後に世界にその名をとどろかすことになる ゼンガクレンー 

全日本学生自治会総連合 (全学連) が 国公私立145大学30万人の加入を得て 結成されたのは, 1948年9月のことである。 

結成は 日本共産党 の指導の下に 行われている。 

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1958年5月28日から31日まで開催された 全学連第11回大会は, 

全学連執行部と 日本共産党との 対立が 始めて顕在化した 大会だった。 

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1958年12月10日, 日本共産党を見限った若者たちによる 新党結成全国大会が 文京区黒門町の医師薬ビルで 開かれた。 

新組織名は, 「共産主義者同盟 (ブント)」 となった。 

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1959年6月5日からの4日間, 品川公会堂および芝公会堂において 第14回全学連全国大会が 開かれた。 

革共同系の塩川喜信が 委員長を退いて 全学連は ブントによって 完全に掌握された。 

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ブントや 全学連が 日米安保条約の改定に反対 するのは, 

日本が 戦前の軍国主義へと 回帰していくことに対する懸念からでも, 

アメリカの戦争に 巻き込まれるのではないかという恐怖からでもなく, 

それが プロレタリア革命に向かう 人民蜂起の着火点 になることを 期待してのことだった。 

革命へのプロセスが どういうものか, 島成郎を含むブントの誰一人として 明確なイメージは 持っていなかったが, 

もしも 革命が起きるとすれば, それは 歴史的政治的に重大な 結節点となる事件を契機に 起きるに違いない。 

安保条約の改定と それへの反対運動こそが まさにそれである。 

その見通しに 裏づけはなかったが, 必要なのは ただそう信じることだったのである。 

(81~82ページ) 


1960年8月下旬, ブントは 「プロレタリア通信派」 と 「革命の通達派」 の2派に分裂。 

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唐牛健太郎と 篠原浩一郎は 革共同を 去ったが, 60年安保闘争を ともに闘った 清水丈夫, 北小路敏, 藤原慶久らは そのまま 革共同 に とどまった。 

1963年4月, 革共同全国委員会では, 黒田寛一と彼の思想に同調した一派が 「革共同全国委員会・革マル派」 として 分離独立。 

残る 革共同全国委員会本体は 本多延嘉が 率いることになって, やがて 「中核派」 と 呼ばれるようになる。 

(154ページ) 


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