取材キャリア24年の中で今でも私的ベストバウトのナンバーワンである。勝った橋本は左手甲を骨折し、敗れた栗栖は右足フクラハギの筋肉を完全断裂した。一度はリングを去った43歳と、絶頂期を迎えようかという25歳による公開の大喧嘩。膝に爆弾を抱える前の橋本のキックは凶器そのもの。その一撃は胸板を滑るようにして栗栖の顎に食い込んだ。まさに破壊王である。一方の栗栖の蹴り、ストンピング、頭突きもすべて橋本の顔面と頭部に集中した。舞台裏でもドラマがあった。つい1か月前、栗栖に罵声とブーイングを浴びせていた新日本ファンが、橋本と真っ向勝負を展開する栗栖に大声援を送る。壮絶に散った栗栖へと送られた万雷の拍手。リングでペコリと頭を下げた栗栖は男泣き。痛み右足を引きずって、嗚咽しながら控室前のベンチまで戻ってきた。両目を真っ赤にした栗栖の表情は優しかった。完全燃焼、満足げな表情にも見えた。無言でリングシューズのひもを解いてから、真っ直ぐに私の顔を見据えて語り掛けてきた。
「俺、なんで泣いちゃったんだろう?」
「…はい」
「俺はヒールなのに…なんで泣いちゃったのかな?」
「…」
「やっぱり嬉しかったんだろうね?」
「そうですね」
「ヒールなのに、お客さんのあったかい心に負けちゃったのかな?」
(中略)
「いえ、それは違うと思います。今日は栗栖さんがお客さんに勝ったんですよ!」
「そうかい? ありがとね」
ニッコリと笑うと栗栖はシャワールームへ消えた。
【元・新日本プロレス 「人生のリング」を追って (金沢克彦 著 /宝島社)】

栗栖正伸。43歳。
マット界の日陰を生き、辛酸をなめつくした男があの日、誰よりもプロレス界で輝いていた。
名古屋で流した悔し涙は数年後の後楽園で感激の涙へと変わった。
プロレスは珠玉の人間賛歌であり、人間ドラマである。

栗栖はその後も一匹狼として新日本で生き抜いた。
栗栖と同じく一匹狼だったキム・ドクとピラニア軍団を結成し活躍するも、その輝きはあの新日本参戦当初の輝きを越えることはなかった。

新日本を離れた栗栖はインディー団体を転戦していく。
そして、いまだに"引退"はしていない。
参戦頻度は減っているが、未だに70歳の現役である。(2016年12月現在)

話は変わるが、栗栖について考察するにつれて心に残ったあるサービスマンの名言を思い出した。世界一のおもてなしをする男と呼ばれるサービスマン・宮崎辰氏は、昨年開催されたサービスマンの世界大会で、料理を提供する技術や知識、その全て高得点をマークして、日本人初の優勝を果たした。サービスマンは本場フランスではメートル・ドテルと称され、シェフと肩を並べるレストンの司令塔である。そんな宮崎が残した名言がこれである。

「シェフは料理が商品、パティシエはお菓子が商品、ソムリエはワインが商品。じゃあメートル・ドテルは何があるのかっていったら、この体しかないんですよ。体と心と。人の心を物で動かすのではなく、体すべてこの人間すべてで、心を動かすんです」

体一つで心を動かす。
その姿勢は栗栖のヒールスタイルにダブってるように思えた。
彼が使う凶器はイス攻撃ぐらいであとは、己の肉体のみで暴れまわる。
凶器を越えたアクの強さと情念、怒りで人々の心を動かして見せた。
宮崎氏とはジャンルは違うが、栗栖も人の心を動かすという行為を長年、続けてきたのだ。
悪のサービスマン…それが悪役レスラー栗栖正伸の正体なのではないだろうか。

栗栖正伸のレスラー人生を支えてきた根本は「舐められたらおしまい!」精神だった。
この精神と確かな実力で"イス大王"という唯一無二の悪役レスラーが生まれたのだ。
還暦を越えた今でも栗栖はヒンズースクワットを必ず、膝下まで降ろす。
そこにはあの地獄の練習を耐え抜いた獅子のプライドがある。

「ナマクラこかないでやろうとするのが人間の生き方じゃないか」

私は心の底から思う。
もう誰も栗栖正伸を舐めることなどできない。
栗栖正伸がプロレス界で報われて本当によかった…。


【参考文献】
・ G スピリッツ Vol.28(辰巳出版)
・ 元・新日本プロレス 「人生のリング」を追って (金沢克彦 著 /宝島社)