バナッハ=タルスキーのパラドックス | Thinking every day, every night

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夢想家"上智まさはる"が人生のさまざまについてうわごとのように語る

「過去記事を甦らせよ!」シリーズ第12弾!
当記事は、2011年12月10日(土)投稿の記事の再掲載です。

今日は長いよ! 難しいよ! 覚悟して読み通してみてね♡

バナッハ=タルスキーのパラドックスをご存知でしょうか?
これはれっきとした数学上の定理なのですが、ここから導き出される解釈があまりにも信じがたいものであるがために、「パラドックス」と呼ばれています。

■1.パラドックスの内容

数学の定理としての「バナッハ=タルスキーの定理」は当然のことながら、一般人には全く理解不能の純粋な数学的証明から成っていますから、ここでは触れないことにして、世間でパラドックスとして知られている内容をご紹介します。

※証明をどうしても見たい方はこちらにあります。証明はユークリッド幾何学に群論と集合論(特に選択公理)の知識を適用して行います。

バナッハ=タルスキーのパラドックスによると、

「ビー玉を有限個に分割し、それを集めて、元のビー玉と同じ体積のビー玉を2個つくることができる」

これだけでも十分にパラドキシカルですが、さらに以下のようにも言いかえることができます。

「ビー玉を有限個に分割し、それを集めて、回転と平行移動操作のみで再構成し、太陽と同じ体積のビー玉をつくることができる!」

もちろん、再構成してつくったビー玉は、中身がすかすかとかでは決してありません。元のビー玉と全く同じように中身がぎっしり詰まっています。


■2.さまざまな解釈

この定理に対してはさまざまな立場からさまざまな解釈がなされています。
ここでは以下の3つの主張に分けて見ていきます。

 ・2-1.「受け入れろ」派の主張
 ・2-2.「数学=道具」論者の主張
 ・2.3.「証明の不備」論者の主張

◆2-1.「受け入れろ」派の主張

このパラドックスについて、「いかに荒唐無稽に見えようが、これは数学的に証明された事実なので、ちょうど不確定性原理がそうであるように、我々はこの奇妙な帰結を受け入れなければならない」と論じる論者が少なからずいます。

つまり、1の金から10でも1000でも無限の金を生み出すことができるというわけです。
なかなかセンセーショナルで、人の目を引くには効果的ですよね。

ただし、この定理の証明は、どのように分割し、それをどのようにすれば再構成できるかの示唆を全く与えてくれないので、これまでの錬金術師のように、人生を無駄に浪費し徒労に終わる公算が限りなく大です(笑)


◆2.2.穏当な「数学=道具」論者の主張

多くの穏当な数学者や論者は、
「証明の過程そのものに間違いはない。しかし、数学的に正しいことと、それがそっくりそのまま現実世界に適用できることと話が別である。そしてこの定理について言えば、現実世界で分割と再構成を実際に首尾よく行うことはできない」
という立場をとっていると言っていいでしょう。

数学とは現実世界の真理を証明するものではなく、実世界をある特定の目的のもとに単純化し抽象化した世界に対して適用される「道具」であって、別の目的のためには別の抽象化された世界を創り出して数学を適用する、そんな道具である、というのが現代の数学に対する一般的な認識といえます。

ある抽象化された世界において証明された真理でも、別の抽象化された世界に適用しようとすると、当然のごとく、適用外だったり誤差が生じたりするわけです。

よく知られた例でいうと、「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」があります。

ユークリッド幾何学の世界では、ある直線aに対して、直線a上にない点pを通り直線aに平行な(どこまで延ばしても交わらない)直線を1本引くことができます。私たちの慣れ親しんだ幾何学ですね。

これに対して、平行線を引くことができない世界や2本以上引くことができる世界を仮定して数学を適用することもできます。これが「非ユークリッド幾何学」です。

どちらが正しいとか、どちらが現実世界を正確に反映しているということは言えません。
言えるのは、たとえば、われわれの日常生活のレベルで利用するなら「ユークリッド幾何学」が使いやすいし、また別の目的のためには「非ユークリッド幾何学」の方が適している場合もあるかもしれません。

そしてこの「バナッハ=タルスキーの定理」も、<<ある特殊な抽象化された世界において>>「ビー玉から太陽を再構成できる」と述べていますが、実は、分割される各断片は、測定可能な明確な境界や通常の意味での体積を持ち得ません。(数学的に表現すれば「ルベーグ可測でない」といいます)
つまり測定が可能な物理的分割は不可能なのです。

この立場の論者は、「バナッハ=タルスキーの定理」は数学的には正しいが、その数学的言明を現実世界にそのままアナロジーとしてあてはめて、無から有を生じるように主張するところに間違いがあり、パラドックスが生じる所以と考えているといえます。


◆2.3.「証明の不備」論者の主張

上記の考え方をもっと進めて、「数学的証明そのものが適切でない、もしくは前提が間違っている」と主張する人々もいます。
実を言うと私もこの立場にあります。

この立場の中にも若干の温度差があって、より穏当な立場の人は証明の中で使われる「選択公理」を疑問視します。

もっと過激な人々は、「選択公理」に限らず、数学に「無限集合論」、いいかえれば「実無限」の概念を導入することに反対します。

このあたりになると「数学基礎論」の相当難しい議論になってくるので、わかりやすく説明することも難しくなってくるのですが、さわりだけでも述べてみたいと思います。


◆2.3.1.「選択公理」否定論者の主張

まず「選択公理」使用の問題。

このパラドックスは、その名の通り、 ステファン・バナフ(バナッハ)とアルフレト・タルスキーが1924年に発表した定理ですが、この定理を証明しようとした動機が、実は「選択公理」という数学上の概念を用いることの問題点を指摘することにありました。

つまり、「選択公理」を使うと、こんな変な(現実世界とは相容れない)結論に至ってしまうよ、だから「選択公理」を無批判に使うのはやめよう、ということです。

しかし現代数学で「選択公理」はなくてはならないものとみなされています。

実際、多くの重要な定理がこの「選択公理」を用いて証明されており、もし「選択公理」がなかったら、そういう多くの重要な定理が、証明不能で、真理か偽か分からない根無し草の言明になり果ててしまうので、現代数学の主流派はこの公理を決して手放そうとはしません。

ここでやはり「選択公理」についてごくごく簡単にでも説明する必要がありそうです。

◆◆「選択公理」とは

「選択公理」を説明する前に、まず「公理」という用語を簡単に説明しておきましょう。

「公理」とは、もはやそれを他のどんな命題(数学的な言明)からも証明することができないような、大前提の命題を意味します。

この「公理」を出発点にいくつもの「定理」が証明され、さらにその証明された複数の「定理」や「公理」を組み合わせることにより、別の「定理」が証明されます。

数学とは厳密科学の最たるものというのが一般人の感覚ですが、実際には証明不可能な公理を前提として証明が成り立っているという事実をいつも念頭に置いておくことが肝要です。

さて、「選択公理」とは、空でない集合を元(要素)とする集合Aがあるとき、それぞれの元の集合からひとつずつ元を選択して新しい集合Bを作ることができる」というものです。

まず理解を容易にするため、有限集合の例をとって見てみましょう。

以下のような集合X、Y、Z、Aを考えます。

集合X={1,2,3}、集合Y={4}、集合Z={5,6}
集合A={集合X, 集合Y, 集合Z}

この集合Aのように、集合はその元(要素)として集合を持つことができます。

すると、集合Aの元である集合X、集合Y、集合Zのそれぞれからひとつずつ代表となる元1、4、5を選んで、新たに集合B={1,4,5}を作ることができます。

これが「選択公理」です。

こう書くと、この「選択公理」はあまりにも当たり前すぎて、「公理」と仰々しく呼ぶのもおこがましく思うかもしれません。
まあ、だからこその証明不能の「公理」なわけですが、「選択公理」が自明なのは集合A、X、Y、Zが有限個の元をもついわゆる有限集合だからです。

ところが、集合を無限の元を許す「無限集合」に拡大して考えたとき、「選択公理」は必ずしも自明なことではなくなります。

集合X = {1,2,3,…}、集合Y = {4,…}、集合Z = {5,6,…}、…
集合A = {集合X, 集合Y, 集合Z, …}

ここから例えば集合B = {1,4,5,…} という集合を作れるのは、やはり自明に見えるかもしれません。
しかし、「…」の部分が問題なのです。

集合Aの無限個の元、X、Y、Z、…のそれぞれから「順番にひとつずつ代表となる元を選び出す」操作を有限回の操作で完了することはできず、無限個の元について、このような操作を行えるかどうかは必ずしも自明とはいえません。

もうひとつ例を挙げると、たとえば、集合Aを「すべての実数の部分集合を元とする集合」とします。

ここで自然数は、0,1,2,3,…と順番に数え上げることができますが、実数は順番に数え上げることができない性質を持っています。
数学的に表現すれば、自然数は可算無限集合ですが、実数は非可算無限集合です。

このような実数の部分集合は当然無限に存在し、それらすべての部分集合から何らかの基準で元をひとつずつ選び出すことができるかどうかはやはり自明とはいえません。

自然言語でいえば「以下同群」で済ませられますが、数学的な証明において「無限に続く」話は「落とし穴」が多く、しばしば誤った結論に導いて「パラドックス」を生じてしまうことが知られており、きわめて慎重に取り扱う必要があります。

「選択公理」について少し説明が長くなってしまいましたが、この公理を認めなければ証明できない重要な定理が多数あるため、無限集合論を基礎にする現代数学ではこの公理は、なくてはならないものになっています。
そして「バナッハ=タルスキーの定理」の証明にもこの「選択公理」が使われています。

数学者の中には、「選択公理」を安易に使用することで「バナッハ=タルスキーの定理」に現実世界との乖離、パラドックスが生じていると考えている人々が多くいます。

当然のことながら、そのような人々は「バナッハ=タルスキーの定理」に限らず、数学に安易に「選択公理」を使用することに警鐘を鳴らします。


◆2.3.2.「実無限」反対論者の主張

同じように「バナッハ=タルスキーの定理」は「数学的証明そのものが適切でない、もしくは前提が間違っている」と主張する人々の中には、もっと過激に、数学に「無限」を安易に持ち込むことを慎重にすべきと論じる人々がいます。

選択公理もつまるところ無限集合論における概念のひとつであり、数学の世界に無限集合論を導入したがために、このようなつじつま合わせが必要になったというわけです。

この「無限」というものの取り扱いの問題は、人類が立ち向かってきた古くて新しいテーマです。

その全容をこのブログで解説することはとてもできない話ですが、非常に重要なテーマなのでごく簡単に触れておきます。
今後、個々の問題やパラドックスについて、このブログで取り上げるつもりです。

◆◆「可能無限」と「実無限」

無限について、古くは、あの古代ギリシャの哲学者アリストテレスが、「無限」を「可能無限」と「実無限」に分けて論じ、厳密科学に「実無限」を持ち込むべきでないと主張しました。

ここで「可能無限」(英語でPotential Infinityですから直訳としては「潜在的無限」が正しいでしょうか)とは、「限りなくXXXXできる」という言葉で表せるような、ある(有限の)操作なり行為を際限なく繰り返すことができるという意味での「無限」、つまり過程(プロセス)としての無限であり、自然数1とか2などと同じような意味で存在するものではありません。

それに対して「実無限」(Actual Infinity)とは、1とか2などと同じように、存在物、対象物として取り扱われる「無限」です。
ちょっと分かりにくいですよね。

例を挙げましょう。

長さが1の線分を考えます。
この線分のちょうど真ん中で線分を半分に切ることができますね。
できた線分のちょうど真ん中でさらに半分に切ることができます。
そしてこの操作は無限に続けることができます。

しかし長さ1の線分が無限個の中点から構成されるとは考えません。あくまで真ん中で切るという有限のステップをいくらでも続けていくことが可能というだけです。

どんな自然数nに対しても、現在がn回目の切断だとするとn+1回目の切断が可能であるというだけです。いわば、有限の世界にとどまっているわけです。
だから「可能的にのみ考えられる無限」なのです。

これが「可能無限」の考え方です。

これに対して、長さ1の線分が無限個の点から構成されると考えるのが「実無限」の考え方です。

無限回切断した果ての状態(長さ無限小の線分?長さゼロの線分?)を実在するものとして取り扱う考え方といってもいいかもしれません。

もうひとつ例を挙げましょう。

π(円周率)というものがあります。3.141592…っていうやつですね。

これはいわゆる「無理数」に属し、上で書いた「…」は無限に続き、どこかで尽きることがありません。

小数点以下無限に続き完結しないのに、ひとつの数として認識できるのでしょうか?

「できる。πは無限個の小数部を持つ数字である」
と考えるのが「実無限」の考え方です。

一方、究極の(極端な)「可能無限」論者は、πを数として認めません。

◆◆実無限を避けた数学の歴史

実無限を数学や論理の世界に導入すると、いろいろとパラドキシカルなことが発生することが知られています。

たとえば、先ほどの長さ1の線分は無限個の点から構成されています。
この線分をちょうど真ん中で切断した長さ0.5の線分にはどれだけの点が含まれているでしょう?

そう、半分にしたにもかかわらず、長さ1の線分と同じ「無限」個です。

もうひとつ例を挙げると、次のような関数を考えます。
 f(x) = { xが偶数の時は1、xが奇数のときは-1 }

さて、xが有限値である限り、xがどんなに大きくなろうとも f(x)は1か-1のどちらかに決まります。
ではxが無限大のときf(x)は1?それとも-1? それとも…?

そんなこんなで、歴史的にみると、数学は巧みに「実無限」を避けて通って来た学問といえるかもしれません。

たとえば、19世紀にワイエルシュトラスらによって確立された解析学では、「無限小」や「無限大」の概念に頼らず、「可能無限」的に有限の立場にとどまった「収束」の概念で慎重に定義されています。
以下のような極限の概念を高校数学で習うと思います。



これを「xが無限大のとき、y=0である」とか「…、yは0に収束する」とか「…、yは無限小である」などと覚えているとしたら、それは厳密な意味では正しくありません。

また「xが無限大のとき」を「xが限りなく大きいとき」と言い換えても同じことです。

いずれの文も実無限の概念で語っていますが、「無限大」は数字ではないし「限りなく大きくなったx」などというものも無意味だからです。

では解析学ではどう言うかというと、



のことを、「任意の正の数 ε に対し、ある適当な正の数 δ が存在して、0 < |x - a| < δ を満たす全ての実数 xに対し、 |f(x) - b| < ε が成り立つ」と定義して、実無限の概念を回避し、巧みに有限の世界にとどまることに成功しています。

この辺り、非常に難しい議論になるので、もっと詳しいことを知りたい人は「イプシロン・デルタ論法」で検索してみてください。

◆◆カントール無限集合論の登場

しかし、19世紀後半から20世紀前半に数学者カントールやデデキントが登場し、そこに風穴を開けました。

すなわち、数学に「無限集合論」(現在は一般に「集合論」というと、この無限集合論を意味します)を導入しました。「実無限」を数学の世界に呼び戻したわけです。

ここでカントールの集合論について詳細に立ち入るつもりはありませんが、この集合論の導入により、数学はそれまでに比べて格段に豊かな果実を得るようになります。
そしていまや集合論(実無限の概念)は、現代数学になくてはならないものとなっています。

◆◆集合論をめぐる大論争

とはいえ、カントールが集合論を発表した当初、その賛否をめぐって世界的な議論が巻き起こりました。
しかもその急先鋒は、その時代の権威的な位置にいた大御所クロネッカー。

クロネッカーは、数学的な性質には必ずそれが成り立つかどうかを判定する計算方法、つまりアルゴリズムが必要であるとしました。この性質を数学基礎論的には「構成的である(constructive)」と言います。

クロネッカーの思想は極端で、整数から有限の演算を施して得られる数以外は、存在しないものとまでみなすほどでした。彼の有名な言葉に以下のようなものがあります。

「整数は神の作ったものだが、他は人間の作ったものである」

このクロネッカーの思想は、ポアンカレやブラウアーに引き継がれ、数学的「直観主義」として発展しました。この思想は現在でも健在の理論です。

直観主義で有名なのは、「排中律」の否定です。

「排中律」とは、「Aである」ことが否定されたら「Aでない」ことが帰結されるという考え方のことです。つまり「あれかこれか」の2者択一で中間がないことです。
証明におけるいわゆる「背理法」は「排中律」を前提にした証明方法といえます。

たとえば、「ab=0 ならば a=0 または b=0 である」というのが排中律を認める一般的な考え方ですが、排中律を認めない直観主義の立場では必ずしも「a=0またはb=0」とは言えません。証明不可能な場合の可能性が残されているというわけです。

ブラウアーは排中律否定の具体的な説明として「円周率の無限小数の中に0が100個続く部分があるかどうかは分からない」という例を引き合いに出しています。

◆◆再び「実無限」反対論者の主張へ

ここまで長々と、アリストテレスから現代に至る、実無限を認める派と認めない派の対立の歴史を書いてきました。

何度も言うように、現代では、数学上の実利を重んじる実無限肯定派(=無限集合論肯定派)が主流です。

多くの数学基礎論者は、必要な部分に、地雷を踏まないように適用する限り、積極的に実無限を導入すべきと考えていると考えてよいでしょう。

そういう現在の状況にあって、この「バナッハ=タルスキーの定理」のことを、数学の世界に「実無限」というものを不適切に持ち込んだことによる論理の破綻とみる人々が少なからずいるということが書きたかったのです。


■3.最後に

ここまで見てきたように、この「バナッハ=タルスキーの定理」というパラドックスひとつから、現在の数学という学問のかかえる歴史と課題が垣間見えてきます。

数学という学問は、決して世界の真理を厳密に表現する揺るぎのない学問などではないことを少しでも感じ取っていただけると、この記事を書いた甲斐があるというものです。

なお、以下のような「無限」をめぐるトピックスは、また別の機会にこのブログ上で是非とも論じたいと思っています。

・カントールの「対角線論法」の是非
・ゼノンのパラドックスの意義
・ゲーデルの不完全性定理の言い得ることと言い得ないこと
・などなど

P.S.
最後まで読み通してくださった忍耐強い皆さん、どうもありがとう。
地雷を踏まないように書き進めて、何と3ヶ月もかかってしまいました。
おかげさまで何とか年内にアップでき、一息つくことができました。