まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
これは島崎藤村の詩集「若菜集」の有名な一節ですけれど、
ここに出てくる「花ある君」とは藤村の初恋の人、おふゆさんのことだそうで。
馬籠宿本陣の家に生まれた藤村は隣家・大黒屋の娘であったおふゆに恋をするも叶わず、
おふゆは妻籠宿 の脇本陣であった林家に嫁いだのだそうでありますよ。
ちなみに上のジオラマで左下の丸印部分が本陣で、右上の丸印が脇本陣奥谷。
いずれも宿場内で大きな構えですが、妻籠宿の本陣は先にもふれたとおり再建した建物ですけれど、
おふゆさんの嫁ぎ先である脇本陣奥谷の建物は(さすがに江戸時代ではないものの)
木曽名産の檜を贅沢に用いて、明治10年(1877年)に建てられ、国の重文に指定されていると。
江戸期には辺りを領した尾張藩によって、木曽五木のひとつであるヒノキは
伐採が禁じられていましたから、名産の材木ではあってもそれをふんだんに使った古い建物は
例がないのでありましょうね。
入口からして妙に立派ですけれど、
本陣というのは幕府からの厳しい統制の下に置かれたのに対して
脇本陣の方はもそっと自由さがあって商売に工夫を凝らしたりできたらしい。
それがつまりは蓄財にもつながったか、明治に豪壮な屋敷を造り、
今日まで古い姿を残せることになったのやもしれませんですね。
脇本陣奥谷一階の座敷。
奥に簡素なテーブルがぽつねんと置かれてますが、
これは明治13年(1880年)の明治天皇行幸の際に御休所とされた際に、
天皇はテーブルに椅子で御休みになると伝えられ、
近在の大工やらが見よう見まねで作ったテーブルであるそうな。
いかにも安普請っぽさを漂わせてますが、
実際の使用にあたってはテーブルクロスが掛けられますから、
テーブルのそのものの見栄えは関係ないということに。
とは言うものの、実は日本の木工技術は大変なものがありますので、
ボランティア・ガイドさんの説明には「ほお~」と思う部分も。
妻籠を訪ねたときには、この辺、お聞き逃しなく。
また、二階の何気ない壁の中には隠し階段がありまして、
何やらの密談の用にも応じられるような部屋まであったのは
天皇も御幸される際の休憩所になったりもして政府要人などもやってきたからかもですね。
ですが、そうした宿としての繁栄も明治44年(1911年)頃までとなりましょうか。
鉄道の中央西線が全通して中央東線とつながり全体が中央本線として利便性が向上、
駅から離れた宿場が時代に取り残されてしまう様は何も妻籠宿に限った話ではないですなあ。
しかし、大変な努力はあったでしょうけれど、取り残されたものを取り残されたままに
街並み保存したことが反って妻籠宿の観光価値を高めることにはなったわけで。
脇本陣奥谷の裏庭に隣接して近代的な建物の歴史資料館がありますけれど、
この近代的な建物も宿場の街並みからは裏に隠されて見えないようになっている。
考えたものです(建物そのものは見えませんが、展示物は木曽の歴史をたどって見ものですよ)。