武蔵は、第二次世界大戦中に建造された大日本帝国海軍の大和型戦艦の二番艦である。
当時は武藏と表記された。
この名を持つ大日本帝国海軍の艦船としては3隻目である。
また、戦艦武蔵は大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦である。
その武蔵が発見されたという。
以下産経ニュースより転載
世界最大の戦艦「大和型」の2番艦として建造され、昭和19(1944)年10月にレイテ沖海戦でシブヤン海に沈んだ旧日本海軍の戦艦「武蔵」(全長263メートル、6万9100トン)ついに発見-。
見つけたのは米ソフトウエア会社Microsoftの共同創業者ポール・アレン氏で、3日に自身のTwitterで発表した。
70年ぶり、写真に「開」と記されたバルブ…1番艦「大和」は爆沈、バラバラ
アレン氏によると、武蔵を発見したのは同氏所有の豪華ヨット「オクトパス号」で、深海約1000メートルの地点で発見、艦首の菊の紋章や巨大な錨(いかり)も発見したとしている。
アレン氏が公開した写真には、御紋章とみられる木製部品が写っているほか、艦首フェアリーダーやムアリングパイプ(いずれもロープや鎖を通す係船器具)、磁気機雷避けの舷側消磁電路などがみられ、別の写真では「開」などと記されたバルブがはっきりと確認できる。
武蔵が沈んだレイテ沖海戦は、日本側では「捷一号作戦」と呼ばれる作戦。
フィリピン周辺海域で1944年10月23日~25日にかけて日米海軍が激突した。
海戦としてはシブヤン海海戦、サマール島沖海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦の4つの局面からなる。
瑞鶴などわずかに残った空母艦隊を囮(おとり)として米空母部隊を引きつけ、その間に戦艦部隊がレイテ湾に突入、米戦艦部隊と輸送船や上陸部隊を攻撃するというものだったが、いわゆる「栗田艦隊の謎の反転」でレイテ湾突入には至らず、空母艦隊は壊滅。戦艦部隊も武蔵が魚雷約20本、爆弾多数を受け沈没するなど損失が多く、この海戦以降、日本海軍は大規模かつ組織的作戦が不可能となった。
武蔵の沈没地点はこれまでおおよその位置が特定されていたが、発見には至らなかった。
同型艦の大和は弾薬庫に引火、爆発して四散した状態で海底に沈んでいるのが確認されている。
また米国では空母ヨークタウンがほぼ原形をとどめた姿で沈没しているのが発見され、米ナショナルジオグラフィック誌で特集されたこともある。
(産経ニュース)
1944年10月24日のレイテ沖海戦におけるシブヤン海海戦において、ウィリアム・ハルゼー提督(大将)、マーク・ミッチャー中将率いる第38任務部隊は4つの空母群を持っていた。
米軍機の攻撃により、推定雷撃20本、爆弾17発、至近弾20発以上という猛攻撃を受けたが、1944年10月24日19時15分頃、「武蔵」は左傾斜十二度となったため、加藤副長より"総員上甲板"が発令され、乗組員は後部甲板に集合した。
半壊したマストから軍艦旗が降下されて間もなく、「武蔵」は急激に傾斜を増した。
総員退去命令が発せられ、乗組員は脱出をはじめる。
たまたま艦橋をふりかえった数名が、艦橋旗甲板で脱出者を見送る猪口艦長を目撃した。
19時35-40分、「武蔵」は完全に転覆。
水中に入った煙突から炎と白煙があがり、しばらく右舷艦底を上にして浮いていたが、やがて水中爆発音2回があって艦首から沈没した。
この爆発は缶室のボイラーが水蒸気爆発を起こした、主砲弾薬庫の弾薬が転覆による衝撃で誘爆した等、諸説ある。
建造期間1591日に対し、「武蔵」の艦齢は821日だった。
沈没地点は2つが伝えられる。
一つは猪口艦長の遺書を託された副長の加藤大佐が退艦時に記載したもので、戦闘詳報に採用されている東経122度32分、北緯13度7分。
沈没地点が深海800mのために船体は確認されていない。
「清霜」によれば東経122度41.5分、北緯12度48分。
だが、「清霜」の報告位置を元にした戦後の水中探査でも、「武蔵」は発見されなかった。
ただし、「清霜」砲術長は同艦の航跡自画器は故障していたので、あくまで推測でしかないことを述べている。
また「武蔵」ドキュメンタリーを製作した手塚正己はシブヤン島マグディワク町に取材に赴き、町の北方沖合い5km、水深50mに「武蔵」が沈んでいるという地元漁師の証言を紹介している。
これで一応戦艦武蔵発見となるんだうが・・・、なんで米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレン氏が発見したの?探してたのかな?