ちょっと間が空いちゃいました、すみません。

私は今は委託職員として公共図書館で働いている身ですが、レコード店とかでも「接客業」を経験しています。
それで、そういう立場からよく考えるのが、「ここ(図書館)が公共施設だと思うから、利用者に対してこんなにイライラするんだろうな」ということです。
やれ大きな声で話すな、携帯を鳴らすな、ノートパソコンは専用の部屋で使え、少しは自分で資料を検索しろ、などなど。
公共施設だと思うから、使い方を能動的におぼえて欲しいし、モラルにも気を配って欲しい。
ただ、モラル云々は別として、今の図書館の利用者って、この施設が公共施設だってことにどれほど理解があるのかな?という疑問は常にあります。
その辺からしてすでに「使う側=市民」と「サーヴィスを提供する側」の齟齬が出て来ているような気がするんです。

今年再オープンした武雄図書館は、もう皆さんご存知のようにツタヤとスタバがドッキングした半公半民の一種の複合施設のようになっています。
色んなご意見が散見されるのですが、批判的な目線を持っている人のほとんどは「図書館ラヴ」な人たちのように見受けられます。
実際にツッコミどころ満載かどうかなのは別として、賛否のどちらか側に同一の属性を持つ人がかたまっちゃうのは良くない状態かなあとも思ったりもして。
図書館員(出来れば業界の偉いさんじゃなくて一般の図書館員として働く人々)が武雄図書館を肯定的に評している意見っていうのもあれば拝見したいのですが。
何がいいたいかと言うと、結局同館への評価は「これまでの図書館像」をベースになされているということで、それは業界側の「そうであって欲しい」という理想像と市民側の「そういう施設ならいいな」という希望の2つが入り混じった「図書館像」なわけです。
そして、前者の中には多分に「愛」や「理念」が含まれています。
ただそれは「固定観念」にもつながりかねないのも事実だと思います。
実際問題、最初に書いたように、私自身が図書館への固定観念があるわけです。
それを元に業務に励んでいると、利用者が実際に求めていることとの間にずれが生じたりして、イライラしたり悩んだりします。

例えば、武雄図書館がずいぶんガヤガヤとうるさくなった、図書館らしくないという意見。
確かに「これまでの図書館像」からするとそれはちょっとな~なのですが、逆に、そういう空間であったとしても図書館機能に問題がなければ、そして利用者がそれでも心地良く過ごせるのなら、別に構わないのでは?という考え方もあるということです。
とにかく静かにしていなければならない以前の図書館像に息苦しさをおぼえている人も実際にいるわけですから。
その点は、もし図書館という施設にとってその方が良いという結果が出たとしたら、それは謙虚に参考にすべきことだと私は思っています。
樋渡市長の強引なやり口に「独裁性」や「黒い関係」を嗅ぎ取る人は多いですし、私もそれは感じていますが、それでも「これまでの図書館像を変えよう」という方向性を持って実行されたものだということは出来る限りニュートラルな視点で評価して行くべきことだと思います。

ただし。
「変える」とは言っても、今回の半公半民体制が従来の図書館をより良くするために機能しているのかというのは微妙で。
色々集めた情報を見る限りにおいては、図書館が「添え物」のように感じるのです。
あくまで「図書館」として再開館したわけですから、この施設が総合してより良くより新しい図書館像を提示するものでなくてはならないのですが、私から見ると「単にキレイになった図書館にツタヤとスタバが一緒にくっついて来ただけ」のように思えるのですね。
これもまた時間を重ねて行くことで評価して行くべきことですが、それを市長が自讃するように「利用者数が増えた」ってことで成功と判断されてもなあ、という気持ちではあります。
前にも書いたように、図書館を評価する指数というのはそういう「積み立て型」だけではなく、もっと色々ありますし、また、それが公的な場でもっと問われなくてはいけないのです。
そもそも「利用者数倍増」ということがさも何かを象徴しているかのようにニュースになることがおかしい。

例えば、話題となった壁一面の書架ですが、あれが「手に届かない場所が多く、結局スタッフにとってもらわなければいけない。書庫と変わらない」という状態のものであることはすでに多くの方に知られているでしょう。
物凄く評価を下しにくいことですが、図書館は「資料へのアクセスのしやすさ」ということも評価対象事項となります。
ホテルのように「ルームサーヴィスでお願いします」と言って何から何まで任せて本と出合えるのは、頼んだ本人は一歩も動かなくても良くてもそれは図書館の目指すべきサーヴィスではありません。
また「頼むという行為を利用者に強いている」という考え方もあります。
そして自力で手にとりにくい環境の中利用者が増えたということは、それだけ「不便の機会」が増えたということでもありますから、実際問題評価指数は双方で相殺されてしまっているのではないかと思います。

あとはスタバが併設されると聞いた時から疑問に思っていた「閲覧席問題」。
結局注文しなくても座れるゾーンとしないと居られないゾーンがあるということになっているようですが、あれも開館当初はそのゾーンの比率について色々問題が起こったようですね。
スタッフの認識不足ということで収めたようですが、私はその問題となった話をネットで読んだ時「こんなことが起こりうることも想定出来てなかったのかな?」とちょっと呆れました。
だって「図書館だけの図書館」であれば誰でも無料で座れるところに、有料で飲食物を楽しむ店舗が同じ空間内に併設されるのです。
有料の席があることで館内閲覧の機会を利用者から奪わないのか?とかその席数はどの程度の比率になるのだろうか?とか普通に疑問に感じると思うのですが。
その点は「滞在型施設」として非常に重要な問題なので、本来なら開館前に議論し尽くされているはずです。
カフェで珈琲を飲みながら気持ち良く読書・・・って確かにカッコいいイメージですし、自分も図書館内でそういうことが出来ればな、とも思うのですが、それは別に館内併設でなくても隣接でも良かったはずですし、またペットボトルなどの飲み物持込可という方法でもある程度その欲求は満たせるはずです。
スタバ併設って新しいようで全然新しい発想ではないということです。
つまり、多くの新設図書館が私が以上で指摘したような問題点に懸念をおぼえて回避した道のりを無謀に進んでしまったということかも知れないのです。

樋渡市長は「反対意見も聞きたい」と仰っています。
その言葉の響き自体はまことに正しい。
ただし図書館の旧来のあり方や固定観念を壊したいなら、それ自体をまずよく知らないといけないということです。
その意味で、CCCは「図書館業務」において新規参入企業だという事実をよく認識しないといけません。
新しい発想が出来る代わりに、ノウハウもない。
新しい形態を導入したから新しくなるわけではない。
ただ、市長やCCCの思惑がどうあれ、再開館した図書館は日々動いていき、歴史を重ねる。
その時間の堆積の中で多様な評価が生まれて行くことでしょうから、それが重ねられた後一定の評価を下された先に、この図書館がどのように動いて行くのかが本当に注目すべきところなのでしょうね。

とりあえず、個人的にはキレイになることは良いことだと思いますし、利用者のおしゃべりを妨げない方針なのなら、図書館員は凄く楽だと思います(笑)。
実は、図書館のもろもろの方針って図書館員にもストレスを強いているところもあります。
また、利用者が自力で資料にアクセスしやすいって実は図書館員にとっても人的コストが軽減され、色んな意味でコスト削減につながるので、そういう意味でも目指すべきところではあるのですよ。
武雄図書館員の方たちの一人当たりの業務総量および、それに支払われる対価についても凄く気になります。

思いつくトピックをとりとめもなく連ねてみました。
たぶんまだ続くと思います。
今回はこの辺で。
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東日本大震災およびその後の被災地についての、私の一番の関心事は「中学生・高校生ら思春期の少年少女の日常、あるいはその喪失」だ。

私事になるが、思春期の頃、特に家庭環境が一段と激しくひどく歪んで来た高校以降、私はよく「周りのみんながいる日常と自分がおかれている修羅場ばかりのそれが違った世界に感じる。孤独だ。この孤独を癒すには、天災が起こって、みんなが非日常を共有すればいいんだ」と考えていた。
断絶を感じる日常が天災でぶち壊されてしまえば、みんなで共有するプラットフォームが出来て、それで多少なりとも断絶が埋められる。
世間知らずの子どもならではの単純な思想だが、あの頃、確かにそういうことばかり考えていたことは事実だ。

関東以西・以南の方たちにとって、あの日の出来事とそれからをつぶさに知るにはもはや関連本を読んだり、被災地の写真集を見たり、あるいはYou Tubeなどにアップされた記録動画を見るしかない。
動画はかなり衝撃的なものが多いが、それでも、実際に被災地の只中に立つ時の戦慄とはくらべものにならないと思う。
そして、行ったとしても、地理的な空間の把握は出来ても、かつてそこに日常としてあったものがものの数時間で破壊しつくされる濃縮された喪失感は絶対に理解出来ないだろう。
そして人は、そのような「自らの無理解」を十二分に念頭におきながら、それでも知るために本などを読もうとするだろう。

あらかじめ言っておくと、私の関心事である思春期の少年少女たちに関する本はほとんどない。
被災後の日常のドキュメンタリーや、あるいは精神的な後遺症などに関する医学的なものも含め、子どもに関するものは、ほぼ小学生上限である。
多感な時期だから取材対象として選びにくいのか、それとも子どもと大人の中間地点にいる年齢層であるためこぼれ落ちてしまうのか。
とにかく、私が求める資料はほとんどないので、ただひたすら想像するのみである。

大人になってみれば、あの頃の友情がいかにもろいバランスの上に成り立っているものだったのかわかるし、特に私は歪んだ家庭環境のせいか「恋愛感情」というものを信じていなかった上、人の見た目にも非常に懐疑的な疑り深い性格をしていたので、甘酸っぱいあれこれも全然なかった。
その頃の友人で今も付き合っている人たちもいるし、感謝もしているけれど、それはどちらかと言うと卒業後に友情を温め直す機会があったからそうなったのであって、自分としては「まともな思春期」としてのあの頃を喪失している、と今でも感じている。
でも、そんな私に妄想していたような「非日常」は訪れず、その喪失感は私が「自分だけのもの」として認識する極めて個人的なものに留まった。

だがしかし、あの日、まさに私が思っていたような、いや、もっと凄まじい規模の「非日常」が彼ら彼女らの日常を根こそぎ奪っていった。
それは私がある種のユートピアとして考えていた「非日常の共有」などではなく、それもまた地続きの日常という過酷な現実でしかなかっただろう。
私が、その年代の子たちの「あの日からの日常」が気になって気になってたまらないのは、「これがお前が考えていた世界なのか?」という、彼ら彼女らと同じ年頃だった過去の自分への問いかけであり、それを引きずっている今の自分に対する重く厳しい宿題なのだろう。

これに対し、どう答えればいいのだろうか?
「そういう本がとても少なくて」と親友にこぼしたら「それは、あなたが書くべきなんですよ」とさりげなく返された。
自分にその資格があるのかどうか、そういうことは知らない。
でも、「あの子たち」が何故か書かれることが少ないことについて、どうしてなんだろう?と思った者が意識の面で一歩踏み出していることも確かだろう。
だから、私は書く。
おそらく、ノンフィクションではなく、フィクションの形で。
そこで綴られる言葉が現実に到底届かないのであれば、あの時、そしてその後起きたこと・起きなかったことの重みが想像を絶したものであることの証左になるだろうし、もし仮にあれらのリアルを体験した人々(特に描く対象としている子たち)の胸に響くものがあるのだとしたら、それもまた他所に住む他者が捉えた一つのリアルになるのだろう。

今はただ、それを書くために「あらゆる書き仕事」を自分の文章の研ぎ石とするのみだ。
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職場で、何人か毎日のようにCDを上限いっぱい借りて行く人がいます。
ほんとに毎日来ます。
ま、それだけならまだいいんですが、一日に数回来る人もいます。
そしてそれを毎日繰り返す。

図書館的には貸出資料数が増えるのでいいのかも知れませんが、私は「図書館員は世を忍ぶ仮の姿」の本業音楽ライターでございますから、内心すっごくイラついてるんですね。
なぜか。

だって、この人たち絶対聴いてないもん。
ただひたすら借りてパソコンとかに取り込んでるだけでしょう。
ちゃんと朝から夕方までの仕事をしているらしき人たちもそういう借り方しているし、ちゃんと聴いている時間はないはずだって判るんです。
あと、借りるペースが自分の記憶力を上回っていて、時々「それ前にも借りたじゃん!」みたいなパターンもあるんですよ。
私の頭は変なところだけ記憶力が発達しているので、毎日来ているような利用者さんが前に何借りたかとか憶えてしまうんですよ。
これ、図書館員としてはかなりやばい発言ですが、個人情報を特定されないように秘匿さえしていればいいので、まあいいかな。

で、私は音楽ライターなどという食いっぱぐれ職業候補トップクラスの仕事をやっているくらいなので、一応重度の音楽愛好者だと言えると思います。
そういう私から言わせると、「はまるのはいいけど、せめて聴けよ!」ってことなんです。
このような「取り込んだだけで聴いたつもりになって満足している人」「ただの聴かず音源コレクター」たちを、

A-ROM( = Another - Ripping Only Music)族

と名付けたいですね。
読み方はエーロムでもアロムでも。 

こういう人たちがいるから、自分に金が落ちてこないんだ!ということでイラついているのではありません。
純粋に、聴かないで取り込むだけで音楽ファンだと自覚しているのであろうそのスタンスが猛烈に気に入らないのです。

私は「百文は一聴にしかず」という自作のことわざをライターとしての座右の銘にしています。
音楽は結局、好きも嫌いもいいも悪いも聴かないと判らない。
CDを買わない音楽ファンがいるのは時代の趨勢かも知れませんが、「聴いてない音楽ファン」なんて、私は断じてその存在を認めない、許さない。

今「CDを買わない音楽ファン」と書きました。
そういう人、この現代社会で本当に増えています。
フィジカル大好き!な私世代の人間からするとちょっと信じがたい状況です。
で、こういうタイプの音楽ファンを、

DOM( = Download Only Music)族

と名付けようと思います。
読み方はドムですかね。

さあて、CDが売れず、そしてそれらに対して書いたテクストも売れず、ライターどころかアーティストにも金があまり行かないこの世の中、どうしたもんでしょうか。

今日仕事帰りのバスでダウンロード・オンリーの音源購入したのをiPodで聴いていて「これはカッコイイな。フィジカルがリリースされたら、DJイベントでかけてお客さんに喜んで欲しいな。自分もいい音で爆音で聴きたいし」と思ったんですね。
で、冗談半分本気半分で思いついたことがあります。

ダンスフロアみたいな本格的なのでなくてもいいので、ある程度爆音で聴かせるDJ体験を一定の年齢以下の人たちに法律で義務づければいいのではないか。
フィジカル媒体をああいうところでかけると、お客さんもそうなんでしょうが、何より自分が気持ちいいんですよね。
ジャンルなんか何でもいいんで、とにかくあの体験をしてみれば、リッピングやダウンロードでプレイヤーで聴くんじゃなくて、フィジカルを持ち寄って聴く楽しみが出て来るので買いたくなるんじゃないのかなあ、とかふわふわ考えてました。
とりあえず自分なら、たとえダウンロードとかユーチューブとかで試し聴きしたとしても、物凄く良いと思える音楽なら、タダで聴ける方法がいくらでもあったとしても、DJイベントでかけたくなってしまうので、やっぱりCDで欲しいな、と思います。
そこから出た発想ですね。

でも自分ツッコミですが、今はダウンロードやネットリッピング?用の優れたプレイヤーが出てきていて、その方が音が良かったり、DJだってデジタルプレイヤーつなげて出来ちゃうような世の中なんですもんね。
なかなかうまくいかねえや。

それでも、あの体験を本職のDJやライターとかだけがするんじゃなくて、物凄くたくさんの人にしてもらうっていう考え自体は結構いいとこ衝いてるような気もするんですよね~。
そうねえ、何かそういう「お話」を書いてみてイメトレでもすればいいのかな(笑)。

脱A-ROM & DOM族革命としてのDJ体験義務化、という妄想でした。
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みなさんは図書館をどんな点から評価しますか?
やっぱりたくさん借りられることですか?
新しい本がたくさん入って来ること?
それとも図書館員が「知的で感じがいい」ところ(笑)?

公共図書館を評価する指標ってさまざまなのですが、自治体が勘違いして目指しがちなのが、利用者数や開館時間、貸出冊数などのわかりやすい「積み立て型指標」の増加なんですね。

今話題沸騰の「ツタヤ図書館」こと武雄図書館のプロジェクトが立ち上がったそもそものきっかけは「開館時間の短さ」に樋渡市長が疑問を感じたからなんだそうです。
そのこと自体はもっともな疑問だと思うのです。
ただ、一応税金を使って運営している施設なので、そこから一足飛びに「じゃあ開館時間増やそう。アウトソーシングすれば経費も削減できる」というのはまた違うわけで、それならばまず「どの時間帯にどういう利用者層が使っているのか」とかの綿密なリサーチが必要だと思うんですね。
あと『図書館が街を創る』という武雄図書館を微妙にヨイショした本を読んでビックリしたのですが、市長がテレビ番組でツタヤの社長を見て興味を持って単身代官山蔦屋書店に乗り込んだらたまたまその社長が店の前の路上に立ってたので、「うちの図書館をお願いしたい」と言ったという「熱血エピソード」。
企業間の契約ならまだしも、これは自治体の首長がやるべきことではないです。
これが感動を煽るための誇張エピソードでないのだとしたら、市民政治のあり方として非常に恐ろしいことだと思います。
だって、議会で承認を得る前に「お願い」しちゃったわけですから。
市長本人がその本で言っているように「反対意見も意見の一つ」と本気で考えているのだとしたら、その反対意見をも集めるためにまずは議会を通してから依頼するべきでしょう。
「図書館運営に興味はありますか?」ならまだしも「お願い」はしちゃダメだろう。
その辺がまず気になりますね。

さて、そんな図書館の計画段階で一番もめたのがやはり「Tポイントカード問題」ではないでしょうか。
借りるたびにポイントがつく=貸出履歴データが残るというあれ。
案外知られていないのですが、図書館というのは個人情報には物凄く厳格です。
「その人」がどんな資料を利用しているのか、ということはもとより、図書館を利用しているということそのものが守るべき個人情報に当たります。
なので、みなさんが本を返したらそのデータは消えます
予約した資料が届いた時に電話連絡する際家族など他人が出た場合、本人の許可なく書名や利用している事実などをその人に教えたりもしません。
当初の計画では、ポイントをつけるだけでなくAmazonなどのように資料の貸出データをもとにオススメ情報をリリースしようとしていたみたいですが、前記事でも書きましたように、図書館という施設は「利用者にとって何が最大の利益となるのか」についての解釈が、利潤を追求する「店舗」とは全く違います。
貸出履歴は、図書館が最も厳格に保守すべき個人情報であり、それを守ることこそがこの施設の「世界的基準の理念」なのです。
でもこれも市長は市議会の質疑応答で「何が悪いの?便利でしょ」という感覚だったということなので、図書館という施設のこれまでとこれからを本当によく吟味した上での決断だったのかなあという疑問は残るんですね。
現状の悪いところも、いいところも、そして変革したいのなら「店舗」における理想ではなく、公共施設としての図書館の未来像をどういう風に作り上げたいのか、その辺のさまざまなトピックを追及した感じが見受けられないのが、懐疑派が一番感情沸騰したところなのだと思います。

そして、新規開館後、ここで書いた「図書館を利用しているということすら個人情報に当たる」ということについて賛否が飛び交う出来事がありました。
武雄図書館では館内撮影は原則禁止なのだそうです。
なのに、市長や市議会議員が新規開館後の賑わいを伝えたいがために利用者の姿が写った、自分が撮影した写真をブログ等にアップしたとのこと。
さて、これについてはアップした人にもそれを叩く人にも、一図書館員から申し上げたいことがあります。
まず、今日、どんな図書館でも館内撮影は原則禁止です。
理由はもちろん、利用している第三者が写ったりする「個人情報」保護の観点と、あとは著作権方面の観点からです。
ただし、そう言っていても、正式に図書館側に許可をとれば撮影出来る場合がほとんどです。
市長や議員さんたちも自分ところの自治体の施設の視察に来ているわけですから、その話も当然館側に打診があり、その際撮影についての説明や許可も行われたと推測します。
(あくまで「そうであって欲しい」という願望ではありますが)
なのに、「見学に行ったら市長がバシャバシャ撮っていた。禁止じゃないの?つまり自分も撮っていいってことだよね?」と勝手に判断して「利用者写ってないから問題ないでしょ」と無断で館内を撮影している人が一定数いるのをネット上で発見しました。
武雄図書館のあり方や、日頃の市長の言動に対して義憤に駆られるのは結構ですが、それと「利用マナーを逸脱した行為」を許容する姿勢は関係ありませんよね?
どんな「大義名分」があろうと、やっちゃいけないことはやっちゃいけない。
「悪事を報告する正義のスパイ」気取りで利用マナーを破る人の存在に、正直呆れました。
無断撮影を発見して「やめて下さい、撮影禁止です」と言ったスタッフがいたら「市長の独裁の手先」と言う人が必ずいそうな気もしています。
本当に自分に理があると思うのなら、こんなつまらないやり方はやめた方が良いと思います。

とは言え、ブログなどに利用者が写った写真をアップした人たちの無理解にも呆れます。
そして、そういう人たちが議会でまことしやかに市民にとっての図書館の意義などを空疎な言葉で議論して、税金の使い道や削減が決まるのです。
批判が続出して写真を削除したパターンが多いようなのですが、とりあえず利用者を写す時は本人にも許可を得ないといけませんし、ましてやそれをネットという公共空間にアップするのであればそのことも併せて申し述べておかなくてはいけません。

図書館というのは、そういう施設なのです。

武雄図書館についての個人的な意見あれこれ、まだ続きます。
続編お楽しみに。
みなさんにとって、図書館は「貸本屋」ですか?

常日頃図書館業界で交わされる「図書館危機説」~アウトソーシングが進んで図書館の本来あるべき姿がどんどん崩れて行くなどの悲観的な意見を見聞きするたびに、それは解るのだけれど、ただ、「今までなかった形の図書館のあり方」というのを充分に考えた上での意見なのだろうかと思うことがよくあります。
図書館危機説は、今年話題沸騰の内に改築・再開館した佐賀県武雄市の武雄図書館でさらにヒートアップしたように思います。

さて、武雄図書館については私も図書館員の一人として色々考えるところがあります。
それを述べる前に、そもそも図書館とはどういうサービスを提供するところなのか一緒に考えてみませんか?
みなさんにとって規模の大きな「貸本屋」であれば良いと思いますか?

日々図書館で働いていて感じるのは、図書館業界および自治体というのは利用者である市民に「図書館とはどういう施設なのか」を浸透させることに失敗したんだろうな、ということです。
皆さんが図書館に持っている「本を貸すところ」というイメージは、実は「あらゆる人が思想等に関係なく平等に情報に接することが出来る環境」という図書館最大の目的のごく一部分にしか過ぎません。
そこには「ニュートラルに資料を収集し保存する」とか「利用者が情報を収集する手助けをする」ということも含まれます。
そして「図書」館という呼び名が誤解の元なのですが、図書館は要するに日本国民とあらゆる情報をつなぐ架け橋なのです。
税金でそれをまかない、その人がどういう境遇でどういう思想を持っていてということに全く関わりなく、あらゆる情報に平等に接することが出来るようにする施設が図書館です。
その情報とは当然「図書」のみを指してはいません。
まずそのところをご理解下さい。

さて、ここで問題になってくるのが「情報を収集する手助けをする」というサービスのあり方についてです。
われわれ図書館員のサービスは「接客業」だと言われています。
そして、それゆえに「外部委託しても誰でも出来る仕事だろ」と思われるわけです。
まあ、アウトソーシングの問題はちょっとおいときますが、図書館とは実は利用者が「自主的に情報を収集する欲求を持っている」ということが前提になっています。
または、その欲求を喚起し持続させるのが図書館の務め、なのです。
そして、おそらくその部分が世の中での捉えられ方と決定的にずれているのだと私は思っています。
要するに本屋やレンタル店などの営利目的店舗の接客と同じサービスを期待している。
本来、私たち図書館員は利用者がより幅広く自主的に利用する方法を案内し、その人の「情報に接する機会」を最大限に広げるようなサービスを展開するのが至上目的なのです。
でも図書館は公務員がやっている貸本屋だという意識しかない人が多いので、自分が「客」として命令すれば何でも言うことを聞いてくれると思っている。
しかし、そういう営利店舗型接客は必ずしも「機会を広げる」役に立つわけではないのです。
図書館では、何が利用者にとって最大の利益となるか、の解釈が違うのです。

例えば、利用者に「この本ある?」と言われて「はいはい、ただいま」と持って来るのは通常の接客(レコード屋とか)ならそれで良いのですが、これは図書館ではNGだと私は考えています。
まず、検索機を使えばたくさんの情報に自分の手で触れられるという案内をしていない。
そのジャンルの本が書架のどの本にあるのか案内をしていない。
そして、同系統の本がある場所に実際に案内しないことで他の本に偶然出合うという機会を著しく奪っている。
親切なように見えて、図書館という施設を最大限利用してもらうための扉を閉ざしているのです。
でも、そういうサービスを提供しようとすると「接客がなってない」とお叱りを受けたりします。
もちろん対応が悪かったのだという可能性を省みた上で、これはやはり市民に「図書館はそういうサービスを提供し、みなさんに出来る限り色んな本や情報に触れていただくことを目的としています」という啓蒙がうまく行ってないのだろうと思ってしまうのです。

アウトソーシングで委託化が進み、受託した企業も図書館業界での有名どころから正体がよく判らない中小企業までさまざまですが、図書館業務への理解度はさておき結局のところ目指すのは「営利店舗型接客」を基本としたもので、そしてそれこそが「努力しない公務員/企業努力する民間」を分ける一番の指標となっている気がします。
だからこそ、その「民間のノウハウ」とやらを最大限まで取り込めば成功するはずという理念にもとづいた武雄図書館のような例が生まれるのではないでしょうか。

ただ、もう少し現状についてフェアな視点で話を進めてみましょうか。
例えば市民が「図書館なんか別に貸本屋でもいいじゃん」というのならそれはそれで構わないんじゃないかとも思うのです。
が、それなら税金を使ってまかなうべき施設ではなくなるということでもあると思います。
また、レンタルショップに入会費がかかるように、貸本屋としてのサービスをよりグレードアップして行くのなら結局より税金を投入するか何らかの対費用をさらに住民から徴収するかしか道はない気もします。

あと武雄図書館問題で噴出した「こんなの公共図書館じゃない!」という声の数々には少し違和感をおぼえていて、それは、「その「こんなの」ってどういうことを指してるの?図書館はどういうところだといいと思っているの?」ということなのです。
例えば、住民一人当たりだか何だかの図書館数が非常に多い北欧の国々の図書館とかは、「貸出窓口」と「案内窓口」が完全に分かれていて、今の日本の図書館のような店舗型接客なんてどこもしてません。
わが国の図書館に慣れていると「不親切」に思えてしまうようなものでしょう。
また、例えばアメリカでは実書籍を置いている図書館はすでに少なくなって来ていて、電子書籍端末を貸し出したり、住民用にパソコン研修を積極的に行ったり、まさに「図書」に限定されない「情報」を中心にすえた施設に変化しつつあるそうです。
ほんの一例なんですが、そういう事例を知った上で言ってるのか、あるいはただ過去を懐かしんでいるだけなのかはっきりしないところもあるのです。
私としては現状武雄図書館には「引っかかるところ」がいくつかあるものの、今のところは何とも言えないし現状では何の感想も持ちようもないな、というのが正直なところです。

ただし、それではここまで書いて来たことが尻すぼみになってしまうので、次回Part3ではもっと武雄図書館のあれこれ、およびそれについての意見について具体的に見て行くこととしましょう。
あまり読者もいらっしゃらないブログなので(苦笑)こっそり書きますが、私は公共図書館勤務の委託職員です。
ついこの間の前年度(3月終わり)までは数十人のスタッフを束ねる現場主任を3年間やっていました。

わが国の住民は図書館が大好きなのに、実は図書館が「何を目的としている施設か」とか「どういう人が働いているのか」とかについての知識が全然ありません。
リテラシーがないのが国民性なのでしょうがない部分もありますが、これは図書館業界にも責任があります。
図書館という「聖域」の中で「図書館愛」にまみれた人たちのコミュニティーを作り上げ、「解っている人たち」の間でだけで終始する議論ばかりで、外からどう見られているかという視点を強く持たないまま、気がつけば規制緩和によるアウトソーシングの嵐でジリ貧の業界となってしまっています。

とりあえず言っておきましょう。
図書館で働いている人の半分以上は「図書館司書」ではありません。
司書資格も持たない単なる「図書館員」です。
司書資格って、今や絵に描いた餅なんだって皆さん知ってました?
でも世の中では「図書館では司書が働いている」って思われてますよね。
もしくは「司書って何?」か(笑)。

司書資格って、自分で取ろうとするとえっらい金も手間もかかるんですが、実は大学とかで単位の一環として結構気楽に取得出来ちゃうのです。
じゃあまあ取っとこうかな、と思う人がたくさん出るのもしょうがないですよね。
そうやって司書資格を低ハードルで乱発しといて、しかも「図書館で働くために必要な資格」と思われていて、その上図書館自体が「知的で静かに仕事が出来て、本もたくさん読める!」とか勘違いされてるので「実際に図書館で働くまでは」物凄く人気があるのが図書館員です。
「までは」と書いたのは、もちろんそんな職場ではないからです。
肉体労働+感情労働(理不尽な要求にさらされる接客)が合わさった、かなりきつい仕事です。
入ってから幻滅する人の多いこと多いこと。

さて、もう一つ図書館が誤解されていることの一つに、現代日本では図書館で働いている人のほとんどが「低賃金労働者」、要するに官製ワーキングプアであるということがあります。
公共図書館は基本的に学生だけを相手にする大学図書館などとは違い「どなたでも受け入れる」「市民の憩いの場としての滞在型施設」を一応目指しているので、本当に色んな利用者が来ます。
そして、憂さ晴らしをするためだけに毎日訪れる迷惑利用者の対応というのが公共図書館の最重要課題の一つであることは間違いありません。
しかし、それら迷惑利用者および、普通の利用者の皆さんがほぼ100%知らないことがありまして、それは私のような図書館員がほぼ全員「公務員ではない」ということなんですね。
みなさん、身分が保証された公務員だと思うから腹も立つし理不尽な文句も言いたくなるようなんですが、そうやってクレーム浴びせた相手が実は自分よりはるかに苦しい暮らしをしていたり、あるいは迷惑利用者に多い「生活保護」の仲間入り寸前だったりすることは全く知らないんですよ。

司書資格の話に戻ります。
もちろん、全国の図書館には司書の人もたくさんいます。
が、とりあえず委託や指定管理でアウトソーシングされた図書館で低賃金で雇ったスタッフ間に、司書持ってるかそうでないかで生まれる能力差は「ない」と断言します。
もちろん司書であることで優秀な人もたくさんいますが、同じくらいの割合で司書じゃなくても同等に優秀な人がいるということです。
実際、現場主任を3年務めた私も司書資格を持っていません。
でも、外部委託を決めた自治体は契約の条件に必ず「司書、あるいは司書補を総従業員数のうち何割入れるべし」とか入れてきます。
これは、司書がいることでサービスが上がるからではなく「図書館には司書が必要と思われている」から、なんです。
簡単に言うとそういう条件を入れておけば「ちゃんと市民サービスについて考えられた案だな」と図書館について何も知らない議員さんや市民の中の自称「識者」がころりと騙されて議会を通り易くなるからです。

また、自治体の正規職員司書として雇われた方たちの実際の能力のほどがどれだけのもんか、と言うとこれもまた月とすっぽんで、正直「お前が司書にいるから重要な仕事が全部お前に行ってその結果進まねえし結果も全然良くねえよ」となることもあるのですが、何か知らんけど「司書にしか出来ない仕事がある」ということになっている。
でもでも、もう一度最初の方に書いたことを思い出してください。
たかが大学の単位の一環としても取れるような資格を持っているだけの人に「その人にしか出来ない何か」があると思います?
単に資格持ってるってだけで能力もない人のところに図書館を運営して行くための重要な仕事が行く。
これを医師免許などに当てはめると恐ろしいことだと思いませんか?
要するに、現場における司書資格の必然性と資格保有者の能力の実際、そして世の中における司書資格に対する幻想がそれぞれかけ離れているからこんなことが起こるのですね。
実際、司書資格を医師免許や司法試験並にハードルを上げ「真の専門職」としての司書の育成をして行こう!という声も業界内ではあったのですが、残念ながらその動きは立ち消えになってしまいました。

現代日本社会では、公共図書館は残念ながら市民にとっては「大きな無料貸本屋」であり、自治体にとっては「それ以外に何ものも担っていない金ばかりかかる施設」でしかないので、徹底してリスク削減の方向に突き進むわけです。
やれ、対費用を削減、人事で持て余す厄介者職員のあてがい先・・・などなど。
「だから別にバイトでも出来るだろ。外部委託かまそうや」というのが本音で、でも世の中向けの建前は「常に企業努力を怠らない民間の視点を導入し、そして司書もこれだけいるので質の高い図書館サービスになります」というわけですね。
これ、予算も削れていいこと尽くめのように読めるかも知れませんが、その前に前提がおかしいんですよ。
金(特に人件費)がかかるなら「金をかけただけの凄い施設にしてみせれば無駄な出費とならない」とか「きちんと給料分必死に働く」とかいう視点は見事にないんですよね。
要するに図書館においては、公務員はどうあっても自分たちは給料分働きたくない、のが前提なんです。
だから低賃金労働者を雇う民間に委託したがるのです。
大変残念なことなのですが、どう言い繕ってみても、単純化させて今の公共図書館事情を語るとこういう図式の上に成り立っていると言わざるを得ないのです。

まず前説として、こういう背景を知っていただきたいと思います。
その上で「結局図書館サービスって何なの?」ということを切り口に、次回からは今「図書館」と言うと半分くらいの方が頭に思い浮かべるであろう通称「ツタヤ図書館」こと佐賀県武雄市立武雄図書館について思うあれこれを書いて行きます。

いよいよ本編のPart2をお楽しみに。
(注記:この旅は今年の2月に行ったものです)

JR気仙沼線BRT志津川駅から、地元の高校生にまじって気仙沼方面へ。
このBRTというのは「代行バス」とは違い、実質的には鉄道扱いだ。
レールや駅舎があまりにも壊滅的な被害を受けたため、敷地を使ってバスが走るための専用道路を整備したりして少しでも迅速な交通手段の復活をはかったものだ。
簡単に言うと、鉄道そのものとしての復活は半ば諦めた復興策だとも言える。
バスは載せられる人数が電車より段違いに低いので、輸送手段としてはやはり厳しい選択と言わざるを得ないが、復興支援金が下りる内に迅速にことを進めるのも大事だと思われる。
例えば「何としてでも鉄道としての復帰を目指す「三陸鉄道」と違って、BRTをあっさり選んだのか」などと他の土地に住む者や鉄道愛好家は簡単に言うだろう。
だがしかし、ここには震災前も震災後も住む人にとっての「日常」があって、それが姿を大きく変えていようとも日々向き合っていかなくてはいけないものなのだ。
簡単に感想を述べることも控えるべきだが、BRTもまた土地の人々が明日への一歩を踏み出すための必然の選択だったのだろうとポジティヴに捉えるしかないだろう。

このBRTに乗って、志津川よりさらに小さな集落で海に近い歌津(語り部バスで案内してくれた男性の実家はこちらだったそうだ)や清水浜などの被害状況や現在の街の様子を撮影しようと思っていた。
が、大人しくバスに乗って思い思いに車窓を眺めている学生たちのことを思うと、彼ら彼女らの前でバシャバシャと撮ることは憚られた。
もちろん、そういう気遣いすらうっとうしいという可能性もあるのだが、今もって悲惨な傷跡をそこここに残した街並みを毎日どういう気持ちで見ているのかな、などと考えると目の前ではやはり撮れない。
確かに私たちは復興のためにお金を落としたり、観光に来たりしている。
でもそれは、ここに住む人たちの日常に入り込むことでもある。
こちらが「力になる」ために来ているのだとしても、「日常に足を踏み入れさせていただく」ことには変わりない。
だから、目に焼き付けるだけで、撮るのは差し控えた。
それにしてもここの学生たちはバスの中で大変に行儀が良いのが印象的だった。
話していてもうるさくない程度の声の大きさだったし。
震災前からそうだったのかどうかはわからない、という可能性に思い当たって、それが少し悲しかった。

気仙沼線BRT沿線は、本吉駅を過ぎると志津川ほどの悲惨な光景はあまり見えなくなり、工事中の場所が多いものの、典型的な地方のバス路線の車窓風景という感じではあった。
もちろん、それなりのスピードで走り抜けていることによる勘違いである。
またこの辺りの主要道路だから、比較的復興整備が進んでいるということもあるだろう。
南三陸~気仙沼に限らず、東日本大震災で沿岸地域がどれほど浸水したのかを知りたければぜひ昭文社の『東日本大震災 復興支援地図』や河北新報出版センターの写真集『津波被災前・後の記録』をオススメする。

気仙沼港周辺の仮設商店街に行くつもりだったので、適当に南気仙沼駅で降りてみる。
が、本当に住宅街の真ん中にぽつんと下ろされた感じで、そこからどう行けば良いのか全く判らない。
相方と口喧嘩しながら、とりあえず方角的に海の方に進んで行くと川の堤防が見えて来て、それを渡る。
ところどころにやはり津波の傷跡が垣間見える。
川を渡り、気仙沼線のレール下をくぐった辺りから、またしても衝撃の光景が目に突き刺さって来る。
気仙沼は、われら「東北」の中でも都会にカテゴライズされる宮城県第6位の中堅都市である。
観光客でも賑わい、漁港では日本有数の水揚げ量を誇った著名な街だ。
そのことだけでも、かつては人々が多く住み活気に溢れていたであろうことは想像に難くないのだが、そんな活力を持っていたはずの街が、これまた廃墟と化している。
一面荒涼とした空間が広がっている。
足元を見ればかつて家が建てられていた跡がそこかしこに見られる。
石巻や南三陸とはまた違う異様な空間で、歩いていると打ちひしがれる。
海が近づいて来つつあることが見えにくい街づくりになっているから、余計に「荒野」感が漂っているのかも知れなかった。
気仙沼漁港沿いの、一階部分を作業場&吹き抜けにし駐車場や主要施設を屋上に位置させ津波に備えた設計を施したという「気仙沼魚市場」に向かって歩いていると、下調べのために見たDVD『3.11 東日本大震災 激震と大津波の記録』(東日本放送)で、河北新報の新聞記者の方が自社ビル前の高台から撮影した濁流に飲み込まれた辺りが見えて来た。
ヴィジュアルである程度知っているところとの「再会」は初めてだったので、ショックもまた大きかった。
津波に飲み込まれているところは映像で見たけれど、その後どうなってしまったかを知らなかったから。
その映像はこのリンク(6分割の続きもの)でも見ることが出来る。
http://www.youtube.com/watch?v=y1xOQCmLegw

津波を想定した設計が功を奏して依然どっしりと構えている魚市場の屋上に上って気仙沼港を一望。
この美しい港が、津波に蹂躙されたのだと、改めて恐ろしくなる。
向こう側の半島にも沿岸に建物が多く、だがしかし今はどうなっているのだろう?というものもまた多く、この街の復興への道のりの険しさを思わせた。
沿岸の建物は電柱がへし折れたり壁が崩れたり、被災当時のままではないのかという建物が今も手つかずで残っている。
魚市場から柏崎を経て、より奥まった魚町へとさしかかる前に、まずはこじんまりとした仮設屋台村「復興屋台村 気仙沼横丁」をふらっとのぞく。
ちょっと何かつまみたいなあ、と思ったお店もあったのだが、休みだったり、ちょっと時間がなかったりで、後ろ髪を引かれる思いで離れる。
http://www.fukko-yatai.com/

気仙沼の一番の目的地「気仙沼復興商店街 南町紫市場」へさらに歩いて行くと、かつて賑っていただろうこの街の繁華街が跡形もなく破壊されているのが嫌でも目に入って来る。
そして、やはり2年近く経ってもこの状態であることに思いを馳せざるを得ない。
歩くには色々と辛い気持ちを味わうことになるが、この商店街は凄いのでぜひ行って欲しい。
http://kesennumafs.com/
2階建ての棟がいくつも並んでいて、店もぎっしり。
雑貨店からカフェ、スナック、食事処など多種多様なお店が軒を並べている。
おやつを買ったり、鮫グッズを売っているお店で折り畳み傘やシャツ、シュモクザメのぬいぐるみを買ったりした。
疲れたのでお茶に入った「揚げたてコロッケ屋」さんのコロッケと珈琲も美味しかったし、地元の人たちの憩い処になっているような雰囲気も良かった。
だが、この商店街は凄いのだが、やはり周りの惨状が気にかかる。
真の復興にはどれだけかかるのだろう?
ところで南三陸と気仙沼、2つの街の復興商店街をめぐって感じたのは、前者のお店の人たちは基本的にシャイで物静か。
お客に滅多に声をかけて来ない。
後者は結構積極的に呼びかけて来るように思った。
実際鮫グッズのお店では女性店主の方に「私は鮫が大好きでねえ。気がついたらこんなお店始めちゃって。鮫はお好きですか?」と怒涛の質問攻め(笑)。
街の規模の違いとか、土地柄というのもあるのかなあと感じる一幕だった。

さて、いよいよ今回の被災地巡りも終わり。
駅前に行くとはとても思えない細くこじんまりした通りをひたすら山手に進んでいると、これまた有名な観光地の駅とはとても思えないこじんまりとした気仙沼駅舎が右手に見えて来た。
駅に向かう通りの雰囲気は個人的には好きだったのだけれど、夕食に駅弁か何か買おうと思っていたら当てが外れた。
気仙沼駅前は本当に何もないので注意が必要ということでここに書いておく。
仕方なく駅併設の小さなコンビニでおにぎりを買う。
駅前散策も出来ないような何もなさなので、駅前小ロータリー内部にあるこれまた超ローカルな感じのお土産屋さんで職場へのお土産を購入。
夕闇に包まれつつ大船渡線で一関へ向かい、そこから乗り継いで帰宅するという道のり。
大船渡線も景観が売りらしいので、いつか日中に乗ってみたい。

今回の旅は初めての被災地訪問だったので、かなり衝撃が大きかった。
事前に仕事の関係で被災地巡りをしていた相方もまた、初訪問の野蒜や気仙沼には改めて打ちひしがれたようだ。
街の傷跡は確かに悲惨だが、それよりも私が胸を締め付けられてしまうのは、地元の人とすれ違う度に、「この人は誰か親しい人を亡くしたのだろうか」とか「あの日、どれほどの恐怖をおぼえたんだろう」とか「あの日のことを今、どのように思い出すのだろう」など、彼ら彼女らの「今の日常」について考えてしまうから。
学生は卒業後どうするのか判らないけれど、ただ、それまではここで生き続けるわけだし、また、社会人の方たちもどのような理由であれ、選択肢がなかったのであれ、ここで暮らすことを選んだ人たちだろう。
今、日常に多大な傷跡を背負った街を見ながら、どんな思いで生きているのだろう。
そんなことをひたすら考えてしまう旅だった。
あと、残骸を見てその街の位置関係などの「空間感」は何となく解るものの、そこに暮らしていた人たちが、それまでの「記憶」としての街を破壊される喪失感は理解出来ないし、出来ると簡単に言ってしまってもダメだろう。
それほどに想像を絶するとてつもない規模なのだ。
だが、自分の想像などどうあっても及ばないこと、そして、それでもなお何とか少しでもそれについて考えを巡らしこの悲劇から何を学ぶべきなのかを知るためにも、どこか旅行に行こうという方にはとにかく一度でも良いから被災地を目的地に選ぶべきだと強く推す。
るるぶなどのガイドブックは本気で「るるぶ特別編 被災地」のようなものをしっかりと作るべきなのではないかともいつも思っている。
大船渡線の、闇で黒く塗りつぶされた車窓を見ながら、今度はどの被災地を訪れようか、と早くも考えている私であった。


2月編終わり

Part5からは先日の7月編となります。
この日撮影した写真はフェイスブックアルバムにアップしていますのでご覧ください。
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.453098761429558.104292.100001883151461&type=1&l=debeb4f529
(注記:この旅は今年の2月に行ったものです)

東日本大震災における、数多い被災地の中でもとりわけ甚大な被害を被った土地として知られるのが、宮城県南三陸町だ。
どれほどに凄まじいものであったか、例えばこの録画でも判るかと思う。
http://www.youtube.com/watch?v=pkuFw5BWz6o
街の中でも一番の高台に位置し、現在は仮設住居もグラウンドに多く設置されている志津川中学校から、おそらく同校の女生徒が撮影した恐ろしい記録だ。
事前に一人旅をした相方が、柳津からBRTに乗り、もっと気仙沼側まで行くはずが広大な荒野と瓦礫の山に驚いて思わず志津川駅で降りてしまったという話も聴いていたので、今回の旅の一番の目的地と言っても良い街だった。
そんな南三陸の希望のシンボルが、海沿いの高台に建てられた「南三陸ホテル観洋」だ。
後で聴いたが、相当の高さにあるこのホテルも、大浴場がある2階部分まで津波で破壊され、しばらくは営業出来なかったそうだ。
多くの住民の避難場所にもなり、営業再開後は観光客を積極的に受け入れ街の復興を力強くバックアップし、そしてまたこの辛い被害の中生き残った高校生らの就職先にもなっている。
それは、部屋に備え付けてあるホテル発行の自主制作新聞にも載っているので、訪問された時はじっくり読んで欲しい。
私たちのチェックインをフロントで受け付けてくれたのもまだ初々しさが残る青年だった。

そんなこのホテルに宿泊したら絶対に参加して欲しいのが、年代も異なる総勢7人からなる語り部たちがその日ごとに交代で案内を務めてくれる南三陸中心部バスツアー「語り部バス」。
http://p.tl/eATk
おそらく全員がホテルの従業員なのだと思う。
ということは当然全員が被災者でもある。
家族を亡くされた方も中にはいらっしゃるのかも知れない。
私たちが参加した日の語り部は、私より若干歳が若めの男性だった。
彼の以前の住居は海沿いのマンションだったそうなのだが、津波に跡形もなく破壊されている。
ただ、彼の場合は幸いなことにご家族はご自分の奥様やお子様含め全員無事だったそうだ。
時々目に涙をため気味に、それでも淡々と語る彼の言葉には、何度も「ごく普通の田舎町だったけれど、それでもこの街が大好きだった」という熱い思いがこめられる。
被災のシンボルとして何度も被写体となって来た南三陸町庁舎防災本部ビルでは、彼の高校の部活の先輩が行方不明になり、まだ見つかっていないということも教えてくれた。
骨組みだけになりその骨もめちゃめちゃにへし折れた残骸を近くで見るため前で停車し、降車することになったのだが、参加者全員「ぜひ、ここを写真に撮ってください。でも・・・・時々こういう方がいます。<これ>はやめてください。お願いします」と言われた。
その「これ」とはピースサインなのだそうだ。
サークル活動気分でボランティアに入る大量の学生集団のけしからん話も本などでよく読んだが、この場所ではそういう無神経な人もいたようだ。
この庁舎の凄まじい状態に目をとられがちだが、もっと凄いのは前日に衝撃を受けた石巻以上に何もない、完全な平野状態になった「街の跡」だと思う。
事実、この時の語り部の方の言葉で一番印象に残っているのは「山のふもとが、前は見えなかったんですよ。建物が完全になくなったんで向こうまで見えるようになっちゃったんですよね」というものだった。
それほどにひどい状態なのに、私が南三陸の人たちが特殊だと思うのは、いかなる理由からなのか、とにかく前向きなところなのだ。
「無理している」感じでもなく、さりとて自棄になってもいないしあきらめてもいない。
「あの大好きだった街を、きっと取り戻すぞ!」という自然体のポジティヴさに満ち溢れていて、こんなことを書いても良いのかどうか判らないがとにかくこちらが勇気付けられる。

とは言え、そんな南三陸の方たちの中でも「遺構」やこれからの街づくりをめぐって若干の意見の対立はあるようだ。
この日の語り部の方の口ぶりからは、辛くてもみんなに伝えて行くため防災合同庁舎跡を残したい、以前の街が大好きだから同じ場所で甦らせたいという強い願いが感じられたけれど、もっと高台に新しい街を作るべきだし、遺構も必要ないという方もやはり一定数いるそうだ。
遺構については何とも言えないが、同じような大地震がまた起こらないとも限らないことを思えば、同じ場所にまた街を作り直すのはどうなんだろうか、とも考えてしまった。
これは本当に難しい問題だ。

高台にあったはずの老人ホームにも津波が襲いかかり、高校生たちがお年寄りを背負ってさらに山に登って逃げたものの、寒さの中で亡くなる方が多かったこと、街の地盤が何十センチも下がってしまい、今でも満潮時に冠水する場所が生まれてしまったことなどもお聴きした。
また、語り部の男性が「自分は今仮設住まいですが、入れてほっとしました。しょうがないとわかってはいても、やっぱり避難所で何のプライヴァシーもない状態で寝泊りしていると物凄くストレスが溜まるんです。今回の震災で一番辛かったのが、それも含め、人が信じられなくなる時があったことです。水をもらうために並んでいたら、あんたは実家が残っているからいいだろと言われたり、夜中にボランティアの人が瓦礫を掘り返してるのを見て「そこは人の家だろ、何やってるんだ」と一瞬考えてしまう自分が嫌になったり」と仰っているのを聴いて胸が締め付けられるようなやるせなさをおぼえた。

語り部バスの締めくくりは、「もう物資や人力のボランティアは充分すぎるほどいただきました。これからは今日見聞きしたことをもっと他の人に伝えて行くという形のご支援をぜひお願いします。そして、これは・・・・どうか約束して下さい。災害で命を落とさないで下さい。自分の大切な人が災害で命を落とすそのやりきれなさ、無念は本当に辛いものです。だから、災害ではきっと生き残ってください」という言葉だった。

南三陸ホテル観洋から送迎者で送っていただいて、同ホテルと並ぶこの町の復興のシンボル「南三陸さんさん商店街」へ。
http://www.sansan-minamisanriku.com/
20数店舗も立ち並ぶ仮設商店街だ。
私たちの目当ては、ここで買い物をしてたっぷりと現地にお金を落として行くことでもあったが、何せ食べるのが好きなので季節によって素材が変わる「きらきらみちのく丼」をいただくことだった。
この時は冬だったので「いくら丼」である。
今回は「松原食堂」さんでいただいた。
ぷちぷちのいくらがこんもり、そしてそれ以上に舌鼓を打ったのが名物のたこ。
うーむ、ほんとに素晴らしかった。
写真を撮っていたら店主ご夫妻に「申し訳ありません、本当は生牡蠣の小皿がつくんですがもうシーズン終わってしまいまして・・・」と謝罪が。
とんでもありません!のハイパフォーマンスで、しかも牡蠣の分は値引きされていたし、とりあえずこのお店は超強力にオススメだ。
食後はケーキ屋でおやつを買ったり、実家へのプレゼントや自分たちへのお土産用に笹かまなど練り物や、奥松島で超絶旨かったしゃぶしゃぶ用わかめなどなどを購入。
ホテルの送迎車の運転手の方に「奥の方に写真館があって、そこには被災当時や被災前の、他では見られないような写真がたくさんあるのでぜひご覧ください」と教えていただいたのだdが、残念ながらそのお店はお休みだった。
ここが、今『南三陸から』という2冊の写真集を出している佐藤信一さんの写真館「佐良スタジオ」だと後で知ることになる。
http://p.tl/0F5m

商店街の散策後は、いよいよ最終目的地の気仙沼へ。
黒いロールケーキのようなモダンな形の志津川駅(気仙沼線志津川駅からはだいぶ山手に離れた、さんさん商店街横に建てられている)から気仙沼行きのBRTに乗って約1時間以上の道のり。
駅には学生が10人くらい待っていた。
この子達は、この街の跡を毎日眺めながら何を思うんだろう?と考えながら一緒にバスの到着を待つ。

「その② - 気仙沼」に続きます。
この日撮影の写真抜粋、フェイスブックアルバムにアップしています。
どうぞご覧ください。
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.453098761429558.104292.100001883151461&type=1&l=debeb4f529
(注記:この旅は今年の2月に行ったものです)

奥松島の民宿「かみの家」さんは、前記事でも書いたように集落の中でも少し高台に位置するため、見晴らしを売りにしている。
朝日に照らされて、すぐ近くの海「月浜」と、その内側の元住宅跡が生々しく見える。
このおだやかな海があの日凄まじい破壊力の牙を剥いて来たことが想像に難くない。
地表がむき出しになった眼下の情景に、声を失う。
幸いこの集落で命を落とした方はいなかったと聞いた。
子どもも住んでいるし、また以前のように観光の穴場として賑わいを取り戻す日もいつか来るのかも知れない。

しかし、私が本当に声を失うのは、再び代行バスに乗るため野蒜駅前に降り立った時だった。
駅は廃墟と化し、周りも一面雑草が覆う野原、破壊された住居が立ち並び、目の前を流れる運河は岸が崩れ松の木が倒れ伏している。
向こうの方に、かつては防風林としての役割を担っていたであろう松並木が見えるのだが、それは同時にその向こう側に海があること、そしてそこから一直線に津波が押し寄せて来ただろうことを意味する。
荒涼としたその光景に立ちすくんでしまった。
車で送って下さったかみの家の若旦那さんが「この辺も商店が並んで賑っていたんですけれど、ほとんど店の方が亡くなってしまって・・・。駅ももう場所を変えて建て直すみたいですし、この辺はもう厳しいですね」と淡々と仰っていたのが突き刺さった。
前日野蒜へ向かう代行バスで「妙に寂しい感じの原っぱが続くなあ」と感じたのは、そこは本当は野原ではなかったからなのだと気付く。
津波が襲う前は、住宅地だったのだ。
そんな「当たり前」の想像すら出来ないほどに、何もなくなっていたのである。
駅の鉄塔は倒れ、電柱も斜め。
静かでこじんまりした街並みだったろうことがうかがえるだけに、ある意味ここの風景はこの旅の中で一番の衝撃だった。
先ほどまでいた奥松島の集落とは違い「未来」が見えて来ないのだ。

矢本駅に向かう代行バスを待っていたら、地元のおば様たちが何人かやって来て、彼女らは松島海岸行きのバスを待つらしい。
会話を聞いているとどうもボランティアかお仕事かで観光客にこの一帯の案内をしているそう。
こちらが乗るバスがやって来る寸前に話しかけられ、青森市から来たとお答えすると「数日前も十和田市の役所の人たちが来てたわね~」とのこと。
わが県の人たちはよく訪れているらしい。
野蒜から矢本の間は、川を津波がさかのぼって結構奥まで被害があったようだ。
そのことがうかがい知れる川並を眺めつつ矢本駅前へ。
矢本駅からは再び仙石線に乗って石巻へ。

石巻の駅前は、あまり被災の様子が感じられず、典型的な地方都市の駅前風景に見えたのだが、石ノ森章太郎の作品などを収めた「石ノ森萬画館」があるためところどころに彼の作品のキャラクターのフィギュアが立っていたりして独特のムードがある。
しかし、そんなのほほんムードは旧北上川沿いの仮設商店街「石巻まちなか復興マルシェ」に向かうため川岸辺りに近づいた時にあっと言う間に吹き飛ばされてしまった。
商店街のところどころが廃墟になり、アーケードは途中でねじ切れている。
川岸のガードレールもぐにゃぐにゃに曲がっており、2年近く経って、この規模の都市でまだこんな状態に留まっているのか!と驚く。

気を取り直して復興マルシェへ。
ここは色々美味しいものが食べられるし、お土産も買えるオススメの場所。
私たちは海鮮丼と名物の石巻焼きそばを食べた。
石巻焼きそばは凄く薄味のあっさりした料理で、焼きそばと言うとあぶらぎったイメージしかないという方には特にオススメする。
http://www.fukkoumarche.com/

食事が終われば、いよいよ石巻の多くの住民を救った高台の日和山神社へ。
一階部分が波にぶち抜かれたアパートなど、多くの住居の残骸を眺めながら川沿いを歩き、簡素な住宅地に入ってから凄まじく急勾配の坂をぜえはあ言いながら何とか登り抜いて到着。
はるか向こうに広がる絶景にも驚いたが、もっと驚いたのが柄杓の置かれた手水舎の手水が凍っていたこと。
2年前、この一ヵ月後に住民が着の身着のままでここに避難したことを考えると、どれほど寒く凍えたのだろうと、まさに背筋が凍る思いがしたのだ。
その驚愕は、甚大な被害を被ったという門脇方面を眺めることでもっと膨れ上がった。
人は、今回の震災で破壊された街並みを「空爆でもされてみたいだ」と表現する。
まさにそうとしか言いようのない薄茶色の焼け野原のような光景が川沿いから海、さらにそこから日和山の麓までずっと広がっている。
登って来たのとは逆側、海側の急な坂道を下り、津波が押し寄せた後全焼したという門脇小学校へ。
ところどころ黒焦げになったままの白い巨大な校舎のあらゆる窓が黒い空間を見せており、大変不謹慎な例えであるが、しゃれこうべの眼窩を思い起こさせた。
かつてはぎっしりと住居が立ち並んでいたはずの周囲の光景も、廃墟と野原だけがそこにあり、それゆえかゆるやかに風が吹き抜けて行く。
海沿いの街とは言え、海岸はここからでは見えないほど遠い。
ここまで街を根こそぎ叩き潰す破壊力を持ったまま、あんな遠くから津波が押し寄せて来たのだと思うと、ただただ無力感にとらわれてしまう。
軽やかに吹く風が、余計にその諸行無常感をあおる。

それにしても、石巻のこちら側には、ずいぶん鴉が多いなと思った。
不気味なくらい多いのだ。
そのことが、ここで本当に信じられないほど多くの方が亡くなったのだということを強く意識させる。
人の貧弱な想像力など簡単に凌駕する圧倒的な現実。
何もなくなってしまった荒野と化した場所に身を置く、その感覚はやはり来てみないと絶対に解らないだろう。
どこに目を向けても傷跡だらけである。
そして、こういう空間に立つことで、改めて「自分がこの街に住んでいて、あの日津波に襲われていたらどう動いていたか」をひしひしと考え直すことを迫られる。
自分の普段の住まいのことだけを考えるだけではやはり足りないように思うのだ。
その意味でも、ここ石巻は絶対に訪れなくてはいけない「被災地」だと思った。

石巻からは、石巻線小牛田行きに乗り、前谷地駅で気仙沼線柳津行きに乗り換え。
柳津で「代行バス」ではなく鉄道扱いのバス「BRT」気仙沼行きに乗って陸前戸倉まで。
柳津駅周辺は、その向こうに南三陸の海岸があるとは思えないような森閑とした田園&森林地帯で、この辺りの鉄道に特有の長く真っ直ぐ伸びて行くレールも美しい光景。
陸前戸倉までは、あまり震災の影響を感じさせない風景が続く。
そこで送迎車に乗り換えて、南三陸の観光面のトップランナーとも言える素晴らしいホテル「南三陸ホテル観洋」へ。
http://www.mkanyo.jp/
色んな方からその素晴らしさを聞いていたのと、何と言ってもその名の通り海をドまん前で見られるという絶景が売りなので、ちょっと値は張るもののぜひ泊まりたかったホテル。
隣の小屋が斜めに崩れ落ちていたりする水門跡や、完全に駅も線路も流されてしまって跡形もない気仙沼線の姿を車窓に眺めながらホテル着。
すでに日が落ちようとしていたため海は翌日にお預けだが、美味しい食事に絶景の露天風呂を楽しみ、施設内を散策したりして充分楽しんだ。
簡易図書館もあって、本の分類などは図書館のプロがボランティアで入ってやったそうである。
また、ここのスタッフはみんな仲が良さそうと言うか一つの「街」のような精神的な連帯感を感じる。
これがあの悲惨な出来事ゆえなのかもともとそうなのかは判らないのだが、そういうところも凄く好ましいホテルなのは確かだ。
広々としてゴージャスな感じのロビーではパスワードを教えてもらえばWi-Fiも出来る。
大満足のうちに床に就いた。
翌日はいよいよこのホテルの非常に貴重な試み「語り部バス」だ。


この日撮った写真の抜粋をフェイスブックアルバムにアップしています。
私の拙い文章の助けになれば幸いです。
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.451331074939660.104022.100001883151461&type=1&l=45f17aac9e
(注記:この旅は今年の2月に行ったものです)

みなさんは旅に行く際、移動手段は車が中心だろうか?
私は自動車運転免許を持っていないので、旅先での移動は専らバスや鉄道などの生活路線に限られる。
ここに「生活」の文字を加えたのには相応の理由がある。
これらの交通機関を利用すれば、その土地の日常を少しだけでも感じることが出来るのだ。
自家用車を利用すれば人里離れた絶景の地を踏むことが可能かも知れないが、かわりにそこに住む人の息吹からは遠くなるだろう。
以上の理由により、私は知らない土地に赴く時、鉄道やバスに乗るのをとても楽しみにしている。
だからこそ、今回の東日本大震災で太平洋沿岸の路線が壊滅的な打撃を受けたというニュースが次々と届いた時にはとても胸を痛めた。

今回の被災地旅行で、現在も不通区間が存在する路線に乗った最初のものは、仙台から石巻を結ぶ仙石線。
あの日から2年以上経った今も、高城町~陸前小野間が不通であるため松島海岸~矢本で代行バスが往復している。
初日は、この仙石線を使ってまずは塩釜に入り、それから代行バスにも乗って、街の規模を考えれば甚大な被害を被ったと言える野蒜、そしてそのまま奥松島へ。

仙石線はいわゆる「ローカル線」なので、仙台駅の外れの外れの寒風吹きすさぶホームで電車を待つのかという予想を立てていたのだが大外れで(ちなみに、そういう体験は私は嫌いではない)、都心部の地下鉄のような現代的な地下ホームに仙石線の仙台駅はあるのだった。
ホームに降りる途中ですれ違う降車客の多さにも驚く。
これほど近隣住民にとって重要な路線が、途中分断されているということの重さにも思いが到る。

最初の目的地、塩釜と言えば何と言っても「寿司」。
何とかあたりの寿司店の数が日本一の街だそうで、仙石線の車窓に広がるのどかな田園風景を眺めながら頭の中が徐々に寿司でいっぱいになって行くのだった。
有名な街の駅はよく「実際の姿よりも大きな建物」として想像されるが、この仙石線本塩釜駅もその例外ではなく、いかにも郊外のこじんまりした慎ましやかな小駅だった。
通過して来た田園風景もそうだが、この高架駅から見えるおだやかな風景も、あの日には津波に蹂躙されたのだろうか、にわかには見えない。
が、改札を出た後駅舎の外壁に2メートルくらいの高さに青い線が引かれ、「ここまで浸水」と書かれたパネルを見て肝が冷えた。

昼食は何と2000円という低価格で特上にぎりがいただけるという一森寿司さんにうかがう。
カウンターに2卓分の小上がりのみという小さなお店で、カウンターの端っこで大将の奥様らしき女性がお子様に勉強を教えているような家庭的な雰囲気。
ここ数年、旅先で食事を採る時はまず写真を撮るようにしているのだが、出された時のその光り輝くネタの数々の美しさに思わず撮影を忘れてすぐほおばってしまった。
それくらいの美味・美貌の寿司。
ネット上では一森寿司は移転前の場所が載っていることが多いようだが、現在は塩竈神社の正面階段の真向かいにある。
塩釜には他にも著名なお寿司屋さんがたくさんあるが、ここも強力にオススメだ。
http://www.shiogama-sushikumi.net/shop/shiogama/ichimorisushi/

食後はいよいよ塩竈神社へ。
眼前に聳え立つ長い長い急な階段を、足をガクガク、息を切らせながら上る。
津波が襲って来た時も、自分はここを死に物狂いで駆け上がれるのだろうかと考え込んでしまった。
本殿前から見える塩釜港の絶景を眺めながら、神社や寺はなぜ高台に多く建てられるのだろうと考えた。
過去幾多も襲った津波災害の故だろうか。
そして、そういう時、たくさんの人命を救う役割を果たし、古くは信仰者の増加にも役立ったのだろうか、などと嫌なことも頭に浮かんでしまった。

被災地を訪れるということは、こちらの予想を軽く破壊するようなむごい傷跡を見に行くというようなイメージが強いけれど、少なくとも塩釜の山手の街並みを歩いているだけではなかなかそれほどのものは見えて来ない。
が、それは逆に言うと地元住民の方が懸命に頑張ってそこまで盛り返したということなのかも知れない。
こういう旅は、訪問者の想像力を問われる。
既成概念をぶち壊すような「リアル」ももちろん必要だし見なくてはいけないと思うが、塩釜くらいの規模の被災状況とその後を見るのも同様に重要なのかな、と強く感じた。

本塩釜駅を越え、塩釜港に向かって歩いて行くと、これまで見えなかった傷跡がだんだん見えて来る。
破壊されたコンクリ、捻じ曲がったガードレール。
駅から港まで直線で見晴らしが良くなっていて、それはつまり一直線で遮るものもなく波が襲って来ただろうことの証左でもある。
海沿いの「マリンゲート塩釜」には地震当時の写真がたくさん飾ってあるので、それを見るだけでも単なる想像が頭の中で徐々に「リアル」に置き換わって行くのを感じるだろう。
多くの観光客や地元住民で賑っていて、レストランや土産物屋、無料で上がれる展望台などもあるので、ぜひぜひここにも足を運んで欲しい。
http://www.shiogama.co.jp/minato-oasis/

塩釜の街並みをじっくり眺めたければ、塩釜市立図書館が入った「壱番館」というビルの展望台がオススメ。
市内の一番レヴェルの高さの建物の上から360度の眺望が楽しめる。
展望台と言っても要するにただの屋上なので、ビルの管理の方に声をかけてから上がらせてもらうというシステムになっている。
ところで、ここの図書館もちらっと拝見したが利用者が非常に静かに利用しているように見受けられた。
自分の職場の利用者さんはそんなことないので、一体この差は何なのか、ということについても考え込んでしまった。
http://www.city.shiogama.miyagi.jp/shise/ka/kokyo/ichibankan.html

塩釜を充分散策した後は、再び仙石線&代行バスで奥松島・野蒜駅を目指す。
松島海岸で降り、地元の学生や住民も乗せたそこそこ満員の乗車率。
松島は車窓でちらっと眺めただけで素通りしたが、駅前やメインストリートのそぞろ歩きを見るにいかにも人気観光地。
若い女性も多いように見えた。
「奥」松島はどんな感じなんだろう?
海岸沿いを離れ、ぽつんとした感じの野原に走る道をどんどん進むバス。
長旅に疲れていたからか、この時はまだ、その「寂しい感じ」の理由にピンと来ていなかったように思う。
そうこうしている内に野蒜駅前に着いた。

駅の様子をしっかり眺める前に、この日泊まる民宿「かみの家」さんの女将さんが車で迎えに来て下さっているのを見つけたので、早々に乗り込む。
野蒜地区の被災ぶりの衝撃は翌日に持ち越しである。
が、奥松島に向かう車中で、あたり一面原っぱに変わり果て、粉々になった廃墟がいくつも見え、充分に凄まじさが理解出来た。
かみの家さんは奥松島の海岸沿いのやや高台に建てられた民宿で、直接には津波の被害に遭わなかったそう。
日の入りが近いのであまりはっきりとは見えなかったが、浜も近く、すぐ下の方の土地に仮設住宅がぎっしりと並んでいるのは見えた。
子どもたちが楽しそうに遊んでいるのはせめてもの救い。
簡単に言えることではないが、まだここに未来はあるように思えた。
さて、一民宿としてのかみの家さんの評価だが、トイレも物凄く綺麗だし、部屋も広々してて素晴らしく、居心地もいい。
次の記事でも書くが、眺めもいいし、何より素晴らしいのは食事。
素朴ないわゆる海辺の民宿料理ながら素材の良さもあり感動してしまう美味しさなのだ。
そして特筆すべきはお米の物凄い旨さ。
相方と二人で悶絶してしまった。
http://www2.ocn.ne.jp/~kaminoie/

大阪の堺市の実家を朝5時過ぎに出発してたどり着いた長い長い旅の疲れを癒す素晴らしいクォリティの食事に、満腹と感動のうちに清潔なお布団にくるまって爆睡。
被災地紀行はまだまだ続く。

この時の旅の写真をフェイスブックアルバムにアップしていますので、リンクを張っておきます。
まずはこの日分を。
*最初の写真は若い頃の私です。実家で見つけたので。気にしないで下さい(笑)
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.450908628315238.103956.100001883151461&type=1&l=d377ba66c1