2014年、〆のご挨拶

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読者のみなさま、ネット上でお友達でいてくださっているみなさま、そしてリアルでお知り合いのみなさま、今年も本当にお世話になりました。
まずはじめに、そのお礼を申し上げたいと思います。

今年はとうとう私の監修・共著による音楽本『中央ヨーロッパ現在進行形ミュージックシーン・ディスクガイド』を出版することができました。
中欧という地域の音楽をメインに取り扱っていること、また、本書で試みているさまざまな工夫は、どれも音楽本として少し違う角度からの魅力を私なりに追求した結果です。
ファン層が出来上がっているジャンルではないので、感想や反響、または批判などが出て来るのはこれからでしょうが、それを楽しみに待っています。
そういう本が作れたことをまずは誇りに感じております。

仕事面では、音楽ライターとしての仕事が増えて来ていることが何よりも嬉しい一年でした。
ネタをポーランドに限らずでお仕事がいただけているので、ライターとしての信頼度がアップしたのだと捉えることにしています。

対照的に、体調面ではかなり苦しんだ一年でした。
激しい中耳炎、猛烈なかゆみを伴うじんましん、後鼻漏と咳による睡眠不足、持病のてんかんによるものか定かではありませんが、時々陥る、猛烈な疲労感など、多くの症状に苦しめられました。
それでも何とか仕事をこなしていたのですから、体調を改善すればもっとバリバリ出来るかな、とポジティヴに考えています。

さて、目標です。
来年は3冊くらい本を出したいです(笑)。
そのうち1冊はこれまた誰も出していない・考えつかなかった企画で、しかもものすごく面白いものになりそうです。
が、『中央ヨーロッパ~』がそれなりに売れないと、どの本の企画も通らないで終わっちゃいますね~。
この3つのうちのひとつは、今ライターと並行して働いている「図書館」についての本です。
自分の職場の図書館が、さまざまな要因が働いた結果とても残念な図書館になってしまっているので、その事実を踏まえた上で、これからどうすれば日本の図書館がもっと面白く楽しい場所になっていくのかというのを超現場的な実践面と創作エピソードをまじえた内容で書きたいです。
が、課題としては「自分のいる図書館」から良い意味で距離をとることをおぼえないといけないですかね。
下手すると職場攻撃や愚痴になるので、その辺は感情的に折り合いをつけつつ企画を進めて行きたいです。
また、プロトタイプを時々noteで発表する予定です。

最後に、お知らせです。
お気付きのことと思いますが、もうブログを全然更新していません。
今は周辺にいろいろ投稿しやすい媒体もでてきて、このアメブロが必ずしもアップしやすい場所ではなくなりました。
というわけで、今年をもって本ブログの更新はストップしたいと思います。
長い間ありがとうございました。
とは言え、ネット検索の際に当ブログの記事にたどりつくという方は今もたくさんいらっしゃるようなので、データアーカイヴとして残すために閉鎖はしません。
これからも調べものの参考資料としてご活用ください。

基本的に、現在ネットでの投稿はツイッター、フェイスブック、時たまnoteという3つで行っております。
ツイッターのアカウントはpoljazzwriter、フェイスブックはオラシオで検索すると出て来ます。
noteは→ https://note.mu/horacio です。
引き続き私の投稿にご興味のある方は、ぜひチェック等々よろしくお願い申し上げます。

それでは、このブログ上でご挨拶するのはこれで最後になりますが、本当にありがとうございました。
これからもみなさまを楽しませるライターのオラシオでありたいと思っています。
今後はもっと面白いあれこれを起こしますので、ご期待下さい!

オラシオ
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6月1日(日)at 青森SUBLIME !!

ユミ・ハラ・コークウェル、クリス・カトラー&デーヴィッド・アレンによるオルタナティヴ&プログレッシヴなトリオyou,me & usの青森公演!
70年代以降、裏でヨーロッパシーンを席巻してきたカンタベリー/アヴァンギャルド/ジャズロック人脈の中心人物「伝説製造機」クリス・カトラーが生で聴ける東北で唯のライヴです。
open19:00/start19:30
チケット前売り3500円/当日4000円(ドリンク代別500円)

e+でも前売り販売中です!...
http://eplus.jp/sys/T1U90P006001P0050001P002124613P0030001P0007
※会場は、2階ライヴスペースは全面禁煙、1階バースペースは喫煙可の分煙とさせていただきます。ご協力よろしくお願い致します。
青森SUBLIMEについては→こちらのページからチェック♪

前売り券ご希望の方は、SUBLIMEにお電話していただくか、オラシオにDMください。
オラシオのメルアドは aladyhasnoname□yahoo.co.jp (□を@に変更)です。
twitterやFBでのメッセージでも結構です。

*しかし残念ながら、今回のツアーではアレン氏が急病で来日出来なくなってしまいました。というわけで本ツアーは急遽、彼の早期復活を祈る「Get Well Soon,Daevid 早く治ってね、デーヴィッド」というコンセプトを掲げた変則編成によるyou,me & usをお届けします!

来場されたお客様には、デーヴィッド自身によるイラストとメッセージが描かれたお土産用ヴァウチャーカードを差し上げます!
また、彼に直接手渡されるノートを会場に置きますので、ぜひお見舞いメッセージを書いてください!

青森だけの特別企画として、トークショウ「クリス・カトラー、ドラムを語る」が行われます。彼を知り尽くしているユミ・ハラ自身が通訳を務めるので、みなさんにわかりやすいトークになるでしょう。
引き続き特別企画を検討中ですので、当日のサプライズをお楽しみに。

<プロフィール>written by オラシオ
ユミ・ハラ・コークウェル
キーボード、ヴォーカル。ワールドワイドな活動で知られる、日本が世界に誇るアーティストの一人。吉田達也、ナスノミツル、鬼怒無月などなど日本のトップクラスのインプロヴァイザーとの多彩な共演、ソフト・マシーンのベーシスト、ヒュー・ホッパーとのユニットHUMI、元ヘンリー・カウのジョン・グリーヴズやカトラーとのアルトー・ビーツなどなどインターナショナルなメンバーによる個性豊かなユニットでの活動を同時進行させるヴァイタリティあふれる音楽家。さらには即興ワークショップの主催者、イースト・ロンドン大学音楽学講師や研究者などマルチな顔も持っている真の才女。

クリス・カトラー
ドラム。1947年イギリス生まれ。イギリスだけでなく、ヨーロッパのアヴァンギャルドロックシーンの頂点に立つユニット、ヘンリー・カウや伝説のグループ、アート・ベアーズなど、数々の前衛ロックグループでドラムを担当してきたさすらいの凄腕打楽器奏者。詩人としても知られ、知的な風貌から「ドラムの哲人」とも呼ばれる。フレッド・フリス、ジーナ・パーキンズ、ダグマー・クラウゼら前衛シーンの天才たちとの数々のレコーディング、ドイツの鬼才デュオ、ゲッベルス=ハルトと結成したカシーバーなど、参加する全てのプロジェクトが語り草となっている「伝説製造機」。日本の映画監督、青山真治によるドキュメンタリーフィルムも撮影されているほどの世界的なカリスマ。

デヴィッド・アレン(急病により不参加)
ギター、ヴォーカル。1938年オーストラリア、メルボルン生まれ。66年にイギリスで、後に多大なリスペクトを集めることになる放浪のカリスマ、ケヴィン・エアーズらとともに、ヨーロッパのアートロックシーンの源流となるカンタベリーの草分け的グループ、ソフト・マシーンを結成。70年代前半はフランスに渡り、マグマと並び同国の全ジャンル人脈を総動員した一大ムーヴメントを巻き起こす伝説のバンド、ゴングを結成。さらに80年にはアメリカ東海岸アヴァンギャルドシーンの礎を築いたニューヨーク・ゴングを創設。つまりはこのアレン、マイルス・デイヴィスやビートルズ、フランク・ザッパらと並ぶ、60年代以降の音楽シーンの中でも最重要人物の一人なのです。まさに生きる伝説。

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みなさま、今年もお世話になりました。

何だか色々激動の年でございました。

3月末日で働いている図書館の委託の現場主任を降り、ヒラになった上、週4日勤務に変えました。
ライター業を増やしたかったからです。

その甲斐もあり、今年は会員制の季刊俳誌『白茅』に連載のお仕事をいただき、また世界的なギタリスト内橋和久さんからは彼のプロデュースするポラ日インプロプロジェクト「今ポーランドがおもしろい#2」のポスターのテクストと情宣を依頼されました。

昨年に引き続きポーランド映画祭でもパンフレットへコラムの執筆をさせていただきました。
同祭のホームページの予告編や会場で流れる音楽の音源提供とか、ディスクユニオンさんと協力して行った関連フェアの付録小冊子の執筆もしました。

私がプロデュースする「チェシチ!レコーズ」は今年も2枚リリースすることが出来ました。春にギタリストのラファウ・サルネツキ『ソングズ・フロム・ア・ニュー・プレイス』、先月末にはピアノトリオRGGの『シマノフスキ』。
これからも良質な作品をリリースして行く所存ですので引き続きよろしくお願いします。

個人的な「激変」は何と言っても先月に負った足首の大ケガ。
くるぶしの下の腱の断裂でした。
そういう大ケガは初めてだったので最初は非常に落ち込みましたが、何とか完治まであと10日あまりまで来ました。

さて、来年の目標です。

とりあえずポーランド関連の本を出すつもりで、現在具体的に動いている最中です。
あと、いずれフィクションを書きたいと子どもの頃から思っていたので、そちらの方向でも頑張りたいですね。

というわけで残り3分あまりですが、今年もお世話になりました!
また来年もよろしくお願い申し上げます。

オラシオ
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書評もどき記事「出発点としての『ジャズの明日へ』、そして中間地点としての・・・」を書いたところ、ツイッターでいくつかご意見をいただきました。
ツイッターでいただいたご意見ですからツイッターでお返ししようと最初は考えましたが、あまりにも長くなるため、僭越ではございますがブログに新しく記事として書くことでお返事に代えさせていただきたく思います。

まず前説として、私がよく使う「言質」という言葉について。
「そこでは普通、<言説>を使うのではないでしょうか?」というご指摘が何度かございました。えっと、ご指摘自体は全くその通りでして、「言質」の連発に著者の村井康司さん(ツイッターでお知らせして読んでいただいたのです)も苦笑されていたことでしょう。
私はこの言葉を「残されたもの」として使っています。また、単に言葉の響きが「げんせつ」より好きなんです。そんな理由なので、厳格に見るとやはり誤用なのでしょうね。これからは改めて行きたいと思います。ただし、これまで「言質」を使っていた中でもより精緻に「言質」と「言説」を使い分けるべきところも多々あるように思いましたので、そちらの方向に努力したいと思います。

さて、みなさんのご意見にお答えするのにどこから手をつければ良いか、迷っています。また、みなさんに色々ご意見やご指摘をいただくことで、「書評を書いた時の思考」からすでに前進・変化してしまってもいます。そこをご了承いただいた上で、可能な限り元テクストが意味するものから離れず、なぜ「ポーランドジャズライターとしての視点」という断りを入れたか、というところから始めます。
ツイッターでの議論は最後、「総量としてのアメリカ音楽の圧倒的優位」というトピックが加わり、歴史の云々だけではなくて「横幅」の視点が生まれ、内容が豊かになりました。たぶんポーランドや中欧、ヨーロッパのジャズや音楽は、みなさんの言うように総量的にアメリカのそれのように「汎世界音楽」たり得ることはないと私も思います。しかしアメリカは歴史の極めて短い国家ながら、それを成し遂げたわけです。その意味で、ご指摘の「資本主義的自信」ってすごく的を得た表現です。
が、そうしたアメリカのジャズから音楽視聴を始め、最初はそれが好きでたまらなかったはずの自分が、いつしかそれが心に響かなくなったのはなぜなのか。逆に言うと自分が採り上げたいものが、なぜ「本場」と言われ「結局はアメリカのジャズを超えるジャズはない」と言われるそれではなくポーランドジャズなのか。
後者はよく訊かれる質問でもありますし、また、ポーランドジャズをどんどんマジョリティの座に押し上げて行こうとする自分にとっては、常に自分に、そして世の中に問い続けていかなければならないものなのです。
アメリカのジャズ(および音楽)は、その圧倒的な汎世界音楽性を前に、歴史の長い短いなどすでに問題ではなく、そこまでの完成度があるならそれ自体が一種の「伝統」たり得ているのでは、とも思います。それもまたご指摘の通りでしょう。他国に比べ極めて短いスパンの中でそれを成し遂げたところに、アメリカ音楽の「アメリカらしさ」があるのかも知れません。
自分がある時アメリカのジャズがあまりよくわからなくなってしまい、ポーランドにはまり始めた理由には「そのアメリカらしさ」があるのかも。
もともと、ジャズを離れてポーランドジャズに行く前にワンクッションあって、その時はまっていたのは「ブルーグラス」なんですね。まああまりここを深く掘り下げると「あなたの主張はアメリカには伝統がないという話ではなかったか」というツッコミも来そうなので(笑)、ちらっと言及するに留めますが、自分の興味が「伝統」の方向に舵を切り始めていた表れだったのかな、と今では思うんです。
そういう「自分の心が離れてしまったことへの疑問」があるので、例えば伝統音楽をうまく取り入れているトップミュージシャンもいるのでは、というご指摘は、確かにその通りだし凄い人たちだとは思うんだけれども、だからと言って私の中の「アメリカらしさへの疑念」が覆るわけではないのです。議題は成功例がある・ないの部分にあるのではなく、もう少し大きな枠組みで、かつもっと私的で卑近な疑問から出ているものだと言えます。

さて、近年日本で好意的に受容されているのが、アルゼンチンやブラジルの音楽、あるいはヨーロッパの音楽だと書評中で書きました。ここでも念のためお断りしておきますが、そのことが即「アメリカ音楽の占める位置」にとってかわるものではない、という認識が前提になっています。ただ、至極シンプルに言うとそれらの音楽がこれまで以上に「盛り上がっている」のは確かでしょう。私は、その盛り上がりの根拠を「伝統音楽」に求めました。
今、私は青森市に住んでいます。青森市はご存知のように有名な夏の祭典「ねぶた」があります。まさに明日から6日間開催され、市内は「ねぶた一色」になります。ねぶた囃子の太鼓や笛の音がそこいら中から聞こえて来ます。正直、お祭りが嫌いな私にとっては辛いものがあるのですが(苦笑)、それでも、ここに住んでわかったことは、伝統音楽というものの強固な生命力は物凄いものがあるということです。何百年も、数えきれないほどの多くの人を介してつながり受け継がれて来たその音楽性には、「音楽の伝播」というトピックにおいて参考とすべき何かがあるように思います。
言い換えれば、シンプルなメロディとダンサブルなリズムというほんの少しのツールだけで過去と現在という遠く隔てられた人々をつなげるそれには、同時代の人ならなおさら強い磁力でくっつけてしまうパワーがあるように考えています。

「アメリカはジャズの王国たり得るのか?」という問いかけを書きました。あのくだりの裏には、当然自分自身の「今の自分にとってジャズ王国ではない」という気持ちがあると思います。それについては否定しません。しかしそんなランク付よりももっと気になっているのは、最近のアメリカのジャズにあまり伝統音楽の薫りがしないことです。これは、ジャズの先端を走るこの国が時代の流れの先陣を切っていて、いずれヨーロッパや南米の諸国が同じ道筋を辿るのか、あるいはこの国独自の現象なのかどちらかでしょう。たぶん、私の読みでは後者です。
その原因として挙げられることは2つ。一つはアメリカという国家自体が短い歴史の中で非常にミクスチュアなマッチポンプ的な擬似伝統を創り上げてきたこと。もう一つは、この国の音楽の汎世界音楽性、圧倒的なポピュラリティは他民族的な伝統をミックスし、取り込みながらも、その痕跡をいかに消し去るかということで生まれてきたものなのではないかということです。2つ目の方は、逆に言うと、汎世界的であるためには伝統的な要素はむしろ邪魔になるということなのかも知れません。
伝統音楽とは「その土地固有の歴史を証明するもの」でもあります。それは外部と内部を分けるラインともなり得ます。伝統音楽の色をあまり加えてしまうと「汎世界音楽」たるアメリカ音楽のポピュラリティ、つまり天文学的な数のリスナーが抵抗なく聴ける音楽性をスポイルしてしまうのかも、とも思えます。たくさんの人種を受け容れてきた「オープンな国家」アメリカにとって、確かに「強固な伝統」は似つかわしくないものかも。

そしてもう一つ。「アメリカ音楽にとって何が伝統なのか?」という問題系です。アメリカのミュージシャンたちが「自国の伝統音楽」と言う際に何を指しているのか。ちょっと印象論で申し訳ないのですが、例えば「伝統音楽としてのジャズ」とか言う場合に、結局視野に入れられているのはジャズの黎明期と言われている百数十年前のもの、あるいはその近辺の近代的なクラシック音楽までのスパンのような気がするのです。その辺も間違っていたら申し訳ありません。
でもブラジルやアルゼンチン、ポーランドなどのジャズやモダンミュージックが参照している「伝統」のスパンは確実にもっとでかい。そのこと自体について「いい・悪い」を言うつもりはありません。ただし、そういう音楽が「盛り上がって来ている」という事実も一方であります。
なので、私はポーランドジャズという「マイナーで、かつ伝統音楽を大事なベースとして持ち続けている」音楽の普及活動を行っているスタンスから、村井さんが対照的に捉えているウィントンとジョン・ゾーンの存在を足がかりに自分の主張の足元がためをしたのです。アメリカが短い歴史の中で、幾度となく生み出し洗練させて来たキメラのような「擬似伝統」の圧倒的なポピュラリティを前提にした上で、それでもなおそれを越えて人の心をとらえる音楽を生み出しうるとしたら、それには伝統音楽が鍵になるのではないのか、という解釈ですね。
また「アメリカ音楽」自体が「伝統が浅いから間違っている」と書いているわけでなく、その音楽の作り手がもし伝統音楽へのコネクトを目論んでいるのであれば、「何を参照元とするのか」で成否が分かれるのではないかというのが私の論です。
そして、もしアメリカ音楽の伝統性を突き詰めたいと思うミュージシャンが現れたとしたら、その人は「アメリカの歴史の短さ」という困難にぶち当たるのではないかと。

文中で「(アメリカ現代ジャズに対して)受け手が解釈の手立てを失っているのではないか」と書きました。村井さんの本のテーマの大事なトピックの一つに「音楽そのものと言説との関係」が挙げられると思います。アメリカ音楽はこれまで再三書いてきたように、短い歴史の内で複雑化と洗練を繰り返して今のポピュラリティに到った、ある意味「異常な音楽」です。
なので、その「異常な複雑化と進化のスピード」に言説が果たして追いついているのかという問題もまた、立ち上がって来ると思っています。そして、前に進むということが必ずしもプラスになるとも言えないということもあるのではないでしょうか。巷で言われているように本当にアメリカのジャズが隘路に陥っているにせよ、受け手が捉え損ねているにせよ、だんだん最先端の音楽と言説との距離が広がって来ていはしないかという懸念が私の中にあるのです。
そしてそれは、村井さんの主張にとっても、私のスタンスにとっても喜ばしいことではない。私はその「距離」の遠因の一つにも「伝統音楽」を挙げました。近年のジャズには、「人々をつなぐ」伝統音楽の要素が、表面的にであれ本質的にであれ希薄になって来ているように私には感じられるのです。
もちろん、これは一つの「結果」であり、距離が空くということについては音楽と言説双方に原因があると私は考えます。だから「手立てを失っているのかも知れない」なのです。

多分、私は「伝統音楽をベースにし、そのことを明確にしながら、いかにそれを取り込むかに細心の注意を払っている音楽」が好きなんでしょう。そして、自分自身への解答として「自分がアメリカのジャズから離れてしまったのはそこなんだろうか」ということを出したわけですね。それほどに、両者の「伝統音楽」へのスタンスが違うように思えるからです。アメリカの音楽が「伝統音楽」の要素を取り入れているか入れてないかはさておき、その薫りを出さないことに腐心しているように私には思えますし、そのことがポピュラリティや、もっと大きなスパンの話をすればこの国が多民族国家でありつつ「英語を公用語として選択した」ことにも関連しているようにも思えます。
なぜかアメリカではなくポーランドの音楽を愛するようになってしまった今の自分にとって、一番しっくり来る明確な違いというのがそれなのですね。

そうした私の考えを固めて行った経緯としてもう一つ挙げられます。ポーランドジャズについての本を書くために、フェイスブック上でたくさんのポーランドジャズミュージシャンにインタヴューしているのですが、本当に驚くほど全員が全員「ポーランドの歴史は自分たちの音楽に深い影響を及ぼしている。歴史へのまなざしなしに自分たちの音楽はありえない」と答えるのです。
あと、これに対しては否定的な人もいるのですが、伝統音楽と今のジャズをつなぐ上での「ショパン」の存在というのが物凄くでかい。彼の音楽が巷の印象のような「ロマンティックなもの」ではなく「伝統音楽と最先端のミクスチュアミュージック」であると認識してから、ポーランドの現代ジャズについて凄く理解が深まったということもあります。そして、そんなショパンの音楽はクラシックの基礎教養であると同時に「民衆の音楽」という一面もあるのですね。
なので、ただ私が知らないだけならそれはそれなんですが、アメリカのジャズにとっての「そういうもの」って何なのかなあ?と。それがないといけない、とは言ってはいないですが、それがあるものに興味があるので、それが見当たらない音楽について「ちゃんとあるのかな?見えないのはなぜかな?」と考えてしまうのもまた自然な反応だと自己弁護させてください。

村井さんの本は、色んなスパンでの「反復と差異」に言及している、というのが私の解釈でした。でも、それはユダヤ音楽をルーツとして見出したジョン・ゾーンの存在で少しはみ出ますが、基本的にアメリカ音楽の範疇における言及です。執筆当時と今の環境は当然違います。アルゼンチンやブラジル、果てはヨーロッパのジャズや音楽の受容具合も違っていました。アメリカが間違いなくジャズの王国だった頃から勢力分布図が変わっています。だからこそ、村井さんのメッセージの力を借りて、ジャズと伝統音楽の関係に触れてみたのです。
叩き台にしているのが村井さんの本で、しかも凄くわかりやすい対比としてウィントンとゾーンが位置していたので、そこにしぼってしまいました。そしてその上で「アメリカはジャズの王国たり得るのか?」と無謀な反旗を翻しているわけです。

ただ、私がポーランドジャズをむちゃくちゃに聴きまくって今の結論に到ったその時間と同じくらいを、アメリカ音楽が好きな人はアメリカ音楽に捧げて来たわけで、そしてそれはこれまで繰り返し言及しているように圧倒的な総量の差によりその人口比も凄くでかいと思うんですよね。
なのでサンプルの少なさという意味ではちょっとお互い様なところもあると思うんです。
文中で書いた「主流とされていた言説は、たまたまそれが多くの機会で言及・引用されていたに過ぎない」というのと同じで、私のようなバカが先陣を切ってその差を埋めて行くことでお互いに見えてくる部分もあると思います。
その第一歩と捉えていただければ。

国で音楽性を分けるのは、ある意味ジャンル分けと同じでクダラナイ行為なのかも知れません。とは言え、たくさんの時間を捧げて聴いて来たお互いのリスナーにとっては心を動かされる明確な違いがあるわけですよね。その人がアメリカの音楽に特に心動かされるのならば、そこにはどんなに下らなくても「アメリカらしさ」があるのでしょうし、また、その逆もあるのでしょう。
それを圧倒的多数の一方が「歴史の短さなんて問題じゃない圧倒的なポピュラリティ」と言い、もう一方が「伝統と地続きになっているところがたまらない!」と言い。
ご指摘にもあったように、それを同じ俎上に上げるのも困難があるのでしょうが、それでもなお上げないと誰よりも「(ポーランドジャズライターとしての)私にとっての」解答は出ないのです。

さて、全然関係ないのですが、最後に。
私は中学生になるまで音楽が好きではありませんでした。最初に音楽にはまったのはドルフィーの『ファイヴ・スポット』です。その後コルトレーンやブルーノート、マイルスなんかからリスナー歴が始まっています。意外にバリバリアメリカジャズリスナーでしょう(笑)?
でも、その前段階で、音楽好きじゃなかったのによく聴いていたのが日本の民謡だったんですね。その意味では、伝統音楽の要素が濃厚な(でも洗練された形で取り込む)ポラジャズにはまったのは必然なのかも知れませんし、また、ここで長々と書いて来た「解答」に今の私がある意味「囚われている」遠因なのかも知れません。
そして、そういう「経緯」は、アメリカのジャズや音楽を心躍らせながら聴いて来た皆さんの中のそれと同じく「マイ・ルーツ」なのだと思います。なかなか解き放たれるのは難しい。そしてそれゆえに、アメリカ音楽は「ルーツの痕跡を消す」のでしょう。
そのことは、音楽そのものと言説の間の距離が開きつつあるように思われる今だからこそ、問われ続けるように感じています。


ちゃんとした回答になっているところもなっていないところもあり、ご意見下さった方にとっては「自分の問いに答えられてない」と感じる方もいらっしゃるでしょう。
それについては申し訳ありません。
ただ、一応一連のご意見・ご指摘を拝読して自分なりに考えたことはほぼ全て書きました。
これが浅い認識であれそうでないのであれ、今のところ自分にとって主軸となる音楽の捉え方です。
今の音楽と伝統音楽との距離のとり方は、きっと国を超えて問われて行くトピックとなるように、自分には思えます。
前記事「打たれ強いはずの人たちの意外な打たれ弱さ」をアップしたところ、色々ご意見をいただきました。
えーと、前から前記事で参考データとして挙げたリンク先の言質に対し、ツイッターやフェイスブックで「わかるわかる!」と賛同の意を表する人があまりにも多かったことに物凄い違和感を感じておりまして、そのことについてまず問題提起をしたかったというのがありました。
で、書ける内に書いてしまえ!とババッとアップしたのですが、さすがに拙速であったかなと反省してはいます。
ただし、私はそういう「やっちゃったこと」を基本的にデリートしないことをモットーにしておりますので、もう少し整理して「言いたかったこと」を追記してここに記そうと思います。
また、ご意見をいただいたことで刺激を受け、あらたに考えたこともあります。
一応お断りしておきますが、こんな追記をするのって「自分のギャグのとこが面白いかを自分で解説する」ごとくとてつもなく恥ずかしい行為なのですが、それでも、あらぬ方向に「私の悪意が向けられているかのよう」に誤解されるのを避けるためにあえて書きます。

まず「自分の実入りにならなかったということをわざわざ教えてくれるな」と言っている、と書いたのですが、正確にはクリエイターの方たちは「金を出した・出さなかった」ということと「評価出来る・出来ない」ということを分けて考えているような感じを受けました。
前者のうち「出さなかった」場合は批評する資格はない、というのはよく言われますよね。
簡単に言うと「金を出して触れてから評価するのなら受け止める」ということでしょうか。
そうでもなければ、「どうしてわざわざイベント行けないとか図書館で借りたとか教えるの?」という言葉にならないと思うのです。

では、自分が「評価の段階にも至らない段階にいる=金を出してない」ということをケロッとクリエイター本人に言ってしまうことは「失礼」に当たるのか?という問題もありますよね。
だってその人たちって別に「批評行為の一環」としてそれを言っているわけではないですよね。
それだけに、全身全霊をかけてものを創っている人の、そうした言葉への無力感が強いということも考えられます。
親切なつもりなのかも知れないけれど、それは違うんだ、イライラするんだ!ということでしょうか。
ただ、個人的にはその人がどのような意図で発した言葉であれ、「お金を出した・出さなかった」や「行った・行かなかった」の表明はある種の批評行為に当たると思うのです。
それを、「命を削ってやっている人間に対して言うにはあまりに失礼な言葉に当たるので言ってはいけないのだ」と当の「命を削ってやっている人間」が言ってしまうことの是非はやっぱり問われなくてはいけないのではないでしょうか?
むちゃくちゃ簡単に要約すると「俺を批評するな」と言ってるに等しいような気がするのです。
ただしこれは裏を返せば、そんな意図はなくとも批評行為に当たってしまう、ということでもあるというのは発言者は心しないといけないのではないかとも私は思います。
そういうもろもろを含めて考えてみると、一体「失礼」ってどういう言葉について当てはまる概念なんだろう、と色々悩んでしまいますよね。

さて、それを踏まえた上でもう少し踏み込んでみましょうか。
最初に、閣下らの言葉に賛意を示した人があまりに多いことに違和感を感じると書きました。
みなさん、一体何について「私もそう思うよ!」と表明したのですかね?
「気持ちが解る!」ってことなんでしょうか?
そりゃ気持ちは解りますよね。
クリエイターだって同じ人間なんですし、弱いところも持っているし、当然ビジネスの部分も考えてやっているわけですし、「あっそっか。この人はお金を落としてくれなかったんだな」と判明するのはガクッと来る情報だろうってことくらい誰だって解りますよね。
それに、私もイベンターでもあるので、それを前提にして前記事を書いていると何度も記事中に書いています。
でも、そこについて「私もそう思う!」と言った方たちは、実は閣下たちがわざわざあのような意見を表明したことの中の半分以下くらいしか同意していないと思います。
そう思う!と言ったことで、「どうしたい」のか?、そこが問題なのです。

私は閣下らが「そういう気持ちを持っている」ということを批判しようとは全く思っていません。
だって、そう思っちゃうのは当たり前ですよ。
「打たれ弱さ」と書いたのはそういう意味ではありませんでした。
そのように捉えられかねない表現になっていて申し訳ありません。
私が違和感を感じたのはさらにその先、「そういう言葉は(われわれクリエイターやイベンターに対して物凄く失礼に当たるから)言ってはいけないのだ」と締めくくっていることなのです。
同じイベンターである私にとって、この言葉はイベンター活動においてデメリットな要素を生むものにしか感じられなかったのです。
「そうか、失礼に当たるのか。反省した」という大変いい性格の人もそりゃいるのでしょうけれど、私としては「えっ、そんなことも言っちゃいけないの?思ったより敏感なんだな。何について「失礼だ」と思われるのか判らなくなって来ちゃったな、めんどくさいな~」と感じる人の方が多いのではと思われたのです。
だから「お前の作品はクソなんだよ」も「図書館で借りましたが、面白かったです~!」も本人の意図を離れたところで結局は「批評行為」に収斂される言葉の集合体のある部分だけを「それは失礼なんだから言うな」と言ってしまうのは、それもまた「全ての批評に対して(自分は)失礼であると思う」と収斂した形で曲解される危険性が大変に高く、ある意味「打たれ弱さ」の表明になってしまう。
なので、「実はそういうの、傷つくんだよね~」とか「本当は買って欲しいのが本音なんだよね」という物言いと、「失礼に当たるので言わない方がいい」というのは同じようでいて180度違うスタンスだと考えました。
そして、後者はデメリットが高いのになぜそんなことをするのかな、という違和感を書いたわけです。
「打たれ強い」と思われている人たちがそういう部分で「打たれ弱さ」を見せるのが、本当に必要なことだったのか、あえて問うべきことだったのかというのが、前記事を書いた最大の目的でした。

結局のところ、世の中のアートには、創る人を中心にさまざまな「それを食い扶持にしている」人が何人もいるわけです。
そしてアートは「触れてもらうために創る」「創りたいから創る」「ビジネスとして創る」の3つの目的が複雑に絡まりあって生まれて来ます。
そして当然のことながら、クリエイターも同じ人間で超人じゃありません。
ただ、彼らの作品や活動について言及している限りそれは絶対に「人間性への批判」や「叩き」ではないとも思うんです。
批判されること、あるいはお金を落としてくれなかったことは当然ショックでしょう、気に障るでしょう、イラッとするでしょう。
それを無自覚に言って来る時はなおさらでしょう。
でも、それって「失礼」とか「侮辱」に当たるのでしょうか。
私にとってそういうのに当たるものはもっとその人自身へのいわれのない物言いなのですが。
なので、「それは失礼に当たるんだ」と返してしまったことに物凄く違和感を感じたのです。

とまあ、何とも恥ずかしい追記をしてみました。
確かもう半年から1年くらい前、ひょっとしたらもっと前かも知れませんが、SNS界隈で話題になったことの一つに「イヴェントにわざわざ不参加のお断りの返事をするな」とか「全身全霊をかけて書いた本の感想について”図書館で借りて読みました”という枕詞をつけるな」というものがありました。
すみません、その言葉通りの表現ではないので、意味を取り違えてしまうような書き方になっている、あるいはそもそも私がそれらで言われていたことを捉え間違えている際は申し訳ありませんとあらかじめ謝罪しておきます。

一応、中心になったソースはこの2つかな?
http://demon-kakka.laff.jp/blog/2010/01/jan03dc12-74b4.html
http://togetter.com/li/378219

要するに「自分(=クリエイター)にとって実入りになってないということをわざわざ教えてくれるな」という意見です。
これに関して色々なことを考えました。

その「色々なこと」の中で一番大きかったのは、

「自分には、これを言うことで生まれるデメリットの方が大きいとしか感じられない」

ということでした。
まず、上のリンクで「クリエイター」たちがおっしゃっていることが向けられている対象は、同じクリエイター仲間ではなく他業種、もっと違う言い方をすれば一般の方々でしょう。
その人たちの中に生まれる思いって、きっと下の2つに分かれると思います。

1.そうか。そんなに命を削ってやっていることに対して申し訳ないことを言ったなあ
2.言いたいことは解るけど・・・。でも何だか面倒臭い人たちだなあ!


正直言って、私が感じたのは2.に近いものでした。
ちなみに言っとくと、私もイベントやるし、身銭切って音楽について活動しています。
もちろんお客さんにだってもっと入って欲しいし自分へのペイも欲しいし、もっと自分の活動自体を知って評価して欲しい。
これを書くと、もっと血ヘドを吐くような思いで「クリエイト」している方、あるいは私みたいに副業状態でちょこまか安全地帯から活動しているわけではなくて全生活を賭けているイベンターの方々には、「あんたは必死さが足りないから、(こんなことを)言われる時の気持ちが本当には理解出来ないんだ」と言われてしまうかも知れません。
まあ、そう言われてしまうと何も言い返せません。
でも、そういう「命賭けてるかどうかの強弱」でやっていることを測るって、それこそ暴論じゃないですかね。
私の中の、そういう「測定」に対するナイーヴさは慮ってくれないのでしょうか。

しかし。
私は真剣にやっているクリエイターの人たちって、自分たちへの批判も何も、常人では考えられないような打たれ強さではねのけ、ひたすら自分の信じるものに突き進んでいると思っていました。
そうしたイメージって世間の人の間では強いでしょうし、実際そうじゃないとやっていけない世界です。
人は、誰かが「創るもの」に対して当たり前に残酷なことを言ったりします。
そんなひどい物言いに耐えられる人たちなのに!
さて、この辺でだんだん私が批判される焦点が合って来た気がしますが。
上のリンクで言われていることは、そういうあまりにも短絡的な「想像力の欠如」、言い換えれば「クリエイターだって同じ人間なんだ、という配慮を欠いた発言」がダメだということなんだ、という反論が返って来そうです。
何だか、ボコボコにされそうです。
それはそうだと私も思います。
だって、私だってお客さん少ないと内心ガクッと来ますし、実際赤字なわけで途方にも暮れます。
でも、だからって「イベント行けません」とか「本、図書館で借りました。面白いです!」と言うのを「自分は命かけてやってるんだ。それ言うな」と抑えつける気持ちにはどうしてもなれない。
人見知りの自分からすると、こういう発言を読んでしまうと「クリエイターってナイーヴだなあ。言うことに迷ってしまうな」とか考えてビクビクしちゃうんですよ。
自分というネガティヴな人間を、そしてある程度音楽や芸術やっている人たちの実際を知っている私ですらそう思ってしまうのですから、「クリエイター」など異世界の住人としか感じていないいわゆる「一般の人々」がそう考えてしまう可能性も高いのではないでしょうか。
デメリットってそのことです。
イベント行けないなら行けないでいいじゃないか。
ホントに行きたかったのに!って気持ちを伝えることで応援しようとしたのかも知れない。
図書館でたまたま見つけてしまい、どうしても読みたかったから借りてしまったのかも知れない。
来なかった、買わなかったという事実はそりゃ変わらないけれど、どんな気持ちで言ったのかも判らない言葉を人に対して制止しようとするって、クリエイターかどうか関係なく、そんなにナイーヴであることを強調していいことがあるのだろうか。
明らかな罵倒語や差別表現なら話は別なんですがね。
繰り返しますが、これは「現在の」私の感想なので、この後もし私がまかり間違って全身全霊をかけた何かをやる人間になったら、ころっと意見が変わるのかも知れません。
その時は猛烈に批判していただいて構いません。
でも、クリエイターも霞を食っているわけではないので、その世界で生きて行く上で「これほどまでにナイーヴであるので、そういうことを言わないで欲しい」と表明することが果たしてメリットになるのかどうか物凄く疑問なのです。
霞を食っているわけではないから、自分の実入りにならなかったという言葉に対して敏感なんだということから来ているのは理解出来ます。
が、あからさまに叩いているわけでもないそれらの言葉を「言うのをやめてくれ」と言ってまで得られるものって何なんでしょうか。

うーん、私たち受け手は、クリエイターにそこまで配慮して関係を築くべき時代に突入したということでしょうか。
ネットを通して簡単に本人にコンタクトを取れてしまう時代ですからね。
個人的にはやっぱり「買えなかった」とか「借りて読んだ」とか「行けない」とかの言葉を封じてしまいたくないと言うか、それは結局「買ってよ!」のプレッシャーにもなるし、「気に入る/気に入らない」ということを内面で処理するのか外面に出してしまうのか、どちらを選択するのかという問題でもあります。
「気に入らないのは判ったけれど、それを言っちゃうんだ」と捉える人も少なからずいるだろうし。

と長々と書いてみましたが、結局は人間と人間のぶつかり合いの話。
クリエイター側もたまには本音を言ってみたかったというだけのことかも知れません。
あと、「みなさんにとってのちょっとした一言が、実は私たちにとっては罵倒語にもあたるひどさを持っているので知ってください」と言ってるのかも。
まあそれなら理解出来ます。
でも、人付き合いの苦手な自分からすると「ずいぶんナイーヴだな。めんどくせー」と思っちゃうのも、また本音ということでお許しいただければと思います。
でも、あちらが本音でぶつかって来てるんですから、こちらも本音を書かないと失礼でしょう?

お読みになって納得していただけない場合はどうぞボコボコに叩いて下さい。
来週水曜26日夜8時からは青森市サブライムさんで

Yamhoracioの夜Vol.2 探検記

です。
世界各国幅広いジャンルの音楽を好きなようにかける世界周遊DJイベントです。
今回相棒のYAMさん急な事情で「YAMを得ず」不参加。
よってオラシオが一人で4時間回します。
 
イベントについてはこちらhttp://blog.livedoor.jp/sublime_aomori/archives/52019651.html … 

チャージ1000円でワンドリンク付。
あとはメニューからお好きに追加オーダー(基本一杯500円です)して下さい。
基本食べ物メニューはないので
「おつまみは音楽」
です。

お車でいらっしゃる方は市民病院横駐車場が近くて便利です。
おもろい音楽をかけるイベントとしては日本有数とオラシオもYAMさんも自負しております。
どうぞお誘いあわせの上ご来店のほどを、よろしくお願い申し上げます。
お客さんは少なかったんですけれど、満足していただいた度は相当高かった青森市発の音楽世界一周DJイヴェント「Yamhoracioの夜Vol.1 発見記」。
FBにはジャケ写真つきのセットリストをアップ済みなのですが、より触れやすいこちらブログの方にもアップします。
えーと、多分こんなに多国籍で面白い音楽をかけまくるイヴェントってそうそうないと思います。
下記の曲目をご覧になるとお判りかと。
気になる方は、県内と言わず全国と言わず、ぜひぜひ青森県観光も兼ねて聴きに来て下さいませ(笑)。

1st Set
1.NIGHT RAIN - DUOTONES / DOUBLE IMAGE - USA
2.16/16 - DGQ20 / DAVID GRISMAN - USA
3.EMIGRANTVISA - 8 BITAR / JAN JOHANSSON - SWEDEN
4.1,2,3,4 - SECRETLY & CONFIDENTIALY / ZBIGNIEW NAMYSLOWSKI - POLAND
5.IVAN LENDL - JACK L!NE / ORCHESTRE NATIONAL DE JAZZ 90/91 - FRANCE
6.SCHOLOCHO(ARMENIAN DANCE) - AT A FERGHANA BAZAAAR / ENVER IZMAILOV - UZBEKISTAN
7.DARK BEAUTY - ORIENT LIVE / TIMNA BRAUER & ELIAS MEIRI ENSEMBLE - ISRAEL
8.AVE RARA - DIVERSOES NAO ELETRONICAS / VANIA BASTOS - BRASIL
9.BENNY'S TUNE - GRETCHEN PARLATO / GRETCHEN PARLATO - USA
10.JUNGLE HURRICANE - 51° BELOW / BIG BAND QUOI DE NEUF DOCTEUR - FRANCE
11.FADO - EUROPEAN BRAZIL PROJECT / HANS FICKELSCHER - INTERNATIONAL
12.JATEK 1 - KONCERT'98 / LAJKO FELIX ES ZENEKARA - HUNGARY


2nd Set
1.REALITY KNOWN - SUGARFREE / SLAWEK JASKULKE 3YO - POLAND
2.STEWED PLUMS - REMINISCENCES / MILAN SVOBODA & PRAGUE BIG BAND - CZECH-SLOVAKIA
3.LIVING LIKE WEESELS - SONGS FROM A NEW PLACE / RAFAL SARNECKI QUARTET - POLAND
4.HAPPENING AT ONCE - HAVING TO ASK / DEANNA WITKOWSKI - USA
5.FUGA - ANNIVERSARY CONCERT FOR HESTIA / LESZEK MOZDZER & ADAM PIERONCZYK - POLAND
6.THREE VIEWS OF A SECRET - BEAUTY AND THE PRINCE / JEANFRANCOIS PRINS & JUDY NIEMACK - BELGIUM
7.KATHY - IN PURSUIT OF THE 27th MAN / HORACE SILVER - USA
8.TAKE FIVE - RIMONA FRANCIS WITH STU HANCOHEN ORCHESTRA - ISRAEL
9.UNKNOWN TITLE - UNKNOWN TITLE / IVO PAPASOV - BULGARIA
10.ENCONTROS E DESPEDIDAS - CASAMENTO / MONICA PASSOS - FRANCE/BRASIL



そしてそしてまたお知らせ!
このDJイヴェントの続編「Yamhoracioの夜Vol.2 探検記」が同じサブライムさんで、6月26日に開催されます。
同じくチャージ1000円1ドリンクつき、夜8時からですので、ぜひぜひよろしくお願いします~。
http://blog.livedoor.jp/sublime_aomori/archives/52019651.html
普段、ポーランドジャズの汎用性を説くために、時々「クラブシーン」とか「フロアアンセム」がどうとかとか何とか知ったような言葉遣いをしていますが、実は私はそちら系には全く知識がありません。
と言うか、「解っている方たち」には上記の2語のような単語そのものが「解ってない」ことの証明なんだけど、と失笑を買うかも知れませんが。
ヒップホップとか、もう全然聴いたことないです。
少し前ですが、ツイッター上でも話題を呼んだ『文化系のためのヒップホップ入門』という本を読んで、「音楽として聴いてはいけない」という件である種の衝撃を受け、気にはなっているジャンルではありました。
そんな私がヒップホップのトーク/リスニング・イヴェントに行くことになりました。
気鋭の若手ジャズ評論家/ライター、柳樂光隆さんによる「ジャズ・ヒップホップ・マイルス 追加講習」です。
このイヴェントにおいては、2つの重要なファクターがあると私は考えています。
一つは、ジャズサイドからヒップホップを照射するという試みを、ヒップホップ世代自身が行うという、多分初めてのイヴェントであるということ。
もう一つは、あのジャズ喫茶二大高峰の一つ、四谷の「いーぐる」でヒップホップを鳴らすということ。

当日のプログラムは全22曲。
70年代から続くジャズとヒップホップの交わりを、キーボード奏者のWELDON IRVINE ウェルドン・アーヴィン(アーヴァイン)を主軸として捉えることで見えて来るものがないだろうか、という内容でした。
当日のお客には、いーぐるの常連さんらしき「ジャズ寄り」の方と、題目に惹かれてやって来たらしき「ヒップホップ世代の音楽好き」の両方がいらっしゃったように見えたのですが、とりあえず私はジャズ寄りではあるでしょう。
その立場から言うと、柳樂さんが「人脈」を切り口に据えたことは大変に解りやすかったと思います。
ウェルドンからTOM BROWN トム・ブラウン、MARCUS MILLER マーカス・ミラー、LENNY WHITE レニー・ホワイトら「ジャマイカン・キャッツ」へのつながり(WELDONが彼らに目をかけていたこと、そして、後者もそんな彼を尊敬していたこと)などなど、雑多に覚えていた固有名詞が今回の解説で自分の頭の中でビシッと足並みを揃えたことは、嬉しい驚きでした。
さて、フロアアンセムではないですが、「ジャンルアンセム」のようなものってきっとどんなジャンルにも存在するのではないかと前から考えていました。
世代を超えて、そのジャンルのアーティストがそれぞれのやり方でカヴァーしリスペクトスピリットを誇示するようなナンバーが。
ただ、それはかなりそのジャンルを横断的に聴き込んで行かないと見えて来ないものだと思いますが、それもWELDON作の「Mr.CLEAN ミスター・クリーン」というナンバーが挙げられその存在を確かめることが出来、収穫の一つでした。
FREDDIE HUBBARD フレディ・ハバードに始まり、BERNARD WRIGHT バーナード・ライト、MARCUS、ROY HARGROVE ロイ・ハーグローヴらこのテーマにおける重要人物たちがこぞってカヴァーしているということです。
お話の内容としては、ジャズサイドのミュージシャンでニューソウルサウンドに本当の意味で適合出来た/対応解を出すことが出来た人はほとんどいない、というようなところから始まり、それをレーベルがかりでやろうとしていたのがCREED TAYLOR クリード・テイラーのCTIであったり、60年代後半からのブルーノートであったり、はたまたジャマイカン・キャッツ人脈による作品を多く輩出した初期GRPであったりという流れを、あくまでWELDONという人物を話の中心に整理し、展開するというものでした。
00年代以降の人脈については、未知の人があまりに多すぎるため「正史」上のネームヴァリューの重みが私には判明出来ず、少ない時間の中では中途半端な理解にとどまってしまいましたが、HARGROVEやMOS DEF モス・デフ、Q-TIPらとWELDONの絡みが存在するということを「音献」として提示することで確認し、かつMADLIB マッドリブとROBERT GLASPER ロバート・グラスパーという2人の「対照的」かつ「共通した足場を持つ」天才につなげて見せるというラストでした。

さて、以下は実際に音や柳樂さんの解説を聴いたり配られた参考資料などを見たりしながら妄想したことを書きます。
THE TRIBE CALLED QUEST トライブ・コールド・クェストにもサンプリングネタとして採り上げられた「WE'RE GETTING DOWN ウィア・ゲッティング・ダウン」をかけ終わった後、柳樂さんが「ドラムの音質自体が非常にクリアに録音されて、マテリアルと化している好例。どういう演奏かということはすでに問題ではない」と仰っていました。
さて、その2曲後にわが音楽ヒーローの一人BILLY COBHAM ビリー・コブハムがドラムを叩くSTANLEY TURRENTINE スタンレイ・タレンタインの「SISTER SANCTIFIED シスター・サンクティファイド」がかけられたのですが、以前から書いているように、COBHAMのドラムの音色というのは他のドラマーとは隔絶したクリアで抜けの良い鳴りなんですね。
で、これはいーぐるの優れた音響でより一層明確になり、聴いているお客さんの,、ノリから来る首の「うんうん」縦振りが、COBHAMの一発が始まった瞬間から目に見えて増えたんです。
COBHAMと言えば「RED BARON レッド・バロン」や「STRATUS ストレイタス」など、それこそサンプリングネタとしてのキラーチューンのクリエイターとして、おそらくある意味で「エポックメイキングなドラマー」としての定位置以上にヒップホップシーンでの評価が高い人物だと思われるのですが(あくまで妄想ですよ)、ミニマルでかつ躍動感に満ちた「カッコいい」フレーズ作りよりむしろ、あらゆる録音テクノロジーの環境を無効化し、尋常でなくクリアな打撃音でサウンドをマテリアル=ヒップホップの領域に強引に近づけてしまうそのドラミングにこそ彼の「こちら側」でのリスペクトの理由があるのではないかと思いました。
「音」と言うと、いーぐるの音響設備について。
私は普段全くと言っていいほどハードにこだわらず音楽を聴いているので(それこそひどいくらいに)、アンプがどうとかケーブルがどうとかについては書けませんが、これくらいちゃんとしたセッティングがなされていると、音量が小さく録られた楽器も「聞こえにくい」ではなく音空間の奥行き、立体感の演出に寄与するのだと感じました。
であればこそ「演奏の内容」ではなく「マテルアルの配置」について問うこのヒップホップという音楽を他ならぬジャズの殿堂であるいーぐるで鳴らすということは「反則」ではなくむしろ「正当」な目論見ではないのか?と聴きながら考えていました。
配置はすなわち「建築」です。
目立たなくとも細部は全体に作用する。
その様を良い音響で聴くと肌で感じられるんですよね。
「音」についてもう一つ。
あ、脱線しまくりですので悪 しからず。
私の音楽視聴歴オールタイムベスト10級の一枚、HORACE SILVER ホレイス・シルヴァーの『IN PURSUIT OF THE 27th MAN』からWELDONのナンバー「LIBERATED BROTHER リベレイティッド・ブラザー」がかけられたのですが、実は私がこの作品を愛しているのは、これまたフェイヴァリットアーティストの一人であるヴァイブラフォンのDAVID FRIEDMAN デイヴィッド・フリードマンのプレイに触発されたHORACEの実にシンプルな「音の美しさ」が極まった作品だからなのです。
この作品で聴かれるFRIEDMANやHORACEの究極に磨かれた音色は、彼らの「演奏」の質から生まれたものではあるのですが、しかし、そんな演奏が詰まった作品がこういうところで「ヒップホップ」のトークイヴェントのネタとして鳴らされるということに運命以上の確かな交差を見るような気がするのです。
うまくは言えないのですが、何か大事な部分でこの辺の作品が様々なファクターを取り込みながらつながっているのかなあと。
(ちなみに当日かかった「LIBERATED~」はFRIEDMANが参加しているセッションではなく、あのBRECKER BROTHERSが参加している方のものです)
このイヴェントまで、恥ずかしいことに私はヒップホップと「音色」というファクターを関連づけて考えることはありませんでしたが、柳樂さんが「マテリアルと音色」の関係を話されたことで、曲を聴きながら私の中でそういう妄想が炸裂したわけです。

「つながり」ということで言うともう一つ。
関連人物の中にDONNY HATHAWAY ダニー・ハサウェイも挙がっており、彼の「TO BE YOUNG,GIFTED AND BLACK」もかかったのですが、DONNYも実はCOBHAMとの関わりがあります。
DONNYとROBERTA FLACK ロバータ・フラックの共演盤で普及の名作と言われるその名も『ROBERTA FLACK AND DONNY HATHAWAY』の、さらにその中でも名演名唱と名高いCAROL KING キャロル・キングのカヴァー「YOU'VE GOT A FRIEND 君の友だち」一曲にだけ、COBHAMが参加して叩いているのです。
どうでもいいっちゃあどうでもいい「豆知識」ですが、私は彼を一曲だけ参加させたことに何か意図があるのではないかとずっと勘繰っていて(笑)、今回ヒップホップの視点からDONNYやCOBHAMを見ることで、また何かそういう妄想が甦って来ました。

ところで、今回のイヴェントは中山康樹さんの『ジャズ・ヒップホップ・マイルス』の「追加講習」と銘打たれています。
当然あのマイルスとの絡みも触れられるのですが、誰もが微妙な顔で話題にする例の『DOO-BOP ドゥー・バップ』ではなく、あくまでWELDON→ジャマイカン・キャッツ(MARCUS MILLER)→MILES DAVISという流れからの言及で、『TUTU』からの「DON'T LOSE YOUR MIND ドント・ルーズ・ユア・マインド」がかけられました。
さて、この曲については終演後の質疑応答でも、お歴々の皆様との飲みでも「あの曲だけなんか異質だったよね」という意見が相次いだのですが、ポーランドジャズライターとしての私の見解を述べましょう。
この曲のメロディは本質的に凄く「ポーランド(の民俗音楽)っぽい」のです。
で、本作にはポーランドジャズ最高のスターの一人であるヴァイオリニスト/サックス奏者のMICHAL URBAIAK ミハウ・ウルバニャク(マイケル・ウルバニアク)が参加しており、彼の参加がマイルスのサウンド作りに少なからず影響を与えていたのかも知れません。
また、この作品の録音前である83年に、マイルスはポーランドの首都ワルシャワのジャズフェス「JAZZ JAMBOREE」で、「あの夜は観客も素晴らしい反応だった」と自身も何度も言及するほどの、自他共に認める完成度の高いライヴ演奏をしたことがあり、この国に一定以上の共感を持っていた節もなくもありません。
また、MARCUSやジャマイカン・キャッツ周辺のメンバーはURBANIAKのリーダー作にたびたび参加しており、彼らの団結力というのはこちらの予想以上に高く、彼の参加は単なる色づけ以上のものであった可能性も高いです。
そうでないと、この作品に唐突に彼が参加していることの説明がつかないくらい、本当に唐突なのです(笑)。
であるからには、この「DON'T~」はあくまでスラヴの薫りをうっすらと漂わせるメロディを主軸にしたテイクであり、人脈の説明としては有効であったものの、ヒップホップサウンドとしては異質に聞こえてしまったのはそのせいかも知れませんね。
ちなみに、URBANIAKはMIKE STERN マイク・スターンと共にCOBHAMのバンドに参加していたことがあり、実際にその時のバンドのライヴの最中にマイルスが直々にSTERNを引き抜きに来たと後年COBHAMが述懐しています。
また、MARCUSもそのせいかどうか近年ポーランドと濃厚なかかわりを持つようになって来ており、一昨年ポーランドの港町グダンスクで行われた「SOLIDARITY OF ARTS GDANSK 2011」では地元のジャズミュージシャンたちとの共演も含めた演奏プログラムのプロデュース&出演をしています。
URBANIAK自身もMARCUSらジャマイカン・キャッツに対する「使えるやつを探したければジャマイカン・キャッツにコンタクトをとれば良い」という名言(があるらしいです)で賛辞の意を示しています。
ですが、「アメリカのジャズ」に焦がれまくって奨学金をネコババしてアメリカにしがみついた彼が、母国の首都ワルシャワよりも同胞が多いとされるシカゴシーンを避けニューヨークに来たのは解るとしても、なぜジャマイカン・キャッツとつながって行くようになったのかがまだよく判りませんね。

さて、私は前ベースを弾いていたので、どうしてもMARCUSを「ジャズベーシスト」として見ちゃうんですけれど、WELDON絡みの視点から見て来るとちょっと違った姿が現れると言うか。
昔ベースマガジンかなんかで、彼が「今度の新作は全ての楽器を僕が演奏している。ドラムとか一音一音叩いて生音を録音して、それをサンプリングしてフレーズを作ったんだ」と解説しているインタヴューがありまして、それを読んだ当時は「そんなのジャズでも何でもないじゃん、ドラマー呼べば」と思った記憶があるのですが、彼はこちらが勝手なイメージを抱いている以上に「ジャマイカン・キャッツ」なのだ、と捉え直せば、そのアルバムの出来はどうあれ、何となく彼の志向が見えて来るというか、そんな気もしました。
LENNY WHITEにしたって、マイルス方向から見ると「あの『BITCHES BREW ビッチェズ・ブリュー』に弱冠19歳で参加した早熟の天才ドラマー」なのかも知んないですけど、それ以上に「ジャマイカン・キャッツ」であり、WELDONのアルバムに参加したり、柳樂さん世代がジャズを意識し始めたというHUBBARDの『RED CLAY レッド・クレイ』に参加したりしたミュージシャンなんだ、と見直せばまた違ったイメージが立ち上がって来ます。
が、彼には故・日野元彦の「レニーなんかアメリカの東海岸のジャズシーンじゃ4ビートドラミングのカリスマ扱いなのに日本じゃ全然違ったイメージで・・・」という証言もあるので、ほんとよく判らない(笑)。
そしてこのことは、そんな天才的な「ジャズ」演奏家であるLENNYやMARCUSや、果てはポーランドのURBANIAKが、ヒップホップの世界に近づいた結果ヒップホップとしてもジャズとしても微妙なぬるい作品しか残せていないという、この講義の最初の方で柳樂さんが「70年代にニューソウルに対して解答を出せたミュージシャンがほぼ皆無だった」という問題と地続きの事実が立ちはだかっていることを再確認させるトピックでもあると思います。
であるからこそ、最後の2曲で「全然でたらめな演奏なのになぜかジャズに聞こえてしまう」MADLIBのナンバーと、「現代のジャズ」のキーパーソンであるGLASPERの「BLACK RADIO」の突き抜けぶりに喝采を送りたくなってしまうわけです。
柳樂さんは何度となくWELDONのエレピサウンドが持つ絶妙の「揺らぎ」を口にしてらっしゃいましたが、私はGLASPERのライヴ動画などを見ていて気がついたことがあります。
彼はものすごーく微妙な、ポリリズムとも言えないふわふわとずれたタイミングで軽く左手でエレピのバッキングを入れ続けることがあるんですよ。
それは、GLASPERなりの「揺らぎ」の演出なのかも知れませんね。
そして、その「揺らぎ」がCHRIS DAVE クリス・デイヴの鋭角的な超絶ドラミングのグルーヴと絶妙な「配置」を描き、ヒップホップをクリエイティヴに取り込んだ独特なサウンドが成立し得ているのかも知れません。
また、初めて聴くMADLIBのテイクもヘタウマみたいな演奏が多重録音されることによって生まれる不可避かつ計測不可な「揺らぎ」が、どこか最初の方にかけられたTHE TRIBE CALLED QUESTのWELDON曲をサンプリングしたナンバーの「揺らぎ」と共通するようなものを感じました。
こちらの揺らぎは、配置された各パーツの距離感を肌で実感することなしには体感が難しいもののようにも思えましたので、やはりいーぐるクラスのハイレヴェルな音響で聴くべきものだったのだなと思います。

私はヒップホップリスナーではないので、だからこそ「新しく聴こえて」楽しめたということもあったのかも知れません。
実際、ヒップホップファンの方的にはどうだったのでしょうか。
しかし、どんな音楽も実は「正史」などというものはなく、様々なアングルから光を当てることで、何がしか軸のようなものが浮かび上がって来るだけの話で、その意味でもジャズサイドからヒップホップを語るということの意義はあったと思います。
バリバリにヒップホップなナンバーでも私は楽しく聴けましたし、人脈という「テキストレヴェル」の軸と、何よりもいーぐるの圧倒的な音響で「マテリアルとしての音」と「ネタの配置」の重要性を肌で感じる、という裏の軸が存在するので、解り易かったですね。
最後に蛇足的に最近の個人的なジャズ観を書いておきますと・・・。
すでに「文脈を楽しむ音楽」としてのジャズの価値は失われつつあって、カッコいいフレーズなら結局違う曲の違う場所にはめ込んでも興奮出来ちゃうんじゃないかという感じになっています。
ジャズ、あるいは音楽という場における「代替不可能性」神話への辛辣な批判。
アドリブの「商業ポップス化」と言い換えてもいいかも。
CMなどで繰り返し流されるサビのメロディさえ良ければそれで「いい曲」、前後のメロディがどんなものであろうが知ったこっちゃない。
それを本当に音楽上でやってしまったのがFRANK ZAPPA フランク・ザッパなんですけれど、ある意味彼は「ヒップホップミュージシャン」だったのかも知れないですね。
それほどまでに「代替不可能性」が叩き潰されているのになお、奇跡的に生まれるそれを求めて行くのか、あるいはクールに「マテリアル」と割り切りヒップホップの耳でジャズを聴くのか、別れてしまうのでしょうか、これからのリスナーは。
ただ、音が生むのとは違う意味での、演奏が生む音色というのは音楽において表立って語られて来なかったけれど非常に重要なファクターだと思っていて、その時の音色と言うのはその文脈(前後のフレーズやアンサンブルの進行状況)でしか含まれない微妙なノイズというのが加味されると私は考えています。
で、フレーズとかじゃなくて、そういう微妙な音色の移り変わりを楽しむという風に自分の中ではジャズを聴く楽しみが変化して来ているので、従来のジャズ観とヒップホップを通したジャズ観の折衷案みたいな感じになっています。
そういう変化が自分の中で起こっていたからこのイヴェントが楽しめたのかも知れませんし。
いずれにせよ、柳樂さんという「色んな世代」「色んな層」をつなげるキーパーソンがやるのでなければ私は聴きに行かなかったと思いますので、氏のやっていることは日本における現代のジャズ言論のこれからを担う上で大変に有意義なものだと言えるでしょう。

柳樂さん、続編ぜひやって下さい。
いーぐるの後藤さんもそう仰ってましたよね(笑)。
私をもっとヒップホップが楽しめる体にして下さい。
いーぐるでやることにこそ、2つの世界をつなげる鍵があるように私は思いました。
大長編になりましたが、感想以上です。
お疲れ様でした、ありがとうございます。
みなさま、いつもお世話になっております。
無事公式ライターデビューできた昨年は「自分にとって分水嶺となる年だ」と、今年になる寸前は思っていたのですが、今年はさらに激動の年でした(笑)。
自分の思いもよらないスピードでとんとん拍子に決まって行く事柄がたくさんあった反面、その勢いに呑まれて何か大切なことを置き忘れたまま進んだようなところもあり、反省すべき点もたくさんありました


とりあえず今年のトピックとしてはこんなところでしょうか?

オラシオ監修(セレクト&ライナー執筆&アーティスト側とのファーストコンタクト)のレーベル「チェシチ!レコーズ」設立
8月にミラ・オパリンスカ&ダグラス・ウェイツの『リュミエール』を、11月にミハウ・ヴルブレフスキ・トリオの『アイ・リメンバー』をリリース

合計5つのイヴェント
3月 「Poland Jazz X Finland Jazz」@山羊に聞く?
5月 「喫茶の文庫 第3夜 ポーランドジャズ」@そーるぶらんちカフェ
10月 「Polish Jazz Is Polished」@頭バー&「Chopin,Inspire,Chopin」@Le Tabou
11月 「ポーランドのサントラとジャズの関係」@渋谷レンタルスペース

7月にレーベル設立についての取材を東奥日報から受ける
10月 Webダカーポさんに「マルチン・ヴァシレフスキ・トリオ来日」についてのコラムを執筆
11月の「ポーランド映画祭2012」に関わり、パンフレットに4ページ執筆したり、開催記念のユーストリーム番組に出演など

そして、何よりも大きな財産だと思うのは、これらのイヴェントなどなどの機会にたくさんの方たちにお目にかかることが出来、楽しいお話をいっぱい聴かせていただき、また、私のやりたいことなどについてもお話させていただいて、自分の世界が広がったということです
私は本当に、2~3年前まではブログの辺境の地でひっそりと誰も振り返らないネタを書き続けるだけの孤独な紹介者でした
でも今はこんなにたくさんの人たちに応援していただき、今後を楽しみににしていただいてる
これが財産でなくて何なんでしょう

ご縁をいただけたことを、心より感謝申し上げます

さて、ここからはライター業とは関係ないことですが・・・・・
私が現場主任として昼に働いている某公共機関の委託業務なのですが、来年度から複数年契約に変わるかわりに何だか色々まずいことになっていて、ちゃんと業務が成り立つのかいな、という惨状になりつつあります
これまでかけもちで懸命に頑張って来ましたが、低賃金と重労働、そしていつも執筆のための時間や体力、集中力が削られていることなどを天秤にかけ、来年度は責任者を降り、勤務日数も減らして執筆に充てることとしました
実際は収入が減るので、頑張って色々書いて「お金」につなげなくてはいけません
とりあえず書きたい本がいくつかあるのと、ポーランドジャズのデータベースサイトの立ち上げなど計画中のプロジェクトに血反吐を吐くのも辞さない根性注入ぶりで突入したいと思います
昼の仕事の方は、私のやる気を見事に折ってくれたので、正直言ってもうどんなにムチャクチャに堕ちようがどうでもいいです
あくまで副業として割り切って勤務します

というわけで、来年は去年、今年以上の数倍のステップアップをしますのでみなさまどうぞご期待下さい!

それでは本年も大変お世話になりました
来年もよろしくお願い申し上げます
失礼します

オラシオ