まさし特派員の世界一周だより

人文系旅ブログ。自称特派員という無職に就職した僕が、世界の情報を書くという設定です。最近は世界の墓場がマイブーム。


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新潟に安吾ゆかりの場所巡りをしてきたのだ。前回の記事は、その記事の序文のつもりで書いたのだけど、序文その二ということで、もう少し、続けさせて頂きたい。というか、本文よりも序文のほうが長くなりそうなのだが。
以下に引用するのは、坂口安吾の「続堕落論」の一節である。



 天皇制だの、武士道だの、耐乏の精神だの、五十銭を三十銭にねぎる美徳だの、かかる諸々のニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出発し直す必要がある。さもなければ、我々は再び昔日の欺瞞の国へ逆戻りするばかりではないか。先ず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。未亡人は恋愛し地獄へ堕ちよ。復員軍人は闇屋となれ。堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗ごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ。堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。道義頽廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足の二十本の爪を血ににじませ、はぎ落して、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。



長い引用になってしまったが、要約すると、社会通念や常識を捨て去って、まずは自分の本質、何を求めて何をしたいのか、知ることから始めよう、ということだろう。
社会の中で生きていると、常識だとか他人の視線や思惑に縛られる息苦しさがある。自分がこうだ、と思っていることも、案外常識や他人の視線や思惑によって「思わされている」ではないだろうか。自分の本当のことというのはなかなか見えづらいものだと思う。
旅をすれば、自分に取って本当に必要なものが見えてくる、とよく言うけれども、僕にとっては、それは前回の記事で書いた通り、他人の視線も自分の身も構わなくなるという一種の自暴自棄、安吾流に言うと、「堕落」があってこそ見えてきたものだった。
だから僕は思うのだ、旅とは「堕落論」なんじゃないかと。少なくとも僕にとっては。




昔から僕は物事に穿った見方をする人間で、常識や秩序に疑いを持ち、はまりきれない自分だった。
人間何らかの価値を持って生きていないと、生きる意味すら危うい。僕は、常識や秩序といった既製服が自分に合わないと感じていた。どこかにもっと、自分にぴったりな相応しい服はないか探したかったのだ。





僕が文学に向かったのはそれが理由だった。まったく、他に理由があっただろうか。今のような時代に文学など、少なくとも経済的に得るものなどないし、今の僕の現状はそれに相応しいといえるかもしれない。しかし、それは大したことではない。少なくとも僕にとっては必要なことだったからだ。こんな表層的な世の中で、僕が生きる価値を見つけるために。そしてこれまでに読んだいろんな本は、僕に多くを教えてくれたけれども、だが決定的に重要なのは、自分自身が体験して得たことだと思う。




旅をするということは、読書に似ていると僕は思う。どちらも、自分とは異なる他者に触れることである。あるいは、僕が読書をするように旅をした、というべきか。こちらが正しいのかもしれない。




印象に残る光景がある。イスラエルのエルサレムにいた時のことである。
イブラヒムという旅人の間では有名な爺さんのところに泊まった。そこのゲストの半数以上は日本人だったが、残りを占める欧米人の殆どは、場所柄信心深い人たちだった。




神の啓示を受けてここに来たというアメリカ人の中年女性。
ダイニングで賛美歌を歌うチェコ人の一団。
何十年ぶりの雪が降り皆寒さに震えていたというのに、半裸でベッドで聖書を読んでいた北欧人の男。
彼らには、宗教、なかでも一神教と言うものに馴染みの薄い僕達日本人とは異質なものが確かにあった。




早朝、まだ誰も起きてこないうちに朝飯を作ろうと僕はキッチンに降りたのだが、そこにはすでに先客がいた。
と言っても彼は、朝食の準備をしていたのではなかった。神に熱心に祈りを捧げていたのだ。
僕は、朝から熱心なことだねと、茶化したい気持ちもあって彼に近づいたのだけど、その表情を見て思わずその言葉を飲み込んだ。
祈る彼の表情は恍惚として幸福に満ち、まさに神と対話する表情だったのだ。




宗教的な体質でない僕には、そんな恍惚の表情に対して「宗教とは阿片である」とか、そんなことを言いたい風刺的な気持ちもあったのだけど、それ以上に「祈る」ということの荘厳さに胸を打たれる思いだったのだ。




朝の光が窓から粗末な使い古したキッチンに差し込み、日だまりが祈る彼を照らしていた。色彩豊かなステンドグラスはなかったけれど、それは一枚の絵のような美しさだった。
祈る彼の正面には、彼の心の中にある、磔にされたキリスト像が僕にも見えるような気がした。
そう、彼はこの粗末なキッチンを、いやむしろ、粗末だからこそより一層、この世のどの聖堂よりも荘厳な聖堂に変えてしまったのだ。
実際、この後僕はヨーロッパの教会を飽きるほど(まさに飽きるほどだ)観たのだけど、このときを越える感動を受けることはなかった。
それらはゴチャゴチャとケバケバしく飾り立てられ、立派な外観をしていたけれども、僕の心を動かすという点ではあの、薄汚れたキッチンを聖堂に変えた彼の祈る姿に及ばなかったのだ。




僕は、なぜあの光景がこんなに僕の心に残ったのか考えた。そしてふと、聖堂があって、祈る人がいるのではない、ということに気がついた。つまり、祈る人がいて、聖堂があるのだ。これは鶏か卵かという話でもあるが、それ以上に、物事の本質とは何かと言うことを考えさせる話でもある。




つまり、物理的にそこに聖堂があり、そこで祈るということはさして重要ではないのである。祈る人がいれば、すなわちそこが聖堂なのだ。なぜなら、本当の聖堂は祈る人の心の中にあるからだ。そしてその心の中の聖堂は、地上のどんな豪奢な建築にも優っているはずなのである。


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