オーストラリアから

’88年移住!! まだまだ夢の途中・・・


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ラグビーのワールドカップ開催まで1ヶ月を切った。

ラグビー発祥の地イングランドで開催されるワールドカップには是非行きたいと思っていたが・・・

09年、故石塚さんの愛したリッチモンドの地を訪ね、私はその足でラグビーの聖地と呼ばれるトゥイッケナム・ラグビー場に向かった。1907年に建立された8万人強を収容するラグビー専用スタジアムを目の当たりにし、ラグビーの歴史やその伝統の重さを肌で感じ、私の約40年間に及ぶラグビーとの関わりが何とも小さく思えてならなかった。それでも、至る所に飾られた古い写真が私に何かを語り掛けてくるようで、ラグビーというスポーツを選んだ少年時代の私の決意は間違っていなかったとも思えた瞬間だった。

私はラグビーを観戦するためにイギリスを訪れたことが無い。
実は4回訪れたが、そのすべてがマニアックな "ロックコンサートの追っ駆け" なのだ。そんな私にはイギリスにフェイスブックの友達がたくさんいるが、そのすべては4回の訪英で出逢った音楽(ロック)仲間ばかり。

彼らから、「Toshi、もしワールドカップに来るなら、俺の家に泊れよ」とメッセージが届く。彼らはかつて私がラグビーをプレーしたことを知っている。何気無いメッセージから飾り気のない友情が感じられ、実に嬉しい。

デビッド、レイ、ミック、ケビン・・・ 07年に初めて出逢ってから、彼らとは随分長い付き合いになった。

ロックもラグビーも、言ってみればコテコテの本場のはずなのに、個人の嗜好を尊重し、決してそこに土足で踏み入ろうとしないばかりか、したりげにロックやラグビーについて語る者もいない。

仕事とは言え、7月末までに4回訪日したため、結局ワールドカップはTV観戦で応援することに決めた。

もちろんジャパンも応援するが、やはりメインはワラビーズ

今年のワールドカップは、91年イングランド、99年ウェールズに続くイギリスでの大会だが、その2つの大会でワラビーズは優勝している。私は密かにあの時の感動の再来を期待しているのだ。 

スタジアムには行けないが、できるだけ気分を盛り上げて応援するつもりで準備を始めている。「全試合をライブ放送」につられてFOXTVを契約、きっと今月中にスタッフが部品を持って我が家を訪れるだろう。

03年オーストラリア大会では多くの人達をシドニーで迎え、それが "やみつき" となり、07年フランス大会の時には観戦ツアーに参加した。と言うか、6人の観戦ツアーを企画した。私には忘れ難い珍道中である。

準決勝、決勝を前に、ワラビーズもオールブラックスも消えてしまう大波乱パリ北郊のサンドニ・スタジアムで開催された準決勝2試合、3位決定戦、決勝戦「イングランドV南アフリカ」は気楽な観戦となった。

8万人強を収容するスタジアムは満席状態、私の隣は幼い少年2人を連れた大柄な外国人だった。少年2人はスプリングボクス(南ア)のジャージを身に着けている。座席を確保、落ち着いたところで、彼がおもむろに「どこから来たの?」と話し掛けて来た。「ジャパン」と応じると、彼は私に携帯画面を見せた。オールブラックスのジョナ・ロムの写真だった。「日本では有名だろ、俺は彼と友達なんだ」と言う。

顔を見返すと、何と彼はスコットランド代表ギャビン・ヘイスティングだった。イギリス4ヶ国代表ブリティッシュ・アイリッシュ・ライオンズでも不動のフルバックであり、レジェンド中のレジェンドである。

私は隣に座っていた馬場さん(数年前他界された)に興奮しながら彼のレジェンドたる所以を説明したが・・・
馬場さんはそのレジェンドを知らなかった。私の伝達は、そのまま馬場さんでストップした。

決勝戦終了後、ホテルまでの道中、馬場さんがさっき出逢ったばかりのレジェンドの話を始めた。

「写真も撮らなかったの?馬鹿じゃねーのヘイスティングを知らないの・・・」と同行者の一人が言った。

馬場さんは、幼い息子2人と決勝戦を楽しむ親子の邪魔をしたくないと思ったに違いなかった。

あの温厚な馬場さんが本気で怒り出し、「知らないからって何だよ俺は俺なりにワールドカップを楽しんでいるんだぜそれを人からとやかく言われたくないね」とキッパリ。

「楽しみ方は人それぞれ」に私は賛成である。

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日本は夏合宿の頃である。

ネットなどの情報から、この夏の過酷な状況が垣間見れるが、くれぐれも事故の無いことを祈るばかりだ。

7月中旬、ARU(オーストラリア・ラグビー協会)のコーチ3人と訪日し、ある地方都市でのコーチングの機会に恵まれた。3人共、国や地域代表レベルのコーチやコーチングのレベルアップに関わるスタッフである。

その日、グラウンドに集まった少年少女(中高生)は約100名。選抜された選手とかではなく、初心者も含め、県内でラグビーをプレーする選手が大勢集まってくれた。また、熱心な指導者の参加も多く、私には理想的な素晴らしいコーチング・クリニック(セミナー)の機会となった。

世界を代表するワラビーズ(オーストラリア代表)に関わるコーチ達は、例えどのレベルをコーチングする場合も一切手を抜かない。例えオーストラリアとは異なる土や砂のグラウンドでも、雨上りのグチャグチャのグラウンドでも、日本の真夏の蒸し暑さの中でも、そして、例え用具が完璧に揃っていなくても・・・ 彼らは目の前の選手達へのコーチングに集中する。きっと彼らは、グラウンドに立つ自分の役割を理解しているのだろう。

そんな彼らから私はいつも学ぶことばかりだが、この機会を一番喜んでいるのは選手達に違いない。

長年このようなコーチングの機会をマネージメントしながら思うことは、やはり主役は選手達なのだ。

選手達の姿勢や表情を見れば、このセッションが彼らにとって良い機会だったかどうかは聞くまでもない。

2時間のプログラムは、アッと言う間だった。

先週末、ARUを訪問した際、コーチ達は次の訪日にはあのようなコーチングの機会がもっと欲しいと言った。
2019年ワールドカップ日本大会の際に、ワラビーズのスタッフや選手達にとって、キャンプ地の少年少女とのコーチング等の交流がもっともリラックスになると彼らは考えている。

このセッション終了後に、コーチ "ヒュー" の膝(ひざ)や肘(ひじ)からは血が流れていた。
「本気のデモを見せなければ選手には通じない」は、彼らのコーチング哲学だ。オーストラリアなら芝生の上で行うために血が出るようなことは無いが、日本では・・・ それでも、彼らは手を抜かない。

選手達もそれを見逃さない。自然にヒューの周りに選手達が集まり、心が通じているのが分かる。

日本でコーチング活動を開始してから20年になるが、コーチ "ノディー" が最初だった。

何度も一緒に訪日し、日本チームのオーストラリア遠征では決まってノディーにコーチングを依頼した。

モールやラックの指導が終了すると、ノディーはいつも決まってスキンヘッドから血を流していた。

ノディーが他界してから今年で10年。05年夏の菅平のコーチングから戻り2ヶ月後、突然の悲報だった。

つい先日、ある日本の熱いコーチ仲間からこんな連絡があった。

「合宿の最後に、いつも "ノディー・ドリル" をやるんです。これをやると、コーチも選手も一つになれるんです。最後はいつも泣きながらになってしまうのですが、周りで励ますマネージャーや父母まで泣いてしまうんです。今年はキャプテンの志願でやりました。ノディ―が残してくれた財産・・・ 涙が出てきます」

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以前、新潟の高校に留学したオーストラリアのイケメンボーイズ2人を紹介したが、2人は日本の生活に慣れ、元気に学園生活を楽しんでいるようだ。7月に日本で開催した「オーストラリア・コーチングコース」に参加させたいと思っていたが、幸いこの高校の指導者(監督/コーチ)からコース参加の申し込みがあり、高校の許可も得て、2人はセミナー会場(横浜の桐蔭学園)にやって来た。

2人は桐蔭学園の選手達に交じってデモンストレーションに加わったが、つい半年前までオーストラリアでプレーしていた彼らは水を得た魚のようだった。デモンストレーションは幼い時から受けてきた指導の延長線上であり、そのテンポは慣れ親しんだままなのだろう。ARU(オーストラリア・ラグビー協会)のコーチ陣とプレーについて会話する彼らの姿は、いかにも自由で気楽な感じがする。ふと日本の高校生(選手)とコーチの関係を考えながら・・・ オーストラリアで代表クラスのコーチングを手掛けるARUのコーチ達から指導を受ける2人の余裕の表情、自然な会話やリラックスした物腰は、一体どこから生まれてくるのだろう?

やはり、それは文化や習慣なのだろう。私はセミナーに参加されたコーチや選手に、そのような2人の立振る舞いを見て欲しかった。セミナーでは、オーストラリアのコーチングを学んでもらうことはできる。もちろん、学ぶ大切さを知らせることもできる。しかし、例えばオーストラリアの選手達がコーチの指導をどのように吸収するかを見せるのは難しく、その意味で彼ら2人が参加してくれたことは良い機会だった。

セミナーで真剣に学ぶ先生(コーチ)の肩に肘を載せ、デモンストレーションを眺めるフレーザーを観ながら、「あれは無いぜ」と言う日本の大人は多いだろう。「日本では有り得ないわ」と私も思うが、この数ヶ月で、先生(コーチ)とここまで親しくなれたのを私は微笑ましく思う。もちろん、彼らに先生を軽んじるような気持ちは一切無いのだ。そして、それは息子達が父親の私にして来たそのままなのだ。 今年の春に創部されたばかりのラグビー部で、パイオニアである2人のポテンシャルが発揮できるかどうかは正直分からないが、それでも彼らの表情を見て、話して、2人が日本の生活を楽しんでいるのが理解できた。


数日前、監督(顧問)の先生からメールが届いた。

コーチングコースは私達や彼ら2人にとってとても良い機会でしたが、その後ダニエルの元気が無く、心配なので確認すると、こんなメッセージが戻って来ました。最後のところが嬉しくて・・・
Thanks, You are always nice to me and it helps more than what I show, Japanese father.

「ありがとう。あなたはいつも僕に良くしてくれ、それは僕が表現するよりずっと僕の助けになっています、日本のお父さん」 シャイなダニエルが、表立っては見せない感謝の気持ちを表したメッセージに違いない。

規格外の2人(17歳)が、これからどう成長するかが楽しみだ。心さえしっかりしていれば・・・ 

安心することができた再会だった。

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上田さんが逝ってしまった。
いつどこでお会いしても上田さんは威張らない気さくな人だった。
上田さんのブログ「スポーツひとりごと」の更新を楽しみにしていたが、それももう読めない。


慶大ラグビー部で2度目の監督をされた頃、上田さんは監督としてチームの低迷に苦しんでいた。98年、訪日の際に上田さんが私に会いたがっていると人づてに連絡があり、青山のレストランでお会いすることに・・・
新宿辺りでしか飲んだことのない私には不似合いの青山界隈に呼び出され、真剣に悩んだのが懐かしい。

お会いするとTVやラグビーマガジンで観る上田さんそのものだった。隣には頭脳派の林さんが一緒だった。

「よ、加藤、元気か」と、上田さんからまるで旧知のごとく軽快に話し掛けられ、私は面食らうばかり。
「今年の夏にシドニーに遠征するから、お前面倒見てくれよ」
「上田さん、私は早稲田のOBですよ。それでもいいんですか?」
「何言ってんだよそんなこと関係あるかよ。ラグビーの遠征に行くのに、慶應も早稲田もあるもんか」

私はどんどん上田さんのペースに巻き込まれて行くのを感じながらも、上田さんに人としての魅力を感じた。

そして、98年遠征のコーディネート(宿泊や移動、コーチの選定、コーチング、試合日程、試合相手等)の全てを任された。その年、慶大は大学選手権ベスト4。大学選手権にも出場出来ないほど低迷していた前年度の結果からすれば、それは快挙だった。「良い切っ掛けになったよ」と上田さんから連絡を頂いた。

上田さんを勝負師と思ったのは翌年である。創部100周年の記念の年に、私は再度呼び出され、99年遠征もコーディネートして欲しいと依頼された。その年、慶大は大学選手権で優勝を果たす

上田さんは、100周年の記念誌に「遠征の際に早稲田の加藤に世話になった」と書いて下さった。

この優勝チームに実際に関わった方々、深く思い入れのあるお歴々が多い中で、私には、その一言が身に余る光栄な言葉だった。一緒に優勝を味わえた喜びは、一生消えることは無いだろう。


あの遠征当時、選手として活躍された和田さんが監督に就任、2013年遠征のコーディネートを依頼された。

8月の遠征を前に、その年の5月に日吉で大学のコーチングを依頼された際、OBから慶應高校でのクリニックの依頼があり、そのグラウンドで上田さんに再会する機会に恵まれた。

上田さんはとても喜んで下さり、懐かしい話に花が咲いた。

2013年5月7日の上田さんのブログにその時の様子が書かれている。

上田さんのブログを長年楽しませて頂いたが、これだけ多くの写真が掲載されたものは記憶に無い。


上田さん

ありがとうございました。

私も上田さんのように、日本ラグビーの発展に努力して参ります。



(上田さんのブログ「スポーツひとりごと」2013年5月7日をそのまま添付)


昨日は9時から日吉の慶應高校グラウンドで、オーストラリアのグレイグが2時間ほど指導。
豊田自動織機でS&C(ストレングス&コンディショニング)コーチをしていた。
GWに大学(慶應)を指導していて、練習が休みの昨日は高校で指導。
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同行したのは、久しぶりに会った加藤俊久。
宇都宮高校から早稲田。
1994年に上田が2回目に慶應の監督になった時に、オーストラリア遠征の受入れを依頼した。
昨日は通訳を担当。
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まずは、縦5mほどの範囲で、5人がパス・パス・クロス。
ハンズアップ、キャッチした時に引かない、ストレートラン・・・。
上田が常に訴えていることと同じ。
まずは、この基本をマスターしなくては。
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”call・コール”、グレイグは「talk」と表現。
コミュニケーション・意思伝達が・・・。
クロスは、日本代表のエディー・ジョーンズHCがS字ランを提唱。
それを教えているが、出来ていないなあ。
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次は横15mの幅で、アタック3人がディフェンスを引きつけてパス。
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ディフェンスは最初は1人で2人と増えていく。
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ドリルの途中で、上田が指摘したこと。
3人が横幅15mのスペースを活用していないこと。
ボールキャリアに近づく傾向があり、そのためオーバーラップ(余った状態)してもディフェンスにスライドされてしまう。
これは、このような練習を数多くやって癖を直すことから。
ディフェンスが2人になると、アタックが1人多くてもフリーにならない。
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ラックサイドのディフェンスシステム。
ポスト(ピラー)がラックサイドに立ち、ワンアームでフローター抑えで2人が並ぶ。
その外に相手バックスのSO、CTBをノミネート。
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相手ボールのラックから速くボールが出た場合は、内側ディフェンスが優先して前に出て、遅れてバックスのディフェンス。
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ボールがラック内にあり出ない状況では、まずは内側の3人が立ち、4人目の位置を基点に立ち、外側にずらしてノミネート。
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次はシステムではなく、個々の強化。
背中を合わせて座る。
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ホイッスルとともに、膝を地面につけた状態で組合い、相手を倒して抑え込む。
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ボディバランスが重要。
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続いてストロングポジション。
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2人が向かい合い、相手の手を叩いてバランスを崩す。
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その延長で、ラック時の姿勢、ストロングポジション。
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相手ボールのラックで、オーバーに入った相手を倒すテクニック、クロックロール。
この写真では、右手を相手首を巻いてお腹へ。
左手は腹に巻いて左側に倒す。
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ポイントは相手の頭を自分の胸、お腹で押さえつけること。
頭をロックすることで、簡単に倒すことが出来る。
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これらの応用編。
ディフェンス4人に対して、タックルバッグを持ったアタックも4人。
アタックが前に出てきたら、ストロングポジションでオーバー。
ボールの上にいた状況ならクロックロール。
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ラックでボールの前にドライブする意識。
ジャッカルにいっても成功率は低い。
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ボールの手前ではなく、前に出る。
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これもボールを出して、それに対応して前に出る。
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最後は、アタック4人と内側からディフェンス2人。
横40mの幅で、ポイントは4つ。
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ラインメイクの幅、深さ、ストレートランなどがまだまだ・・・。
パスミスばかりで・・・。
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これで2時間のセッション終了。
最後は部員が流暢な英語でお礼。
いるんだねえ、英語を喋れる部員が。
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それからはポジション別。
FW前5人はスクラム。
指導しているのは、横幅を見ればわかるでしょ!?
”コブ”こと山本拓也。
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白いジャージーを着た1年生。
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慶應高校は、11(土)に神奈川県春季大会準決勝で東海大相模と対戦する。


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日本出張や来客が重なり、随分長い期間ブログの更新が出来なかった。

今年になって、3月19日~4月2日、5月14日~5月25日、6月14日~6月26日、3回訪日し、そして、7月には9日~24日までの訪日を予定している。すでに終了している3回の訪日は、春から初夏への爽やかな季節を期待したが、私は毎回汗だくだった。なぜか日本に季節感が感じられなくなっている。


27年間シドニーに住んで初めてのような忙しさの中、嬉しい来客があった。

一人は山田章仁(アキ)。パナソニックやジャパンで活躍する人気のラグビープレーヤーだが、出逢いはアキが慶大3年生の時だ。留学生としてシドニーを訪れ、私はそのコーディネートを任された。当時、息子達がプレーするイースタンサバーブズ・クラブ(コルツ/20歳以下)でプレーし、彼は一躍クラブの人気者となった。

私の長男と同い歳で、まるでオーストラリアの若者のように忌憚無く話すアキは長男ととても気が合うようだ。

毎年、南半球のラグビーシーズン幕開けに開催される「スーパー15/ウェスタン・フォース」のスコッド入りし、その多忙なスケジュールの合間を縫ってシドニーを訪ねてくれた。

新鮮な刺身を出してくれる人気の居酒屋で夕食を食べたが、パースで生活するアキは、刺身の盛り合わせやおかず類が出てくる前に、まずご飯と納豆をおかわり・・・

私には久しぶりに実家に戻った息子3人と一緒に過ごすようで、実に愉快な晩だった。


もう一人は津田翔太。東海大仰星高>東海大>リコーで活躍した彼とは、彼が東海大3年生の時の豪州遠征で出逢う機会があった。新婚旅行でメルボルンを訪れ、2泊だけシドニーを訪れると連絡をくれた。私は翌朝早くシドニーを出発し日本に向かうため、束の間の時間だったが、嬉しい再会だった。

メルボルンから国内線でシドニーに到着し、彼は幸せそうに可愛い奥さんを私に紹介したが、話しながら私の知人の奥さんと同じ職場で働いていると言う。不思議な縁を感じながら、空港から直接向かった場所は、ランドウィック・クラブのレイサム・パーク。母校の東海大でアシスタントコーチをする津田君は、「実は後輩の試合があるんです。どうしても、彼の応援をしたのですが・・・」と言う。奥さんは津田君の希望をしっかり受けとめ、その笑顔が印象的だった。レイサム・パークは、息子達が幼い頃に何度も試合をしたグラウンドだ。


井波健太郎。 この春、東海大を卒業し、自身の可能性に挑戦するため単身シドニーを訪れた。

昨年3月、東海大ラグビー部の豪州遠征で出逢い、私は彼がシドニーを訪れていたのを知っていたが、忙しさのために、中々激励に出掛けることが出来ず、津田君の希望が私にはタイムリーだった。

彼のチーム・マネージャーは、何と私の古い友人ケビン・フィブズだった。「ヘイ Toshiお前がまだラグビーに関わっているのを知って俺は嬉しいぜ ケビンは、娘2人をワラビーズ(オーウェン・フィネガンとウォーウィック・ウォー)に嫁がせたランドウィック・クラブの重鎮だ。そして、実にナイスガイなのだ。

私は新婚の津田夫婦と共に井波君を応援した。結果的にシドニー大学に敗れてしまったが、井波君はトライにも絡み、そのプレーはアタック/ディフェンス共にMVPと言える大活躍だった。

レイサム・パークはランドウィック・クラブのサブグラウンドだが、井波君がクージー・オバール(ランドウィック・クラブのホームグラウンドに立つ日が近いのを私は確信しながら、グラウンドを離れた。

息子と同じ世代の若者達が、私を訪ねてくれることは本当に嬉しいことだ。そして、彼らを我が子のように純粋に応援し、彼らの将来を楽しみにできることは、この上無い喜びに違いない。

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日本はGW中だが、シドニーは毎日雨。大型連休に日本からやって来た人達には気の毒なことだ。

北のクイーンズランド州では更に凄いことになっているようで、サンシャインコーストに住む友人のフェイスブックにはラグビー場でジェットボートに乗る写真が投稿されている。

私は「オーストラリアの旅は天気80%」と考えている。アクティブに動けない旅なら、その楽しみは半減してしまう。半減どころか、ほとんど無くなってしまうかもしれない。

「晴れ男」を自称する私には、雨を想定したオーストラリアの旅のアイデアが無いほどだ。

雨さえ降らなければ、私があれやこれや "おもてなし" をしなくても、オーストラリアの雄大な自然やスポーツ文化が、訪れた人の「心に残る旅」をサポートしてくれる。

ラグビー場でジェットボートに乗るほどなら、違った意味で「心に残る旅」かもしれないが…


今年の2月、2011年にシドニーを訪れた若者から、短いメールが届いた。

まとまった休みがもらえるため、またオーストラリアに行こうかと考えているのですが、加藤さんはオーストラリアにいらっしゃるでしょうか?できればホームステイもしたいと思っています。

希望の日程や4年前の良い思い出が短く書かれた若者らしい簡単なメールだった。

4年前は夏休み中の短い期間だったが、若い彼や友人にとって晴らしい体験だったはずだ。

オーストラリアのラグビーシーズンが深まっていた頃だったが、「ワラビーズV南ア」 のテストマッチをはじめ、質の高いクラブレベルの試合にも何試合かに連れて行くことができた。大学でラグビーをプレーする彼らには最高の機会であり、出逢いの数々は、忘れられない思い出となったに違いない。

ホームステイ体験もラブリーな家庭に恵まれ、今もその関係が続いているのは素晴らしいことだ。

ただ、今回は仕事の忙しさからして、私には世話をする自信が無かった。無い袖は振れない訳で、そのような時に私は率直に事情を話すことにしている。 それでも、若い彼らなら自分達で動くだろうと考えた。
彼のメールに書かれた日程なら、やはり「スーパー15」しかないだろう。

スーパー15とは、南半球3ヶ国(豪州、NZ、南ア)の地域代表15チームが争うラグビーの国際リーグ戦である。

各国シーズン開始直前に始まるこの大会は、新しい戦力や新しい戦術等のトライアルの場として、どんな奇抜なプレーが飛び出すか分からない魅力がある。

日程には観戦可能な試合が2試合ある。

彼に出逢ったのは高校の遠征で訪れた08年、11年の夏休みに再度訪れ、そして今回の旅…

遠征や留学でオーストラリアを訪れた選手や学生が、またオーストラリアに戻って来るのは、私にはこの上無い喜びである。かつて30年前に、私もその一人だったのだ。

「ブランビーズ V レッズ」スーパー15、2015年の開幕戦。 結局私も300km離れたキャンベラまで2人を連れて出掛けることに。 今年から友人がレッズのチームマネージャーとなり、私は静かにレッズを応援したが・・・

結果はブランビーズの大勝。ブランビーズのシングレットを会場のどこかからか買い込んで身に着けた2人がハシャグのを横目に、まあいいかと思う私だった。

2012年に友人を連れて行ってから3年ぶりだったが、原野の中のB&B(ベッド&ブレックファスト)に宿泊。

小高い丘の上から見る360度のパノラマ、朝、目覚めると、野生のカンガルーが跳び跳ねている。夜になれば見渡す限りどこにも明かりの無い中、空全面がプラネタリウムのような星空・・・

初めて訪れたのは25年ほど前だった。あの時からジェニーとデビッドが変わらぬホスピタリティで迎えてくれるナイススポットなのだ。 正直、人には教えたくない私の隠れ家である。

今回も、オーストラリアの自然やスポーツ文化が彼らをもてなし、彼らの心に何かが残ったはずだ。

「晴れ男の旅」の記録は更新となり、私はイケメンな若者達から元気を貰った。
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多くの人から愛され、多くの教え子から恩師(人生の師)と慕われたラグビーの指導者が逝ってしまった。

99年に出逢い、それからの約10年間、日本とオーストラリアでどれだけの時間を共有し、どれだけのやり取りをしたか私には分からない。ちょうどあの時代、やり取りの方法が手紙からメールに移行する頃だった。

05年から残るメールの履歴は数百回を超える。元々「筆まめ」だったが、携帯でやり取りのできるメールを覚えてからは、毎日のようにメールが届いた。大好きだった「クージービーチ」をメールアドレスに使っていた。

オーストラリアに移住してから10年が過ぎ、その後の10年、私が最も影響を受けた人だったのは間違いない。年の初めと終わりには、この人のメールに始まり、この人のメールに終わると私は心に決めていた。 山口正昭、享年72歳・・・

高校ラグビー界で知る人ぞ知るという存在である。有名になった同世代の仲間は多く、彼らの心の支柱となり陰から支える存在だった。ただ、自身も輝かしい実績を残しているのだ。

「僕は優勝させることができなかったから・・・」とよく笑ったが、長崎で生まれ、松山で育ち、日本体育大学で学び、教員として岐阜に赴任、輝かしいラグビーの歴史には縁遠い新天地で、関市立関商工高校ラグビー部を全国大会常連に伸し上げ、ベスト4など、全国区に導いた。それでも、決して目立とうとせず、例えば花園ラグビー場を歩いていても、記者が寄ってくるような存在ではなかった。そのような中で、多くの指導者が遠巻きに頭を下げるのを私は何度も見た。自分よりも仲間や教え子が評価されるのを手放しで喜ぶ人だった。

大それた大義名分を語ることなく、地元を心から愛し、岐阜のスポーツ発展に努力した人である。 私が山口先生と出逢ったのは、ラグビーの指導者として血気盛んな時期を過ぎ、後継者を育成している時代だった。今思い起こせば、コーチとして円熟期だったに違いないが、後継者に求める基準はとても高かった。

その高さや厳しさがあったからこそ、教え子の多くが様々な分野で活躍しているのだろう。

父親は船乗りだったと言い、若い時代に本気で海外移住を夢見たことがあると話してくれた。

若い時代の夢を、シドニーで暮らす私や私達家族に重ねていたのかもしれない。闘病生活を開始するまでに、10回以上オーストラリアを訪れた。ラグビーは元より、歴史や文化、そして何より人を愛する人だった。

忘れられない思い出は数知れないが、その中で「関商工ラグビー部のカウラ遠征」は、山口先生でなければ実現しなかった企画に違いない。2年半前にその遠征をブログに描いたが、是非読んで頂きたい。

http://ameblo.jp/jpozspirit/entry-11431041773.html

http://ameblo.jp/jpozspirit/entry-11431673752.html

あの遠征後に、私は山口先生とカウラを何度訪れたか分からないほどだ。時には桜の季節(10月)だったり、真冬や真夏もあった。カウラにはかつて捕虜収容所が存在し、その歴史に真剣に目を向けた一人だった先生は、ある大学(美濃加茂市)の修学旅行に帯同し、岐阜新聞の記者の取材にも同行した。

生きて日本の地を踏むことのできなかった兵士の鎮魂を願い、戦後日本人墓地や日本庭園が整備されるが、その間4kmに桜の植樹がなされ、桜並木も作られた。Sakuraアベニューと呼ばれる一角に「関商工ラグビー部の桜」がある。あの遠征の時に、先生がその寄付を申し出た。 何年か後、二人でカウラを訪ねた際に、先生は桜の木の根元を掘り、そこに「タイムカプセル」を埋めた。

その中身は、第一回目(99年)のオーストラリア遠征に帯同した恩師平田大栄先生の遺品や写真だった。

「今の私があるのは、大栄先生のお陰なんです」と私は先生から何度も聞かされた。

大学卒業後に岐阜に赴任し、よそ者だった山口先生を平田先生がいつも守ってくれたという。


カウラを訪ねる度に、必ず私は「関商工ラグビー部の桜」の様子を確認する。

5月の訪日の際に病床の山口先生に届けたいと思い、何枚かの葉を持ち帰っていたが・・・

結局、それを届ける機会は訪れなかった。
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「加藤さん 突然の連絡をお許し下さい。以前、浅草の神谷バーでお会いした者です。この春から転勤になり、XXX署に移動になりました。加藤さんの同期のSさんにはその後もお世話になっています」

本当に突然だったが、そんな書き出しのメールが私に届いた。

私には、訪日するたびに必ず一献傾ける友人がいる。 東京湯島で100年以上不動産業を営む4代目であり、東京(江戸)の下町情緒を知り尽くす粋(いき)な彼と一緒の時間は私にとって至福の時である。

昨年暮れの訪日の際、彼に誘われて浅草を訪れた。

浅草「今半」で昼からすき焼きを食べ、熱燗を楽しみながら語り合い、その後は、浅草寺の前を抜けて浅草の代表格「神谷バー」へ。日曜日の昼下がり、神谷バーは席を探すのが大変なほど混みあっていた。

ビールの大ジョッキと神谷バー名物 「電気ブラン」 が運ばれてくる。客の大半が同じものを飲んでいる。

誰かと目が合うと必ず笑顔が返ってくる。言葉は無くても、「調子はどうだい?」と聞こえてくるようだ。

神谷バーは明治13年の創業、電気ブランは「明治15年に創業者神谷傳兵衛が生んだ浪漫の香り漂う浅草を代表するカクテル」と言われている。もちろん、この店の宣伝をするつもりはないが、多くの文豪がこの場所を愛し、古き良き時代を感じさせ、どこかオーストラリアのパブにも通じる雰囲気が私には最高だった。
私達が陣取った隣では私と同年代のグループが愉快に言葉を交わしながら同じものを飲んでいる。その中の一人のお国訛(なま)りが私には懐かしく、彼は私と同じ故郷の人に違いないと思った。


「どちらから、いらしたんですか?」 場違いに丁寧な口調で口火を切ったのは彼らの方からだった。

「実は、私は随分長いことオーストラリアのシドニーに住んでいるんですよ。皆さんは?」

「へぇ海外に住んでるの? 今日は、ちょっと会社の集まりがあって、あっちこっちから集まっているんだよ。 こういう出逢いがあるからここはいいんだよなぁ」 と言いつつ、仲間がどこからやって来たのかを何の警戒もせずに話すのが愉快だった。一人は私の予想通り同郷だったが、彼らとの距離が益々近くなった。

いつの間にか周りの客も会話に加わり、その一角はまるで長年の仲間達の集まりのように笑いに包まれた。

杯を重ね、もう一軒行こうかというほどに意気投合し、なぜか、どちらからともなく名刺の交換が始まったが・・・

警視庁警視、XX県警警視・・・ *「警視」で検索してみると、全警察官の2.5%と書かれている。

この日、何らかの警察幹部の会合があったようで、久しぶりに出逢った気の合う者同士、浅草に繰出し、この神谷バーにたどり着いたようだ。日曜だったとは言え、「会社の集まり」と言った彼らの心が理解できた。

彼らは決して自分の身分を隠したのではなく、場の雰囲気を壊したくないと思ったに違いない。

「私の親友で高校時代のラグビー部の同期だったSKが○○課の責任ある立場になっているはずだけど・・・」

「えッ Sさんには毎日お会いしております」 と、私とお国訛りが一緒の彼が、背筋を伸ばして言った。
シドニーに戻ってからSと話す機会があり、神谷バーで出逢った彼は翌朝Sに報告に来たそうで、その偶然を笑いながら、彼がいかに優秀な警察官であるかを知った。その後、3月末の異動で、彼がある広域な警察署の署長に栄転したことをSから聞いた。突然届いたメールには、神谷バーで一緒だった他県警の警視も、地元の地域警察署の署長になったと書かれていた。それは私にとって何とも嬉しい突然の連絡だった。

次回の訪日の際、お祝いしましょうと返事を送った。


オーストラリアでは、警察官が制服のまま当たり前にマクドの売り場に並び、平気でコンビニでコーヒーを飲んでいる。日曜日にはショッピングセンターで市民(特に子供)向けのイベントとして、恵まれない子供達へのファンダライジング(募金活動)をする姿をよく見掛ける。それが、普通に街に溶け込んでいるのが素晴らしい。

警察官と一献傾けた愉快なひと時を思い出しながら、今夜は友人から土産に貰った日本酒を飲もう

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イケメン留学生の両親や弟と夕食を共にし、何でも美味しそうに平らげる彼らのマナーが、私を喜ばせた。

ここでも竹の杯(さかずき)で日本酒を楽しんだが、両親は「ワンダフル」を連発して喜んだ。

お腹も落ち着き、日本酒の影響もあって母親ジャネルも元気になり、父親ポールはダニエルの話を始めた。

昨年の3月、彼らの住むサンシャインコーストで東海大仰星高校ラグビー部がキャンプを実施し、地元の代表チームとの交流試合が行われた。その試合でキャプテンとして地元チームを率いたのはダニエルだった。

試合後のプレゼンテーションで、ダニエルは日本語でキャプテン・スピーチをし、仰星の選手達を驚かせた。

「僕もそうでしたが、ダニエルは日本の選手達のスピーディーな動きや統率のとれたチーム全体の動きに感動したんです」 ポールは続け、「8月に別の日本チーム(桐蔭学園)と試合をして、ダニエルは本気で日本に行きたいと思うようになりました。幼い頃から日本語を勉強し、文化や歴史にも興味を持っていましたから・・・」

双方のキャンプをコーディネートした私に、地元クラブの代表から連絡があり、ダニエルの日本留学の準備を開始することに・・・ ワラビーズの国オーストラリアの少年が日本の高校ラグビーに感動して日本を目指す

日本のラグビー界でよく取り沙汰される「日本人らしさ」を日本の高校生が体現し、それをオーストラリア人が率直に評価する。それは、形ばかり「日本人らしさ」を求める日本の誰の言葉よりも説得力があった。


ポールは彼自身の歴史や家族の歴史、そして彼らの住むサンシャインコーストについて話し始めた。

その冒頭、彼は「両親の故郷イギリスには行ったことがないんだよ」と言って笑ったが・・・ 両親がイギリスからオーストラリアに移住し、彼が生まれ、大人になる段階への道のりは決して平坦ではなく山あり谷ありの生活だったようだ。そのような経験をしたことが、彼の優しさの根源になっているのだろう。

ポールは51歳、私よりも8歳年下だが、その風貌はいかにもオーストラリアのドクターという感じだった。

朝な夕なに、美しいサンシャインコーストのビーチサイドを家族とノンビリ歩くのが最高とポールは話す。

私自身、何度もサンシャインコーストを訪れて、その素晴らしい雰囲気を知っていたが・・・

ただ、彼らの住むサンシャインコーストには多くの退役軍人が住み、その中に日本人を嫌う元兵士が多いことを私は知っていた。そのほとんどが、東南アジアや南方の島々で日本軍と戦い、生き残った兵士なのだ。

過酷な捕虜体験をした兵士も多く、仲間や親族を失った兵士も多い。敢えて私はその話を投げ掛けた。

それまで笑顔で聞いているだけだったジャネルが、突然真面目な顔になり口を開いた。

「私の祖父は、パプアニューギニアで日本軍の捕虜になり殺されました」

一瞬の沈黙があり、私はシドニーに移住した頃に、あの時代の歴史を紐解いた思い出を話し始めた。

90年だった。私は日系人ワラビーズ(ラグビー・オーストラリア代表)の消息を追い駆け、日本とオーストラリアの悲しい歴史を知った。太平洋戦争中に派遣先のシンガポールで日本軍の捕虜となり、父の祖国日本への護送中に彼は戦死する。取材中、「日本人には会いたくない」と断られたことが何度もあった。
「あなたは、日本とオーストラリアが戦争をしたことを知っているの?」 ジャネルは真顔で私に訊ねた。

1938年9月23日付の朝日新聞に掲載された記事だけを頼りに、私はオブラートを一枚一枚剥すように日系人ワラビーズを探したが、その取材には太平洋(大東亜)戦争を避けては通れなかったのだ。

私は2月に2度キャンベラの戦争記念館を訪ねたことも話した。キャンベラ戦争記念館の中庭の壁(ロール・オブ・オーナー)には、オーストラリアのために戦死した全兵士の名前が刻まれている。キャンベラを訪れる度に私は日系人ワラビーズ"ブロウIDE(井手)"の名前に花を添える。

ロール・オブ・オーナーには、ジャネルの祖父の名前も刻まれているはずだった。戦争毎にセクションが別れているために、その名前はきっとブロウの名前の近くにあるはずだった。


「日本の若者は400年も500年も前の歴史をよく知っているのに、どうして高々70年前の歴史を知らないの?」 ジャネルが私に訊ねた。息子を留学させるのを切掛けに、日本の若者や教育について夫婦で学んだと言う。私は息子達をシドニーで育てたが、息子達は日本とオーストラリアの悲しい歴史を知っていると伝えた。

それまで、ずっと黙っていた15歳の弟が口を開いた。

「僕は知ってるよそれと、アメリカが広島に原爆を投下し、必要が無かったのに更に長崎に投下したのは、ロシアにその力を見せつけたかったからだよ」 と続けた。一瞬、私はなるほどと思った。そんな風に考えたことは無かった。オーストラリアでは、歴史の授業でそのようなディベート(討論)がなされるのだそうだ。

NHK衛星放送のニュースから、「原爆が戦争終了に必要だったか?」というアメリカの若者へのアンケートに、以前は70%以上がイエスと答えていたのが、今では50%を切ったと報道されていた。

その数字云々よりも、私は若者達が戦争という史実に関心を持っていることに日本との違いを感じている。

「本当の平和は?」「本当の友好は?」 本当の歴史を知ることから生まれるのではないだろうか?


別れ際に、弟が私に握手を求め、「今度、サンシャインコ―ストに来たら、家に来てね」と笑顔で言った。


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日本の高校に留学するオーストラリアの少年二人を連れて新潟の高校を訪問した。

その留学に際し、私は双方の間を取り持つ役割を担ったが、在学中に彼ら二人が日本で快適な学園生活を送るために、双方の親や学校側と綿密にやり取りをしながら、できる限りの準備をしたつもりだ。

共に小学生の頃から日本語を習い、日本に興味を持っていたと言う。オーストラリアでもハイクラスの家庭に育ち、一人はサンシャインコースト、もう一人はゴールドコーストからやって来た。 その内の一人は両親と弟が付き添って訪日したが、決して過保護という訳ではなく、折角息子が日本に留学するなら、自分達も一緒に日本旅行を楽しもうとしたようだ。そのついでに息子の留学先やその周囲の環境も見ておきたい、そして安心したいという親心もあったようだ。その気持ちは私にもよく理解できる。
東京では桜が満開だというのに、車窓から眺める新潟の景色は彼らにとって驚きだったはずだ。益して、夏の終わりとは言え、サンシャインコーストやゴールドコーストからやって来た彼らにとって、この光景はどう映っているのだろう?これからの生活をどう考えるのだろう?と思うと、私はちょっと不安になった。
二人を高校に送り届けた時点で今回の私の任務は終了し、付き添った家族まで世話する義務はなかった。

実際、私自身の日本出発が迫っていたこと、出発する前に済ませなければならないことやアポイントも幾つか入っていたことなどもあり、一刻も早くその場を離れたかったのだが・・・ 

例え、準備を完璧にしてきたつもりでも、まだ彼らは少年であり、日本に到着したばかりで、二人がどのような反応を示すか? 正直私には読めなかった。そのため、その晩は新潟駅近くにホテルを予約していた。

家族を伴って訪日した一人は、その晩は家族と共に新潟のホテルに宿泊する許可を学校側から貰っていたが、もう一人の留学生を気遣ってか、そのまま学校に残り寮生活を始めることを家族に告げた。それを受けて長男を抱き締める母親、出発する時刻になり、長男を見ることができず下を向いたままだった母親・・・ 
私の性格からすれば、そんなオーストラリアの家族をそのまま放っておくことはできなかった。

学校のスタッフから新潟駅構内に「日本酒博物館」があると聞き、私は家族をそこに案内した。

日本一の米どころ新潟で、117種類の新潟の酒が利き酒できるナイススポットであり、現役ドクターの父親や現役ナースの母親はとても喜んだ。1コイン(100円)でお猪口(おちょこ)1杯の利き酒ができるが、3人でアッと言う間に15枚のコインが無くなった。母親も徐々に元気になり、その横で15歳の弟も利き酒をしている。

オーストラリアでは、親や大人の管理下(但し室内に限って)であれば、若年層が飲酒をする光景を見掛けることがある。弟が「このフレイバーは・・・」と両親に真面目に話すのを聞きながら、先日終了したばかりのNHK朝ドラ「マッサン」を思い出した。「僕のお気に入りはこれ」などと言っているのが実に愉快だった。

そのまま、階下にある居酒屋風のレストランで食事をしたが、日本に居ても彼らが絶対に注文しないだろうと思うようなものばかり注文した。フレッシュ・オイスター(生ガキ)はオーストラリアでは有名だが、カキフライを注文したところ、「ビューティフル」を連発、もちろん、もう一皿注文・・・


その間、長男のことは一切話題に上がらず、日本酒の酔いもあってか実に楽しい夕食だったのだが・・・

兄に比べ、2歳下の弟は極端に無口だった。私を嫌っているのかと思うほど、出逢ってから食事中もほとんど私とは話そうとしなかった。カメラを向けても、彼は後ろの方からほんの少し顔を出す程度だった。

彼らとの話題が意外な方向に展開するが、それについては次回のブログに描きたいと思う。

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