- Q&A 親の離婚と子どもの気持ち―よりよい家族関係を築くヒント―/新川 明日菜
幼い頃から常に考えて来た。
自分と「普通の家庭の子ども」の間に立ちはだかる、透明で決して見えない、それでもなぜかとても高く硬い壁の正体は何なんだろうと。
ある程度胸襟を開いて話せるようになった友人たちは、「<普通の>家庭なんてカテゴライズはナンセンスじゃないのかなあ。どんな家庭にだって重い問題はあるわけだし」とよく言う。
私だって、本当はどこかでそう思いたい。
でも、依然としてこの壁は存在し続ける。
その壁は誰が作っているのだろう?
私は、5歳の時に母が離婚し(正確にはこの時点ではただの別居だった)、その直後から連れ子として母の再婚相手と共に暮らすようになったものの、前の父親の戸籍から抜けられず自分の姓と現在の両親の姓が違う、という状態で生きて来た、自称「別姓子」だ。
今やっている仕事の関係で、子どもの名前や住所を親のものを含めて見る機会が多いのだが、私のような別姓子は離婚が私の幼少時ほど珍しくなくなった今日でもなかなか見かけないようだ。
いわゆる「普通の家庭」のみなさんは、離婚を経験した家族、特に子どもがどういう思いで日々を暮らしているか想像出来るだろうか?
それをしたとしても、おそらくその半分は想像の範疇でしかなく、間違った認識だと考えてもらってもいいと思う。
そのことを当事者たちの確かな声で、しかも小難しい社会学的・家族学的言質ではなくとても解り易いシンプルな言葉で伝えてくれる素晴らしい本がNPO法人WINK編『Q&A 親の離婚と子どもの気持ち よりよい家族関係を築くためのヒント』だ。
離婚を考えた時、あるいは離婚した後に誰もが日常で直面する選択肢や疑問における、当事者からの回答が素直な形で綴られているのだが、この本の特筆すべきところは、子どもの視点というものがとても大切にされていること。
夫婦別姓問題や代理母出産など、「親子というユニット」に関する話題が世間を賑わす度に感じて来たのが、親のことばかりで子どものそれからの人生に対するケアの視点がないがしろにされている、ということだった。
世論にとって「当事者=親」なのか、と激しく憤ったものだ。
離婚をする親は、ある程度の必然的要素があったにせよ、それは選択の結果である。
しかし一方子どもはどうだろうか。
子どもにはその環境を選ぶことはほとんど出来ない。
ここは声を大にして言いたいのだが、離婚後の家族が例えそれ以前の環境より幸せになったとしても、それは結果論でしかなく、子どもは一度は激しいストレスにさらされる。
そういうことも含め、こんなに実感を伴った現実的な啓蒙の書は今までなかったと、同じく離婚家庭の当事者である私は断言したい。
私は普段から、自分の家庭のことを隠さないようにして来た。
別に露悪的でもなく、恥じるでもなく、それこそ普通に人が自分の家族を語る時のように自分の母が離婚したことや両親と苗字が違うことなども話して来た。
なぜか?
うちだって普通の家庭だからである。
むしろ、他の「普通のご家庭」よりも構成者同士の仲は良いと思っている。
ただ、そのことをいかにも重く身の上を明かすような形でボソボソ話しても周りの人は引くだけだろう。
自分のうちは幸せだし腫れ物に触るように接して欲しくないし、増してやそういう家庭に間違ったイメージを持って欲しくなかったので、自分の家庭の、たとえディープな部分であったとしても普通に話すというのは、私個人の、世間の偏見に対する戦いだった。
私があっけらかんと話す様子を見ていると、最初は微妙に引き気味だった知人たちも、やがて遠慮することなく私の家庭について話題にするようになり、それは個人レベルの偏見の打破であるように思え、ひそかに達成感を感じていた。
本書は、それをマスレヴェルで実践しようとしているものだと思うので、著者たちより若干年代が上(私は現在37歳)なものの、この本で問われていることのいくつかに当事者として応えるのは自分のこれまでの戦いにとって必要なものだと勝手に判断し、この記事を書いている。
世の中の人に訴えたいのは、「普通のうちもそうでないのもないよ」と言うのなら、私のような家庭の子どもや家族に対してネガティヴな想像をするのをまずやめてもらいたいということ。
私は今の父を本当の父と思っているし、とても幸せに育って来た。
形は色々違うだろうが、離婚家庭のそれぞれに、それぞれの幸せがあるのだろうと私は考えている。
もちろん、そうでないうちもあるだろうが、それこそ「<普通>もそうでないもない」だろう。
本書の中で、離婚家庭にいることで引け目を感じるか?という問いがあるが、答えの方にあるように、多くの離婚家庭の子どもは自分の家庭自身に引け目など感じていない。
子らにとって、自分の家族は一種のスタンダードでしかない。
ただ、周りの微妙にぬるい同情の視線などが無理矢理それをさせるのだ。
中身はそれほど違わないのに、離婚しているとか親と苗字が違うとか片親とかいう些細な理由で「亜種」を作り出す。
とは言え、私も別姓子であるという理由で相当にいじめられていたこともあるし、周囲の微妙に引く感じが完全に払拭されていたわけでもない。
それには毎日本当にイライラさせられたし、離婚した母や戸籍から抜いてくれなかった前父を強く恨んでいた。
特に前父への憎しみは強く、自分を親呼ばわりする時など「誰のせいでこんな目に遭っていると思っているんだ」「親面するな!」と心の中でどす黒い感情が沸き起こったものだ。
ただ、うちの場合は母は決して前父の悪口を言わなかったし、色々やらかした挙句一人っ子の私を連れて出て行ってしまったことに対し表立った妨害や法的措置をとらなかったことに人としての立派さを感じてもいたようだ。
なので、私は小学校くらいまでは時々前父のところに遊びに行ったりもしていた。
本書によると、別れた親との面会の機会は、とても大事なものであるようだし、また子どもにとって何が大切か、本当に子どもの視点に立ってあげられるということはどういうことか考えるという意味において親にとっても貴重な機会であるようなのだが、ただ、私は前父と家族であるという実感がまるでないので、会いに行くのもはっきり言ってお小遣い目当てだった。
今でも、親とは思っていない。
そこには憎しみだけではなくて私なりの持論があって、家族とは最初から出来上がっているわけではなくて、構成員同士で作り上げて行く関係性なのだ、というもので、その意味では私は彼とは家族としての関係性を築いていないので、親だという認識を持ちようもない。
血縁など関係ない。
私にとって家族とは、今の母と父しか指さない。
そういう意味では、結構会いに行ったり連絡取り合ったりしているのに親に会っているという実感がない、特別な環境かもしれない、私の場合。
正直言って、私には前父と暮らした記憶がまるでないのだ。
2~3年前、年老いて来た前父が10年ぶりくらいに会いたい、自分が死んだ後のことについてどうしても話したいというのでひさしぶりに会った。
結構おじいさんになっていてびっくりしたが、その時私は残酷なようだが上記の自分の持論を曲げずに話した。
前父は、離婚前母がいかに奔放に振舞ったか私に話したが、実はその辺は幼少期の記憶に残っているので別にショックでも何でもなかった。
ただ、その結果かわいい子どもをも連れ去られてしまった上、その子どもからは全く親として扱ってもらえないという彼の絶望のほどはよく伝わった。
その、かみ合ってるんだか何なんだかよく判らない再会後しばらくして、前父から「お前が家庭事情でそんなに辛い目に遭っているとは想像出来なかった。そのことを申し訳なく思う」と、離婚後初めての私に対する謝罪の手紙をもらい、そこに前父の考えを至らせるのにどれほど長くかかったことか、と感慨深かったし、胸のつかえが少しスッとしたことをおぼえている。
子どもは、多かれ少なかれ自分を離婚の被害者と思っているもの。
そのことについて親はしっかり向き合って欲しい。
ただ、変に子どもに遠慮するのもやめて欲しい。
うちの両親の場合は、子どもに厳しい経験をさせてしまうことへの罪悪感もあったのだろうけれど、きちんと育てないと、と考えたらしく、礼儀作法や「人として恥ずかしくない生き方をする」ということに関してかなり厳しく教育された。
その反面、経済的に苦労させるのはかわいそうだと思ってもいたようだし、自由に楽しく生きて欲しいと願っていたので、その意味ではかなり甘やかされていた。
まあ再婚当初はかなり貧しくて、部屋にはテーブルと食器棚以外家具がなく、毎日里芋煮ばかり食べていたような気がする。
幸い、父の仕事がその後かなりうまく行き始め、中学後半くらいからは裕福な家庭の部類に入るようになったのだが。
離婚家庭のお金の問題と言えば養育費の問題があるが、本書ではそれは別れた親の愛情の証としても大切に機能する、とのこと。
私の場合は、母が好き勝手して(とは言え母には母の言い分があるが)出て行ったので養育費の話などはなかったようだ。
大学の学費なども少し前父が出したようだが、それも母は「出したいって言うのだからまあ出してもらうか」くらいの捉え方だった。
上記のように、私は前父に親としての何ものの期待していないので、養育費があろうがなかろうが大した問題ではない。
ただ、そうでない子どももいるだろうということを本書から教えてもらった。
私は特殊なケースなのかも。
そういう、面会や養育費などのことも含め、子どもにとって何が一番かしっかり考える、ということは離婚家庭の親に最も求められることだと思う。
そのためにはしっかりと自分の子どもと向き合って対話を重ねることが大切だろう。
私のうちの場合は、母は自分が離婚に至った状況やその時の思いなどを私に正直に話してくれたし、私が一方ならないストレスにさらされることに対し本当にすまないと真剣に謝ってくれた。
ただ、だからといって私に対し卑屈になることはなかったし、親として毅然とした態度で接してくれた。
また、うちの場合は両親の友人や親戚関係で非常にゴタゴタしていたのだが、それを「子どもだから」と遮断してしまわずに私の目の前でそれらについて話をしたし、修羅場を隠すことなく見せた。
その教育方針については緒論あるだろうけれど、私はそのことをとても感謝しているし、私の人格形成に大きく影響している。
本書の中で、親の離婚によって子どもの結婚に対するネガティヴな意識が生まれるのでは?というQがある。
それに対する執筆陣の答えは、そんなことがないように周りでしっかり励ますことが大切だ、というもの。
私は、これについては違う意見で、むしろ幻想を持てなくなるので真剣に結婚することに関して考えると思うのだ。
私も今の相方と20代の半ばくらいに漠然と結婚したいなと考えていたのだが、今一度現実的にそのことを考え直した時、自分が母親へのアンチテーゼとして結婚を「成功」させたいだけなのだと気づき、それはちょっと違うなと強く思ったのだ。
この人と結婚したい、ではなく、ただ「結婚を成功させたい」だった。
個人的にはそういう経験をしているので、周りが励ます必要もないと思う。
私は自分の家庭も含め多くの崩壊家族を見て来た環境だった上、恋愛→結婚のロマンティック・ラヴ・イデオロギーの持ち主でもあったので、結婚という行為が信じられない、すなわちその結婚につながる可能性がある男女の恋愛すらも信じられない、という考えを幼い頃から持って来た。
おかげで青春のあり方もずいぶんと歪んだものになったが、そのかわりに今の相方と出会えたとも言える。
相方も家庭に絶望した経験がある人だし、色々とウマが合った。
だから、結婚にネガティヴな感情を持つことが一概に悪いとも言えないし、それがゆえに素晴らしい出会いもあるかも知れない。
結局はその子どもが生きて行く過程で自分なりの考えを構築して行くのだから、励ましたりするのもどうなのかな・・・とは思う。
結婚に対してネガティヴに捉えてしまうのも問題と言えば問題だが、ポジティヴに捉えるのも違うんじゃないかというのが私の考えだ。
出来るだけフラットな姿勢で、現実的に自分がどうしたいのかをシビアに考えてもらいたいからだ。
本書の最後の方で子どもたちへのインタヴューのコーナーがあるのだが、その中のインタヴュイーの一人が「家庭のことを話したいけれどそんなことを話題にする友達なんか誰もいない」と言っているのを読んでちょっと涙ぐんでしまった。
自分も同じだったから。
クラスメートたちを「下らない話題で盛り上がって!」と半ば軽蔑の眼差しで見ていた中高生時代の私は、その実とても深い孤独感に包まれていた。
そう、家庭の問題など誰も話のネタにしないのだ。
自分の頭の中はそのことについて常にモワモワとしているのに。
もう一度強く言う。
離婚を経験した子ども、私のような別姓子らにも彼・彼女らなりの「普通の幸せ」がある。
それはきっと、世の中で言う「普通の家庭」のものと大して変わらないはずだ。
それを普通でなくしているのは、そういう環境の子どもたちに対する周りの反応だ。
確かに本当はしなくても良かったかも知れない辛い思いもしているが、それもまた人生の苦い1ページに過ぎない。
それよりも、そういう子たちにも今感じている幸せもあるんだということの方に思いを馳せて欲しい。
私は、余計な想像→同情のメカニズムが何となく出来上がって行くのが一番許せなかった。
そういう目で見られることを糧に生きて来た部分もあるけれど、その反骨精神を全ての離婚家庭の子どもが持っているとも思えないので、そういう気持ちをこれからの子どもたちには経験して欲しくない。
本書は、実際の当事者への啓蒙書である以上に、離婚家庭ではない環境に生きて来た人々のある種の偏見を減らして行く上で最適の書だと思う。
ぜひたくさんの人に読んでいただきたい。
ひょっとしたら拙ブログ史上最長の記事になってしまったかも知れませんが、WINKさんの活動にぜひ当事者として応えたかったのです。
何かの助けになれば幸いです。
素晴らしいご本を本当にありがとうございました。
当事者、特に子どもの思いをストレートに伝えた本はとても数少ないので、嬉しかったです。