~ぶらぶら江戸散歩~vol.96『不来方城~盛岡』番外編 | 文化家ブログ 「轍(わだち)」

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江戸開府より約400年。東京下町には、江戸の息吹が今なお息づいております。
身近な江戸をぶらぶら散歩。新富に生まれた私、中西聡。
八丁堀・日本橋を中心に、江戸の町のちょっとした情報をお届けいたします。


皆さま、先週の「唐人町~佐賀」につづき、またもや番外編をお届けいたします!!
今回お邪魔しましたのは、東北は盛岡。戦国時代~江戸時代における岩手県は、北部は盛岡藩南部家、南部は仙台伊達家の支配でした。

岩手という地名はそもそも、古今和歌集にその名が出て参ります。
みちのくから、献上された鷹を帝はたいへん気に入り、「岩手」と名付けるのです。しかしながら、鷹を預けた大納言が「岩手」を逃がしてしまいます。
帝は、岩手を失った悲しみを「言わないことが言うことより気持ちが勝る」の意味で、「岩手=言はで」に掛け「いはでおもふぞいふにまされる」と詠じたということです。

さて、お話をもとに戻しましょう。今回お邪魔しました盛岡市は前述のとおり南部家の城下町。南部氏の居城は、盛岡城でした。
南部氏の藩祖は、もともとは、甲斐(山梨)源氏の流れをくみ、鎌倉時代には青森県に城を構える国衆でした。

その後、天正18年(1590年)7月、南部家第26代南部信直(初代盛岡藩主・南部利直の父)が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、秀吉から7月27日付で南部の所領の内7ヶ郡(糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、志和郡、そして遠野保)についての覚書の朱印状を得ることによって、豊臣大名として公認されたのです。
その際に、居城を現在の二戸に移します。

さらに、翌天正19年(1591年)和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増され、9ヶ郡にまで所領拡大はしますが、このとき安堵された9ヶ郡は、現在の岩手県、青森県・秋田県の3県にまたがっておりました。

蒲生氏郷や浅野長政より今の居城では北過ぎるとの助言を受け盛岡の地を本拠とすべく、文禄元年(1592年)、盛岡城を中心とした城下町の建設を始めたのです。
これが、南部家が盛岡城を居城としたいきさつになります。
盛岡には、『不来方(こずかた)』の別称がございます。むしろ、こちらの地名の方が約600年に渡り、使用されていたことが確認されており、盛岡の雅称として親しまれております。

なぜに「不来方(こずかた)」なのか?気になりますよね??!!
どうやら、伝承によりますと、かつてこの地には人里を荒らしまわった鬼がいたそうです。これに困っていた里人たちが、神に祈願したところ、鬼は無事に捕らえられました。
その折、鬼が二度とこの地に来ない証として、岩に手形を残したことから「岩手郡」、のちに岩手へと連なる地名の由来となったと言われます。「二度と来ない方向」の意味が転じて、この一帯に「不来方」の名が付されたと伝えられております。


 

不来方城 石垣

 

不来方城は、今では石垣を残すのみの城です。城内には、本丸、二の丸、三の丸が築かれましたが、江戸時代のころも、幕府への遠慮から、天守は築かれなかったと言われます。
花崗岩による石垣は、白っぽく、とても印象に残る石垣でした。
公園になっております城内では、のんびりと散歩をする方々を見かけました。

 

 


本丸とその北側に配された二の丸の間は空堀で仕切られ、朱塗りの橋が架かっており、たい無骨な城の中にあって、その赤さは妖しく美しい輝きを放っておりました。

 


こうしてご紹介しておりましても、遠野の座敷童をはじめ数々の妖怪伝説を抱える岩手。
その地名の謂われにも、神秘的な謎が隠されているように感じた次第です。

それでは、ぜひ皆様も、機会ありましたら、「不来方」をブラブラしてみてください!!

 


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