上祐史浩

オフィシャルブログ ―― 21世紀の思想の創造


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 前回は、何かの目的の達成や問題の解決する場合、その結果の良し悪しなどを過剰に気にすれば、逆にその達成や解決の手段に集中できなくなるので、行き詰った場合などは、だらだらと悩むのではなく、例えば、いったん棚上げをし、環境・行動などを変えてリセットした上で、改めて考えることが秘訣だと思うことをお話ししました。

 

 その詳細は、前回の記事をご覧いただくとして、今回一つ加えたいことは、それを実行するための心の持ち方です。

 

 というのは、いったん棚上げして、と言うのは簡単ですが、場合によっては、行うことが容易ではないこともあります。いったん棚上げすること自体がなかなかできない、悩み続けていないといられない、といった心理状態です。これは、とらわれが強いが故に生じる状態です。しかし、そのままでは悪い方向に行ってしまいます。

 

 そうした行き詰まりの突破のために役立つものとしては、多少過激ですが、その目的の達成、問題の解決にとらわれることをいったん「棚上げする」というよりも、いったんは「捨てる」ことではないかと思います。

 

 これを言葉で表現すると、ケースバイケースで表現が変わりますが、例えば、「できなくてもいいではないか」「できなくても生きていけるではないか」といったような視点です。より大きな視点に立って、自分のとらわれを弱めると表現できるかもしれません。
 
 格言にも、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」、「死中に活」、「急がば回れ」、「勝つと思うな思えば負けよ」、「果報は寝て待て」といった言葉があります。ピンチの時に開き直ったら逆にうまく行った、ということもよく聞きます。

 

 こうした先人の経験・智恵から学んで、それを自分でも試してみるのです。こうして、とらわれを捨てた時に、心の平静・集中を取り戻して、物事が正しくバランスよく見えたり、今までとは別の智恵・物事の解釈が生じたり、何かしらの突破口が見えて来たりすると思います。

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 間違った見方(無智)がとらわれと苦しみを招く 

 前回述べたように、とらわれを超えることができない限り、普通の意味での喜びは、必ず様々な苦しみを招くことになる構造にあります。これを苦楽表裏とも言います。 

 そして、ブッダが説いたことは、ほとんど人は、この構造を知らない、ないしは、頭の一部では分かっているが、それが不十分で、少なくとも十分には実感しておらず、その結果、喜びと苦しみは別のものだという錯覚=間違った見方に陥っている、ということになります。

 実際には、ブッダは、人は、苦しみを楽だと取り違え、無常であるものを恒常的なものだと取り違え、私・私のものではないものを私・私のものだと取り違え、不浄なものを浄らかなものだと取り違えていると説きました(苦・無常・無我・不浄の四顛倒(してんどう)などと仏教用語で言われます)。

 この取り違え・間違った見方は、仏教では、無智ないし無明(漢訳語では痴・愚痴)などと呼ばれます。そして、無智だから、とらわれてはいけないものに間違ってとらわれてしまい、その結果として、自ずと(自滅するが如く)苦しむ、というのが、人の苦しみの原因であるとしています。

 なお、ちょっと脱線しますが、仏教の教えの中で、「苦」と訳されている言葉には特殊な意味があります。その原語である「ドゥッカ」(duhkha)は、日本語の普通の意味での苦しみ(=心身の苦痛と同じ意味)ではないのです。これを理解しないと、仏教の思想が、よくわからなくなります。

 ドゥッカの原義は、「不安定な、困難な、望ましくない」という意味であり、直接的に心身の苦痛を意味していないようです。それは、最初は喜びであっても、変化して、苦しみに変わるものも含めた意味での苦しみです。すなわち、苦と楽を対極的なものとして分けない思想なのです。

 先ほど述べたように、最初は喜びの対象であるものも、それにとらわれている間に、様々な苦しみの原因となって、様々な苦しみに変わっていく、という事実があります。その意味で、苦と楽を別物とわけない思想における苦が、ドゥッカのニュアンスに含まれているのです。

 よって、不安定な、困難な、望ましくないというのが元々の意味であるドゥッカには、(楽から苦に変わるような)不安定な、(自分の思いのままにすることが)困難な、(とらわれることは苦しみを招くので)望ましくない、といった意味があると思われます。

 まとめて言えば、ドゥッカとは、「無常性のためにとらわれると苦しみをもたらす性質がある」などと表現できるでしょうか。

 そのため、仏教では、「一切皆苦」という思想があります。これは、一切は苦痛であるという意味ではありません。そのように誤解すると、仏教が不合理なまでに現世を否定するニヒリズムだと誤解されてしまいますが、実際にそのように誤解されている面があるようです。

 本当のところは、「一切は、無常であるから、とらわれると、苦しみを招く」といったほどの意味になると考えることが正しいと思います。こうして、仏教は、この世界を否定する思想というのではなく、(過剰な)とらわれは、苦しみを招くことを戒める思想だと思います。



 

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イベントバーエデンでの5回目のトークイベントを行いました。

 

本日は実に様々な背景の方にお集まりいただき、トークの後の懇談を含め、多くの貴重な出会いを頂きました。こうしたこともあるんだな、と驚かされるような方との出会いもありました。

 

ご来場いただき、改めて、深く御礼申し上げます。

 

次回6回目は6月15日1930~を予定しております。皆さんのお越しをお待ちしています。

 

 

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 本日の東京の講話会、ゴールデンウイークの最初の日曜日、普段より一層多い方に来ていただき、深く御礼申し上げます。

 

 初めて参加の方も、仏教に関心のある大学生、ヨーガ体操の先生歴が10年以上の60代の男性、禅仏教を学んだ若い女性の方など、老若男女と言う形で、色々な方が、仏教・ヨガなど、心の幸福に関心を持ち学んでいることを改めて実感しました。

 

 そして、いよいよ明後日5月2日から6日まで、東京本部教室で、GWセミナーを行い、毎日朝から夜まで、仏教思想・心理学の講話・講義、ヨガ・気功・各種の瞑想の実習、各種ヒーリングを行いますので、その準備を、東京本部教室を中心に、団体を挙げてはじめつつあります。この期間は、他教室の指導員の一部は東京教室に来て指導をします。

 

 本セミナーは、一般の方の参加を歓迎しています。参加の形態も、全体ではなく、部分的な参加が可能で、講話ないしヨーガの実習だけ参加するとか、1日だけ参加することも可能です。更に、毎日の講話や、心理学の講義の一部は、公開ネット生中継を予定しています。ご機会・ご関心のある方、お気軽にお問い合わせください!

 

 ※以下は本日の東京の講話会の様子です

 

 

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                        再び混乱から秩序か?


 世界中で、対立の次元が一段深まってきた。ここ数年のイスラム国、ウクライナ・クリミアといった問題とは次元が違う。

 

 シリアを巡る問題は、米露という核兵器を保有する大国間での対立だ。北朝鮮の問題も、核兵器搭載の大陸弾道弾の問題が背景にある。そして、米朝対立の深刻化は、本質的には、米中の対立になりかねないし、日本への影響も大きい。

 

 しかし、人類の歴史を見ると、残念ながら、混乱から秩序、戦争から平和という流れがある。100年ほど前には、大英帝国が弱体化し、それによる混乱を背景として、2つの世界大戦が起こり、その後に、それを反省して、国際連合やEU連合が形成された。分裂・紛争の混乱から、平和の秩序の形成である。

 

 

 今後は、これまで唯一の超大国であった米国の力に陰りが見え、新興国が台頭する中で、再び混乱・分裂の時代を予想する欧米の識者が少なくない。例えば、いわゆる超大国不在の「Gゼロ状態」が来るという予見である。彼らの一部には、それを経て、世界全体が、より深い国際協調の必要性を理解し、「世界連邦」への道程を歩み始めると考える人たちもいる。

 

 また、私は、第二次世界大戦後の体制の解消が起こっているのではないかとも思う。30年ほど前は、ソ連が崩壊して、東西ドイツが統一され、EU連合が拡大して欧州が復興したが、昨今の北朝鮮の先鋭化は、長期的に見れば、南北朝鮮の統一、中国を含めた東アジアの自由化の進展に繋がっていくのではないだろうか。

 

 というのは、今の状態が、ずっと続くのは、無理があるようには思えるからだ。そして、仮にそうなれば、第二次大戦の主戦場となり、その傷跡・分裂が残った欧州とアジアの双方において、それが解消される新しい時代が来ることになる。チベット・ウイグルから北朝鮮まで、アジア全体で、思想哲学・宗教を含めた自由化が進む時代である。

 

 仏典の中には(転輪獅子吼経)、人々がある時点で戦争を反省して、殺戮をやめて、平和な時代が来て、寿命が延びて、多くの人が悟る理想の時代が来ると説く。ともかく、混乱・対立が速やかに解消されることを祈りたい。

 

 そして、こうした政治的な対立に限らず、世界経済や地球環境の問題を含めて、2020年代は、色々な意味で、世界にとって大きな変化の時になるだろうと思う。そして、そうした世界の中をしなやかで強い心と確かな智恵を持って生き抜く思想を創造したい。

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        最新科学が示す東洋思想的な世界の実相:万物は一体

 
 私たちの常識では、世界には様々な物が存在する。しかし、最新の科学が発見した世界の実相は、別のように見える様々なものが、実際には一体的に存在する世界である。
 
 近代科学は、私たちが五感で感じる世界が、世界の実際の在り方と異なることを明らかにしてきた。目には、太陽が我々の地球の周りを回っていると見えるが、実際には逆であり、大地は平らに見えるが、実際には球体である。
 
 私たちの五感は、とても小さいものや大きなもの、とても近いものや遠いものはよく観察できないし、電磁波の中で目に見えるもの=可視光線は、ごく一部だ。よって、気づかないうちに紫外線で日焼けするし、赤外線が見えないから夜は暗く見える。
 
 原子・分子の発見は。世界がより一体的であることを明らかにした。私たちの体は、自分だけの体を構成する分子はなく、呼吸・発汗・排せつなどで、自分の体の細胞を構成する分子が外に出て、他の人の体の一部になり、その逆も起こっている。
 
 自分の体を構成する分子は、数年で完全に入れ替わり、数年前と今の貴方は、全く別の分子に作られている。その意味で、科学的には、昔と同じ自分があるという「自己同一性」は成立しないし、自分と他人は別ものではないという結論となる。
 
 これは、私たちの日常の感覚とは大きく異なるだろう。日常の感覚に矛盾していても、私たちは、400年前に発見された地動説を確信しているが、より最近の科学の発見は、日常レベルの感覚では、理解していない。
 
 立花隆氏の歴史分析では、基礎科学の発見が、工学技術に応用され、日常生活に浸透し、社会の常識になるには、数百年がかかるともいう。その意味では、未来社会は、今とは異なる世界観が常識になる。世界はより一体的だと認識されているだろう。
 
 一方、2600年ほど前に始まった仏教では、最新の科学と同じように、(永久不変の実体をもった)私は存在しないと説く「無我」の思想がある。これは、仏教の自我に執着しない思想のベースである。
 
 以前は、世界には無数の別の存在があるように見えていたが、原始の発見で、世界は、本質的には、百数十種類の物で出来ていることが明らかになった。自分と他人の体も、同じもので出来ていることが分かった。
 
 現在の素粒子物理学によれば、原子も、クオークなどの十種類程度の素粒子で構成される。こうして、科学が発展する度に、世界は、より少ないもので構成された、より一体的なものであることが発見されてきた。よって、未来には、全ての存在が、一つの根源的な何かから生じているという結論に至るかもしれない。
 
 これは、仏教・ヒンズー経・道教などの東洋思想にある一元論(全一論)だ。また、旧約聖書も、宇宙の始まりは混とんとしたカオスであり、その後に光と闇・天と地などに分けられたとしているから、一元論的な要素がないとは言えない。
 
 量子力学は、以前は、別のものと考えられていた粒子と波動にも繋がりがあることを発見した。
 
 そして、アインシュタインは、波動であると思われていた光に、粒子の性質があることを発見した。こうして、光には、波の性質=光波と、粒子の性質=光子の双方があることが分かった。
 
 そして、粒子と考えれていた電子にも、波動の性質があることが発見された。更に、原子にも、大きな分子にも発見された。全ての物質に粒子と波動の双方の性質があると考えられるようになった。
 
 今まで別のものと考えれてきた粒子と波動は、実際には相補的であるという考えが生まれた。すると、例えば、「光子というものがあるならば、光は物なのか」という疑問が出るかもしれない。つまり、物質とそうでないものの境界が曖昧になった。
 
 更に、電子の不思議な振る舞いが発見されて、それを説明するために、電子は、観測される前は、波のような存在であるが、観測されると、粒子になるという解釈が提唱された。そして、その解釈の一つとして、人間の意思が、波のようなものを粒子に収斂させるという説もある。
 
 とはいえ、これは多くの解釈の一つに過ぎず、主流ではない。科学的には、意思とは正体不明で、観測できず、物理現象に影響を及ぼすシステムは全く分からない。意思説を否定する現象があるという反論もある。
 
 心と物質は別だとする物心二元論は、近代哲学の祖であるデカルトが主張し、今でも常識的な考えかもしれない。しかし、量子力学に限らず、最近の専門家の間では、それを支持するものは、ほとんどいないという。脳科学の分野では、脳の働きとして、意識を説明できるという考え方が強いのだろう。
 
 そして、物理現象と精神現象と不可分だという思想は、仏教でも、唯識思想にある。阿頼耶識という根本的な意識が転変したものがこの世界の全てだとする(精神も物質も)。これは、唯心論かというとそうではなく、物と心の双方があるが、心が物に転変し、物が心に影響を与えるという思想だ。
 
 ヒンズー教では、世界の全ては、ブラフマンという根本原理が展開したものだと考えるヴェーダンタ哲学が主流である。道教も、世界の全てを現している陰と陽も本質的に一体であると説く。量子力学などの著名な科学者の中には、こうした東洋思想に深く共鳴する人が少なくないと言う。
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         未来社会の幸福観は?:皆が我欲の追及に飽きる時代に

 

 人工知能が囲碁将棋の名人を圧倒しつつある。人工知能・遺伝子工学・クローン技術・サイボーグ技術・3次元の仮想現実といった科学技術が究極まで進めば、どんな社会になるか。

 

 あるアーティストの方との対談の中でも話題になったが、人が生きるために必要な仕事は、全部人工知能による機械が行なようになる。そして、人は、自分がなりたい自分に自由自在になることができる。今の人間をはるかに超えた知能・体力・完璧な容姿の自分に。そして、したい体験を(仮想現実の中で)自由自在にすることができる。王様にも、スーパースターにも、どんなヒーローにもなる体験ができる。

 

 いつかは分からないが、そうした未来は必ずやってくる。しかも、科学の進歩の速度は、幾何級数的に(倍々の勢いで)加速しているから、今現在予想するよりもずっと早いかもしれない。一部では、最近話題になったように、人工知能が人間の知能を超える臨界点が遠くない将来にやってきて、その後は、人間ではなく、人工知能が絶え間なく人工知能を進化させ、人類をはるかに上回って加速度的に自己進化するという説もある。

 

 では、今現在の社会と異なって、我欲を自在に満たせる時代になったら、いったい人は何をするのか。何を目的として生きるのだろうか。

 

 まず、我欲を自由に満たせるが故に、皆がそれに飽きてしまって、それでは幸福を感じない時代になるだろう。どんな欲求も飽きるということがある。また、我欲の中心に、自と他を比較し、他より優れた自分になりたいという欲求があるが、いかなる分野においても人間のトップをはるかに凌ぐ能力をもった人工知能等の技術は、人間の間での優劣の比較を全く無意味に感じさせるだろう。

 

 こうした状況の中で、人間が求めるために残された幸福感、新たな幸福感とは何だろうか。

 

 これまでの先哲の智恵から考えれば、それは、高度に精神的な幸福であり、言い変えれば、我欲を越えて、万物との一体感を得ることによる幸福=慈悲・博愛の心の幸福だと思う。わかりやすく、表現すれば、落ち着いた大きな心、静まった広大な心であり、それによる心身の健康、平安で調和した他との関係、合理性と直観力を併せ持った知性(智慧)ではないかと思う。

 

 そして、そうした時代が来る前に、今現在の時代から、我欲を越えた幸福を求める人も少なからずいるだろう。その人たちによって、万物一体の幸福は、未来社会まで保存されることになるとすれば、結果として、彼らは、未来社会の幸福観の先駆者となるかもしれない。

 

 2500年前に、後にブッダと呼ばれるようになったゴータマ・シダッタという人物(釈尊)も、自分の時代には、多くの人に理解されることはないが、遠い未来の人類には広く理解されると予見しながら、その思想を説いたという。その意味で、ゴータマは、先駆者だったのかもしれない。

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          2017年:麻原・オウム=アレフの行方


 2017年は、麻原、およびオウム真理教=現在のアレフ(厳密にはAleph)に大きな変化が起きそうなので、それを皆さんにお伝えしておきたい。ちなみに、私自身は、30年前の1987年にオウム真理教が発足した際に出家し、10年前の2007年に、オウム真理教から名前を変えたアレフを脱会し、ひかりの輪を発足させた。

 

 まず、今年は、オウム裁判が終結する年になる。特に、麻原の共犯者の裁判として唯一残っていた高橋克也被告の裁判が終わる見通しだ。最高裁への上告が去年の9月だから、メディア関係者は、早々にも最高裁の判決=判決の確定を予想している。

 

 次に、そうなると、麻原を含めたオウム真理教事件の死刑囚の死刑の執行が焦点となる。これまでは共犯者の裁判が終結していないために、彼らの死刑も執行されなかったが、その障害が取り除かれる。また、麻原だけ執行されるのか、それとも、13人の死刑囚を一斉執行するのか、ということも注目されている。

 

 なお、こうした裁判の終結や死刑執行という節目に際して、ひかりの輪としては、これまでのオウム事件の反省と総括に基づいて、それを粛々と受け止めつつ、被害者・遺族の方に対する賠償金の支払いを堅持していきたいと思う。


 さて、2017年には、麻原の刑死と共に、アレフにも大きな変化が生じる可能性がある。アレフに対しては、2012年3月から、オウム真理教事件の被害者団体が、東京地裁に調停の申し立てをなして、オウム事件の損害賠償の支払いと著作権問題の問題に関して、係争中である。

 

 アレフは、2000年に損害賠償の契約を締結したが、その後、被害者団体が必要とする契約の更改に応じないなど、両者の間に争いがある。この賠償問題に関する争いは、既に5年ほど続いているが、関係者の中には、2017年はいよいよ山場となるのではないかという推察もある。

 

 また、著作権の問題とは、アレフが、麻原・オウム真理教の著作物を使って教団を運営し、収益を上げているが、被害者団体は、オウム真理教の著作権は、宗教法人オウム真理教の破産業務の終結と共に、被害者団体に譲渡されており、その使用の停止をアレフに求めている。

 

 しかし、アレフは、それは、オウム真理教ではなく、麻原個人の著作物であり、被害者団体に著作権はないと反論し、事態はこう着して言うようだ。しかし、麻原が死刑になると、その著作権は、麻原の妻と子供たちに相続されるが、その中で、アレフが使用することを認めない者がいれば、こう着状態が崩れる可能性がある。

 

 そのためだろうか、昨年以来、アレフが、こうした法的責任の追及を逃れるためにも自主解散するのではないかという話や、いやそうではなく色々な手段を検討しているとか、といった噂が流れているそうだ。ただし、私やひかりの輪は、既に10年もアレフとは関係がなく、事実かは確認しようがないことをお断りしておく。

 

 大まかに言えば、求心力が低下しており、それが今年は明確になる年なのかもしれない。こうして、2017年が、麻原・アレフにも、大きな転換点になる可能性が高い。

 

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