オーストラリアから

’88年移住!! まだまだ夢の途中・・・


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どこかで誰かがコントロールしているのではないか?と思える時がある。

「そんなの単なる偶然だよ」 と一笑に付されるかもれないし、実際、その通り偶然なのかもしれないが・・・

それでも人や物との出逢いの中に、私は「エ!?」 と思うことが時々ある。

 

1993年に兄の著作「死に至るノーサイド」が出版され、その直後に母が日本から20冊送ってくれた。

日本人の血を引くワラビーズ(ラグビー・オーストラリア代表)が存在したことに衝撃を受け、その足跡を追い駆けたストーリーだが、私が主人公の本が日本で売られているなんて、まるで夢のようだった。

2人しかいない兄弟、弟の体験を兄が描き、それが文学賞を受賞した。

母にとっては、さぞ嬉しかったに違いない。残念だったのは、父が受賞の3ヶ月前に他界したことだ。

母はいつも感情をむき出しにした。大いに喜び、また泣き・・・ 私が試合のメンバーとして名前が載っているだけで、わざわざ駅前の新聞屋に駆け込み、大量の新聞を買い込んで来た。

兄の描いた作品を、ノンフィクション作家"山際淳司氏"が週刊誌の1頁に上手に纏めてくれた。

彼はプロ野球などの著作を数多く残し、徹底的な取材を通じ、通り一遍の根性論などで片づける傾向の強かったスポーツジャーナリズムに一石を投じた。このコラムを書いた2年後に47歳の若さで他界。

この週刊誌も母が大量に買い込み、シドニーの私に送ってくれた。

 

さて、貴重な20冊・・・ 私は"この人に読んで欲しい"と思う人に、表紙の裏に「贈 (姓名)様」、日付と私の名前を書き入れ、直接その本人に手渡した。ラグビー関係者が多く、"ワラビーズに日本人が居た" と書かれた新聞記事に私が衝撃を受けたように、私の説明を聞いて、誰もが驚きと共に本を喜んだ。
結局、自分の分を残すのを忘れ、私は20冊全部を手渡してしまった。

この本にも描かれているが、当時、私はシドニーに寄港する船舶(主に日本船)に食糧や土産品を供給する仕事をしていた。入港時に食料や土産品の注文を取り、出港までに商品を調達する仕事で、時間に追われる仕事だったが、日本で培った営業の仕事が役に立った。

商談の相手は、主に司厨長(厨房を預かるコック長)が中心だったが・・・ コンテナ船、巨大なタンカーや車両運搬船など、日本とオーストラリアの経済活動(貿易)の根幹を担う船舶事業、その船員達から聞く生の話は、知らなかった世界を垣間見るようでとても興味深かった。また、あの頃数多く入港したマグロ船の船員達とはよく飲みに出掛けた。「板子一枚下は地獄」と言われる世界で生きる男達、荒々しさの反面、家族や子供への掛け値ない心のミスマッチに人間的な原点が感じられた。豪華客船「飛鳥」では、厳選された最高級の食材を調達しなければならない緊張感の裏で、何度も"まかない食"をご馳走になり、料理のレシピを習ったりした。時には船内のエンターテインメント・セクションを覗かせてもらった。

船から一度も降りなかったピアニストを描いた「1900」 日本名"船上のピアニスト"は、私のお気に入りの映画だが・・・ 時代背景は全く異なるものの、私の「飛鳥」体験は、1900年に生まれた主人公が少年時代に垣間見た客船の世界を観るのと同じだった。

南極観測船「しらせ」は、南極までの往路はパースで食料等の物資を調達し、帰路はシドニーで不足していた新鮮な野菜や、日本への土産品などを調達する。任期を終え、日本に戻る途中の越冬隊員から聞く生の南極の話は、短く纏められたドキュメンタリーの裏側を垣間見るようで面白かった。

93年の「しらせ」に乗船していた越冬隊長(その年で退任)から、シドニー寄港時にテニスコートを探して欲しいという依頼があり、案内することになったが、彼は私の高校の先輩だった。

高校時代はテニス部員だったそうだが、ラグビー場の隣にあったテニスコートがプールになっているという話題から「僕の時代のラグビー部には・・・」という話題になり、「1年生の時に一緒にテニス部に入部したのに、途中からラグビー部に・・・」 と聞いたところで、私はそれが誰なのか理解できた。その同級生は私にはとても身近な人で、高校・大学のラグビー部の先輩だった。その先輩は92年の早大ラグビー部の監督を担ったが・・・ 南極昭和基地に越冬中だった彼は、93年1月の大学選手権決勝戦で、その先輩(同級生)が終了1分前まで優勝監督(大学日本一)になり掛けていたことを知らなかった。

テニスコートから「しらせ」に戻り、何千年も前に閉じ込められた空気がパチパチと音を立ててほとばしる "南極の氷" を入れたウイスキーのオンザロックをご馳走になった。話題は徐々にラグビー一色となり、旬な話題として、私は「死に至るノーサイド」について話すことになった。幻の日系人ワラビーズを追い駆けた体験から間もない頃で、私の話す内容は、研究者として確固たる肩書を持つ彼に大きなインパクトを与えたようだ。また、南極での長い越冬生活で、そのような話に飢えていたのかもしれない。

出港の際に、私は「死に至るノーサイド」を一冊彼に手渡した。

もちろん、表紙の裏には「贈 〇〇様」と書き入れ、日付も私の名前も書き入れた。

今後の交流も期し、彼に私の連絡先も渡した。日本までの航海中に読み終え、感想などを書いた研究者らしい丁寧な手紙が日本から私の元に届いた。

 

今回のブログに描きたかったのは、実は彼と出逢ったことではない。

シドニーには「本だらけ」という日本書籍を扱う古本屋がある。

一度だけ覗いたことがあるが、私の目的の本は、どうしても「死に至るノーサイド」になってしまう。

ただ、日本の古本屋でもそうだが、ほとんど見つけたためしは無い。

シドニーの古本屋、オーストラリアを描いた内容、ひょっとしたらという気持ちはあったのだが・・・

ハードカバー(単行本)が一冊置かれているのが私の目に飛び込んできた。

早速手に取り、表紙を開いてみたが・・・

「贈 〇〇様」 そして日付と私の名前が記されていた。

あの20冊の内の1冊が、シドニーの古本屋の棚に置かれていたのだ。

「エ!どうして?」と一瞬、私はきつねにつままれたような気持ちになったが、それは正に、あの南極観測船「しらせ」の出港時に渡した1冊だった。不可解な気持ちのまま、私はその1冊を購入したが・・・

 

本人の名誉のために記しておくが、きっとオーストラリアに留学する若者に「オーストラリアの文化や歴史を知ることの大切さ、そして、それらを知れば知るほど言葉や文化の壁を感じるに違いない」というメッセージを込めて、この本を手渡したはず・・・ と私は信じる。

私にはその1冊が愛おしかった。その1冊をいつでも手に取れる目の前に置いている。

この一冊は日本とオーストラリアの間を旅し、20年以上の歳月を経て私の元に戻って来たのだ。

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この時期になると、心なしか晩秋の日本が恋しくなる。

そして、この時期になるといつも思い浮かぶのは、「男はつらいよ」フーテンの寅さんの旅のシーン。

旅の途中、妹さくらの夫ひろしの実家に立ち寄り、ひろしの父親(大学教授/志村喬)から普段のなりわいを聞かれ、「年がら年中、旅暮らしでさぁ」、「寂しくはありませんか」、「寂しくなんかありゃしませんよ、慣れっこですから」・・・ 「寅次郎君、いつだったか旅をしていた時にね、暗くなりふと気が付けば、ポツンポツンと家の灯りが点灯し、息子を呼ぶ母親の声が聞こえる、 庭にはリンドウの花が咲き乱れている。 

ああ、あの家にも家族が暮らしているんだなぁ・・・ そんなことを思う内に涙が込み上げて来てね」

記憶のままを書いたため、実際の台詞(せりふ)とは異なるかもしれないが・・・

深まる日本の秋を思えば、私は無性にそんな旅がしたくなる。

田舎で生まれた私は田舎の景色に心惹かれ、訪日の際、誰にも知らせず暫しどこかに消えてしまう。

数年前に大分に消えた。いつの時代に誰が造ったか分からない道祖神、寅さんならきっとこの前で手を合わせ、葛飾柴又に住む家族の安寧を祈るに違いないが、ここでは自然にそんな気持ちになる。

そんな私の背中超しに、運動靴に制服姿の中学生が自転車で通り過ぎて行く。部活を終え、お腹をペコペコにした少年が坂道を一気に登り、家路を急いで行く。息子の帰りを待つ母親は、台所で夕ごはんの支度を急いでいるところだろう。まるで山田洋次の世界だが、どこか幼い頃の記憶に重なる。

何の変哲も無い日本の原風景・・・ そんな光景がどこにでもあった。

 

9月末に放送が終了したNHK朝ドラ「ひよっこ」は、 日本の原風景をちょっと感じさせてくれた.。

舞台は茨城県北部の"奥茨城村"。実在しない田舎の村だが・・・

昨年12月、その奥茨城村の玄関とも言える常陸太田市を訪れる機会に恵まれた。

太田第一高校教師、ラグビー部監督、そして、私にとって友人であり、コーチ仲間でもある菅井先生から講演の依頼があった。この訪問が、「ひよっこ」を更に楽しませてくれることになった。

菅井先生の住む茨城県北西部の町は、「ひよっこ」"奥茨城村"の舞台であり、その町で幾つかのシーンが撮影されたようだ。隣の栃木県で生まれ育った私にとって、その風景や方言はとても身近であり、菅井先生はもちろん、茨城の友人達を「ひよっこ」の登場人物になぞらえながらドラマを楽しんだ。

菅井先生は、優しい心で乗客を見守るバスの車掌"次郎さん"、出番は少なかったが、人を思いやる深いものが感じられた。「Mr.茨城」を感じるモダンでバンカラ、いつも前向きな宗男さんは飛田先生、みね子の高校の担任は木村先生、生徒達の将来をいつも心配している。茨城県人という設定では無かったが、みね子の集団就職先の寮の舎監さんは鈴木先生・・・ 英語教師の鈴木先生には、昨年12月の講演の際に出逢い、今年英語クラブのオーストラリア研修の際にはシドニーで再会できた。

クレイグの講演を鈴木先生や英語クラブの部員(生徒達)がサポートしてくれたが、日本の田舎暮らしを愛するクレイグにとって、茨城を訪ね、茨城の人々と触れ合えたことは、素敵な体験だったはずだ。

菅井先生、飛田先生、木村先生は、茨城県の高校ラグビー界を牽引するコーチ仲間だが、セミナーなどで再会する度に、彼らの熱心な姿勢に頭が下がる。それぞれの個性(あじ)は「ひよっこ」以上に濃く、たった2泊3日でも、クレイグや私は茨城のファンになった。

茨城県が「県別魅力度ランキング」で5年連続ワーストNo1だったそうだ。

県庁や県民は「ひよっこ」に大きな期待を寄せていたようだが・・・

ドラマの後半は、昭和40年代の「すずふり亭」周辺のシーンが多く、茨城のシーンなのに、それが茨城と特定されず、視聴者には単に主人公みね子の故郷としか映らなかったのかもしれない。

魅力度ランキングの基準は分からないし、それを真面目に捉える必要はないかもしれないが・・・

とにかく、原風景を残す茨城に魅力を感じる私にとって、あまり洗練されて欲しくないという気持ちがある。茨城は今のままで十分魅力があり、きっと投票する人達がそれを知らないだけなのだ!

宇都宮の餃子には浜松というライバルがあるが、水戸納豆に敵は無い!私はシドニーで水戸の"おかめ納豆"を食べている。さつまいもは鹿児島と思っていたが、干し芋は茨城産が全国の9割を占める!

こうなれば、稀勢の里や高安、そして女子ゴルフ界の新鋭"畑岡奈緒"の活躍に期待するしかない!

シドニーに移住したての約30年前、私は偶然に奈紗ちゃんの父親に出逢い、互いに励まし合いながら頑張った仲だった。奈紗ちゃんとは日本で何度か会ったことがあるが、真面目さや素直さ、礼儀正しさは親譲り、そして芯の強さも親譲りに違いない。彼女の活躍も私にとって茨城の魅力なのだ。

「晩秋の日本」に想いを馳せることからブログを書き始めたが、思わぬ方向に進んでしまった。

夏に向かっているのに、今年のシドニーは寒い日が続いており、カレンダーの残りを見ながら、春なのか秋なのか分からなくなってしまう。普通に暑ければ何も思わないのだろうが、朝晩の寒さが私の季節感を狂わせ、我が家の周りは新緑真っ盛りなのに、私を「晩秋の日本」へと誘うのかもしれない。

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かつてカンタス航空の機内には「スピリット」という日本語機内誌(隔月発行)が置かれていた。

オーストラリアのホットな情報はもちろん、トレンディーなレストランやオージーライフを端正なグラビアを交えて紹介、オーストラリアに向かう者をワクワクさせ、日本に帰る者にはちょっとした寂しさを与えるようなラブリーな情報誌だった。英文の機内誌「Qantas Spirit of Ausyralia」は、今も続いているようだ。

「スピリット」2000年(11月‐12月号)と2001年(7月‐8月号)を発見。

"For the game of rugby"「熱い男たち」と題し、表題には、「現在、世界ナンバーワンの実力を誇るオーストラリアのラグビー、その背景にしっかり根付いたラグビーという一つの文化がある。シドニーに住む加藤俊久氏はそんなオーストラリアン・ラグビーの世界にのめり込んだ一人だ」 と書かれている。

99年のラグビー・ワールドカップでオーストラリア(ワラビーズ)は2度目の優勝を果たし、文字通り世界No.1を誇っていた時代だ。読み返してみると、あの頃のことが昨日のことのように蘇って来るが、今でもそのまま当て嵌まるような内容に、"ブレていない自分"を確認できるのは嬉しいことだ。

 

「オーストラリアのラグビーを知ってから、本当にラグビーが好きになりました」と加藤氏は言う。

そんな書き出しで始まるが、17年前、私はワクワクしながらこのインタビューに応じたはずだ。私は日本で一生懸命にラグビーをしたつもりだ。ただ、根性も無かったし、タックルで割れた顔面をピッチで縫ったことはあるが、痛さに真っ向から立ち向かっていくようなアグレッシブな選手ではなかった。

そんな私にとって、日本とオーストラリアのラグビー(スポーツ)における「美学の違い」はショックでさえあった。その頃、共に6歳からラグビーを始めた息子達が15歳と12歳に成長し、息子達にオーストラリアでプレッシャーの無いラグビーをプレーさせることが出来たこと、また親としてストレスが溜まることが無かったこと・・・ 私は「オーストラリアでラグビーが好きになりました」と率直に述べたに違いない。

 

日本とオーストラリアのラグビーの違いを聞かれ、私は単なるレベルの違いではなく、「文化」の違いを述べている。そして、「ラグビーそのものが文化として生活の中にある、そしてラグビーが人格や信頼関係を築く場として確立されている」と続けた。それも息子達のラグビーから肌で感じた言葉だったはずだ。

私は息子達の所属するジュニア・ラグビークラブの指導に関わり、オーストラリアのコーチ資格にも挑戦した。コーチにとって第一項は「選手の安全対策」、そして、コード オブ コンダクト(品行規約)、マナーの順守と続き、その後にテクニックやスキル、戦略や戦術、ルール、分析、フィードバック・・・へと進む。

その中で、選手に向き合う姿勢の指導要綱は感動的だった。それは「スピリット」にも紹介されている。

「選手を集めて話す時、コーチは必ず自分の顔を太陽に向けて話すこと」、選手がまぶしくなく、コーチの話に集中するための基本だという。「ジュニア選手に話す時、コーチも同じ目線で話すこと」、「ホイッスルは最小限に」、「フィードバックの重要性」、「明確に、明瞭に、建設的に、即時、即刻、できるだけ肯定的に・・・」 今読み返しても違和感が無いのは、それが不変の文化として根付いているからだろう。

実際、息子2人のコーチに"上から目線"で指導するコーチは一人もいなかった。

現在、次男は教員をしているが、3年前にラグビーリーグ・クラブを起ち上げ、そのクラブの監督を担っている。ラグビーリーグのレジェンドや元ワラビーズの息子が選手としてプレーしているのは笑えるが、彼らはモンスターペアレントではなく、監督である次男のコーチングを温かく見守っている。

今年9月、チームをシドニー地区で優勝に導いた。そこには、指導者になった今、かつて自分が受けた指導をしっかりと受け継いでいる姿があった。

生活の一部として、連綿と受け継がれている「文化」を感じられることは実に幸せなことだ。

01年発行の「スピリット」には、そのようなオーストラリアの文化に魅せられ、それを日本に伝えようとした私の足跡が紹介されている。シドニーで開催された第一回「カンタス オーストラリア・コーチングコース」、今でこそ「カンタス・ワラビーズ」であるが、カンタス航空は私が開催するオーストラリア・コーチングコースの冠スポンサーになってくれた。

開始から16年間に、レベル1コース11回、レベル2コース4回、レベル3コース2回、7Sコース3回を開催することが出来た。現在、ARU(オーストラリア・ラグビー協会)に、日本人コーチ全員の認定に関するデータの洗出しを依頼している。純粋に日本にオーストラリアのラグビー文化を根付かせようと努力して来たが、ラグビーが巨大なマーケット化しつつある現状で、私は進むべき方向に悩んでいる。

先日、コーチ仲間が連絡をくれた。「11月にワラビーズがジャパンと試合をしますが、それに合わせて、加藤さんは何かコーチングの機会を予定されていますか?私は本気でサポートしますので・・・」

そのような言葉が、私に元気をくれる。そして、本気で「続けて来て良かった」と思わせてくれる。

今回は間に合わないが、やはり私はストップしてはいけないのかもしれない。

 

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98年にオーストラリアへの遠征チームの受け入れを開始してから、今年で20年になる。

手探りのような仕事だったが、それが私の本業となり、この20年間で請け負ったスポーツチームの遠征は80を超える。私の経歴の関係で90%以上がラグビーに関する遠征だが、プロ野球選手の自主トレ、高校体操競技部、女子柔道日本代表など、他スポーツの遠征を任される機会にも恵まれた。

ラグビーに関しては、日本代表、関東代表、TL、社会人、大学、高校、ジュニア(ラグビースクール)など多種多様であるが、70回以上の遠征のそれぞれに忘れられない思い出がある。
*写真/03年ヤマハ発動機・ラグビー部の遠征

遠征を企画する場合、まず私がするのは、「私ならどのような遠征を望むだろう?」と想像力を膨らませることだ。私自身、85年のニュージーランド遠征に参加したことが起因して、こうして南半球に30年住んでいる訳で、もしかしたらこの遠征が参加者の人生を変えてしまうかもしれないという責任感や緊張感、時にはそれを楽しみに感じることもある。

私の場合、極めて単純だった。異文化体験に手放しで感動し、4ヶ月後に迫った妻の出産、生まれてくる子は男子、ラグビー文化が根を張るこの地で育てたい・・・ それが私が移住を決意した実の理由だった。元オールブラックスの選手から「うちで働けばいいよ」と言われ、私はすぐにその気になった。ネットもスマホも無い時代、そのオールブラックスの選手がどのような選手なのかも分からない。後になって知ることになるが、彼の名はブルース・ロバートソン、目利きのラグビーマニアが、今も歴代オールブラックスのベスト15に選ぶほどのセンターだった。オールブラックスとして102回のテストマッチに出場・・・ 引退して4年、33歳の彼が私達の遠征の試合に数分間出場したのだ。

敵陣10m、私はラインアウトから抜け出し突破を図るが、もろに正面からタックルを受けた。それまで経験したことの無いもの凄い衝撃、私が立ち上がった時に、彼はトライをして戻って来るところだった。

https://www.youtube.com/watch?v=gOSvcpbOS34

  ニュージーランドではなく、なぜ今オーストラリアに住んでいるのかは置いておくとして、私はあの遠征を体験しなければ、絶対にオーストラリアに移住することは無かった。

*写真/キャンピージーをフォローする選手は、現ワラビーズ、マイケル・チェイカ監督と思われる。

この仕事を始めた頃、地域クラブの試合を観戦するだけで、遠征チームのコーチや選手達は計り知れない喜びを感じてくれた。当時はワラビーズの選手がクラブの試合に参加していた。ランドウィック・クラブのグラウンドではキャンピージーが疾風のごとく目の前を駆け抜けた。

時代の流れと共にその様相は一変し、今ではポテンシャルの高い選手をハイスクール時代からアカデミーが囲い込み、クラブレベルの試合では、代表クラスのプレーを観ることは出来なくなった。

それに反し、外国人選手の日本流入が増え、日本に居ながら元オールブラックスやワラビーズの選手達の卓越したプレーを観ることができるようになった。また、質の高い外国人コーチのコーチング・セミナーにも容易に参加できるようになった。その上、あらゆる情報がインターネットや出先でもスマホで手に入るようになった。そして、2015年のラグビーW杯では、ジャパンがスプリングボクス(南ア代表)を破り、リオ・オリンピックでは7Sジャパンが7Sオールブラックスを破った。日本もラグビー先進国に・・・?

日本からオーストラリアにやって来るラグビーチームに、どのような遠征を体験させれば良いのだろう?

どうすれば喜んでもらえるのか?どうすれば満足してもらえるのか?・・・ とても難しい時代になった。

私は、敢えてシンプルに彼らを迎える。

私は、遠征の仕事の醍醐味(喜び)を、チームの一員になることと捉えている。

時にはツアー・コンダクター、時にはコーチとしてグラウンドに立ち、時にはグラウンドキーパーの小父さんになり、時にはマネージャーとして水を汲み、時にはホテルスタッフとしてトラブルを解決、そして、選手が怪我をした時には親代わりとなり・・・

まずは、彼らの要望やゴール(目的)を優先し、身の丈に合ったコーチングや試合のコーディネートを心掛ける。そして、出来る限り国際交流や文化交流の機会を作るが、押し付けではなく、できるだけ自然な形を保ちたいと思う。過保護は若者の可能性を潰してしまうからだ。

ただ、良くも悪くも私は往々にして熱くなり過ぎる。私自身が、遠征を体験したことから新しい世界や新しい人生に出逢い、オーストラリアに住んでこの30年間に様々な体験をし、様々なことを知った。そして、これからも続く冒険のような未来・・・ 私はそれらを投げ掛けずにはいられないのだ。

よく 「好きなことを仕事に出来て羨ましいなぁ」と言われるが・・・

時間や日程の正確性、規律正しさを評価する日本側と、スローで大まかな姿勢を貫くオーストラリア側の文化や習慣の狭間で、私はずっともがき続けて来た。最近は慣れたが、ドンパニック!、ノーウォーリーズ!、ノープロブレム!にどれだけストレスを溜めたか分からない。異なる文化や習慣の行き違いのために不本意なやり取りを余儀なくされることもあり、「好きなことを仕事に・・・」とは裏腹に、「好きなことが仕事だから・・・」 私の曲げられない心や姿勢がトゲになることもあるようだ。

近年、遠征に訪れるチームに新たな流れが生まれている。

決して強豪チームではない、部員数も少人数・・・ にも関わらず、良いチーム。

「海外遠征を実施できるのは限られたチームだけ」と考えられがちだが、そんなことはない。夢や憧れを持つ選手がいて、それを家族が後押し、指導者や学校がそれを理解すれば、海外遠征は実現する。

新しい流れの主役はあくまで選手であり、日本で続けるルーチンの延長ではなく、ラグビーも文化も何もかも、知らなかった新しい世界に飛び込むような遠征・・・

それが私にとって原点なのかもしれない。

私は、よく 「ワラビーズになった日系人"ブロウ"」の数奇な運命を選手達に熱く投げ掛ける。

移住した直後、私は彼の足跡を追い駆けた。その顛末は「死に至るノーサイド」に描かれている。

ミーティングの後に、引率されたコーチ(教師)から、「加藤さん、ワラビーズと言っても、うちの選手達はそれが何だかよく分からないと思うんです」と指摘を受け、私は一瞬ハッとしたが・・・

選手達の食い入るような眼差し、中には涙を浮かべる選手も・・・ ワラビーズなんて分からなくたっていい、選手達は日本人の血を引くラグビー選手から何かを感じてくれたはずだ。私はそれで十分だった。 

統率された挨拶も無く、トレーニング中の掛け声も無い、選手それぞれが個性豊かで笑顔が溢れ、どんなことでも真面目に一生懸命に吸収しようとする。私はそんな流れが続くことを願っている。

今、私の元には、4名(男子部員2名/女子部員1名/引率教師1名)の遠征依頼が届いている。

「私がそのメンバーの一人なら、私はどんな遠征を望むだろう?」 私はその準備を開始している。

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「イースタンサバーブズ・ラグビークラブ日本遠征50周年記念パーティー」 開催当日の早朝5時、

スピード氏は坂田氏と私をボンダイビーチに誘った。サーフクラブ内のジムで20分間ジムトレーニング、その後40分、テラスで若者に交じってピラテス・クラスに参加、そのインストラクターはドラマ「ボンダイ・レスキュー」に出演しているムキムキ・イケメンのアンソニー、それから20分はスイミング・・・ 

クラブでシャワーを浴び、ボンダイパビリオン前のカフェで同年代と情報交換(世間話)・・・

 

「まるで、スピードさんは修行僧のようだ!」と坂田氏は言ったが、スピード氏はこのボンダイビーチでの早朝の"おつとめ"を50年以上続けている。薄暗い内からボンダイビーチに人は多く、老若男女を問わず、誰もがすれ違いざまにスピード氏に 「How are you? Keiran」 と声を掛ける。

ボンダイビーチでそれをしないのは、観光客かボンダイ近辺に住んで浅い住民かモグリに違いない。


モーニングティーを飲みながら、私は坂田氏に尋ねた。

「オールブラックスジュニアを破ったのは確か68年でしたね。来年は50周年ですが、あのNZ遠征を記念したパーティーは?」 「あの遠征の後、桜とシダの会が組織され、様々な集まりがあるにはありましたが・・・」 残念ながら、結局明確な返答は却って来なかった。50年を境に解散するという話もあるようで、日豪の文化や価値観の違いに言いようのない寂しさが感じられた。

 

土曜日のランチタイム、イースタンサバーブズのクラブハウスには三々五々、50年前に日本に遠征したメンバーが集まって来た。70歳を超えているのにその誰もが矍鑠(かくしゃく)としている。久しぶりの再会を喜び、ビールを酌み交わしながら懐かしい思い出話に花が咲く。

そして、このパーティーのためにわざわざ日本から駆け付けた坂田氏(全日本・近鉄の2試合に対戦相手として出場)を、集まった誰もが大歓迎した。50年前の写真やメンバー表を確認し合う姿にラグビーで結ばれた友情の素晴らしさや深さを感じ、私まで嬉しくなった。

日本遠征の記録は50年経った今も丁寧にファイリングされ、更に各々が思い出の写真を持参していた。

ジョン・コックス氏はゴールキッカーだったそうだが、彼の記録は、イーストの歴史上、今も破られていないそうだ。67年の遠征後、この遠征メンバーが中心となり69年にクラブ選手権で優勝するが、準決勝の終了間際の彼の劇的な逆転ゴールが無ければ、決勝には進めなかったそうだ。

今も行われているかどうか分からないが、テストマッチには試合終了後にお互いの健闘を称えジャージを交換し合うという伝統がある。50年前の全日本Vイーストの試合はテストマッチではないためジャージの交換は行われなかった。遠征当時キャプテンだったデビッド・ホワイトヘッド氏が、翌68年の全日本のNZ&オーストラリア遠征時に受け取ったという公式ジャージを皆に披露し、50年前に全日本と対戦した思い出のお裾分けをしたが、彼はそのジャージをクラブに寄贈した。
きっと、そのジャージはクラブハウスの壁に飾られ、若いプレーヤーはもちろん、クラブを訪れる誰もが1967年に行われたイーストの日本遠征を知るに違いない。

そこに居た誰もが紳士であり、またフレンドリーでもあり、私も彼らのように年齢を重ねたいものだ。

私はこの遠征に直接関係は無いが、出席者全員からウェルカムの心が感じられ、実に心地良かった。
イーストは息子2人がプレーしたクラブであり、私や妻は92年から毎週のようにこのクラブを訪れた。

98年には、30年前の日本遠征の訪問地や試合会場(福岡、大阪、天理、東京)にスピード氏を案内し、遠征中にメンバーが宿泊した芝パークホテルにも宿泊させることができた。

そして、今年4月、東京神田明神で行われた息子の結婚式にスピード氏を招待し、間も無く取り壊される芝パークホテル旧館のラグビーバー(フィフティ―ン・バー)に連れて行くこともできた。

その二人旅についてはスピード氏からチームメイトに伝わっており、「Toshi、キアレンを案内したのは貴方だったんだね」 と誰もが私をこの会の一員として認めてくれていた。そして・・・

2019年には、W杯観戦を兼ねて、再び全員で遠征地を訪ねようという話題で盛り上がった。

スタッフ・選手を含め30名弱の日本遠征・・・

50年後に20名がクラブに戻って来た。彼らの多くが代表としてニュージーランドやヨーロッパ諸国の遠征に参加しているが、あの日本遠征は忘れがたい特別の思い出としてそれぞれの心に残っている。

芝パークホテル、鞘ヶ谷グラウンド(八幡製鉄グラウンド)、プライムミニスター”サトウ”(首相官邸に招待された)、ギンザ(1豪ドル/400円の時代であり、どこででも飲めた)・・・

彼らの口から様々な固有名詞が飛び出すほど、50年前の記憶は鮮明に残っていた。

スピード氏の座右の銘 「Rugby opens many doors(ラグビーは多くのドアを開く)」

その言葉を聞いて、共感するラグビー関係者は多いのではないだろうか。私もその一人だが、ラグビーが開いてくれたドアを開けるのも、そのドアをくぐるのも、きっとその人次第なのだろう。

今回、また新たなドアが開き、そのドアをくぐり抜けたような気がする。

 

 

 

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私は単身88年末にシドニーに到着したが、家族(妻と長男/3歳、次男/1歳)は89年4月に遅れて到着した。まず、私が考えたことは、私達家族が安心して住める住居を確保することだった。知人の紹介で、私は1900年に創立されたイースタンサバーブズ・ラグビークラブ(イースト)を訪ね、OBのキアレン・スピード氏(大手不動産会社の取締役)に相談することになった。
 

イーストは67年に日本遠征を挙行し、全日本を含め6試合を行う。当時、海外の強豪チームの来日は稀であり、首相官邸にまで招待されるほどの歓迎ぶりだったようだ。スピード氏はその日本遠征に12番センターとして参加、70歳を超えた今も、心から日本を愛するオーストラリア人の1人である。

その翌年の68年に全日本はニュージーランド遠征を挙行し、あの伝説のオールブラックスジュニアを23-19で破る快挙を成し遂げるが、その試合で全日本のウィング坂田好弘氏は4トライを記録する。
前年のイーストの遠征で、スピード氏は全盛期の坂田氏(25歳)の突進を悉(ことごと)く低いタックルで止め、近鉄Vイースト戦は0-25で一度もゴールラインを割らせなかった。

その試合が書かれた新聞記事を振り返る2人は、まるで少年のようだ。

日本の新聞とオーストラリアの新聞の切り抜きが丁寧にスクラップされ、日本の新聞記事には写真と共に「近鉄TB坂田突進したが、豪TBスピードのタックルにつぶされる」とコメントが添えられている。
写真は色あせても、2人の脳裏には確実にその瞬間が蘇っているのが私にも伝わって来る。

イーストの日本遠征から50周年の今年、それを記念したパーティーが開催される。

スピード氏はそのパーティーの招待状を坂田氏に送り、坂田氏は二つ返事でそれに応じた。折しも、2019年ラグビーW杯、2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けた日豪友好の催しがシドニー総領事館公邸で開催され、そのパーティーへの参加も日程に入っていたが、坂田氏は「僕にとってのメインは50周年のパーティー!」とキッパリ言い切る。

私も一緒にスピード氏の家に泊まり、朝食後の素敵なひと時・・・

いつまで経っても話が尽きないのは、どこの世界でも一緒に違いない。途中から、近所に住む息子のジェイソンも会話に加わり、父親と日本から訪れた親友、そしてその息子のラブリーな光景を眺めながら、彼もまた父親のように生きていくのだろうと思えてならなかった。私の息子達にとってもスピード氏は尊敬する存在であり、4月に日本で行われた次男の結婚式には親族として参列してくれた。


スピード氏と坂田氏の尽きない会話は・・・

タックルに始まりタックルに尽きるような真剣な会話に進んでいた。

痛いからか?その痛みを超える勇気が必要だからか?・・・
タックルには忘れられない思い出が付きまとう。私自身、学生時代最後の試合となった大学選手権準決勝の同志社戦、対面だった林敏之選手(当時2年生)から受けたタックルの瞬間を今も忘れない。総領事館公邸のパーティーで、38年ぶりに再会した林氏とその話が挨拶代わりとなった。メジャーな世界を歩んできた林氏にとっては数千回の内の1回かもしれないが、私にとっては忘れられない思い出だ。

「相手を壊すか、自分が壊れるか、とにかく必死でした!」 "壊し屋"の異名を取る彼らしい返答が戻って来たが、彼の真摯な心が感じられた。

スピード氏は、私達家族に、スクールやショッピングセンター、ボンダイビーチにも近い住み易い住居を紹介し、その後の20年間、私達はそこに暮らし、私達の身元保証人も引き受けてくれた。

シドニーでの生活に慣れ始めた頃、シドニーに立ち寄った坂田氏を、スピード氏は自分のベストフレンド(親友)として私に紹介した。憧れだったし、遠い遠い存在だったスーパースターをオーストラリア人のスピード氏が、事も無げに私に紹介したのだ。あれから25年の歳月が過ぎ、ラグビーで培った日本とオーストラリアを結ぶ深い深い絆(友情)の片隅に加えてもらえたことは、私にとって貴重な宝物だ。

 

兄の著作「死に至るノーサイド」には、以下のような行(くだり)がある。

日本人としてインターナショナルプレーヤーと言えば、現大阪体育大学ラグビー部監督の坂田好弘が筆頭だろう。近鉄時代の坂田選手はウィングとして3人のタックラーを引きずっても走ったという。彼は昭和44年にニュージーランド留学でカンタベリー州代表となり、オールブラックスにあと一歩まで迫った。

 

その伝説のプレーヤーに紹介され、私は出逢いの感動を手紙にしたため、93年に出版された「死に至るノーサイド」を同封したが、「読み進みながら、ニュージーランドに留学した頃の思い出が浮かんで来て、涙が・・・」 という心のこもった謝礼の手紙が私の元に届いた。

 

今朝の会話で 「近鉄時代に3人のタックラーを引きずっても走ったのに、なぜスピードさんには・・・」

という私の質問への2人の反応が、最初の写真の笑顔だった。

 

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2015年に開催されたラグビーW杯を観戦して以来、「事実は小説よりも奇なり」(南半球に長く暮らす私にとって、ジャパンが南アを破る快挙は、文章では到底勝てない凄い出来事)という思いがして、何かを書こうという気が遠退いてしまった。そのまま、私のブログは2015年8月24日の「もうすぐワールドカップ!」で途切れてしまっている。

自己満足な内容や長文のブログが流行らないのも理解しているが、「ブログの更新を楽しみにしています」という連絡を頂き、それは私にとってこの上ない喜びだった。

ストップしてから2年になるため、アメーバブログの更新されたフォーマットやその書き方を忘れてしまい、何とも心もとない再出発である。

日本ではトップリーグが開幕し、ブレディスローカップ(ワラビーズVオールブラックスの伝統の定期戦)には、それほど大きな関心が向けられていないように感じるが・・・

第一戦、ワラビーズはオールブラックスに34-54で敗れ、前半は6-40というワラビーズ史上最悪の点差で折り返し、最終的に点差は詰めたものの、54失点は史上最悪だったようだ。ここ数年、「オールブラックスには勝てない!」というイメージが強く、私自身、かつてのように敗れた後には気落ちしてしまうようなことが無くなってしまった。

 

今回のブログはワラビーズの試合云々ではなく、偶然に観る機会のあった「THE HAKA / John Eales」という番組から感じた大きな感動について記したいと思う。

ジョン・イールズと言えば、99年W杯で2回目の優勝を果たした際のワラビーズ・キャプテンである。引退後、彼はオーストラリアのラグビー大使として第一線の舞台でラグビー発展の努力を重ね、将来はオーストラリアという国を牽引する存在になるだろうと言われている。この番組は、スポーツチャンネルや一般の地上波ではなく、私は滅多に観ることの無い「ディスカバリー・チャンネル・オーストラリア」で放送されたため、チャンネルを回しながら偶然観る機会に恵まれた。元ワラビーズキャプテンが、今年のブレディスローカップ開催を機に、敵地ニュージーランドを旅した紀行番組と思ったのだが・・・
 

1996年7月6日、ウェリントン・アスレチックパークでブレディスローカップが開催され、イールズはキャプテンとして試合に出場するが、ワラビーズは試合前にオールブラックスのハカに向き合わず、自陣22m付近でハンドリングドリル(ウォームアップ)を続けた。
私はこの試合を記憶している。90年代から2000年代初頭、ワラビーズはオールブラックスと最も迫った時代であり、W杯イヤーの91年~03年を見れば、ブレディスローカップ獲得イヤーは、ワラビーズが7回、オールブラックスは6回である。98年から02年までは、ワラビーズが5年連続で獲得している。ワラビーズにとって黄金時代の過渡期とも言える時期にハカに背を向ける事件は起きたのだ。試合結果は38ー3、その時点でブレディスローカップ史上、最大の点差であり、ワラビーズにとって最悪の結果だった。

イールズの旅のストーリーはそこから始まる。
オールブラックス史上、最も素晴らしいキャプテンと言われるウェイン・シェルフォード(キャプテンとして出場したテストマッチでの敗戦ゼロ)が案内役を引き受け、
イ―ルズはNZの多くの街を訪ね、多くの人々と交流し、博物館などにも足を運び、実際の体験からNZ国民にとってHAKA(ハカ)がいかに大切なものかを実感する。そして、イ―ルズの心は、あのテストマッチ(1996年7月6日、ウェリントン・アスレチックパークでのブレディスローカップ)に戻るのである。

イールズは純粋に語り始める。「偉大なジンザン・ブルックがHAKAを率いていたんだ。私達はそれに目を向けず、HAKAの力を損なうように努めたのだが、私達が得たものは、私達自身を小さなものとし、より劣勢にすることだけだった。(ワラビーズの)ゴールドジャージを身に着け、勇気のために、仲間のために、スポーツマンシップのためにそこに立つはずだったのに、あの日、我々には何もなかった!」

旅の途中に訪れた戦争博物館では、第一次世界大戦中の戦地で部隊全体がハカで士気を高める古い映像を目の当たりにし、マオリ族の記念館では子供達と共に真剣な面持ちでハカを習うイールズの真面目な映像が印象的だった。

そして、何と言っても圧巻は、ジョナ・ロムの葬儀の際に、墓前で行われたオールブラックスOB
達による泣きながらのハカの映像だった。
 

素晴らしいドキュメンタリーだった。
ワラビーズとして86キャップ(91年~01年)を持つイールズは、伝統のブレディスローカップで20回以上オールブラックスと戦い、それは彼の誇りであるに違いない。そんな素晴らしい経歴の中にも、彼には忘れることのできない大きな後悔があったのだ。
触れたくない記憶、触れられたくない記憶・・・
イールズの純粋な姿勢、かつて戦ったオールブラックスの仲間たちの友情、そして連綿と続く文化や歴史がイールズの後悔の念を溶かしていくのが感じられた。

「逃げるな、向き合え!」とイールズの旅に励まされたような気がする。

 

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ラグビーのワールドカップ開催まで1ヶ月を切った。

ラグビー発祥の地イングランドで開催されるワールドカップには是非行きたいと思っていたが・・・

09年、故石塚さんの愛したリッチモンドの地を訪ね、私はその足でラグビーの聖地と呼ばれるトゥイッケナム・ラグビー場に向かった。1907年に建立された8万人強を収容するラグビー専用スタジアムを目の当たりにし、ラグビーの歴史やその伝統の重さを肌で感じ、私の約40年間に及ぶラグビーとの関わりが何とも小さく思えてならなかった。それでも、至る所に飾られた古い写真が私に何かを語り掛けてくるようで、ラグビーというスポーツを選んだ少年時代の私の決意は間違っていなかったとも思えた瞬間だった。

私はラグビーを観戦するためにイギリスを訪れたことが無い。
実は4回訪れたが、そのすべてがマニアックな "ロックコンサートの追っ駆け" なのだ。そんな私にはイギリスにフェイスブックの友達がたくさんいるが、そのすべては4回の訪英で出逢った音楽(ロック)仲間ばかり。

彼らから、「Toshi、もしワールドカップに来るなら、俺の家に泊れよ」とメッセージが届く。彼らはかつて私がラグビーをプレーしたことを知っている。何気無いメッセージから飾り気のない友情が感じられ、実に嬉しい。

デビッド、レイ、ミック、ケビン・・・ 07年に初めて出逢ってから、彼らとは随分長い付き合いになった。

ロックもラグビーも、言ってみればコテコテの本場のはずなのに、個人の嗜好を尊重し、決してそこに土足で踏み入ろうとしないばかりか、したりげにロックやラグビーについて語る者もいない。

仕事とは言え、7月末までに4回訪日したため、結局ワールドカップはTV観戦で応援することに決めた。

もちろんジャパンも応援するが、やはりメインはワラビーズ

今年のワールドカップは、91年イングランド、99年ウェールズに続くイギリスでの大会だが、その2つの大会でワラビーズは優勝している。私は密かにあの時の感動の再来を期待しているのだ。 

スタジアムには行けないが、できるだけ気分を盛り上げて応援するつもりで準備を始めている。「全試合をライブ放送」につられてFOXTVを契約、きっと今月中にスタッフが部品を持って我が家を訪れるだろう。

03年オーストラリア大会では多くの人達をシドニーで迎え、それが "やみつき" となり、07年フランス大会の時には観戦ツアーに参加した。と言うか、6人の観戦ツアーを企画した。私には忘れ難い珍道中である。

準決勝、決勝を前に、ワラビーズもオールブラックスも消えてしまう大波乱パリ北郊のサンドニ・スタジアムで開催された準決勝2試合、3位決定戦、決勝戦「イングランドV南アフリカ」は気楽な観戦となった。

8万人強を収容するスタジアムは満席状態、私の隣は幼い少年2人を連れた大柄な外国人だった。少年2人はスプリングボクス(南ア)のジャージを身に着けている。座席を確保、落ち着いたところで、彼がおもむろに「どこから来たの?」と話し掛けて来た。「ジャパン」と応じると、彼は私に携帯画面を見せた。オールブラックスのジョナ・ロムの写真だった。「日本では有名だろ、俺は彼と友達なんだ」と言う。

顔を見返すと、何と彼はスコットランド代表ギャビン・ヘイスティングだった。イギリス4ヶ国代表ブリティッシュ・アイリッシュ・ライオンズでも不動のフルバックであり、レジェンド中のレジェンドである。

私は隣に座っていた馬場さん(数年前他界された)に興奮しながら彼のレジェンドたる所以を説明したが・・・
馬場さんはそのレジェンドを知らなかった。私の伝達は、そのまま馬場さんでストップした。

決勝戦終了後、ホテルまでの道中、馬場さんがさっき出逢ったばかりのレジェンドの話を始めた。

「写真も撮らなかったの?馬鹿じゃねーのヘイスティングを知らないの・・・」と同行者の一人が言った。

馬場さんは、幼い息子2人と決勝戦を楽しむ親子の邪魔をしたくないと思ったに違いなかった。

あの温厚な馬場さんが本気で怒り出し、「知らないからって何だよ俺は俺なりにワールドカップを楽しんでいるんだぜそれを人からとやかく言われたくないね」とキッパリ。

「楽しみ方は人それぞれ」に私は賛成である。

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日本は夏合宿の頃である。

ネットなどの情報から、この夏の過酷な状況が垣間見れるが、くれぐれも事故の無いことを祈るばかりだ。

7月中旬、ARU(オーストラリア・ラグビー協会)のコーチ3人と訪日し、ある地方都市でのコーチングの機会に恵まれた。3人共、国や地域代表レベルのコーチやコーチングのレベルアップに関わるスタッフである。

その日、グラウンドに集まった少年少女(中高生)は約100名。選抜された選手とかではなく、初心者も含め、県内でラグビーをプレーする選手が大勢集まってくれた。また、熱心な指導者の参加も多く、私には理想的な素晴らしいコーチング・クリニック(セミナー)の機会となった。

世界を代表するワラビーズ(オーストラリア代表)に関わるコーチ達は、例えどのレベルをコーチングする場合も一切手を抜かない。例えオーストラリアとは異なる土や砂のグラウンドでも、雨上りのグチャグチャのグラウンドでも、日本の真夏の蒸し暑さの中でも、そして、例え用具が完璧に揃っていなくても・・・ 彼らは目の前の選手達へのコーチングに集中する。きっと彼らは、グラウンドに立つ自分の役割を理解しているのだろう。

そんな彼らから私はいつも学ぶことばかりだが、この機会を一番喜んでいるのは選手達に違いない。

長年このようなコーチングの機会をマネージメントしながら思うことは、やはり主役は選手達なのだ。

選手達の姿勢や表情を見れば、このセッションが彼らにとって良い機会だったかどうかは聞くまでもない。

2時間のプログラムは、アッと言う間だった。

先週末、ARUを訪問した際、コーチ達は次の訪日にはあのようなコーチングの機会がもっと欲しいと言った。
2019年ワールドカップ日本大会の際に、ワラビーズのスタッフや選手達にとって、キャンプ地の少年少女とのコーチング等の交流がもっともリラックスになると彼らは考えている。

このセッション終了後に、コーチ "ヒュー" の膝(ひざ)や肘(ひじ)からは血が流れていた。
「本気のデモを見せなければ選手には通じない」は、彼らのコーチング哲学だ。オーストラリアなら芝生の上で行うために血が出るようなことは無いが、日本では・・・ それでも、彼らは手を抜かない。

選手達もそれを見逃さない。自然にヒューの周りに選手達が集まり、心が通じているのが分かる。

日本でコーチング活動を開始してから20年になるが、コーチ "ノディー" が最初だった。

何度も一緒に訪日し、日本チームのオーストラリア遠征では決まってノディーにコーチングを依頼した。

モールやラックの指導が終了すると、ノディーはいつも決まってスキンヘッドから血を流していた。

ノディーが他界してから今年で10年。05年夏の菅平のコーチングから戻り2ヶ月後、突然の悲報だった。

つい先日、ある日本の熱いコーチ仲間からこんな連絡があった。

「合宿の最後に、いつも "ノディー・ドリル" をやるんです。これをやると、コーチも選手も一つになれるんです。最後はいつも泣きながらになってしまうのですが、周りで励ますマネージャーや父母まで泣いてしまうんです。今年はキャプテンの志願でやりました。ノディ―が残してくれた財産・・・ 涙が出てきます」

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以前、新潟の高校に留学したオーストラリアのイケメンボーイズ2人を紹介したが、2人は日本の生活に慣れ、元気に学園生活を楽しんでいるようだ。7月に日本で開催した「オーストラリア・コーチングコース」に参加させたいと思っていたが、幸いこの高校の指導者(監督/コーチ)からコース参加の申し込みがあり、高校の許可も得て、2人はセミナー会場(横浜の桐蔭学園)にやって来た。

2人は桐蔭学園の選手達に交じってデモンストレーションに加わったが、つい半年前までオーストラリアでプレーしていた彼らは水を得た魚のようだった。デモンストレーションは幼い時から受けてきた指導の延長線上であり、そのテンポは慣れ親しんだままなのだろう。ARU(オーストラリア・ラグビー協会)のコーチ陣とプレーについて会話する彼らの姿は、いかにも自由で気楽な感じがする。ふと日本の高校生(選手)とコーチの関係を考えながら・・・ オーストラリアで代表クラスのコーチングを手掛けるARUのコーチ達から指導を受ける2人の余裕の表情、自然な会話やリラックスした物腰は、一体どこから生まれてくるのだろう?

やはり、それは文化や習慣なのだろう。私はセミナーに参加されたコーチや選手に、そのような2人の立振る舞いを見て欲しかった。セミナーでは、オーストラリアのコーチングを学んでもらうことはできる。もちろん、学ぶ大切さを知らせることもできる。しかし、例えばオーストラリアの選手達がコーチの指導をどのように吸収するかを見せるのは難しく、その意味で彼ら2人が参加してくれたことは良い機会だった。

セミナーで真剣に学ぶ先生(コーチ)の肩に肘を載せ、デモンストレーションを眺めるフレーザーを観ながら、「あれは無いぜ」と言う日本の大人は多いだろう。「日本では有り得ないわ」と私も思うが、この数ヶ月で、先生(コーチ)とここまで親しくなれたのを私は微笑ましく思う。もちろん、彼らに先生を軽んじるような気持ちは一切無いのだ。そして、それは息子達が父親の私にして来たそのままなのだ。 今年の春に創部されたばかりのラグビー部で、パイオニアである2人のポテンシャルが発揮できるかどうかは正直分からないが、それでも彼らの表情を見て、話して、2人が日本の生活を楽しんでいるのが理解できた。


数日前、監督(顧問)の先生からメールが届いた。

コーチングコースは私達や彼ら2人にとってとても良い機会でしたが、その後ダニエルの元気が無く、心配なので確認すると、こんなメッセージが戻って来ました。最後のところが嬉しくて・・・
Thanks, You are always nice to me and it helps more than what I show, Japanese father.

「ありがとう。あなたはいつも僕に良くしてくれ、それは僕が表現するよりずっと僕の助けになっています、日本のお父さん」 シャイなダニエルが、表立っては見せない感謝の気持ちを表したメッセージに違いない。

規格外の2人(17歳)が、これからどう成長するかが楽しみだ。心さえしっかりしていれば・・・ 

安心することができた再会だった。

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