今ここの幸福3 万人から学ぶ幸福を得る | 上祐史浩

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          万人から学ぶ幸福を得る

 前回は、今ここに幸福を感じる、見いだす生き方についてお話をしました。


 そして、その中で、求めて得る幸福だけではなく、

 今既にあることに気づいて得る幸福が大切だとお話ししました。

 さらに、それを言い換えれば、どんな人にも、どんなことにも、

 深く考えれば、幸福と不幸の二つの側面があるから、
 幸福を見る人は幸福になり、不幸を見る人は不幸になる
 というお話をしました。
 
 今回は、それに基づいて、良い人を見ても、悪い人を見ても、
 利益=幸福を得ることが出来る考え方についてお話ししたいと思います。

 良い人、悪い人という表現は、分かりやすいものの、人は神でも悪魔でもなく、

 どんな人にも善悪の双方がある以上、あまりに単純化することは避けて、
 良いことをしている人、悪いことをしている人と言い換えましょう。

 普通、良いことをしている人からは、私達は利益を得ることができると考え、

 悪いことをしている人には腹が立ち、嫌な思いをすると考えます。

 しかし、これは固定観念であり、良いことをしている人を見ても、

 悪いことをしている人を見ても、自分の考え方を訓練するならば、
 利益=幸福を得ることも出来ます。同時に、下手をすると、
 どちらを見ても、不幸になる場合があります。

 善いことをしている人は、その善行によって、本人は幸福になると思います。

 しかし、それを見る側の私達は、
  1その人を自分の見本として喜び、見習う努力をすれば利益になりますが、
  2単に愛著し、依存・盲信すれば、無智と怠惰を増やす不利益になるし、
  3妬む場合は言うまでも無く、不幸になります。
 
 2の依存・盲信とは、よく誰かの「取り巻き連中」などと言われる人などが、
 その中心人物を見習い学ぶのではなく、その中心人物の徳を自分の徳と
 錯覚して、中心人物に依存してプライドを満たしている場合などがあるでしょう。

 一方、悪いことをしている人は、その悪行によって、本人は不幸になると思います。

 しかし、それを見る側の私達は、
  1その人を自己の反面教師として反省すれば、大きな利益になりますが、
  2自分と区別して、嫌悪・怒りを抱くだけなら利益にはならず、不利益になるし、
  3その悪を真似する場合は言うまでも無く、不幸になります。

 悪いことをしている人を反面教師にすることは、他人の欠点はよく見えるが、

 自分の欠点を見ることは苦手な私達にとって、相当に難しいことです。
 常々、自と他を区別し、虚栄心・慢心にとらわれがちですから。

 しかし、例えば、身近に反面教師が存在することで、はじめて、自分自身が

 その反面教師のなしている悪いことを努めて避けるように努力できる場合が
 非常に多いと思います。最近は、親子関係、夫婦関係の問題がよく言われますが、
 親や配偶者を見て、自分は絶対こんな事はしたくないと思うとか(笑)。

 人は皆弱い者で、身近に反面教師がいて、自分の代わりに、身をもって、

 悪いことをした結果の大きな苦しみ・惨めさを具体的に示す存在がない場合、
 自分が初めて悪いことに誘惑されることになります。その場合は、
 反面教師がいる場合と比べて、同じ弱り心を持った人間として、どのくらい
 悪の誘惑に対抗できるものか。こう考えると、反面教師は貴重です。

 こうしてみると、善いことをしている人、そして悪いことをしている人を見た時に生じる

 利益・不利益、幸福・不幸は、その人達のせいではなくて、自分が選んでいる、
 自業自得のものであると言うことができると思います。

 そして、ここでのポイントは、どちらのを前にしても、自分が幸福になるには、

 その人と自分を区別せずに、自己の教師、ないし反面教師として活かす努力
 をすることであることが分かります。

 善いことをしている人に依存したり、妬んだり、悪いことをしている人を

 嫌悪する人は、他人と自分を区別している点が共通しています。
 自と他の区別をせず、善人も悪人も、自己の潜在的な可能性であると
 分かれば、善人が自分が見習うべき見本であるだけでなくて、
 悪人さえも自分の貴重な反面教師であることが分かる。

 こうして、どちらを前にしても、そういった努力すれば、教師・反面教師として、

 すべての人を自分の導き手として、幸福になる場合が多くなり、
 逆に、その努力しなければ、どちらを前にしても、利益がないか、
 不幸になる場合が多くなります。

 大乗仏教では、悟った人には、万人が仏に見えると説かれますが、

 万人が教師ないし反面教師であるならば、
 万人が、仏が私達の成長のために与えた存在=仏の現れ
 と見ることも出来ると思います。


●参考:大乗仏教の教義


1全ての衆生に仏性あり

 全ての衆生が仏性=未来に仏陀になる可能性がある。全ての衆生が成仏する。
 悪業をなしている者も、その苦しみから反省し、未来に仏陀になる可能性がある。
 釈迦も、その弟子達も、かつては悪をなして、改心して、悟った。

2全ての衆生が仏の現れ

 大乗仏教では、
 1全ては平等な仏性の現れであり、不必要なものは一切無いと説き、
 2また、悟った人には、全てが仏と浄土に見えると説く。
  一部の経典では、宇宙の全てが根元仏である大日如来の現れとされ、
  この宇宙が法界であると説く(重々無尽縁起・法界縁起)。

3その他の参考の考え方

 1善をなす人は、他の見本をなる事は出来るが、悪をなす人と違って、
  その実体験によって、悪をなす人の苦しみを理解して救うことはできない。
 2逆に、悪をなす人は、最初は他の見本をなる事は出来ないが、
  その悪業による苦しみを味わい、改心して成長すれば、同じ悪をなす人を
  理解して救う力は、そういった経験の無い人よりも大きくなる。
 3
こうして、万人が成長して、未来に仏陀になるという視点からは、
  今善をなしている人も、今悪をなしている人も、長い目で見れば、
  人を救う上での時期や役割の違いがあるだけで、その違いは
  優劣ではなく個性であって、両者は平等な価値を持つ。