ダブル・ブックド/ロバート・グラスパー

本記事は、柳樂光隆監修の話題のジャズ本『Jazz:The New Chapter』を下敷きとしています。ここで書かれている内容に興味を持たれた方は、ぜひ同書をお読みになって下さい。


『ブラック・レディオ』(以下BR)『ブラック・レディオ2』の連作で一世を風靡した現代ジャズ界の風雲児グラスパーの、オーソドックスフォーマットとエクスペリメントをつなぐミッシングリンクのような作品『ダブル・ブックド』を聴いてみました。
初めて彼がエクスペリメントを名乗ったアルバムでもあります。
ヴィセンテ・アーチャーとクリス・デイヴによるピアノトリオによる前半、ケイシー・ベンジャミン、デリック・ホッジ、デイヴとのエクスペリメントによる後半という二本立て(ダブル・ブックド)の構成になっています。
今、音楽界を揺らしに揺らしまくっているこの逸材が持つ音楽性を総合的に知りたければ最適な作品かも知れません。
私はどちらかと言うとアコースティックなフォーマットが好きな方なので、彼の「そちら側」はどういうサウンドなんだろう、と正直かなり興味がありました。
ヒップホップなど、ブラックミュージックとの強いつながりを言われる彼のことですから、こちら側でも相当に鋭角にリズムが際立ったメロディ作りをしているのだろうと予想していたので、イントロのライヴを模したMCの後にすっと流れ込んで来る旋律を聴いてかなり驚きました。
誤解を恐れずに表現するならば、非常に「薄味」の、都会的なセンスに満ちたヴォイシングも併せて、全編「さざ波」にような揺らぎを感じさせるメロディなのです。
その緩やかな揺れに身を委ねているとだんだんわかってきました。
彼のメロディは「フロウ」感覚なのだろうと。
普段東欧系の、比較的自己主張のはっきりした旋律を聴いている私にとって、ヒップホップのフロウはメロディと語りの中間をたゆたうような、凄く曖昧なものに聴こえるのですが、その時に抱く独特の浮遊感と似たような気分になるのです。
また、センテンスの一つ一つを切り離してみるととても華麗なピアノソロも、全体を通して眺めると唐突な間がところどころに挟まれ、ぶつ切りっぽい感じなのも面白いですね。
音の間に関する感覚には、独自のものを感じます。妙にフェイドアウトっぽい処理の曲が多いですし。
また、先ほどハーモニーは都会的な洗練があると書きましたが、しかし、随所に「アメリカの空・大地」を感じさせもします。
これが『Jazz:The New Chapter』中のインタヴューで山中千尋さんが指摘されていた、グラスパーが持つ「ゴスペル」っぽさに起因するのかどうかはわかりませんけれど。
さて、しかし、しかしです。
私は本作の前半を聴いて、ある意味一番強く感じたのは、以下のようなことでした。
これら一見「オーソドックス」な音作りを何作も経なければ、あの『ブラック・レイディオ』に辿り着かなかったのだな、という彼の道のりです。
きっと、レコーディングデビュー初期の頃から、BRのサウンドヴィジョンはたとえおぼろげながらにしても、今自分がやっている音楽と地続きになって見えていたはずです。
「地続き」というのがミソで、きっとそのヴィジョンと、本作の前半で聴かれるような音楽は、彼の中ではある意味「同じもの」なのかも知れず、きっと「BRのための下積みとして今これをやっている」という意識はなかったでしょう。
が、外側から見ると、彼もまたアコースティックでオーソドックスなフォーマットによる「通過儀礼」的なリリースを経て「普通のジャズもちゃんと出来る」というところを見せた上でBRの制作に踏み切ったように見える。
本人の、自己の音楽性に対するカテゴライズの意識の持ちようはどうあれ、その意味ではグラスパーは非常に慎重にことを進めて、BRの完成を成し遂げたように思います。
ちょっと文脈が違うのですが、故マイケル・ブレッカーはセッションプロジェクトの名盤『ブルー・モントルー』の超高速4ビートナンバー「アップタウン・エド」という曲でようやくにして「何だ、ちゃんとしたジャズも吹けるんじゃないか」と「評価」されたといいます。
すでに怒涛の演奏をパッケージしたアルバムを何枚も発表し、数々のスタジオセッションで名をあげていながら、です。
そしていわずもがなですが、これはもちろん「ジャズ言説」の中の話でもあります。
当のミュージシャン間では、当然彼の実力のほどは知れ渡っていたでしょう。
マイケルの話をここに出したのは、グラスパーは、マイケルの例に当てはめた場合、オーソドックスなサウンドを出来るということを見せる「手順」をすっ飛ばして『ヘヴィ・メタル・ビバップ』を発表するようなことは、慎重にも避けていたという気がするのです。
その辺のことが、BRで見せたトータルなサウンドセンスのある種の繊細さにつながっているように思うのです。
とは言え、本作後半で聴かれる「初エクスペリメント」はまだBRにくらべ、特に彼らのサウンドのキモであるドラマー、クリスの爆発が足りないように思いますし、指向性のパーソナリティはすでに一級品ではあるものの、やはりBR制作にはまだ距離があった段階だとも言えるでしょう。
そこにも、BRはベストのタイミングで作られたのだろうという、彼の緻密な計算がうかがえます。
BRの独自の開放感がうかがえるテイクとしてはやはりビラルの「オール・マター」ですかね。
本人の歌唱も含め、「現代世代によるジャズヴィジョン」が明確に見えてくるサウンドとなっています。
グラスパーはたぶん、この2本立てのどちらにも重心をおいていない。
彼にとってはどちらも同じことなのでしょう。
ただし、それを見せて行く「語順」は慎重に配置する、そういう音楽家なのだと思います。
前半のオーソドックスサウンドの中に垣間見えるヒップホップ世代の独自性は、あたかも旧共産圏国の、「検閲」を潜り抜けつつ確かに思想を忍ばせた高度な芸術を思い起こさせます。
「ちゃんとジャズが演奏出来る」というマッチョなジャズマナー検閲を軽やかに飛び越えた本作は、話題のジャズ本『Jazz:The New Chapter』(以下JTNC)の内容を端的に表現したような作品と言えるかも知れません。

さて、JTNCですが、きっと「私たちおじさん(おばさん)世代にはよくわからない」とか「これが今のジャズと言われても・・・」という意見がこれからどんどん出て来るように思います。
ちなみに言っておくと、私は監修者の柳樂氏と数歳しか違わない、微妙に同世代に入る人間だと思っているのですが、実は彼が言うような「僕ら」ではない。
つまり、その「僕ら」がコンセンサスとして持っている「ヒップホップ」や「アメリカンミュージック」などを私はほとんど通過していません。
なので、実感としては彼の言う「僕ら世代」に皮膚感覚では共感し得ないのかも知れません。
ですが、彼がこの本でやろうとしていることは「世代間闘争」ではないのだと思います。
上で触れたような「ある世代」「ある層」の読者の反応のようなものって、結局使われている言葉がそのまんまで、ここ数十年繰り返されて来ました。
それにより「若い世代」「ジャズリスナーじゃない人たち」がジャズへの参入をスポイルされて来たという事実の蓄積の提示が、この本におけるコンセプトの一つなのではないでしょうか。
なので、例えば先の都知事選で候補の一人である家入氏が「『僕ら』とか言って若者だけ囲いこんで世代闘争している場合か」と批判された、その文脈と同列に扱うのはちょっと違うのかな、と個人的には考えています。
「若者や非ジャズリスナー以外を排除したジャズクラスタの成立」ではなくて、「そもそもそういう人たち(若者&非ジャズリスナー)を交えてのジャズのプラットフォームが一度でもあったか」という問いかけをしているのでしょう。
なので、JTNCを読むにおいて「グラスパーが本当に今のジャズの代表なのか」の真偽を問うのではなく、「へ~、そうなんだ、こんなん知らんかった、聴いてみようかな」でいいのだと思います。
実際私は、ぜーんぜんカヴァーしてない範囲なので、まずそういう風に楽しんでいます。
ま、もちろん、色んな意見、批評をして行くのは自由なんですけれどね。
その輪の中に、これまでジャズを語る層として存在していなかった人たちがどんどん入って来ると面白いですね。
まずは、この本をそういう場が広がって行くための第一歩と、受け止めようではないですか。

Jazz The New Chapter~ロバート・グラスパーから広がる現代ジャズの地平 (シ.../柳樂 光隆

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