「ポーランド映画は凄い!」というイメージを決定づけた作品群の中でもひときわ輝いているのが62年公開のロマン・ポランスキ Roman Polanski監督作品『水の中のナイフ』です。
観た後に誰もがしびれきってしまうこの傑作をまたスクリーンで観られる上映イヴェントが今月12日、原宿VACANTさんで開催されます。
このイヴェントの面白いところは、上映して終わり、あとはみなさんで感動を持ち帰って下さいということではなくて、上映後に猫沢エミさん、樋口康人さん、DJパウラさんによるトークショウがあり、さらにその後にはDJパウラさんによる現代ポーランドポップミュージックのスピンをBGMにしたミニパーティーがあるというところ。
映画ファンや音楽ファン、さらには猫沢さんや樋口さんのファンが自然に交流することができる凄く面白いイヴェントだと思いますので、みなさんぜひぜひ参加してください!

イヴェント詳細↓
Culture SHOCK
http://www.vacant.vc/d/105
https://www.facebook.com/events/1505284589700656/?fref=ts

とは言え『水の中のナイフ』って評判しか聞いたことない!とかGLAYのアルバムじゃなかったっけ?(笑)とかで二の足を踏んでいる方たちのために、少し内容をご紹介します。
個人的に感じた「3つの視点」から紹介していますが、あくまでさわりだけの、ごく私的なもの。
興味を持った人はぜひぜひこのイヴェントに参加して、自分なりの「水の中のナイフ」観を持って下さいね。
そういう懐の深さがある作品なんです。


水の中のナイフは、

1.「女の映画である」
この映画の登場人物はたったの3人です。中年にさしかかった一組の夫妻と、まだまだ青さが残る若者男子。2人の男は劇中でかなり対立しますが、私が思うにこれは「男」の「世代間闘争」というマッチョな視点から撮られた映画ではない。本当の主役は観察者である妻=女だと思うのです。
男同士は互いに相手に「自分にはないもの」を見てとり勝手に反発心を燃やしていますが、女は二人の男に「重なり合うもの」を見ているのではないでしょうか。彼女が若者に半ば庇護的な目を向けているのは、夫がかつて持っていて、今は自覚もなく失いつつあるものを彼の中に見ているだけ。言うなれば彼女が若者の青臭い言動の向こうに透かし見ているのは、自分たちが若かった日に出会った過去の夫でもあり、さらにその向こうには全ての男が共通して持っている「男性性」のロールモデルのようなものも見据えています。
二人の男を見比べているようでいて、実はその「2つ」にはほとんど個体差などない、というある種の「ジェンダーの究極」を妻の視点を通してさらけ出しているのではないかとも思えてきます。だから、これは男の戦いの映画ではなくて、女が主役の映画なのです。

2.「反歴史の映画である」
ポーランドと言えば、幾度も他国に蹂躙され第2次大戦ではナチに人種差別と大虐殺を受けソ連には見殺しにされ・・・と悲惨な歴史ばかりが語られて来ました。また、そういった「事実」を風化させないための国民の努力も凄まじく、めちゃめちゃに破壊されたワルシャワの旧市街をヒビ一つまで狂いなく再現して建て直したり、ドキュメンタリー制作も他国に比して非常に盛んです。
しかし、ポランスキと彼の盟友イェジ・スコリモフスキ Jerzy Skolimowskiの共同脚本である本作は「悲惨なイメージなんてダサいぜ」というムード。絵になる瞬間がひたすらに目に飛び込んでくるスタイリッシュなカットの連続と、世界中のどんな時代の人間にも共感させられるようなシンプルな作劇で、特に若い世代に理屈抜きにアピールするとにかく「カッコイイ」作品をリリースしたんです。
登場人物が少ないのに、セリフで埋め尽くすやかましい会話劇にせず言葉の数を抑え目にしているのもいいですね。「お勉強しなきゃ、ポーランドのことはなかなか理解できない」という敷居の高さを一蹴するような、そんな映画なんです。

3.「ジャズの映画である」
確かキューブリックだったかフォード・コッポラだったかスコセッシだったかが、「映像と音楽がわかちがたく結びついた最高の作品」と激賞していたのも、この映画のセールスポイントです。スタイリッシュな映像と独特の緊張感を伴ったシャープな人間ドラマに付加価値以上の効果を挙げているのは、ポーランドの現代音楽シーンの礎となっているジャズの作曲家クシシュトフ・コメダ Krzysztof Komedaです。
東欧のマイルス・デイヴィスと呼ぶ向きもある凄い人なのですが、70年代を迎える前に事故死して当時のポーランドのミュージシャンたちが逆に「オリジナルな音楽をやらんといかん!」と発奮し、現代の音楽王国ポーランドが作り上げられたという、「早く死んだからシーンが発展した」というちょっと特殊な事情を持つカリスマでもあります。
世界最初期のジャズフェスであるソポト・ジャズ・フェスティヴァルが行われた1956年のソポトの街のある一角で、コメダとスコリモフスキが初めて言葉を交わしたという青春の一幕などなど、彼と映画界をめぐるエピソードもたくさんあるのですが、それはまた別の話。
今も世界中の人がノックアウトされているこの映画のジャズサウンドもまた、この傑作の「歴史の波から切り離されたかっこよさ」を演出するのに一役買っています。ぜひ聴いて下さい。
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闇の子供たち [Blu-ray]/江口洋介,宮崎あおい,妻夫木聡
映画『闇の子供たち』を観てしまった。
映画作品としては賛否両論が激しく巻き起こった模様ですが、幼い子を持つ方は観ない方がいいような、観た方がいいような。
実際の幼児売買春でも行われているであろう、子どもたちに対するひどい性行為や暴力の数々がかなりリアルに撮られていて、虚脱した表情では鑑賞出来ないのは間違いありません。

作品の批評として、一つ言っておかなくてはならないと思われることがあります。
ネットで賛否の数々をたくさん読んでみました。
リアルさの追求については、まず「この手の映像を子どもに演技させてリアルに近づけて良いのか?」という問題提起が前提にある上で、「実際には商品としての子どもの体に傷をつけるなどありえない」とか「こんなのリアルじゃない。ちゃんと取材してんのか」という批判がかなり多いです。
ノンフィクションでないフィクション作品に実際に起こっているであろうことからの一定の乖離状況を批判してもしょうがないのではと思います。
映画技法として、またはストーリーテリングの面で、色々言いたい面も確かにありますが、もしこの重い作品にポジティヴに向き合い、建設的な受け取り方をするならば「人の残虐性は人の想像を超える。目の前の画面に映っているもの(抱く感想が絵空事かリアルのどちらであれ)以上に悲惨であることは間違いない」と想い描くきっかけにするということでしょう。
しかし江口洋介の絶叫からラストまでの展開を「説明不足」と言う人が多いのも何ともはや。
映画としての完成度はさておき、この映画から発信されている(意図しているいないに関わらず)真のテーマは「想い描く」ことなのでしょうから、説明を過剰に求めるのは決定的に外している感じがしますね。
あと、原作の設定がそもそも間違っているであろう点について阪本監督を責めまくるのも若干筋違いのような。
ちなみに、個人的な感じでは原作者の梁石日がタイトルを「子ども」とせずに「子供」としたのは、子どもが変態たちへの「供物」として扱われているという意味を持たせたかったのではという気がしてなりません。
闇の子供たち (幻冬舎文庫)/梁 石日
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しつこいですけどみなさん、ポーランド映画祭2013、行ってますか~?
ちゃんとチェックしてますか?
http://www.polandfilmfes.com/

今日は今回のポラ映祭の20本強の作品のうち、脇役なども合わせると5~6本出ている「東欧のジェームス・ディーン」ことズビグニェフ・ツィブルスキ Zbigniew Cybulskiについて見所をご紹介します。

ツィブルスキと言うと何と言ってもアンジェイ・ワイダ(ヴァイダ)の超名作『灰とダイアモンド』の、最後に撃たれて野垂れ死ぬ若者マチェクの印象が強いですね。
確かにこの作品における彼の刹那的なムードを漂わせた青年像は鮮烈なのですが、私個人は最初観た時「そんなに演技巧くないような・・・・?何でこんなに評価されているんだろう」と感じたのも正直なところです。

しかし、今回の映画祭で集中的にたくさんの作品を観て、彼が登場するたびに驚きを隠せませんでした。
外国人美女とポーランド人青年の悲恋の物語『さよなら、また明日』での気弱な主人公、主役の少年の過酷な境遇に重苦しくひりひりした感情を逆撫でされる『沈黙』で現われるマチズモ全開の中尉。
ヴォイチェフ・イェジー(イェジ)・ハスの絢爛豪華な幻想絵巻『サラゴサの写本』で、次々と目の前に現われる色欲と死のにおいにまみれた障害に振りまわされる剣豪の息子。
名作『夜行列車』で未練たらしくヒロインをひたすら追って来る青年、などなど。

『サルト』はまだ観ていないのですが、どの役も全く違うタイプで、見せる表情も違い、特に脇役の時にそうなのですが、何と言うか登場してしばらくしてから「あ、これツィブルスキか!」と気づかされるくらい巧みに役にはまりこんでいるのですね。
人って色んな顔や外見があるようでいて実は結構似たり寄ったりなのですが、それを判別するのは大きなつくりの違いではなくて、凄く微妙な違いだということを彼はよく理解しているのではないでしょうか。
実際劇場販売パンフレットの中の遠山純生さんの解説では、『さよなら~』のヤヌシュ・モルゲンシュテルン監督は『灰とダイヤモンド』で成功した後だけに、ツィブルスキの演技がそれを引きずっていないか心配したけれど、杞憂だったということです。

今回の映画祭みたいに何作か重ねて観て初めて判る、彼のカメレオン俳優ぶり。
やっぱり彼は凄い俳優だったのですね。
しかし、亡くなったのが電車に飛び乗ろうとして失敗したって。
『夜行列車』で何度も電車にしがみついていたじゃないですか・・・・。
ツッコミ入れたくなっちゃいます。
映画大学に遅刻しそうになって何度もトラムから飛び降り、『不戦勝』でスタントなしで走る列車から飛び降りてみせたスコリモフスキのようにはいかなかったんですね。
今回のカメレオンぶりを知り、改めて早過ぎる死が残念に思えました。
どうでもいいですけど、ポーランド映画って本当にたくさん鉄道が出て来ます。
鉄ちゃんの方とかも観に来ると楽しめるのじゃないでしょうか。
この辺は「なぜ鉄道の登場シーンが多いのか」調べる価値もありそうです。

というわけでみなさん、この記事で挙げた映画ともども、ぜひぜひ彼の名演技やその他作品なんかも観に来て下さいね~♪
12/13までです!
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みなさん、ポーランド映画祭2013、行ってますか~?
チェックはして気になってるけど、行ってないって方、絶対的に素晴らしい作品ばかりなので行った方がいいですよ♪
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さて、今回のプログラムではアンジェイ・ワイダ(ヴァイダ)の主要作を中心にしていることも話題の一つとなっています。
その中でも目玉は『大理石の男』『鉄の男』という「男2部作」でしょう。
ポーランドという国が政治的に非常な緊張に包まれていた時期にワイダが命を(監督生命を、ではなく文字通り人間としての命を)賭けて制作された両作のパワーは見る者を圧倒します。
ポーランド現代史を勉強してから観ると、さぞやひしひしと押し迫るものがあり、よりこの映画を楽しめるのでしょう。

しかしここではもう一つ違う視点からこの2つの作品を見てみる、というのを提案したいです。
たぶん、おおかたの「女性」は、私がここで提案せずとも自然とそういう角度から観ていると思います。

その切り口とは、ポーランドの名女優クルィスティナ・ヤンダ演じるヒロイン、アグニェシュカの女性としての変貌です。
アグニェシュカたん、『大理石の男』ではガンガン煙草を吸い、男を蹴飛ばす、偉い監督の車にエラソーな格好で足をかけメンチを切る、老撮影技師をこき使うなどなどパワフルな行動でやりたい放題です。
いわゆる「女性らしい女性」とは全くかけ離れています、じゃじゃ馬です。
近くにこんな女子がいたら怖いな~、振り回されそうだなあ。
でも、その彼女のエネルギッシュな行動がこの映画に絶妙のスピード感をもたらしています。
野心でギラギラする若い女性の真っ直ぐなパワーに爽快感を抱く人はきっと男女ともたくさんいることでしょう。
また、アンジェイ・コジンスキによるカッコいいジャズロックな映画音楽も、そんな彼女の「やったるで!」パワーをストレートに表現しているようで、特に冒頭のトラックはこの魅力的なヒロインの「困難が何ぼのもんじゃい!」みたいな負けん気が乗り移ったような気持ちいい高揚感があると思います。
(*ちなみに女声コーラス担当はポーランドの人気コーラスグループAlibabki アリバプキ)
過去と現在の映像が入れ子構造になり、何が本当なのか微妙にあいまいに描かれる構成は、作品作りを急ぐアグニェシュカの焦燥感を観客にも感じさせますが、全体として骨太な印象があるのは、やはりヒロインのどこまでも突き進むキャラクターゆえでしょう。
「鉄の女」と称しても良さそうなガンガンの押しっぷりです。

しかし、続く『鉄の男』では前作『大理石の男』の息子ビルクートと結ばれ子も産んだアグニェシュカがあっと驚くキャラとなって、物語の終盤に再登場します。
彼女はすっかり大人の落ち着いた女性へと変貌し、本作の裏・主人公とも言える旧知のアル中記者にその熱愛ぶりを語り、「彼に会った瞬間、この人の子を産みたいと思った」とまで言います。
いわゆる「女らしい女」への、あまりにも鮮やかな変貌。
そして、もともと重苦しいノリであった本作が、彼女のその変貌を観客に知らしめるあたりから途端に失速するように思えるのです。
人当たりもかなりやわらかくなり、シンプルなスカート姿で、まあいわゆる「女性としての魅力」というのは増したのかも知れませんが、『大理石』でのあの圧倒的なキャラ立ちを知っていると「え~、これってないよ!普通の女になっちゃったじゃん!」と感じちゃいます。
と言うか、誰もが(特に男性が)作り上げている「女性像」というのが一つの物語の中でこれほどつまらなく見える例もなかなかありません。
その「落差」はきっとこの2部作を続けて観ることでより鮮明に感じられると思うので、ぜひぜひ腰をすえて観て下さい。
アグニェシュカの変貌ぶりが、ワイダの意図せぬところで現代の日本社会に生きる私たちに物凄く深く考えさせるという効果を生んでいますし、また、いわゆる一般像としての魅力的なかわいい女性ではなくて本当の意味で規格外な女性キャラというのが物語においていかに大事なのか、ということもよくわかると思います。

上映の機会は12/9の朝11時からと、12/12の15時からの2回あります!
ぜひぜひ!

2007年に亡くなったポーランドの巨匠イェジィ・カヴァレロヴィチ(イェジー・カヴァレロヴィッチ) JERZY KAWALEROWICZの映画史に残る傑作『尼僧ヨアンナ MATKA JOANNA OD ANIOLOW』や『夜行列車 POCIAG』(→私のレヴューはこちら )などが相次いでDVD化されています。

また、当時のヨーロッパフリージャズシーンの名手たちを総動員したクシシュトフ・コメダ KRZYSZTOF KOMEDAによるスタイリッシュなサウンドトラックが人気の高い逸品『出発 LES DEPART』で知られるイェジィ・スコリモフスキ JERZY SKOLIMOWSKIの約20年ぶりの最新作『アンナと過ごした4日間 CZTERY NOCE Z ANNA』もDVDが発売され、彼の業績に対する評論書も出版されました。

記念式典に赴いたポーランド大統領機の墜落という悲劇もまた関連付けられる一事実として生んでしまった「カティンの森」事件をテーマにした、アンジェイ・ヴァイダ(ワイダ) ANDRZEJ WAJDAの最新作『カティンの森 KATYN』も発売。

来るポーランド映画ブームの予兆でしょうか?

かの国のハイレヴェルな映画アーカイヴは、まだほんの氷山の一角を現したに過ぎません。

な~んて偉そうなことを言ってますが、当然私もヴァイダやカヴァレロヴィチの有名作品や過去にヴィデオで発売されたものくらいしか観たことがありません。

一ファンとして、これからドカドカと未公開の作品も含めてDVD化されて行くことを期待しています。

その余波で私のポーランドジャズ伝道師としての仕事も盛り上がってくれたら、なんて皮算用もしてます(笑)。


尼僧ヨアンナ [DVD]/ルツィーナ・ヴィンニツカ,ミェチスワフ・ウォイト,アンナ・チェピェレフスカ

夜行列車 [DVD]/ルチーナ・ヴィンニツカ,レオン・ニェムチック,ズビグニエフ・ツィブルスキ

影 [DVD]/ズィグムント・ケンストウィッチ,タデウシュ・ユラシュ,イグナーチ・マホフスキー

アンナと過ごした4日間 [DVD]/アルトゥル・ステランコ,キンガ・プレイス,イェジ・フェドロヴィチ

イエジー・スコリモフスキ 紀伊國屋映画叢書・1/遠山純生
いつか読書する日 [DVD]

ひさしぶりに大人のテイストの素敵な映画を観ました。

川本三郎さんだか四方田犬彦さんだかの好意的な評を読んだのと、棒読み「あんたほんまにそれ演技なんかい」演技が好きな岸辺一徳が主人公を演じているので気になっていた映画、ようやく観れました。

50歳になる同級生の中年男女。

田中裕子扮する大場美奈子は、早朝に牛乳配達、昼から夕方にかけてはスーパーのレジ打ちをして生計を立てています。

対する岸辺の高梨槐多は地元の役所の児童課勤務。

2人は高校生の時付き合っていましたが、画家であった高梨の父と大場の母のスキャンダラスな事故死により別れを余儀なくされます。

20歳になり父とも死別した美奈子は一人で生きて行くと決心、以後どんな男性とも付き合わずよりかからず、舞台となる坂の多い長崎の街の牛乳配達という過酷な仕事のように一歩一歩地に足を踏みしめるような人生を歩み始めます。

槐多は末期がんの妻の看病に忙しい毎日。

献身的に妻に尽くす彼からは、彼女への愛が感じられます。

しかし牛乳がほとんど飲めない彼の家には毎日美奈子が配達する牛乳が届けられるのです。

足でしか配達出来ない、それでいてそのことが辛い地形であるにも関わらず毎日時間ぴったりに配達される牛乳の配達手が誰かを偶然知った高梨の妻は、夫の秘められた想いに気付きます。

余命少ない彼女はある日病身をおして牛乳箱に手紙をしのばせるのでした。


私の人生のモットーに、「人間関係は試したら終わり」という自作のアフォリズムまがいのものがあります。

これは、他の人とのお試し関係をしない、という多分に男女関係におけるパターンを想定したものです。

大人の恋愛を描いているという映画や小説に触れる度、結局はセックスに到る主人公たちの姿に「結局は行き着く先はセックスか」といっつもがっかりしていたものですが、この映画が描く主人公2人のセックスは「これは確かめる(=他の人との関係を試す)のはいいよなあ」と思えるものでした。

「でした」と断定的に言ってはみたものの、そう思える理由が何なのか見終わってからずっと考えているのです。


美奈子はスーパーの後輩にずっと一人でさびしくないのかと訊かれ、へとへとになればいいのよと答えます。

実際、彼女のようなハードワークを毎日続けていればそうなっておかしくありません。

しかしそれは裏返せばそうならなければさびしくて仕方ないということでもありますし、また、槐多への想いを封じて一人で生きて行くというのならば街を出て行けば良いのに、そうしないところに彼女の抱えた矛盾と、それゆえの想いの深さが感じられます。

美奈子と槐多は、いい歳をして、街でお互いを見かけてもろくに目も合わせられません。

あえて避けているのでしょう。

たとえ軽い視線の、糸のように細い交わりであっても、自らが選んだ人生を壊す勢いで想いが吹き出しかねないと言わんばかりに。

しかし、2人はあるネグレクトされている子供と、美奈子の痴呆症を患っているおじ、そして槐多の妻の死をきっかけに再び近付いて行きます。


この映画を観ていると、現在35歳の私と相方が、この後どういう中年時代を迎え、そして老いて行くのかということも考えさせられます。

不慮の別れというのはどんなに心積もりをしていても突然訪れるものですが、それでもなお、それまでの日々を振り返って「充分に楽しく二人で過ごせた」と思えるだけの時間を積み重ねた後であって欲しいと思うのです。

大いに矛盾していますが。

悲しみに暮れるだけの未来しか与えてくれないほどの短い間で別れさせられてしまうのは辛いなあ、と改めて痛感させられました。


美奈子が「相手の気持ちを確かめるには1日あっても話し足りないでしょう」とラジオ番組へのハガキに書きますが、実際は1日しかありませんでした。

しかし彼女と彼はその想いを確かめることが出来ました。

小説家である美奈子のおばが綴る「大場美奈子の長い恋は終わった」の文には涙します。


私だけの感想かも知れませんが、この映画には奇妙な逆転現象が発生しているように思えます。

こんなのあり得ないよ、というような複雑怪奇な坂に覆われた、舞台となる街のファンタジックな風景は長崎の実際の姿である一方、いかにもリアルにシリアスに掘り下げられたかのような主人公2人のある種ストイックな姿勢や、高梨の妻のこれもまた別種の愛のありようなどは、実際にはファンタジーでしかないでしょう。

それでもやはり主人公たちの生き方には考えさせられるのです。

実際にはファンタジーでしかない、と断言してしまって本当にいいのでしょうか。

大人の恋を、素晴らしい、そして新しい形で見せてくれたいとおしい作品です。

愛の奴隷 [DVD]


同タイトルの洋画やアダルトもの(笑)などが数種存在するようですが、これは1976年のロシア映画。
同国を代表する映画監督の一人であるニキータ・ミハルコフの作品です。
このタイトルと、あとはコメディタッチのロマンスだ、という評判を目にしたこともあって正直食指が動かなかったのですが、音楽をプログレファンの間では有名なエドワルド・アルテミエフが担当しているということでちょっと気になって観ることにしました。

舞台となるのは、サイレント映画が流行しソヴィエト革命が進行中のロシアで、人気女優のオリガやカメラマンのポトツキーら主人公たちの撮影隊が黒海沿岸のロケでフィルム切れのために撮影中止を余儀なくされているところから始まります。
オリガはふわふわした話し方をする天然系のノンポリで、やがて来る時代の荒波への予感も抱かなければ、共感もない女性です。
対するポトツキーは彼女と恋に落ちていますが、実は革命の支持者で、軍による共産主義者の虐殺の模様を密かに記録し、その事実をモスクワに知らせる計画を実行中です。
今が良ければそれで良いというオリガとの思想の壁を感じつつも、ポトツキーは彼女を虐殺の記録フィルムの撮影会に誘う決意をします。
自らが無意識に目を塞いで来た「すぐ隣の」現実にショックを受けたオリガは、母や子を置いて革命の中心地モスクワに戻ろうとしますが、撮影隊のプロデューサーに説得され辛うじて思いとどまります。
その彼女がオープンカフェにいるところに現れたポトツキーがプレゼントの箱に隠したフィルムを託し、車を発車させたところ、予てから彼を睨んでいた軍により射撃の雨を降らされ、オリガの目の前で絶命します。
彼女はそのフィルムを撮影会に来ていたボリシェヴィキ仲間に渡そうとしますが、彼は知らぬふりを通し、オリガは失望の内に去ります。
フィルムを見つけられないことに焦りを募らせた軍の大佐はへべれけに酔っ払い、そこへ革命の支持者たちが乗り込み大差を射殺、オリガを救いフィルムを持ち出した後、近くを走っていた列車に彼女を乗せ運転手にホテルへのエスコートを頼みます。
しかし運転手は反革命派で、追って来た軍の騎馬兵たちに「この女はボリシェヴィキだ!」と報せた後電車を飛び降り、オリガを置き去りにします。
彼女に迫り来る騎馬兵たち。
どうにもならないという絶望感の中で、彼女は静かに「あなたたちはただのけだものよ・・・」と呟くのでした。

この映画がソヴィエト時代に制作されたことを考えると、どちらかと言うとボリシェヴィキ側に共感を抱くように見えるこの映画はいかにも翼賛的な内容とも捉えられかねません。
しかし、一方で映画の撮影(=芸術)という人間の営みと尊厳に深く関わるものに対する共産主義のある種暴力的な影響を、声高にではなく前半部分の気だるいムードの中に隠喩として描き出していることを見落としてはならないような気がします。
また、オリガのノンポリ的な姿勢を愚かなものとして描いてはいないこともこの映画の美点。
彼女は、アーティストにありがちなわがままさや奔放さも持ち合わせていますが、同時に繊細で鋭い感受性の持ち主でもあります。
残酷な現実に直面した時にショックを受けるだけの真っ当な知性が、確かに存在します。
オリガとポトツキーの悲劇は、ノンポリとボリシェヴィキの思想のすれ違いではなく、時代が彼らに引き返しようのない選択を強いた、ということです。
芸術を愛する2人は、時代が違えばクリエイターとしてお互いを尊敬し幸せになれたはず。
生きて行く上で重要な選択を迫られる場面は人生に幾度となく訪れますが、それは個人個人の人生における問題であるはずで、波にさらわれるように社会がそれを苦悩と葛藤と戦いへの決意をこみで押し付けるものではありません。
最後のシーン、霧の向こうに消えて行くオリガの乗った電車はやがて兵たちに追いつかれ、おそらく彼女はボリシェヴィキとして殺されてしまうのでしょう。
現実に目を開くことが出来た彼女は、それまでの思想的浮遊をやめ自分の内なる感情に気づき始めたのでしょうが、それはこの時代においてはノンポリからボリシェヴィキへの所属変更を意味します。
彼女の意思にかかわらず。
所属の強制の時代に生きてしまった男女、特にわけも解らない内に殺されその死を後から勝手にカテゴライズされるであろうオリガに涙します。

ところでアルテミエフの音楽目当てで観たこの映画、その音楽は期待以上の素晴らしさでした!
まあいかにもなロマンティックなメロディが多いんですが、個人的には胸に響きましたね。
中でも、最後の列車のシーンでこの映画の主演女優が歌う主題歌のようなものが流れるのですが、これがまたドラマティックな作品で、このシーンを忘れがたいものにしている一因だと思います。
その旋律を思い返すだけで涙腺が緩んで来ます(笑)。
↓に動画貼っておきますのでぜひ聴いてみて下さい。

『不思議惑星キン・ザ・ザ』という映画をご存知でしょうか。

「クー」と「キュー」しか言語がない砂漠惑星になぜかテレポートしてしまった中年ロシア人とイスラム系の若者の珍道中を描いた、ナンセンスカルトSFの傑作(?)として名高い作品です。

その監督ゲオルギー・ダネリアが63年に撮ったデビュー作がこの『(私は)モスクワを歩く』です。

64年度カンヌ映画祭で特別賞を獲っています。

ストーリーは『キン・ザ・ザ』とは似ても似つかない清涼感溢れる青春ものですが、主演の青年役に若きニキータ・ミハルコフ(ロシア版『12人の怒れる男』の監督でもあり名優でもあるロシアを代表する芸術家)、音楽にはソ連にいち早くジャズを導入したと言われる作曲家アンドレイ・ペトロフ、撮影にはアンドレイ・タルコフスキーのデビュー作『僕の村は戦場だった』での仕事ぶりで名を上げたワジム・ユーソフなど若き才能がこぞって参加しています。

昔の東欧・ソ連系映画は街並みが映っているだけで妙にスタイリッシュに感じてしまい、それだけで楽しめるという利点があるのですが、その点で言えばこの映画はもう見所がてんこ盛り。

まずは奇妙なメロディ(ブルーノートが含まれてて何だかジャズっぽい?)で鳴る時計台の鐘がいい感じ。

それに当時のモスクワの街のあれこれがまた良い。

主人公の一人、地下鉄工コーリャが住むアパート、彼とシベリアから来た小説家の卵で営林技師のワロージャが出会う地下鉄、コーリャのアパートの向かいにある喫茶店、そしてわざとらしく(笑)映される物に溢れたスーパーマーケットなどなど。

ストーリーは、夜勤明けのコーリャが帰宅途中の地下鉄で意地の悪い中年に目的地への間違った行き方を教えられそうになっていたワロージャに出会うところから始まります。

朝のモスクワ河畔を共に歩く青年2人。

結局ワロージャの訪ね先である親戚は出かけて留守で、コーリャは彼の荷物をその日の夜、ワロージャが帰るまで預かることにします。

ワロージャは他にも目的があるらしく出かけます。

夜勤明けの疲れた体を休めようとしたところにサーシャが訪ねて来ます。

結婚を今日に控えながら、兵役延期の手続きを未了なのだと相談に来たのです。

自称「臆病者」のサーシャでは話にならないということでコーリャが先に代理人として話をつけ、無事延期の許可を得るのですが、婚約者との公衆電話での会話が上手く行かず、サーシャは彼女に結婚の意志がないと勘違いし、その足で頭を丸め兵役延期の中止を願い出に帰って来ます。

そのエピソードと前後して、コーリャとサーシャはワロージャとグムで出会います。

そこで彼らは、ワロージャが小説家の卵で、処女作が雑誌に掲載されたばかりであることを知ります。

話の成り行きでサーシャがレコードを買うことになって、繰り出したレコード店の女性店員アリョーナにワロージャが一目ぼれ。

前から憎からず思っているコーリャも調子に乗ってサーシャの結婚式に誘います。

その後でサーシャとコーリャは婚約者のことで口論し別れるのですが、そのままワロージャのもう一つの旅の目的である、有名作家の自宅へ2人で行くことになります。

ここで最初に応対するのが掃除夫なんですが、この人がまた面白い。

作家に成りすまし、自身の小説論をぶつけまだ自分の作品に自信を完全に持っていない若いワロージャを批判するのですが、それが結構堂に入ってるんです(笑)。

作家が帰って来てから雑巾を片足で踏んづけて脚を動かす掃除のやり方もひょうきんで良いです。

それでこの人、自分の雇い主である作家に対してもワロージャに言ったことと同じことを言う。

こういう軽いユーモアがあるエピソードがいいんですよ、この映画。

サーシャは何だかんだの挙句挙式にこぎつけ、式場に入って行きます。

それを見送ったコーリャとワロージャは、今度はアリョーナを巡って対立します。

コンサートを聴きに行っていた彼女を呼び出したのはいいのですが、3人はギクシャクした雰囲気になってしまいます。

苦し紛れに「催眠術だよ」と言って中年の男性を後ろからじっとにらんで何度も振り向かせるコーリャでしたが、これが後で波乱の元となります。

3人はイラスト早描き競争の会場に入り、コーリャが参加。

この超早描きの馬がまた笑える。

すると、そこでかっぱらいが現れ、観客みんなで凄まじいスピードで追いかけるのですがこれがまた笑えるんです。

この時にかかっている超速のスウィンギーなビッグバンドミュージックがまたいいんです。

全員で捕まえたのは何とワロージャで、先ほどの催眠術の紳士が腹いせに彼が追いはぎだと言い張るのです。

警察詰所のようなところでのこの紳士とワロージャ、そして助けに来たコーリャのやり取りがまた爆笑もの。

本物のかっぱらいの方はアリョーナが機転を利かせて御用。

3人でサーシャの挙式会場に行ってみると、兵役延期の中止願いの話がばれて、彼は花嫁に結婚をボイコットされ落ち込んでいます。

ここで年少の生意気な弟がうなだれる兄に「軍で規律を叩き込まれて来い」と言うセリフがあって、爆笑してしまいました。

今度はコーリャが機転を利かせて挙式は無事行われることになります。

たった一日のモスクワ滞在、ワロージャの帰宅の時間が近づいています。

夜の街を散歩する女性を呼び止め、アリョーナの友人と偽って自分の家にいるということにしてくれと頼む公衆電話のシーンも時代を感じさせて良いですね。

コーリャがサーシャの花嫁に話をつける前に、庭で招待客がダンスをしているのですが、その中にいい雰囲気のワロージャとアリョーナを見た彼は、何となくあきらめムード。

地下鉄で空港に行くワロージャと別れた彼とアリョーナですが、彼は「もう夜勤が始まるので送って行けない」と嘘(多分)をついて、彼女を一人にして別れの余韻に浸らせてあげます。

そしてその後コーリャが唐突に繰り返し鳴っていたメロディに歌詞をつけて歌い始めるのはびっくりしました。

これは爽やかでポップで、本当にいい曲です。

そのまま最後まで歌うのかと思いきゃ、エスカレーターの前にいるきつい顔の女性駅員が歌詞を聞きとがめて「ちょっとあなた!何を呼ぶの?」と詰問して一旦歌が止まるというひねりもあり。

「歌だよ」と答えると「じゃあ続きを歌ってよ」と言われ再び歌い始めたコーリャが最後まで歌うと同時にエスカレーターの向こうに消えて幕。

何てことのないエピソードの連続なんですが、妙に面白いんですね。

それに音楽がいいなあ。

一度聴くと忘れられないメロディですよ、この主題歌。

こんな作品を撮っていた監督が20年余の間にどのような経緯を経てあのようなわけの判らない脱力映画を撮ることになるのか定かではありませんが、全く違う手法でやっても素晴らしい作品を作ることが出来る才能豊かな監督であることは確かです。

それにしてもアンドレイ・ペトロフ。

彼は、相方が観て絶賛していた『フルスタリョフ、車を!』(アレクセイ・ゲルマン監督)の音楽も担当しているそうなんです。

ちなみに相方は映画以上に音楽が良かったと言ってたので、気になっていた人なのですが、こんなところでもヒットするとは。

この主題歌「私はモスクワを歩く」が収録されたCD『ロシア映画音楽集2』もあるそうなので、興味のある方はぜひ。

この人の仕事をもっと聴いてみたいですね。

それに、鐘のメロディを採譜してイントロに据え、主題歌とかっぱらいを追いかけるシーンの高速スウィングテューンをメドレーでカヴァーしたいです(笑)。

まあそれ以上に、このエヴァーグリーンな映画のDVD化を強く求むところですね。

「ソ連の映画」という言葉から受けるネガティヴなイメージは欠片もない、非常にポップで気持ちの良い映画だと思います。

不思議惑星キン・ザ・ザ

ポーランドの名匠アンジェイ・ヴァイダ(ワイダ)監督の60年発表作品。

昼は国営運動局勤めの医師、夜は仲間と共にバンド番付の上位を狙うジャズのドラマー、という主人公の若者が偶然出会った女性と過ごす一晩の出来事を描いたもの。

主人公のアンジェイがシャワーを浴びた後、ソファーに寝転がってジャズのテープ(オープンリール!)を聴こうとすると、ガールフレンドが他の男と睦み合っている声の録音が入っているのを発見。

一気に醒めた気持ちでそれを聴いていると、当の彼女から「出て来て」の合図の小石が部屋の窓に投げてぶつける音。

痺れを切らした彼女が部屋のドアをノックするのを居留守で無視するアンジェイ。

彼の午後はそんな状況で始まりました。

悪友エドムントの免許試験を替え玉で受けてやり、その後に慌ただしく駆けつけた職場でやっつけ仕事、さらにその後ジャズバンド合戦(のようなもの?)に出演。

大した演奏が出来ずくさるメンバーたちと別れた後はバーでエドムントと落ち合い、彼が目をつけた客の女性を他のバーに誘導するのを気乗りしないながらも手伝います。

話をする内に彼女が気になって来たアンジェイは、エドムントとの連携プレイをすっぽかしとりあえず終電に乗りたいと言う彼女を駅まで送って行くことに。

しかし終電は目の前で行ってしまいます。

というわけで彼女を部屋にご案内、お決まりのコース。

と思いきゃ、お互いを妙なあだ名で呼び合ったり、セックスに至るまでのやり取りを契約書に書いたり、はたまたマッチ箱を使ったポイントゲームで野球拳をしたり、何だかんだ言って大事なところには踏み込まない、軽薄ぶっているくせに保守的な若者像を一夜の出来事に凝縮した、という感じです。

まあはっきり言ってちょっとした青春もの、という感じでストーリーそのものにはあまり見るべきものはありません。

この映画の見所は、50年代後半のヴァルシャヴァ(ワルシャワ)の都市風景やアパートの内装です。

まだ鉄のカーテンの向こう側にあった街、そして、資本主義制度に移行すると共に失われたであろう独特の雰囲気が、白黒で彩られるレトロな画面の向こうから妙にスタイリッシュな画像として刺激して来ます。

そしてもう一つの売りは、何と言っても70年代を迎える前に事故死した天才ピアニスト/作曲家のクシシュトフ・コメダ KRZYSZTOF KOMEDAによる音楽でしょう。

全編に流れる淡いジャズサウンドはもちろん、バンド合戦でアンジェイのバンドが演奏する曲もコメダフィーリングばっちりのカッコいいナンバー!

俳優のスティック捌きが音とずれまくっていておかしいです。

特に短いドラムソロパートでのフィルム早送りの無理矢理ロールは大爆笑。

あと、この作品にはコメダが本人として出演していてアンジェイと言葉を交わすシーンがあり、肉声とその動きを知ることが出来て大感激!

他にも脚本には後にベルギーで『出発 LE DEPART』を撮るイェジィ・スコリモフスキ JERZY SKOLIMOWSKI、出演者にもエドムント役には『灰とダイヤモンド POPIUL I DIAMENT』の主演で超有名なズビグニェフ・ツィブルスキ ZBIGNIEW CYBULSKI、さらには私はちょっと判らなかったのですがコメダとのコラボで傑作を次々と生み出して行く監督ロマン・ポランスキ ROMAN POLANSKIもいるようです。

あまり馴染みのない地域の映画は、ストーリーが大したことなくてもその馴染みのなさゆえにヴィジュアルだけで魅せてしまうということが多々ありますよね。

この映画にヴァイダが込めたメッセージとかテーマ(ひょっとしたら何もないのかも知れませんが)は私には解らなかったんですが、そういう観点から気軽に楽しむというのもまたいいものです。

愛人

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先日亡くなった市川崑監督の初期(53年)の傑作です。

この作品は、市川監督が対談本『市川崑の映画たち』で面白そうなことを言ってたのを7、8年前に読んでずっと気になっていたのですが、先日やっと観ることが出来ました。

上掲本での自身の解説による内容が面白そう、というのもあったのですが、何つってもキャストも気になる。

若い頃の三國連太郎、有馬稲子、岡田茉莉子という、演技も巧くてかつ絶世の美男美女揃い!

たまんねえ。

そして、もちろん白黒!

更には、小津や黒澤他幾多の名画に出演して来た名バイプレイヤーのベテラン菅井一郎&伊藤雄之助や当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった越路吹雪らが脇を固めるという最強布陣。

これでどう期待するなと言うのか、の凄いキャストですよね。

ストーリーは、お涙頂戴映画で黄金時代を築いた「過去の」名監督井上鉄風が、美しい娘を持つ舞踏家諏訪と結婚することから始まります。

そもそも、この2つの家族の避暑地での出会いからして、鉄風の息子昌充が諏訪の娘に一目惚れして・・・・といういかにもな展開からいきなりフェイントで熟年二人の結婚式に場面が飛ぶ、という序盤からしてひねってます。

何だ、若い二人が結婚したんじゃなかったんだ。

しかし、この絶妙の外しはまだまさに序の口なのです。

今は家族になった昌充とその妹麻納、そして諏訪の娘の美伃の3人の義兄妹たち、そして鉄風の弟子須賀輪の4人の若者が同居する古い一軒家をほぼ全編の舞台にして、この当時の映画としては恐るべき早口でまくし立てられるセリフにより次々と告白される思慕の念、そして目まぐるしく入れ替わるその対象。

誤解や先走りによる人間関係の錯綜、そして2人の美女から惚れられている須賀輪の驚くべき告白。

とにかく全編それだけで突っ走るのですが、ムチャクチャに面白いんです。

軽薄さとはまた違った意味でのあっけらかんとしたその軽快さに、グイグイ引き込まれてしまいます。

そして、バシバシ差し挟まれるギャグがまた秀逸!

特に、菅井演じる鉄風の勘違い発言がクスクス笑いを引き起こします。

「いや、それは違う!」とかね~(詳しくは観ていただいて)。

現代音楽作曲家、黛敏郎によるジャズなんだか何なんだかよく判らない音楽も面白いですよ。

登場人物の中に恋情が沸き起こる時にジャ~ン!とかいってスウィングビッグバンドみたいな音楽が一瞬流れるんですよ。

その音の付け方すらギャグみたいに感じられてしまいます。

セクシー、というのとは全然違った意味でのフェロモンを出しまくりの三國や清楚でちょっとネクラな美女ぶりを好演の岡田も素晴らしいんですが、有馬のちょこまか動きまくる、手塚治虫の『ふしぎなメルモちゃん』大人ヴァージョンの実写版みたいなキュートさと、何だか妙に目が離せない、絶妙の色気を持った越路の存在感が私的には大好きです。

こんなに面白い映画がどうしてヴィデオにもDVDにもなっていないのでしょうか。

市川監督の逝去を期に、と言うのも故人に失礼でしょうが、ぜひ商品化して欲しいものです。

古き良き時代の日本映画の素晴らしさを楽しい気分で堪能出来る逸品です。

たくさんの人に観ていただきたいですね。