ジャズの明日へ コンテンポラリー・ジャズの歴史

まず最初に恥ずかしい告白をしておく。私は本書を、発売当時に新刊で読んだ記憶がある。が、完全に「ディスクガイド」として読んでいたので、この本が書かれた意図を全く理解もせず「何だかありがちなものばかり選んでるな~」と感じ、本文も一応全部は目を通したが、全然集中していなかった。とどのつまりが、当時の私は「音楽本」についてその程度の役割しか期待していなかったのだろう。今なら解る。本書はそこに鋭く斬り込んだものなのだと。
この本は、正確に言うと、ジャズというものがどういう音楽であったのか、という内容ではない。ジャズというものがどういう音楽と言われていたのか、そしてその言質に対してどのような問いかけが可能なのかという本であるように思う。音楽そのものも、それを対象とした言質も、ともに社会的文化的遺産。その2つを突き詰めて洗い直すことで、この音楽の「今」ではなく「明日」をどのように見出し得るかという内容なのではないだろうか。

他の「評論」本とは違い、本書で村井がジャズという音楽の「音楽そのもの」の推移だけでなく、それがどう捉えられどう言及されてきたかということを高い割合で重んじているだろうことを推測できる記述に下記のようなものがある。
・ファンキージャズはファンキーじゃない
・『カインド・オブ・ブルー』はアートとして完成され過ぎているがゆえにジャズの代表作にはなり得ない
・たまたまフリージャズが行き詰まった時にコルトレーンが死んだに過ぎない
・ウィントン・マルサリスは「フュージョン」だ
これまでジャズという音楽が歴史を重ねる上に塗りたくられて来た「定説」という言質は、情報化社会が進み様々な証言やデータによって非常に時代の雰囲気やムードに囚われた「イメージ」のようなものに過ぎなかったことが明らかになりつつある。「モンクはド下手」とかのあれだ。村井はそうした音楽と言質の「関係性」(正確な批評たり得ているか、ということとは関係なく)を一度肯定した上で、新たに自分の解釈(それもまた言質である)をぶつけることで、ジャズが発展して行くべき方向について論を重ねるのではなく、「ジャズがどう多様に聴かれるべきか」ということを示唆しているように思われる。そして、私はそれこそが村井の言う「ジャズの明日」だと解釈した。

その上で、もう一度彼の書いているある種挑戦的な言質を見て行こう。ファンキージャズはファンキーなのか?という問いかけは凄く面白い。物凄く簡単に要約すると、70年代以降の「ファンク・ミュージック」を聴いた自分にはちっとも「ファンク」に聴こえない、という身も蓋もない告白。だが、このあまりにも直裁的な表現に苦笑はしても、まともに異を唱えることが出来る人はほとんどいないと思う。「ファンク」や「ファンキー」という言葉の語義、またはその内部に宿したイメージは、「ファンクミュージック」の登場と共に塗り替えられてしまったのだから。なので、現代の視点で聴く我々には、「ファンキージャズ」が「ファンキー」と感じられていた当時の「ファンクネス」をもはや誰も理解することが出来ないのだ。当然その「時間という厚い壁」を村井も充分に認識した上で書いているはずだ。が、彼が本当に言いたいことは、究極的には「ファンキージャズはファンキーではないぞ」ということではなく、一体これまで誰がそのことを問い直したのか?あるいは問い直して来た検討の歴史はあるのか?ということなのだ。

それを踏まえて読んで行くと、今でも相変わらずジャズのオールタイムベストとして挙げられることの多い『カインド・オブ・ブルー』についての言及も、実にアイロニカルに読める。残念ながら私個人は例え「おめーには所詮ジャズはわかんねーんだよ!」と言われようが何だろうが、本作を聴いても「何かカッコ悪いサウンドだなあ」ということしか感じない。ただ、この作品が独特の雰囲気を持っていることは認める。もちろん、本書で書かれていることはそういうただの「感想」とは違う。しかしその「独特の雰囲気」こそが最もジャズとして「異質な何か」をはらんでいるということの証明という風にも感じる。それを「アートとしての完成度が高い」がゆえにジャンルの中で語ることも出来ないし、またそれをしようとすると矮小された言質が残るのみになってしまう、という村井の指摘は鋭い。

そうした村井の批評精神がある意味一番発揮されているのは第2章第3節だろう。敢えてDJ(ディスクジョッキー)のトーク形式で書かれたこの節は、「読みやすさ」のためにこの形式を選んだのではないと私は考える。テーマは「差異と反復」だ。誰かが選曲したものをまとまって聴くという時間は、強制的にであれ自覚的にであれ、「音楽聴取の多様化」の象徴のような行為だ。ただしラジオ番組ははるか昔からあった。村井が巧みなのは、ここにさらにもう一つの「DJ文化」を重ね合わせていることだ。クラブなどでヴァイナルやCDを回すあのDJである。そしてそこから連なるサンプリング、ヒップホップの文脈。音楽ザッピングの精神を楽器単位、フレーズ単位まで分解して行ったのが後者だと捉えれば、そことの親和性が高い音楽をトークのネタとし、「反復と差異」をテーマとしたことに何がしかの一貫性が見えて来ないだろうか。ま、勘違いのような気もするが(笑)。
とりあえずここで書かれていることは、私には「結局のところ、ジャズとは反復という概念をめぐる音楽だったのだ」と解釈出来る。常に変化、変化、演奏の場での新しい創造を謳いそれをスピリットとして来たジャズという音楽から、メインストリームとしての大衆性がロックやファンクによって剥奪され、マイルス・デイヴィスらが預言者となり突き進められた同時代的相互作用の中で「反復」という語法を追求する中で生まれた「反復そのもの」と「それゆえに生まれる、あるいは作り出す差異」の効果こそがジャズだったのだということが露わになる。差異と反復とは、単なる音楽語法の範囲にとどまらない。ここで村井がDJトークの形を借りて、一見実にのびのびと、その実非常に注意深く「その時代」の動きを採り上げている手つきは、そのままジャズの歴史と積み重ねられて来た理論や語法、言質といった「マテリアル」をどのように切り貼りし未来への一歩として組み立てるのかという、それもまた「差異と反復」を意識したものだと感じさせる。

もう少し「構造的」に本書を考えてみると、意識的にか無意識的にかは判らないが、明らかに本書は本節を分岐点にしているような気がするのだ。それまでじっくりと割かれて来た、マイルスとコルトレーンを中心とした「近代」ジャズの推移とそれに対する言質への言及。「変化を至上命題とする音楽」ジャズそのものだったとも言えるマイルスが常にジャズとは異質な逸脱を繰り返し、それゆえにジャズたり得た時代を駆け抜け、最終的にヒップホップと「過去のメンバーたちとの共演コンサート」という2つの「反復」に行き着いたこと。理論的な複雑さを追求し尽して最終的にはフリージャズへ急接近し、そのくせ、いやだからこそエリック・ドルフィーのような「斬り込み隊長」ではなくファラオ・サンダースら忠実な僕が必要だったこと。そうした前段があってこそ、この節が生きるのだと思う。読者はそれとなく「反復」と「差異」の2つのキーワードを頭に埋め込まれているのだ。

そのような「差異と反復」の効果を重んじる村井のスタンスは、全く正反対のベクトルを持った2人の「差異と反復」の天才、ジョン・ゾーンとウィントン・マルサリスを論じる時に最も屹立する。多様なプロジェクトを並行して展開しながらも、一貫して20世紀音楽の歴史をミキサーにかけポップで美味しいオリジナルドリンクを作り上げることに邁進するゾーン、ジャズを「われわれの音楽」と位置づけ、継承して行くべき伝統としてさらなる高みに押し上げるべく孤独な戦いを続けるマルサリス。村井が本書を書いた時点で、当時のジャズシーンで最もジャズの「歴史的側面」に自覚的であったのはこの両者だったと思うのだが、その2人の生み出す音楽のあまりの落差は何だろう。村井も指摘しているし、ファン以外の誰もが感じていることだろうが、後者の音楽には「喜び」「センス・オブ・ワンダー」などの「快楽成分」が希薄なのだ。反復と、それゆえの差異の効果のボタンを掛け違えると「快楽」が生まれなくなる、ということを村井は主張しているような気がする。そしてそれはサンプリング、ザッピング、ダウンロードが当たり前となった今現在にこそ強く響くものでもあろう。

さて、私はポーランドジャズライターである。一応「ポーランドジャズ評論家」と呼んでいただけることもある。その立ち位置から本書を通して考えてみたことがあるので、本書評の結論としてそれを書くことにする。

今傍らに、本書と並んで近日発売されたばかりの『アルゼンチン音楽手帖』(栗本斉)がある。私はまだアルゼンチンの音楽はほとんど知らないが、読んでいて強く感じたのが、「この国の音楽は、はるか昔から伝わって来た伝統音楽とダイレクトにつながっている」ということだ。そしてそれはアルゼンチンよりもう少し前から評価され受け容れられて来たお隣ブラジルの音楽にも言えるだろう。ボッサノーヴァもサンバのリズムを現代風に解釈し直したものだし、また、最も先鋭的なアーティストだと思われるエルメート・パスコアルやエグベルト・ジスモンチも非常に斬新な形で伝統音楽を「反復」し、それゆえに圧倒的な「差異」を生み出している。そして、ポーランドのジャズにも似たようなものを感じている。かの国のジャズも、ショパンを中継ぎとして、民俗音楽やコレンダ(クリスマス・キャロル)など古くから伝承されてきた伝統音楽と地続きでつながっている。
今、アメリカのジャズが隘路に陥っていると巷で言われている(ように感じる)。その理由、または聴き手や評論家が多様な解釈への手立てを失っているかのような現状の原因として、私はこの国のジャズの「伝統からの距離感」を挙げたい。アメリカのジャズをメインフィールドにしていない者が言っていいことではないのかも知れないが、そういう見方もあるということは示しておきたい。村井の本書では、マルサリスとゾーンの比較は、村井的には圧倒的に後者の勝ちである。思うに、ゾーンはきちんと「ルーツミュージック」を参照するという実のある「反復」をしているのだ。彼はアメリカ人という以上にもっと明確なルーツ=ユダヤ系であるということ、を発見してしまった。その明確な軸がぶれないゆえに、彼が参照するあらゆる20世紀音楽の語法は対等の価値を与えられる。
対してマルサリスはどうか。彼の言う「伝統」とはどこを指すのだろう?クラシックも愛する彼のことだから伝統のもつ意味合いの重みは人の100倍も理解しているはず。が、参照の対象がよく判らない。本来、クラシックとジャズは地続きなはずだし、現に南米やヨーロッパのジャズにはそのことが明確に感じられる。だがしかし、マルサリスの音楽の中にすでに両者の間の果てしない距離感が存在するような気がしてならないのだ。彼の生み出す音の中では、実は2つはリンクしていない。彼は実は伝承という使命を自らに課しつつも、実はちゃんと「反復」出来ていないのではないか。
古来、音を奏でることはたまらなく「喜び」だったはずである。そして、それが伝統音楽と言われているものが現役だった当時の「音楽」というものの捉え方でもあったはずだ。今流れが来つつあるブラジルやアルゼンチン(そして厚かましくもそこにポーランドや中欧諸国の音楽も入れてもらおう)のジャズや現代の音楽は、進化・深化のために常に伝統音楽を参照し、大胆に構築し直す。そしてそれがゆえに聴いていて「楽しい」のだと私は思う。ゾーンの音楽(ちょっとカルト風味が強すぎることが個人的には気になるのだけど)にはそれがある。

同じようなことが近年の「最先端」、コンテンポラリージャズにも言える気がする。素晴らしくカッコイイ音楽なのだ、私たち評論家やディープなジャズリスナー、あるいは楽器奏者にとっては。しかしあの魅力を絶対に非ジャズリスナーに伝えられないという絶望感も感じさせる音楽でもある。そして、大体同じような方向性を持った「ミュージシャンズ・ミュージシャン」の世界感。そうした「感想」がもし「袋小路に入ったような印象」につながるのだとしたら、そこはやはり「伝統的な要素」とあまりにも離れてしまったからなのではないかと思う。今、アメリカのジャズはそのような「伝統」から「どう距離をとるか」という方向に動いているように思うからだ。でも、近年のアルゼンチンら「伝統を重んじた国の新しい音楽」の受容のされ方を見るにつけ、ジャズという音楽にとって「伝統」とは離れる対象としてしまって良いのか?と強く感じてしまう。もし今の最先端のジャズを『アルゼンチン音楽手帖』のようにガイドの形でまとめるとしたら、おそらく同書のように「伝統との豊かで強いつながり」を感じさせるような並びにはならないであろう。
ネイティヴアメリカン、奴隷時代からつながっているアフロアメリカン、中南米の民族、そして入植して来た白人たちを、比較的短い歴史の中で一度に抱えてしまったアメリカという国は、錯綜した伝統認識を持て余したまま、本当に現代の音楽としてのジャズの王国たり得るのか?と今大きな分岐点に差し掛かっているようにすら思える。それでいて例えばパット・メセニーなどの、ジャンルを超えた影響力を発揮する超絶天才ミュージシャンを生み出すのもまた、アメリカのジャズの面白いところなのかも知れない。

著者は否定するだろうが、私的には本書のキーワードは「反復と差異」(そして「伝統」)だ。オーネット・コールマンは、複雑な仕掛けがないと前進出来なかったバップとも、同じように「思想性」を音楽性のベースとしなければ突き進めなかったフリージャズとも完全に隔絶された存在だったと思う。邪推するのだが、彼は多くの賛否両論を生んだあの当時、恐らく「何も考えていなかった」。そして、そういうミュージシャンにたまたまモーツァルトのごとく天国的メロディクリエイションの天才が宿っていたから、ああいう音楽になってしまったのだと。そんな彼も「ハーモロディック」なる理論を打ち出した時に、文化遺産としての自分の「マテリアル」化を果たしてしまったように思う。つまり、その後のミュージシャンたちによる膨大な「参照」の対象として、足場を固めてしまった。それまで彼を真に「自由」たらしめていたものがなくなったと言うか。そして、その頃から「オーネットって何かつまらなくなったな~」と言われ始めたように、私には感じる。当時のオーネットに対する評価はそういうものが多い。
そういう「未来」を漠然と予測していたのが相棒のドン・チェリーだったのかも知れない。彼がアメリカを去りスウェーデンに移住したのは、ヤン・ヨハンソンらが切り拓いた「伝統との架け橋」としてのジャズが豊かだったから。チェリーは、オーネット(やマイルス、コルトレーン)らのようにやがて反復の対象としてのマテリアルに自分がなってしまうのを嫌がり、あくまで反復の主体としてあるがために同国に移住したのかも。そして彼はそれゆえにある意味オーネットよりも「自由」の象徴であり続けたように思える。

もちろん、こんなのは何の確証もない推論に過ぎず、事実、移住した理由は違っているであろう。しかし、ここにいくばくかの「説得力」があるとすれば、それは説得力のあるデータが揃っているからそうなのではなく、それを勝手な言い分で作り上げているのだ。それは音楽そのものや演奏家本人にとっては不本意なものであったとしても、そのようなストーリーがあり得るという「ファンタジー」の証明でもある。音楽を聴くことで、人脈を追って行くことで、そして言質に触れることでそういうファンタジーが生まれるのは、素晴らしいことではないだろうか。私は、音楽に触れることで生まれるファンタジー(妄想と言い換えても良い)の多様な可能性を提供することに心血を注いでいる。だから、選者のストーリーが濃厚に感じられる『アルゼンチン音楽手帖』も大変に参考になった。
本書『ジャズの明日へ』は、そういうスタンスをとっている私にとってエールとなるような内容だったと思う。村井の「ストーリー」にもファンタジーが感じられる。もちろん、それは私の想い描くものと違うし、おそらく誰のものとも違うだろう。だが、それでこそ良い、ジャズの「明日」はそういう世界にこそ拓けて来るのだ、と村井は強く訴えかけているように思う。彼がジャズに対する言質を重んじているのは、そういう主張から来ているのだろう。

聴き手はみな、ジャズの明日に関与し得るのだ。

アルゼンチン音楽手帖
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君に届け 1 (マーガレットコミックス (4061))/椎名 軽穂

先日夢を見た。

私はライトノベルに挑戦しようとしている駆け出しの作家なのだが、ラノベの雛形設定「学園もの+ちょっぴりSF+ラヴコメ」という難題を前に苦悶している。

特に解らないのがラヴコメの部分で、それは自分が学生時代に「恋愛がしたい!」と思ったことがなかったから。

そういうことを担当編集者だか親しい友人だかに言うと、それは前提からして間違っている、と。

世の中の人々は、「恋愛がしたい」のではなく「彼氏/彼女が欲しい」のだ、とツッコミを受けて、なるほど~と合点したところで目が覚めた。

作家云々など、夢の中の設定はただ一つを除いて全て妄想の産物だったが、そのただ一つの現実というのは、私は確かに学生時代恋愛というものに憧れたことがなかったということ。

ラノベ業界は売れれば本当に凄い収入につながるし、ビジネスとしても魅力的なマーケットだと思う。

仮に私が、そういう不純な動機はさておきラノベを書くとなると、確かに夢の中の話のように中学生・高校生である登場人物たちの恋のドキドキを描くのに苦労するだろう。

恋のドキドキと言えば、ラノベのドタバタが好まれる一方で純愛ものというジャンルも鉄板として定着している。

くさくなく読者を引かせない程度にストーリーやネームを進行させるのは至難の業だろうが、はまれば絶大な効果を挙げるだろう。

しかし、人はなぜ純愛ものを読みたいのだろう?

自分にはなかったものとして、その憧れからなのか、あるいは過去の思い出に似た欠片を拾うような気持ちでなのか?

多分、後者なのだろう。

私にはまともな恋愛経験はないし、それどころか、高校時代には親しかった異性の友人に対しひどいことをした。

その友人はある時、私に男女としてお付き合いをしたいと言って来た。

寝耳に水・・・・というほどではなく、何となく予想がついていたのだが、「傷つけるのが恐い」などという手前勝手な理由で「あなたとは信頼出来る友人の関係でいたい」ということが言い出せず、ずるずるとお付き合いの真似事を続けた挙句しまいには逃げ回り、同じだった部活も持病の発作が出てしばらく休学したのを機に退部した。

しかも、卒業後「あの時自分は本当は友達のままでいたくて・・・」などと言い訳の手紙を送ったりした。

・・・・・うーん、何という痛々しい青春。

自分のせいとは言え、恋の甘酸っぱさなどどこにもなく、人間不信でその反面それをカムフラージュするために過度に明るくコミュニケイション好きな目立ちたがりを演じ、男女の愛情関係も唾棄していた、おのれの苦い姿しか思い出せない。

そんな私が気になったのがこの大ヒット中の純愛マンガ『君に届け』。

何がそんなに気になったのかは判らないが、主人公の性格設定が過去の自分と正反対だからなのかなあ。

根暗(に見られていて)、日本製ホラー映画に出て来そうな風貌で話をすると祟りがあるなど分けのわからない噂を立てられている女の子。

そんな彼女が、最初は誰にも優しくてクラスの人気者であるクラスメイトの少年に淡い憧れを抱き、それが恋心に発展して行く様を丁寧に描いている。

私にはこんな青春はなかった。

こういうありように憧れることすらもなかった。

先に、こういう純愛ものを読む動機は自分の思い出の欠片をその中に探そうとするからではないかと書いたが、このタイプの作品の中には私にとっての探し物は、一切ない。

読んでいてドキドキするより、胸をえぐられるような気がしてくる。

どうしても、自分にはどうしてこういう当たり前の青春がなかったのだろう、当たり前の感情や憧れを持つことがなかったのだろうと、果てしない欠落感を感じてしまうのだ。

と言って、別にそのことに後悔の念をおぼえているわけではないので、それも不思議だ。

ところで、この作品は本当に恋や愛について書かれたものなのだろうか?

上に書いたような何の彩りもない中学高校時代を送った私も、大学になって一人暮らしを始め、揉め事続きだった家庭から解放されて自分を見つめ直すことになると、案外人付き合いが苦手で寂しがり屋な性格や、恋愛という観点から見ればいかに「青春」なるものから脱落した生活を送っていたかを痛いほど自覚することになる。

うちの大学は日本で二番目に同棲率が高いなどと言われる「恋愛先進大学」だったし、浮き足立つ周りを「バカか」とイライラして見てはいても、それが自分に欠けているものだということくらいは考えさせられるわけだ。

そんな時、魅力的な異性と言うよりは「ちゃんと中身のある会話が出来る人」という立ち位置で今の相方が私の心の中に入り込んで来た。

やがてそれは異性としての対象になりかわり、人に恋をするということがどういうことかやっと解ったし、ドキドキワクワクもさることながら、人を想うということはとても恐怖感を伴うものなのだと気づいた。

なぜって、相手の心のベクトルがどこを向いているのか判らない。

そして、それを確かめるための問いかけをするのが恐くてたまらない。

どこかで、自分はこの人を愛している/に愛されている、という確信めいたものをちゃんと感じているはずなのに、その「問い」で全てが壊れてしまうような気がして、どうしてもその言葉を発することが出来ないのだ。

しかし、この作品の主人公2人爽子と翔太は時に誤解に傷つきながらも、勇気をふりしぼり問いを投げかけあい、やがてお互いの想いを確認するに至る。

そう、この作品の本当のテーマは「勇気」なのじゃないか。

仕事でも恋愛でも人間関係でもそうなのだけど、日本人のコミュニケイションは勇気(と割り切り)が足りない。

じっくりと、例え疑心暗鬼と誤解の網の目をくぐりながらでも、お互いの想いに対して誠意ある接し方を続けていれば、作中の2人のような、こんな素敵な関係が築けるのかも知れない。

とは言え、気になるところが2つある。

一つは、やはりと言うかやはり、「付き合って下さい」というイニシエイションは通過せざるを得ないのかという展開と、もう一つは、この2人はどこまで続くのかなあということ。

一つ目に関しては、私と相方がそういうやりとりを特にしなかった(正確にはそういう物言いをしなかった)ので、どうしてそれを言わなければお付き合いが始まらないのか未だに解らない。

2つ目は、作中では彼女らはまだ親元にいる学生に過ぎないということで、これから長く関係を続けようとすれば必ず乗り越えなくてはならない、「自分の人生をどう歩んでいくか」「自分が生きていくうえで守りたいものは何なのか」というような壁にいくつか直面することになることが目に見えているからだ。

そこには「愛しているから大丈夫♪」などという楽観など脆くも崩れ去るシビアな現実が立ちはだかる。

お互いに対する愛情や尊敬の念、ドキドキワクワクだけでは絶対に乗り切れない。

よく「オラシオさんたちは10何年も続いてラヴラヴなんですね」と言われるが、ちょっと違うかな~といつも思う。

結局人が出会い別れるのなんて運でしかないのかも知れないが、本当に相手が大切で失いたくない人なら最初からそんな言い訳をせずに最大限に努力すべきだし、勇気も必要だし、何よりお互いにシビアに見ることが大事なんじゃないか。

相手を不当に高く見積もってもいいことはないのだから。

ま、そんな感じで相変わらず欠落感しか与えてくれない作品ではあるのだが、思春期独特の彷徨うようなドキドキ感と不安感、そしてそれに打ち克って行く勇気の大切さをしっかりと描いていて、読んで良かったと思った。

欠落感と言うと、『アイリス・ゼロ』というマンガも良い。

ある世代から突然始まった、何かを見る能力「瞳(アイリス)」を持つ子供たちが9割を占める世界で「欠落者(アイリス・ゼロ)」として生まれ他人と出来るだけ関わらない「低視聴率主義」を貫こうとする主人公の日常が、学校の人気者の美少女から頼まれごとをすることでゆるやかに変化して行く、という話。

欠落している者にしか見えない世界もある、というある種の救いがここにはある。

アイリスを持っていることで人として大切な何かが欠けているかも知れない、という逆説もしかり。

先生世代にはアイリスがないため、子供たちの間に巣食う「アイリス・ゼロ」に対する負の感情にも鈍感という設定もかなり説得力があるように思った。

ロジカルゲームっぽいストーリーも面白いし、絵もキレイ。

後世に残る傑作なのかはさておき、オススメだ。

アイリス・ゼロ 1 (MFコミックス アライブシリーズ)/蛍たかな

ちなみに「私の中の欠落」は日本ミステリ4大奇書の一つ『匣の中の失楽』(竹本健治著)をかけたものです♪



8/12追記


そうそう、もう一つ気になることがあった。

これはこれらの作品に限らないのだが、マンガという、「ヴィジュアルの魅力も売りにしている」表現形態だと、普通の男女の恋愛を描いてもどうしても十人並みのレヴェルを軽く超えたルックスになってしまうのだな。

『君に届け』の場合、クラスの人気者である翔太はまあ措いといて、爽子の方もこれだと普通に可愛い女の子だ。

それだと「恋愛出来て当然」みたいにどうしても感じる人もいるだろう。

少年少女の葛藤と高揚がとてもよく描けている作品なのだが、そういう部分はこのマンガというジャンルが根源的に抱えた限界と言うかジレンマだと思う。

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ラブロマ(1) (アフタヌーンKC)/とよ田 みのる
相方がこの人の次作『Flip-Flap』(世界初のピンボールラブコメ、なんだそうな笑)にはまり、ついでにこれも買って来たので読んでみました。
漫画家ユニットのClampが「かわいい!恋がしたくなる!」と絶賛し、最初に収録されている、このお話の導入部となる読み切りはアフタヌーンの大賞を受賞したのだそうです。
え~と、まず、はっきり言って絵はヘタです(笑)。
今のところ全5巻の内4巻までしかないのでそれをお断りしてからの感想になりますが、つくづく自分は、中学生だの高校生だのという思春期&青春真っ只中の時期に「恋をしたい」と思ったことのない、そういうものへの欲望がなかった、人として欠落した人間なんだなあと思いました。
むしろ、恋愛という感情を信じていませんでした。
大学に入って今の相方と知り合ったのも別に恋を希求していたからではありませんし、そういう相手を探していたからでもありませんでしたし。
現在に至っても、恋愛がしたいですかと問われれば結構ですと答えると思います。
私にとって必要なのは今の相方なのであって、恋をするということではないからです。
それにしても、人はどうして恋をしたくなるのでしょう?
何となく理解出来るような気もするのですが、やはり自分は何かが決定的に欠けているようです。
相方も人として欠落しているところが多分にある人なので、結局似た者同士なのでしょう。
あと思ったのが、いわゆる「付き合って下さい!」というやつ、あれってもはやイニシエイションですよね。
あれを通過しないと恋愛は始まらないのかな?
ここの主人公2人みたいにほとんど接点がないとそうせざるを得ないところもあるのでしょうが、日本のコミュニケイション文化全体が他の始まり方に対して盲目になっているところがあるような気がしてなりません。
まあしかし作品自体は面白いですよ。
主人公の男の子の方、星野一くんは相当に変な奴で、おそらくこの恋愛は彼のそのパーソナリティがなければ始まりもしなかったし続きもしなかったでしょう。
彼が面白いのは自分の欲望を隠さないところ。
「(根岸さんと)ガンガンにやりたいですよ」とか「挿入したいといつも思ってます」とか言う。
はっきり言って引きますが(笑)、それが彼なりの誠意の表し方なのかも知れません。
しかし、何でも正直に言い合う=秘密を作らないってこととちゃんと向き合うってことはイコールなのかなあ・・・・。
個人的にはこの関係に一抹の不安を感じますよ。
ですが、愛の根拠は当人同士にしか解らないもの。
周りがどう評価しようが当人たちに確固たるものがあればそれでいいのです。
何だかしち面倒くさいことをつらつら書きましたが、作品自体は完全にラブコメでギャグタッチ。
妙な乗りがあって面白いですよ。

↓これは文中で挙げたピンボールラブコメ

FLIP-FLAP (アフタヌーンKC)/とよ田 みのる
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別に特に意味はないんですが、今年に入ってから私が読んだ本のリストをアップします。

備忘録兼、まあネタ探しみたいなもので(笑)。

例によって微妙に雑多なような微妙に偏っているような。

感想を書くのだ!という本がございましたらコメントでリクエストいただければ先に記事にしますのでお気軽にどうぞ。


木漏れ日に泳ぐ魚/恩田陸

赤い指/東野圭吾

すごい駅!/横見浩彦・牛山隆信

酒国/莫言

転生夢現(上・下)/莫言

キムラ弁護士ミステリに喧嘩を売る/木村晋介

1000の小説とバックベアード/佐藤友哉

日本SF全集総解説/日下三蔵

北海道幸せ鉄道旅/矢野直美

ローカル線五感で楽しむおいしい旅 スローな時間を求めて/金久保茂樹

山口雅也の本格ミステリー館/編:山口雅也

京都大学講義「偏見・差別・人権を問い直す」/竹本修三・他

ミステリと東京/川本三郎

堕天使拷問刑/飛鳥部勝則

日本映画と戦後の神話/四方田犬彦

その他の外国語/黒田龍之助

外国語の水曜日/黒田龍之助

にぎやかな外国語の世界/黒田龍之助

はじめての言語学/黒田龍之助

巨匠の残像 「建築」を拓いた17人の遺風/編:日経アーキテクチュア

それぞれの韓国、そして朝鮮/姜尚中・他

日本 根拠地からの問い/姜尚中・中島岳志

知られざる魅惑の都市たち EUの東を歩く/平田達治

東京の階段/松本泰生

視点を変える思考術/森達也

死刑/森達也

ヒトラーの贋札 悪魔の工房/アドルフ・ブルガー

天使の歌声/北川歩実

本泥棒/マークース・ズーサック

官能的 四つの狂気/鳥飼否宇

ベストセラーだって面白い/岡崎武志

モザイク事件帳/小林泰三

犯罪ホロスコープ1 六人の女王/法月綸太郎

嘘つきアーニャの真っ赤な真実/米原真理

恋愛結婚は何をもたらしたか/加藤秀一

日本という国/小熊英二

市民と武装 アメリカ合衆国における戦争と銃規制/小熊英二

オンナらしさ入門(笑)/小倉千加子


あれ・・・案外読んでませんね。

最近読書ペース落ちる一方ですからな~。

ボリス・アクーニン, 沼野 恭子
リヴァイアサン号殺人事件 (ファンドーリンの捜査ファイル)
ボリス・アクーニン, 沼野 恭子, 毛利 公美
アキレス将軍暗殺事件

私が住んでいる街の某書店では何と2冊とも平積みされていたという、ロシアの大人気作家ボリス・アクーニンのエラスト・ファンドーリン・シリーズの待望の続編翻訳。第1作目の『アザゼル』のあとがきでは「シリーズは続編が何冊も出ているのでこれからどんどん紹介したいです」という感じでしたが、5,6年もかかりましたね~。アクーニンは本国では最初は三島由紀夫研究などで鳴らしたようですが作家に鞍替え。誰もが彼の紹介の時に書くのがそのペンネームの由来で、私もその「誰もが」の中に入りましょう(笑)。日本語の「悪人」から来ています。さてこの2作、左の方は豪華客船の中の連続殺人の謎、右の方はアキマスという謎の殺し屋との息詰まる戦いを描いたもので、どちらも彼ならではの多重視点に特徴があります。訳者の力量が素晴らしいということもあるのでしょうが、本当に読みやすくてかつ面白く、エンターテインメントとしての文学の本領発揮です。彼は色んな趣向を凝らした作品をバシバシ連発しているらしく、ロシア語翻訳者の皆様で決起して骨身を削って邦訳し続けて欲しいところですね(笑)。



宮部 みゆき
誰か (文春文庫 み 17-6)
恩田 陸
中庭の出来事

日本のエンターテインメント文学でトップを走っている一人が、この宮部と恩田の2人であることは疑いもないでしょう。『誰か』の方は続編の『名もなき毒』(最初『名もなき妻』と勘違いしてました笑)を先に読んで、そちらは私的にはつまらなかったのですが、主人公をとりまく人間関係が気になって読んだのです。「愛」を巡る姉妹の葛藤と対立、最後に姉の方が激して投げかける言葉と、それに対して馳せる主人公の思いなどなど、じっくり考え込んでしまうようなシーンがあって良いです。「子供が寝た後の若い夫婦にふさわしい時間の使い方をした」は巧いな~と思いました(笑)。恩田作品の方は彼女が最近はまっているっぽい演劇の世界と彼女お得意の多重視点&入れ子構造のオンパレードのような技巧的な作品。最後のオチは納得出来ないんですが、それぞれに微妙に絡み合う話の作り方がスリリングです。演劇方面への彼女の没入ぶりは、後に『チョコレートコスモス』に結実します。



フィリップ ゴーレイヴィッチ, Philip Gourevitch, 柳下 毅一郎
ジェノサイドの丘〈上〉―ルワンダ虐殺の隠された真実
フィリップ ゴーレイヴィッチ, Philip Gourevitch, 柳下 毅一郎
ジェノサイドの丘〈下〉―ルワンダ虐殺の隠された真実

私は虐殺問題関係の本はよく読むのですが、このドキュメンタリーの傑作を今まで逃していたのは幸福だったのか不幸だったのか。ルワンダのツチ族によるフツ族の大虐殺を取り扱った本ですが、とにかく圧倒的迫力で近所の人に突然なぶり殺しにされる恐怖、虐殺に手を染めてしまった者の苦悩、国家間の汚い事情で何十万もの人々が見殺しにされる現実が迫って来ます。国連十字軍が何の役にも立たないこと、ゴマの難民キャンプで援助を受けているのは殺人者がほとんどのツチ族であることなどなど、ある意味歯を食いしばって読まなければならないような内容ばかりです。この本を読んでからだと、映画『ホテル・ルワンダ』(これはこれで良い作品だとは思いましたが)がぬるま湯のように感じられてしまいます。



莫 言, 吉田 富夫
白檀の刑〈上〉
莫 言, 吉田 富夫
白檀の刑〈下〉

ノーベル賞に最も近い中国人作家、との呼び声高い莫言(モー・イェン)の代表作の一つ。私は彼の作品を初めて読みました。中国の広大な土地に西洋の列強国が鉄道を敷き始めた頃の史実をバックグラウンドに、少し知能障害ぎみの犬肉屋と超美女のその妻、彼女と出来ている県知事、そして突然帰って来る元有名処刑人の犬肉屋の父の4人が絡み合う物語。よく考えればこれも4人それぞれの視点から語られる多重視点ものですね。彼の文章はとにかくリズムがいいですね。ネタ的には何と言うこともない話のような気がするんですが(しかしそれは間違いで、凄まじいまでのペダントリーが平易な文章に埋め込まれているのでしょう)中国文学というと引いちゃうという方、まずはこちらからいかがでしょうか。



カベルナリア吉田
スロー・トラベル 各駅下車で行こう!
矢野 直美
おんなひとりの鉄道旅 (BE‐PAL BOOKS)
酒井 順子
女子と鉄道

世の中の鉄道ファンは大体乗ることが主体の「乗り鉄」と撮影することが主体の「撮り鉄」の2種類に分けられるそうですが、私はそこへ行くと新種の「読み鉄」(笑)。列車の種類とか時刻表のマジックとかスイッチバックとか全然興味ないですが、鉄道での旅、そしてそこに必ずあるはずの沿線の日常に思いを馳せるのが好きで鉄道紀行ものはよく読むんです。この3冊はそんな中でも面白かったものです。最近女性鉄道ファンを指す「鉄子」という言葉がちらちら話題になっていますが、別に男性ファンを指す「鉄ちゃん」と同じでもええやん、と思うんですがね。上の本でも、矢野や酒井の本にやや過剰な「女性性」アピールが見られるような気がするんです。男だ女だと言わず鉄道を個人のやり方で楽しんだらいいんじゃないでしょうかね。



エリザベット バダンテール, Elisabeth Badinter, 夏目 幸子
迷走フェミニズム―これでいいのか女と男
加藤 秀一
〈個〉からはじめる生命論 (NHKブックス 1094)

フェミニズム/ジェンダー系で面白かったのはこの2冊。バダンテールはフランスジェンダー界のボス的存在で、私も聞いたことがあるような著名な代表作が何冊かあるんですが恥ずかしながらこれが初読。結論から言うと「女性が過剰に被害者ぶる社会は実は女を生きにくくしている」っていう内容なんですが、彼女の明快な視点でバッサバッサと現代社会が切り刻まれるさまは快感に近いものがあります。とは言え、一番判り易かったのは最後におまけで併録された訳者の夏目との対談。「パートナーに一人だけ家事労働ややっかいな作業を押し付けて平気でいられるような男は、それは相手を愛してなどいない。ただのエゴイズム」と言う部分に深くうなずきました。加藤本は生命倫理の本でした。超重度の障害を負った人が原告として訴訟を起こす「ロングフル・ライフ訴訟」についての倫理的な検討が大半を占めています。彼の立場は明快で、「自分がいなかった時」を「自分」が比較検討することは出来ないので、この訴えは成り立たないというもの。また、今の医学の進歩で障害を持つ子供だということをあらかじめ親に告げることが可能な時代になっているわけですが、「自分のような子どもを持つと知れば親はきっと中絶したはず」という原告側の大前提にも疑問を投げかけています。子供を生むことや中絶するということに対して緻密で真摯な姿勢で幾度も幾度も問いを投げかけながら倫理的な思考を行っている好著だと思いました。



吉田 秋生
海街diary 1 蝉時雨のやむ頃
稲垣 理一郎, 村田 雄介
アイシールド21 (11) (ジャンプ・コミックス)

吉田作品は何かの賞を獲ったらしいですね。内容は『ラヴァーズ・キス』という作品の姉妹編みたいに考えた方が良いのかな?家族とその関係性ということに対して色々考えさせられるシーンが満載です。主人公の一人である長女が「子供であることを許されなかった子供ほど不幸なものはありません」と言うセリフは自分の子供時代を思い起こさせて結構ぐっときました。アイシは連載の方は今ちょっとテンション落ち気味の感がありますが、やっぱりいいですね。特に天才に対する凡才の苦悩と挑戦という裏テーマがあると思われ、それが良い。少年少女は絶対読むべき。特にこの11巻は泣き所満載。進という超絶天才選手を前に、どんなに努力しても追いつかず「それでも俺は一流になりたいんだよ!」と泣き崩れる桜庭には涙ちょちょ切れます。



山沢 晴雄, 日下 三蔵
離れた家―山沢晴雄傑作集 日下三蔵セレクション
内田 百閒
阿房列車―内田百閒集成〈1〉 ちくま文庫
この2冊は読んだ本と言うより読みかけの本。山沢さんの本は本当に待ち続けた作品集。あまりにも直球なアリバイトリックに研ぎ澄まされたカミソリを感じます。ではただトリッキーなのかと言うと実はそういう印象は全然なくて、トリックを追う文章の内に市井の人々の日常生活が見えて来る、という奇跡。しかも最後に味のある文章で終わる場合が多く、それが非常にしみじみ来るのです。ある意味彼こそがミステリという文学の真髄を体現した人なのかも。内田百閒の阿房列車は非常にとぼけていて面白いです。行動に理屈があるようでなくて、ただ天邪鬼なだけ。実際にこれを目の前でやられるとむかつくでしょうが(笑)、不思議と読んでいて笑ってしまいます。ジャズジャーナリストの寺島靖国さんの文章など、ひそかにこの辺に影響を受けているのではないかと思いました。

いやー、このカテゴリすっかりさぼってしまって。

相変わらず本は毎日読んでいて、今の職場に来てからペース自体は落ちたんですが、それでも昨年丸一年で300冊以上は読んだと思います。

漫画も合わせると結構行きますね。

そんな中から記憶に残ったものをちょこっとご紹介したいと思います。


ロンダ・シービンガー, 小川 眞里子, 弓削 尚子
植物と帝国―抹殺された中絶薬とジェンダー
ロンダ・シービンガー, 小川 眞里子, 財部 香枝
女性を弄ぶ博物学―リンネはなぜ乳房にこだわったのか?

18世紀の博物学の隆盛におけるジェンダーバイアスという、大変に面白い研究を行っているのがロンダ・シービンガー。『植物と帝国』の方を最初に読んだのですが、面白くてやめられませんでした。オウコチョウという「観賞用」の植物は、実は中絶薬として非常に優れた効能を持っているのですが、「産む役割」としての女性を期待する当時の博物学はその知識を西欧に伝えなかった、というのが大筋です。知識の伝播というものはすでにジェンダーに限らずあらゆるフィルターがかかった政治的な行為である、ということですね。中南米の地からビジネスのためにあらゆる動植物をむしり取る帝国主義を事細かに追っていく内に、もう一つの今も頑健に存在するジェンダーという「帝国」に思い至る、大変に刺激的な本でした。『女性を~』は博物学の伝説リンネが、女性の家庭的母性的な役割を重視して諸々の分類を行ったということを暴いた本です。「哺乳類」という分類がかくもジェンダーに囚われた命名だったとは驚きです。


大沼 保昭
「慰安婦」問題とは何だったのか―メディア・NGO・政府の功罪 (中公新書 1900)
和田 春樹, 大沼 保昭, 岸 俊光
慰安婦問題という問い―東大ゼミで「人間と歴史と社会」を考える

左掲書は、恐らく専門書系を読んで初めて涙したもの。アジア女性基金に中心人物として関わった大沼の、「慰安婦の方たちも普通の人間。お金が欲しい場合もあれば日本からの謝罪を聞きたい場合もある。とにかく一人でも多くの方にこちらの気持ちを届けないといけない」という主張はもっとも。挺身会などにあんなもの本当の謝罪ではない、お金など絶対受け取ってはいけないと言われ板ばさみになり結局貧窮のまま亡くなって行った多くの元慰安婦の方たちを思うと涙が出たのです。イデオロギー結構。しかし当事者たちの本当の声を聞かない思想的運動とは一体何なのでしょう。ただし、大沼がここで言うように「これ以上はどうしても出来なかった」というのはやはり言い訳にしか感じられません。もっと出来たかも知れませんし、あるいはこれが最上の結果だったかも知れないし、それは誰にも判らないことで、それを当事者が言ってはいけないような気がします。右の書は慰安婦問題に関する様々な立場の論者が講師として招かれたゼミの模様を収録したものですが、アジア女性基金からのお金を受け取るか否かで慰安婦の方たちの間で分裂が起こったことに関して上野千鶴子が「事後的に批判しなければならないという大前提の上で評価するとすると、そのような事態が起こることをある程度予測しながら女性基金の設立に踏み切ったのは楽観的と言わざるを得ない」とかなり厳しく批判していますが、それを言うなら、完全に民間主体の基金を発足しようとして頓挫したという上野だって、誰一人に対しても実際の形あるものを届けられなかったのですから激しく非難されるべきでしょう。紆余曲折がありつつも、アジア女性基金は300人以上の方にお金と橋本総理(当時)のお詫びの言葉を届けたことは事実です。また、何を「強制」と呼ぶかでだいぶ揉めているわけですが、無理矢理攫ったのが強制で、違う仕事に就けると言って騙して連れて来て慰安婦施設に閉じ込めるのは強制でないなんて理屈はどう考えても通らないですよ。ご興味のある方はまず右を、それから左をお読みになった方がよりフェアな立場でこの問題について考えることが出来るかと思います。私は左から先に読んだので、右の慰安婦否定派の人には反感を抱いてしまいましたし、大沼さんに寄った視点で読んでしまいましたので。



何か長くなっちゃったのでまた後日面白かった本のご紹介記事の続き書きます。

(この記事は敬称略です)


毎度お馴染み、完全私的目的の読了書備忘録。

読んだもので思い出せるもの並べます。

評もつけるかつけないかは適当ですので、申し訳ありません。


古川 日出男
ベルカ、吠えないのか?

犬ってこんなにたくさん子供産むものだったのか!私の感想はこれに尽きます。イヌが主人公のこのお話、出て来る人間はそれぞれ魅力的ですが道化回しですね。犬のこの多産性に戦争というファクターが絡むことで、数奇な物語が出来上がるのが面白いですね。多分古川は犬を戦争で重用していたことを知った時にこのストーリーの骨子を思いついたのだと思います。しかしそれよりも圧倒的なのはこのぎこちない文体。もちろんわざとやっています。日本語として正しくはないのに、妙な説得力とリズムがあります。大絶賛、とまでは行かないですが、これぞ文学!と言いたい気持ちです。

辻村 深月
ぼくのメジャースプーン

正直全く期待していませんでした。しかし・・・素晴らしかった!『幽遊白書』の後半や『ジョジョの奇妙な冒険』のスタンドなどのサブカルからの影響大と思われるコンゲーム的なものと、倫理学的なものとがしっかりと組み合い、好きな人を傷つけられた少年の小さな、しかし大きな戦いを描き出しています。文中にも出て来る「ダブル・バインド」ならぬ「ダブル・ミーニング」がタイトルにかかっていることに、読了後気付くことと思います。彼はその不思議な能力という「メジャースプーン」で何を量ろうとしたのでしょうか?主人公の少年が少し利発すぎる気もしますが、主要キャラの秋山先生の広い視点の「モラル」への目配りと、そしてある種の傲慢さ・歪みが本当によく描けています。主人公の「好き」のあり方も良いですね。彼は少女の「美」に惹かれたわけではないのですから。

奥泉 光
ノヴァーリスの引用

奥泉は本当に言葉を大切にしている作家だと思います。アカデミックな仕事に揃って就いている中年たちが、過去の同窓生の落下死亡事故についてあれやこれやと議論を重ねる、それだけの作品ですが、面白い。むしろ生真面目と言ってもいいくらいの、オノマトペではなく言葉そのものによる状況描写、語彙の少ない読者にはついていけないであろう怒涛のような論理的用語の数々。それでいてどことなく噴き出してしまうようなやりとりが楽しいのです。

斎藤 美奈子
男女という制度

斎藤編による様々なジェンダーに関する文の書き下ろしオムニバス。一番面白かったのはネカマの人のトピック。私はノンジェンダーの立場をネット上でとっていますが、出会い系という性差剥き出しのシチュエイションだとこんなにもあからさまになるのかと興味深く読みました。あとしょせんインテリの斎藤の言うことなので話半分で読みましたが、彼女がジェンダーの名著に対して「アカデミックすぎてわかんねえんだよー」という叫びは非常に共感を覚えました。そう、学術的に正当化出来得る論文や著書を書くことで、何に対して訴えているのか、誰にそれを知って欲しいのか見えなくなっているのではないかというのは常々私の感じている危惧だったからです。世の中の人は、そんな「難しい」言葉では話が通じないのですよ、と言いたくなるのです。

井上 章一
夢と魅惑の全体主義

井上は、「当たり前だと思われていること」に対して常に鋭い疑問を投げかける存在です。やや粘着質の語り口と「こんご」「ぐうぜん」などの微妙なひらがな表記だけはいただけないのですが、その著書では色々と教えられることが多いです。この新作も面白かったですね。特に、建築史における第2次大戦時の日本ファシズム問題を、当時の軍は建築のことなど歯牙にもかけていなかった、ナショナリズムに拠った建築が出来たのは実は建築家たちの新旧の争いに過ぎなかったと一刀両断しているのが素晴らしい。また、芸術を見ることとその背景にある政治や思想をある程度切り離すべきだという主張も個人的には共感出来ました。

森 達也
スプーン―超能力者の日常と憂鬱

井上と同じく「それって当たり前だろ?」という姿勢に苛立ちと怒りを隠せないのがドキュメンタリー監督の森達也。実はまだ彼の作品を観たことがないのですが、非常に気になる存在なのです。私は本著に出て来る自称「超能力者」たちを見たことがないので判断出来ないのですが、ここで書かれていることをしっかりと咀嚼すると、どうして私たちは彼らのような人間のことを「いかさま」と断言してしまうのか、そのメカニズム、心理面でのバイアスが非常に気になってきます。多くはテレビを通してしか知らない彼らの実情や能力を、見てもいないのにどうして私たちはあんなのいかさまに「決まっている」と言うことが出来るのでしょうか?この問いを投げかけるだけで変人扱いされるその状況、やばいことではありませんか?森も彼らの能力に対しては明確な立ち位置を決められないでいますが、少なくとも本人たちは自分のことを信じている、ということだけは断言しています。人はどうして足早に結果・決断にたどり着きたがるのでしょうね。また、ここで書かれていることが本当のことだとすると、大槻教授にはかなり失望しました。だいぶ前にテレビで見た、「俺はUFOを信じてこの世界に入ったんだよ!本当は信じたいんだ。お願いだから誰にも判る形で証明して見せて納得させてくれよ」と言ってたのはポーズだったのか。あと、彼の著書は自分の映像に対する執着や被写体に対する疑問や怒りを隠さないのが良いです。



保坂 和志
小説の誕生

前著『小説の自由』以上にとりとめがないと言うか、完全に思考過程現在進行形の行き当たりばったりな論旨が面白いですよ。かいていることが理解不能になるのは、難しすぎるからか破綻しているからか(笑)?しかしこの人は故小島信夫を本当に尊敬していたんですね。小島の『寓話』、私も読んでみたくなりました。あとルーセルの『ロクス・ルソス』も!文学を書くとは論理の徹底ではなく切断というのが妙に納得出来ました。作家自身にその描こうとしている世界がどう見えているか、それが面白いんですよね。それは、通常の感覚では説明のつかないいびつな切り口を持っているはずなのです。また、保坂もとっつきにくいものにあえて取り組んでみる、そういう楽しみもあるということを教えてくれました。

沼野 充義
W文学の世紀へ―境界を越える日本語文学

沼野の著書は、知らない世界への「開かない」どこでもドアみたいなものです。読んでみたくてたまらない気にさせておいて、でもそれを読むには入手難か、あるいは語学のエキスパートにならなくてはいけない。なかなか罪な人です。安倍公房の文章が実は訳しにくいものだったとは意外でした。雑誌対談での島田雅彦と町田康のバトルも面白いですね。読んでみなければ。


宇月原 晴明
安徳天皇漂海記
宇月原 晴明
信長―あるいは戴冠せるアンドロギュヌス
宇月原 晴明
聚楽―太閤の錬金窟(グロッタ)

宇月原の世界は、文学を読むことはパラレルワールドに遊ぶことなのではないかという私の思いを完璧に満たしてくれるものです。そして、壮大なファンタジーは、栗本薫や田中芳樹などのように大河小説にするのではなくて、彼のようにびしっと1冊で締める方が余韻が残り、空想の中で作品のパラレルな世界が生き続けるということも教えてくれました。この3作の中では特に『安徳天皇漂海記』がいいです。

ウィリアム モール, William Mole, 霜島 義明
ハマースミスのうじ虫

とうとう読めたぞ、この名作と誉れ高い作品。知人が酔いつぶれる姿を見て異変を感じたワイン商キャソン。犯罪者をあぶりだすことに欲望を感じる彼は、その知人の話を頼りに恐喝者バゴットを追います。作品の中ほどでバゴットの正体自体は割れるのですが、そこからラストへの展開が面白いのです。今読むとさすがに古い部分もありますが、心理的に追い詰めて行くキャソンの方ももはや異常者の域。ラストのオチは非常に現代的。『津山三十人殺し』や宮部みゆきの『模倣犯』に通じる世界観であるような気もします。

セオドア ロスコー, Theodore Roscoe, 横山 啓明, 森 英俊
死の相続

これはかなり苦笑ものの一品。パルプものの良い部分も悪い部分も渾然一体、といった感じのドタバタした展開と文体、やたら落ち着きのない主人公、キワモノ揃いの登場人物たち、そしてあまりと言えばあまりな大トリック。確かに「怪作」です。

高山 宏
奇想天外・英文学講義―シェイクスピアから「ホームズ」へ

ベル・エポック・フランセーズのごった煮文化を愛する私ですが、同時期のイギリスの文化はよく知りません。イギリスにあまり興味がないんです。しかし、この高山の本がかの国もまた奇想の宝庫であることを驚異的なペダントリーと語り調の文体で楽しく教えてくれます。「知」ではなく、「知識」の世界に遊びたい方はぜひ本書を。

海堂 尊
チーム・バチスタの栄光

第5回「このミス」大賞受賞作。田口という大学病院講師が前半そのキャラでかなり好感を喚起しておいて、後半でもっと強烈なキャラが出て来る、というその構成は非常に良いですね。しかし、クライマックスの記者会見シーンのドラマのような「気持ちのいい」展開に何となく失笑してしまうのは私が歪んだ人間だからでしょうか。まあある意味コミカルなタッチの作品だからしょうがないのかも知れませんが、身体的な気持ちよさみたいなものに走ってしまっている感が凄くして。クエンティン・タランティーノの映画を観た時のような感じですかねえ。天才外科医桐生が実は○○○だった、というのもかなりありふれたシチュエイションで、残念ながら私は読む前に解ってしまいましたし。とは言えなかなか面白い作品だったので、安心してお薦め出来ます。

失業中ということもあって、本読みまくっています。

一口感想コメントと共に、読了本思い出せるだけ挙げてみます。


小熊 英二, 上野 陽子
“癒し”のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究

私が今結構興味を持っているのが「ナショナリズム」。自分が愛国心のない人間ということもあり、その正体が何なのか知りたいという思いがあります。新しい歴史教科書を作る会を応援する有志の団体へのインタヴューを基にした上野の卒論と、その担当教官であった小熊の分析というカップリング。本書を読んで、この運動というのは、要するに現状に自信や拠りどころをなくした人が、それを取り戻すために歴史を捻じ曲げて自分を再立脚させる性質のものだと思いました。

小熊 英二
対話の回路―小熊英二対談集

姜尚中や上野千鶴子、村上龍、網野善彦など錚々たる各界のオピニオンリーダーと小熊が対話した対談集。小熊のいいところは、尊敬している相手にもがんがん突っ込みまくるところ。網野との回はとにかく自分の疑問点を追求しまくって圧巻です。しかし龍ちゃんは自分の小説を面白そうに語るのに天才的なところがあります。肝腎の本物の方は・・・・ということろもあるけれど(笑)。


小野 耕世
世界のアニメーション作家たち

ゼマンやルネ・ラルー、ポール・グリモー、レイ・ハリーハウゼン、ヤン・シュヴァンマイエルら、世界アニメーション史に残る天才たちへのインタヴュー集。これは貴重です。幻想のクリエイターたちの生の声を読むことが出来ます。世界にどんな素晴らしいアニメ作品があるのかを知るのにも役立つと思います。これで妄想を膨らませ、あとは作品を観るだけ!

四方田 犬彦, 斉藤 綾子
映画女優若尾文子

若尾が出演した数々の傑作について詳細に述べられているので面白くはあるんですが・・・・。四方田の、他女優との比較で若尾を賞賛するやり方は読んでいて疲れます。彼はこんな文章を書く人だったかな?

大森 望, 豊崎 由美
文学賞メッタ斬り!リターンズ

この2人、嫌いながらも今どんな作品が出ているのか知るために読みました。彼らの語り口を読むにつけ思うのが、日本語や文学に対するこだわりを言うわりに自分たちの口吻は口汚く品がないということ。もちろん作っている部分はあるのでしょうが、「読み易く」「親しみ易く」するためにそうしているのなら、自分たちこそが現在の日本語の格を下げているということに思い至って欲しい。あと、彼らが言う「いい」は彼らの好き嫌いにしか思えないのです。「そんなに読んでどうするの?」(豊崎著)と自賛するぐらいですから、鬼のように本を読んでいる経験から来たものではあるのでしょうが、彼らのやっているのは所詮宣伝であって「書評」ではない。とりあえず、豊崎は舞城王太郎や町田康のような男の一人くだまき系文体に弱いらしい。やたら持ち上げています。また、彼らは文学をネタに自分たちの表現をしたいだけではないのかなあと感じる部分も多々あり。しかし言いたい放題の島田雅彦の態度はある意味爽快です(笑)。

三浦 しをん
むかしのはなし

とさんざん大森&豊崎本の文句を言っておきながら、彼らの口車に乗せられて高い評価のものを一応読んでみる自分が情けない(笑)。淡々と色々な話が並んでいるんですが、その中で描かれていることと外枠の「隕石が衝突し滅亡する地球」という現実の交差具合があまりに唐突。日本伝統の昔話の現代版が成立するにはどういうシチュエーションを作れば良いか、という三浦の意図は面白いのですが、もう少し何か密度の濃さが欲しかったような・・・・。関連性があまりに薄いんですよ。でも読みやすくはありましたし、さまざまなヴァリエイションの話が並んでいて、そういう意味ではなかなかの書き手だと思いました。


阿部 和重
シンセミア(上)
阿部 和重
シンセミア(下)

これもねえ・・・・。文章力あると思いますし、実際読み始めたら止められないんで凄いとは思うんですが、退廃を描くってやたらセックスや暴力に耽溺する人間たちを描くってことなんですかね?はっきり言って「好きだね~あんたたち。なんでそんなになの?」と突っ込みたくなる部分が山盛りです。グイグイ読ませる筆力には脱帽も、パターンが見え透いているのが気になります。あと、強調しすぎの方言も鬱陶しいし、「てゆうか」という記述が連発されてむかつく。「ていうか」でしょ?読み直してみると会話でしか使っていないのでそこら辺使い分けているのかもしれませんが、それならば「そういう」も「そうゆう」のはず。この程度のこだわりしかない作品に上記「メッタ斬り」本のお2人はほぼ90点の高い得点をあげているわけだ。これが世界級の傑作とはとても思えません。日本語に対する緻密な考察が感じられません。しかし、そういう弱点をさしおいても、読み出すと止められないのは必至。逆に言うとパターンがある程度見え透いている話でそれが出来るのは凄いことと言えますよね。


とりあえず思い出すものはこんな感じで。

ひぐち アサ
ヤサシイワタシ 1 (1)
ひぐち アサ
ヤサシイワタシ 2 (2)

『おおきく振りかぶって』を読んで、ひぐちの作品にはまってしまいました(笑)。この『ヤサシイワタシ』は一部では既に名作と絶賛されている、非常に痛い作品です。テニスの優秀な選手だったものの故障のせいで挫折、今は大学で写真部に所属している芹生。そんな彼が出会ったのが、自分勝手極まりない1年先輩の女性、弥恵でした。彼女はエゴが強いと言うよりは現実が見えていない、自分を認めてくれる人間以外には非常に強く当たる、そういう性格です。芹生も彼女の過去の男たちのように、その理解不可能な言動に振り回されつつも、自分の挫折感と共感するものを感じていました。弥恵はプロの写真家を目指してはいますが、写真そのもののこだわりは非常にレヴェルが低いもので、誰からも才能があるなどと思われておらず、実際ないのでした。しかし、行動力だけは一応ありました。結局彼女と芹生は、別れてしまいます。そして・・・・・結構驚きの展開が来ます。この後は内緒、です。弥恵の行動は、自分の才能を無条件に信じているくせして、それでいてリアルに現実を見ていなかった自分の姿とダブり、非常に痛かったです。また、彼女の「嫌なやつ」加減は相当なものなんですが、それでも読ませてしまう力がこの作品にはあります。どうしようもない人間・・・・そんな人間でも、存在していいのか。誰からも疎まれる状態は理不尽ではないのか。また、想いをかけた人を「理解する」とはどういうことなのか。色々問いかけて来る重い作品です。でも、2巻の後半は台詞が抽象的過ぎてちょっと解りにくいかも。と言うか私もつかみきれてません。芹生の従妹の澄緒が、自分の家族についてあることを悟るシーンは結構泣けます。


ひぐち アサ
家族のそれから

でも、個人的にはこちらの方が泣きました。歳上の2人の子持ちの同僚女性教師と結婚した26歳男性教師と、その子どもたちとの物語。女性教師は再婚後1ヶ月で病没してしまいます。夫である男性教師、ケンジと2人の子ども、トオルとメグは、まだ他人行儀。戸籍上家族になったからと言って、家族になれないのは当たり前の状態です。ケンジはまだ若く収入も少ない。トオルとメグは元々が母子家庭で、しかも今度はその大黒柱を失い、経済的な現実を前に途方に暮れています。しかし、とにもかくにも生きていかなくてはいけません。ケンジは2人にアルバイトをする必要もないし、進学もしたければすればいいと言うのですが、「他人」である彼のお世話になることが、さまざまな意味でためらわれるのでした。母の生命保険の話や、泣いてばかりいるケンジの姿、家計の柱で、かつ家事の担い手の一員であった母が欠けた後の労の多い生活感などなどが、リアルに、かつ涙と共に迫ってきます。個人的に一番泣いたのが、ケンジが「さっさと子供を作ろうと思っていた」とトオルに打ち明ける場面。彼も「他者」である2人の子どもとうまくやっていくために、新しい子どもを利用しようとしていたわけですが、それは叶いませんでした。2人との生活まで失ってしまえば、もう彼には何も残らない。しかし、彼は家族としてではなく、妻に一番近しい者としての2人を愛していこうと決めたのです。いずれは、あきらめることを見越して。私の父は、私を本当に愛するため、自分の血がつながった子供を作ることを止めました。「血縁感」というものは恐ろしいもので、本人に覚悟が出来ていてもいざ自分の血がつながった子どもを目の前にすると、そちらだけに想いが行ってしまうことが多々あります。父は、その可能性を絶ったのです。私はその深い思いを知ってショックを受けた思い出があります。ケンジとトオルのそのシーンは、私にそのことを思い出させました。私の根っこの部分を抉りました。

萩原 久美子
迷走する両立支援―いま、子どもをもって働くということ

この本もなかなか痛い本です。今の日本で、子を持つ働く母たちの暮らしはちっとも良くなっていないという現実、男女雇用機会均等法、共同参画基本法の張りぼてのような闇を鋭く抉っています。この本の素晴らしいところは、山田昌弘の著書に時々感じられる「視点の取りこぼし」が非常に少ないところです。日本のワーキングマザーたちの苦境をインタヴュヴィーの体験別に並べた後、一気に両立支援の先進国と言われるアメリカのさまざまな優れた事例を持ち出します。私が、「しかしこれは優れた人材にだけ与えられるもので、能力によって物凄く格差があるのではないのか?」と疑問を感じ始めたところで、今度はそのアメリカの「利益最優先主義」が生む闇の部分をちゃんと指摘してきます。アメリカの問題は、国民保険などが制度化されていないので両立支援は完全に雇用主である企業の裁量に任されるということです。つまり、会社に「非常に」役に立つと認められた人間以外には、適用されなかったりするのです。ひどい話、「あなたは明日解雇。託児所も明日から利用不可」という例はゴマンとあるようです。優れた人材は優れたオプションを与えられますが、人並みの能力の人材は人並みの暮らしが出来ないのです。人間にはどうしても能力差が生まれます。優れた人間にそれ相応のオプションや評価を与えるのは当たり前ですが、同じように人並みに働いている人が人並みの生活を送れるのも当たり前のはずなのです。しかし、そういう問題があるにせよアメリカが優れているのは、国や評価のための機関が非常に厳しくリミットをかけたりシビアにチェックしているということ。それに、労働力が日々の生活を楽しく健康に送ることが出来なければ、生産力は低下するという、人材への投資の考え方が非常にレヴェルが高い。翻って日本はどうでしょうか?以前「アルバイト雇用という名の搾取 」という記事にも書かせていただきましたが、人材をうまく駆使して「本当の」利益を上げるということに対してあまりにも無策すぎる企業の実態。そして、優秀な女性が必ず突き当たる「ガラスの天井」と呼ばれる、何の根拠もない男女能力差幻想。そして、最も性質が悪いのは、子育てや家事、出産などの肉体的・時間的性差を全く度外視した評価基準で女性に選択を迫ってきたこと。「子育てを選んだのは他ならぬあなた自身でしょう?」とでも言わんばかりに。私は子どもが要らない人間です。ですので、心情的には子を持ちたい・持っている人の理解者ではありません。しかし常に思ってきました。「凄くなければ子育てと仕事を両立出来ないのか?」と。世の中、そんな超人的なバイタリティや体力を持つ人ばかりではない。それでも、両立出来る世の中でなければいけないのです。そういう超人的な成功例を働く女性「全体」の鑑、とはやし立ててきたメディアやマスコミも罪は大きいですよ。余計にワーキングマザーを追い込んでしまった。また本著では、少子化対策の目的の不明瞭さについてもしっかりカヴァーしてます。人が子供を作らなくなると、一般の人ですら「少子化が進んでいるもんね~」などと言うのですが、もう少子化は止められない上に、それの何がダメなのか、はっきり理解しないままイメージだけで思い込まされていませんかね。その「イメージの植え付け」もマスコミや政治、そして社会システムによるものが大きいのではないかとリテラシーの精神を忘れずにいないと、とんでもないことになるような気がするのです。日本社会のどうしようもなさを改めて突きつけられて、心が痛くなる本ですね。

井筒 和幸
サルに教える映画の話

「自腹」企画で有名になった(失礼)井筒監督が、自分のお気に入り映画について架空のキャラ「サル」に教えるという擬似対談形式の本です。彼はやっぱりけなすより映画愛を語る方が向いているんじゃないですかね。ちょっと低所得層が描かれているもの・アンハッピーエンディングなものだけを「リアル」と捉える傾向がありますが、読んでいると未見の映画でも物凄く観たくなって来るんですよ。技術的な部分での解り易い解説も面白いですよ。

関川 夏央
汽車旅放浪記

ちょっと引用文と地の文の区別がつきにくいところもあるんですが、ほのかな旅情を誘われて良かったです。さまざまな文学作品に登場する駅や鉄道の姿と現在の姿をオーヴァーラップさせながら、関川の幼少期の思い出も語られています。宮脇俊三について非常に多くの部分が割かれているのも面白いですね。旅のお供にも良いかも。ところで、鉄道マニア=鉄ちゃんには「乗り鉄」「撮り鉄」の2種類があるそうなんですが、私は結構「読み鉄」かも知れません(笑)。

ずーっとサボってましたね、このカテゴリ。

忘備録形式にした意味がないですね。

さて、前回から今日までに読んだ本、思い出せるだけ挙げてみましょう。

今回はそれぞれの本に対するコメントはなしでご勘弁下さい。

吉村 和真, 福間 良明
「はだしのゲン」がいた風景―マンガ・戦争・記憶
ヨコタ・村上 孝之
マンガは欲望する
酒井 順子
私は美人
田草川 弘
黒澤明vs.ハリウッド―『トラ・トラ・トラ!』その謎のすべて
上野 千鶴子, 宮台 真司, 斎藤 環, 小谷 真理
バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?
坂木 司
動物園の鳥
有栖川 有栖
乱鴉の島
丸山 健二
まだ見ぬ書き手へ
江藤 淳
成熟と喪失―“母”の崩壊
姜 尚中
在日
森 達也, 姜 尚中
戦争の世紀を超えて―その場所で語られるべき戦争の記憶がある
ひぐち アサ
おおきく振りかぶって (1)
ひぐち アサ
おおきく振りかぶって (2)
ひぐち アサ
おおきく振りかぶって (3)
ひぐち アサ
おおきく振りかぶって (Vol.4)
ひぐち アサ
おおきく振りかぶって (Vol.5)
ひぐち アサ
おおきく振りかぶって (Vol.6)

若杉 公徳
デトロイト・メタル・シティ 1 (1)
ブリジット オベール, Brigitte Aubert, 香川 由利子
神のはらわた
笠井 潔
探偵小説と記号的人物(ヨミ キャラ/キャラクター)
マレク ハルトフ, Marek Haltof, 西野 常夫, 渡辺 克義
ポーランド映画史
北川 誠一, 前田 弘毅, 廣瀬 陽子, 吉村 貴之
コーカサスを知るための60章
花村 圭
コンビニ店長がバラしたここだけの話

う~む、もっと読んだはずですが・・・・・思い出せない!

↓は読んでいる途中のものです


迷走する両立支援-いま、子どもをもって働くということ/萩原久美子

フェミニズムの名著/江原由美子・金井淑子 編

汽車旅放浪記/関川夏央

家族というリスク/山田昌弘

男流文学論/上野千鶴子・小倉千加子・富岡多恵子(再読)