映画の題材としては当然にオリジナル脚本というものがある一方で、
小説を脚色するということもありますですね。


ずいぶん前、角川映画のキャッチコピーに

「読んでから見るか、見てから読むか」といったのがありましたけれど、
元の小説には当然ながらそれなりの面白さがあり、

そしてそこから作られた映画にもまた別の面白さがある…
とは角川映画であらずともの話ではなかろうかと。


反面、映画が先にあって、そのストーリーを元にノベライズされるという形も無くはない。
ですが、原作小説があって映画化された場合には

「読んでから見るか、見てから読むか」が有効に機能するも、
映画が先にあってノベライズされた場合には

その小説化されたものをどれほどの人が手に取るかは疑問であるような。


ノベライズはあんまり日本では見かけないようにも思いますですが、
ペーパーバックの洋書なんかにはよくある(あるいは、あった)ような気がします。


実際、個人的にも初めて買ったペーパーバックは映画「スティング」のノベライズだったような。
今はもう無い銀座の洋書店イエナで買ったんだったと思います、中学生の頃ですね(少し、遠い目…)。


ただ、これは英語の文章を読むのに一度見た映画ならストーリーも分かっているわけだし、
取っつきやすかろうと思っただけですから、見た映画を改めて小説として読むという感覚はおよそ無し。

それに恥ずかしながら、結局最後まで読まずじまいだったと思いますので、
映画と比べて小説としてどうかてなあたりは何とも言いようがない…。


と、思い出話はともかくも、たぶん映画作品のノベライズには
最初から小説として作品化しようとする際に「小説という器で何ができるか」というこだわり、
この器ならではの個性を封じ込めようとする気概(?)といったものが欠けているケースが多い、
何となれば映画の人気にあやかってみました的に出版されたりするからでもありましょう。


で、何かしらの創作をする際、いったいどんな「器」に盛るかというのは
作り手にとってはとても大きな思案のしどころなのではないですかね、本来は。
おおざっぱに言っても「小説」でやるのか、「芝居」でやるのか、「映画」でやるのか…てなあたり、
仕上がりは大きく異なりましょうし。


もっとも現実には小説にしても、芝居にしても、映画にしても、

それぞれが専門的に分業化されてますから、
ひとりの作り手が思案するとはあまり現実的ではないとは思いますが。
とまれ、それほどに「器」というか、「フォーマット」にはそれぞれの個性があって、
それが違いとなって受ける印象も異なる。


だからこそ「読んでから見るか、見てから読むか」が成り立つわけで、
そうでなければ「おんなじ話を何度もねえ…?」と思うだけのことになりましょうから。


てなことをぐじゃぐじゃ言っとりますと、いったいなんね?と思われるでしょうけれど、
映画「つぐない」を見て、思うところを書き出したらこんなふうになってしまっただけでして。
この映画はジョー・ライト監督、キーラ・ナイトレイ主演で
プライドと偏見 」と「アンナ・カレーニナ 」の間に制作されたようです。



つぐない [DVD]/キーラ・ナイトレイ,ジェームズ・マカヴォイ,シーアシャ・ローナン


先の「アンナ・カレーニナ」では、
映画という器を使って、妙に芝居っぽいふうに仕立てるという
凝った(結果、成功したとは必ずしも言えない)演出を見せておりましたですが、
こちらの「つぐない」は言えば、映画という器を使って、

今度は映画の時間進行があたかも文章を書いている、
書かれた文章がそのまま映像であったとしてみたらば…てな具合にできているようですね。


この辺り説明がうまくないとは思うものの、あまりに正確に記しますと、
こんどはネタバレ的にもなってしまいましょうから、難しいところです。


ただ少なくとも、「アンナ・カレーニナ」の芝居っぽい上っ面よりは
よほど手が込んでいるなとは思うところでして、どうしてこんな仕立てだったのかを
最後の最後で気付かされるまでは、場面、場面にめまいがしそうでありましたですよ。


これだけのことでは相変わらず「何のことやら?」でもありましょうけれど、
映画という器でこういうこともできるのかといいますか、

こういうことをやろうとする人もいるんだ…という辺り、
「ほお~」と思うのではなかろうかと。


とにかくフォーマット勝負でストーリー的には深く云々しない方がいいですが、
どんな仕立てかが気になる方はお試しを。