2010-01-03 12:20:21

おわりにあたって

テーマ:男を見限るまえに女が読む本

「男がだらしない」と言われはじめてから久しく経つ。尊敬とはいかないまでも、期待もしていないという諦めにも似た女性たちの男性観を耳にするうち、私なりに思いついたことがらを文章にしたのが本書である。



男性と女性は生まれながらにして体質も性質も感受性も異なる。その違いは性エネルギーにこそ顕著に現れる。男女の性差は誰もが理解している筈であるのだが、日常の生活現場において、その理解を生かしているとは言い難い。問題は・・どの・・よう・に・・理解・・して・・いる・の・かということである。



本書の前半部(第三章まで)は男性の性情を暴露しながら互いの性のエネルギーの違いを考察したものである。そこでは、男性が女性を見下す態度の裏側に女々しさやうぬぼれが潜んでいることや、頑張りの原動力が欠乏感に由来していることを明らかにした。また、男性が女性に引き付けられるのは宿命のようなものだが、選択権が女性の側にあり、ゆえに男性の悩みは尽きぬということも述べた。



「男がだらしない」と思われるようになったことには理由がある。それを社会制度や産業構造の変化とともに加速した女性の社会進出がもたらしたものだと単純に片付けるわけにはいかない。なぜなら、進出は門戸を開いたからであって、実際、男性が女性より実力として優秀であればそのようなことは言われない筈だからだ。そこで、本書の後半は男性の権威失墜の原因を母親との癒着構造に見て、日本男性の特徴としてある甘えと無責任さと引きこもりの性質を取り上げてみた。そこに浮かび上がったのが古来より日本の国全体を覆っている「母性的エネルギー」である。それは強烈に「家」と結びついている。地域も会社もどんな組織も「家」を母型としている。そして、天皇制が「家」の象徴であることに行き着いた。そのことにより、日本の男性は「家」を守った男たちというより「家」に守られた男たちであったということが明白になったと思う。



ということは、男性の甘えと無責任と引きこもり的性質は今にはじまったことではなく、民族の特性として継承されてきた性質だった。実は、女性が嫌うその性質こそがこれまでの日本の歴史と繁栄を導いてきたエネルギーであったのだ。幼児性は従順な働き者として、個の責任のなさは強い集団意識(和の思想)として、そして、引きこもることで類まれな集中力を匠の技(職人芸)に注ぎ込んできたのが男たちだった。
国民的性質ともいえるそれらの性質のポジティブな側面をクローズアップしてみれば、男性の側の言い分としては「俺たちは真面目に働いてきた。だからここまで豊かになった。物質的豊かさはほとんど臨界値だとしても、俺たちは臨界値に達するまで君たち(女性)に物質的豊かさをプレゼントしてきた。抑圧と差別を引き換えにではあるけれど…」。ということになりはしないか。付け足しのように吐かれる尻尾の言葉は、抑圧とか差別をする男性の側に差別している実感がないことを証明している。実感としてはむしろ養ってあげている感じが強いのではないだろうか。事実は確かに養っていた。それでも男性は女性の反論に反省の色を示す。しかし、それはおもに面倒だからである。なぜ面倒になるか。抑圧や差別の話と家族を養うことは全く別の問題であるにもかかわらず、男性はどこか混同している。養ってもらっているのだから理不尽なことも我慢するのが当たり前だと…。



女性が教育も受けられず、仕事もお茶汲み程度しかさせてもらえず、ただの主婦として毎月のお給料を待っていた頃は男性の仕事をわからないまま感謝していた。が、ほとんど同じ条件で働くようになった今、男性の仕事ぶりにそれほどの尊敬を抱かなくなった。仕事も自分のほうができると自信をもった女性が増えた。男性の真面目さや真剣さの程度がわかってしまったのである。メッキが剥げたというか、これまで男性は・・ただ・・・・・働かされて・・いたという事実が暴露されたのだ。それでも経済的な成長が充分にあったことが隠れ蓑になっていたというわけである。   


        
  そういう情況のなかで男性は何がわかっていないのか、それは「自発する感性」のことである。「どのような人間になりたいのか」ということである。何ができるかではない。自分の内部に発火する情熱とでも言おうか。自己の内面を自覚したところの勇気ある道を歩むものには必ず同行者が現れる。臆病な振る舞いはそれを信じられないからだ。自覚なき目標の設定はすぐに萎える。そして、その道を歩むうえで大切なことは、男性は女性を見下してはならない。女性におもねってはならない。女性から離れひとりす拗ねてもならないということである。 



かつて日本は「親孝行」の思想で土台を作り繁栄した。主君への忠義、天皇陛下への忠節、そして、親への恩義。世界は「家」であった。「家」を守るために親たちはどんな苦労も省みなかった。その苦労は、一般家庭においては「貧しさ」だった。豊かになって「貧しさ」から抜け出すとともに産業構造や雇用システムが変り実際の家族も崩壊の危機に瀕している。いま日本が抱える諸問題にそれらがすべて関わっていることで納得されるだろう。



「家」と「貧しさ」の崩壊により男性が頑張れる最大の動機が失われた。宙に浮いた母性の力は息子と娘に絞られた。母親のあからさまな介入は子供たちから生命エネルギーを奪ってしまう。母はそのことを自覚しなければならない。頼りになる男を作っていくのはこれからの新しい母親たちなのだ。心配だからと言って、愚かな消費に乗じてはいけない。母親が変わらなければ男も日本も変わらない。この国においてはそれほどの力を母は持っていると私は思うのである。



性や天皇や宗教に興味を持ち本を読むことは誰でもするだろう。そして、それぞれの私見があるだろう。しかし、自分の中に渦巻く実感としての性のエネルギー、或は、自分が身を置く国家の中心的気配を司る天皇制や全く現実味のないお飾りの宗教心に対して実際目を背けてはいないだろうか。というより、他人事のように感じてはいないだろうか。私は日本に生まれ、日本に暮らす人々の無意識的な在りようがそうした事柄に対する腫れ物に触るような姿勢に端的に示されていると思う。さらに、人々の無意識下に沈潜し、人によっては意識の上でも普通に会話しにくい類のものは、つまり、あまり真剣に考えたくないもの、考えても埒があかないものほど私たちの人間性の傾向に影響を与えているはずである。埒があかないものはきっと秘密がぎっしり詰まっているに違いないと思うのである。










2009-12-31 21:06:51

第五章 女と家

テーマ:男を見限るまえに女が読む本

● 「隠れる」と「隠す」




カ  戦後、日本は頑張って物質的繁栄は手に入れた。しかしながら、東アジアの小国が経済大国と言われるほどになっても、なぜこんなに個人として誇れないのか、自信がないのか、不思議だよね。日本の国や日本人に対して否定的な論調が常にうまれる。




ケ  経済大国になったのは日本の男たちが頑張って働いてきたことの証だよね。それでも、成し遂げた事に対して個人的にはどこか全面肯定していないところがある。それは自分の意志と決断による選択行動の結果としてその成果を汲み取らないことと、成果に間違いが露呈した時、内部の要請による変革の仕方を知らないからだ。別の言い方をすれば、すべて「みんなと同じ」ように行動してきたからだ。農耕民族はみんなで助け合って共同体を維持しなければならないので「みんなと同じ」は当然でもある。しかし、個人の成長プロセスに置き換えてみると「みんなと同じがいい」と思えるのは子供の時期の感性だ。



カ  個人の成果が集団としての誇りに収斂してしまう。「おかげさまで」と自分の成果をへりくだる。



ケ  もちろん、自分ひとりの力ではなく、いろいろな人に支えられて成し遂げられたという理解は素晴らしいよね。それこそ「日本の心」だ。にしても、あまりに個を滅することが共同体への寄与であると思い込まされている。だから、個人の内面に発生する矛盾に自ら取り組もうとしない。まず「みんながよければそれがいちばんよい」としてしまう。僕は日本人ほど物事を考えるときに「みんなはどう思っているのだろうか」と、最初から全体とか集団のことを配慮して思考をする民族はいないと思っているんだが…。



カ  それだととてもそとづら外面がよくなるよね。情熱の根拠が「みんなのため」であれば結果がどうあれ許してしまう。「まあまあ」、「なあなあ」の世界だ。



ケ  僕自身ももれなくそうだけど、日本論や日本人論がこれほど好まれること自体、みんなが日本という集団のことを強く意識している証拠だよね。でも、それは決して政治体制としての「国家」意識じゃない。個を滅するというのは実際は「個を隠す」つまり「隠れる」ということでしょ。僕は日本人の集団化・組織化への偏向的性質は、変な話、互いに見張って、牽制し合っているからだと思う。もちろん、力を合わせて事に当たるとか、気配りに長けるとか他の利点を踏まえて言うんだが…。なぜ見張るかというと、逸脱するものを防ぐためじゃないかと。日本人は出しゃばることを嫌う、目立つことをあまりよしとしない。とてもおとなしい。なぜそれほどに和を強調するかというと、見つかるからだ。誰に?それはわからない。しかし、見つかるとまずいということを想像すると、僕たちの古い祖先は大陸から追われて逃げてきた人たちなんじゃないかと思う。共同体の和が乱れることに神経質になるにしても、僕たちはあまりに臆病で緊張感が強すぎる。



カ  日本人の祖先は大陸からの逃亡者?人類史の中では迫害が普通に行われていたわけだから、考えられないこともないが…



ケ  まあ、ひとつの比喩だけどね。逃げてきたか追い出されたか、とにかく人々は隠れた。日本は山が多いし、水と木が豊かだから隠れて生きるには最適でしょ。現代は「引きこもり」がいろいろ言われているけど、当初から日本の先住民は隠れて引きこもっていたんじゃないかな。それでも充分生きてゆけた。
古代から「籠る」ことで共同体の穢れを清めるようなこともしていて籠ることには馴染んでいた。



カ  子供の頃はよくかくれんぼして遊んだな(笑)。隠れていなければいけないということは、目立つ行動や新しいことを積極的にやれないね。一人のバカのおかげで全員が迷惑をこうむるから。 



ケ  日本社会はひとりの突出した行動に異常に神経質なところがある。ゆえに連帯責任が常識になっている。また、オリンピックや大舞台におけるスポーツ競技では精神面の弱さが指摘される。選手はたくさんの成功よりひとつの失敗がもたらすプレッシャーに過剰な緊張を強いられる。思うに、日本人の緊張感の強さは日常的に何かに恐れているためじゃないだろうか。それは、誰かに、或いは、何かに見つかる危険性に怯えているからじゃないのかな。その何かこそが集団の目なんだと思う。交番という見張所の発達もそういう一面がある。どれほど治安がよくても、同一民族でも、人に面と向かったときに緊張している。そんな極端な牽制し合いが、今では子供たちの間にも広がってしまった。



カ  仲間はずれはいやだから、どこかで妥協する。自分の納得より他人の視線や評価のほうが気になるからいつもみんなに合わせていく。緊張ばかりで新しい創造は生まれない。いつの間にか事なかれ主義になるね。



ケ  政治家や官僚・役人が典型だ。自分の任期が終わるまでは何事もなく済んで欲しいと思っているから、自らアイデアを出して働きかけていくことは絶対にしない。その体質は隠れ人と同じだ。



カ  一般の人も新しい芸術作品や人物が現れると、国内では見向きもしなかったくせに、海外で脚光を浴びると手の平を返したようにもてはやす。自分で決められない。オタク文化だってはじめは眉をしかめていた人もいつの間にか日本の自慢の種の一つに加えているよね。



ケ  国内から発信される新しいものはまず否定してかかる。これも、出っ張るものは排除しようとする性質からくる。なぜそんなに憶病なのかを考えるとね、やっぱり逃げてきた民族なんじゃないかと勘ぐっちゃう。異民族とぶつからないで逃亡したという比喩を使うと僕たちの精神構造の作られ方がとてもわかりやすい。その決定打は、逃げて隠れたはいいが、それが見事に成功したことなんだ。見つからないように作ったシステムは、結局、誰にも見つからないがゆえにとことん強化されてしまった。追いかけてきた者など誰もいなかったんだ。ただ、自分たちの外側に対する注意力だけが発達してしまった。やがて、隠れ家は山の陰という場所ではなく、母親の懐、母性という隠れ家に移行した。したがって母性から独立するのはとても勇気がいることになる。そのような形で心の性質は温存されていった。



カ  かくれんぼでもいつまでも鬼に見つからないと不安になる。見つかってしまうかもしれないという不安にいつまでも見つけてもらえない不安がプラスされたわけね。



ケ  対外的に憶病で緊張と不安の強い民族性には「隠れる」と「隠す」という習慣が張り付いている。外面が良いということは内面を隠していることで、日本人はそれを互いに探り合う。内面を隠してばかりいると自分でもほんとの内面がわからなくなってしまう



カ  ああ、それで「自分が何をしたいのかわからない」というクライアントがたくさんいるんだ。鬼などどこにもいないのに必死に隠れ、完璧に隠れたがゆえに窒息状態で苦しんでいる。自家中毒だ。



ケ  鬼にとって代わるものが世間の目(集団の目)だったんだ。



カ  なんとも抽象的なものを引っ張り出しちゃった。



ケ  そう、だから結局「みんなはこう思っているんじゃないかな」と、自分勝手に推測する癖がついた。自分を表明したり、行動する以前に、勝手な思い込みを投影する。評価の材料を提示する前から、ありもしない世間の非難を心配する。その無意識の反応傾向を理解しない限り僕たちの不安感が消えることはない。今、人々は社会が不安定だから不安になると思っているが、そればかりじゃない。不安は社会だけではなく僕たち日本人の根強い思考パターンが生みだしているんだ。世間の目というのは基準がありそうで実はない。各個人の推測を寄せ集めたところに怯えを加えて命を吹き込んでしまうんだ。



カ  省庁や企業の事件が発覚したとき必ず隠蔽体質が現われる。隠せば隠すほどボロが出てくる。最初から正直に告白するということをしない。



ケ  性懲りもなく最初はまるで手続きのように隠すよね。しかし、その「隠す」「隠れる」もネガティブなものばかりじゃない。「籠る」ことで男たちの集中力と技術は見事に磨かれた。さらに、話が大きくなっちゃうけど、日本的ということを考えた時、その特徴の一つに見えないものにたいする想像力がある。神社のご神体や秘仏などは隠しておく。枯山水のように水を置かないことで逆に水を想起させる。また、行間を読むとか間合いをはかるとか、「間」や「空」に対する意識が絶妙に繊細である。聖なるものはむやみやたらと姿を現さない。



カ  天皇も明治維新までは隠れていたと言えるんじゃない?



ケ  うん、そう思う。敗戦の後また隠れたけどね。そもそも、日本神話の始まりからして黄泉の国に隠れたイザナミノミコトを追いかけたり、天の岩戸に隠れたアマテラスを誘い出したりと「隠れる」歴史がある。僕は「隠れる」と「隠す」が心理的なところで日本の母性という集合的無意識と密接につながっていると思う。男が隠れても誰も追いかけやしない。「家」や外面とか建前、責任の問題も母子の癒着も引きこもりも集団傾向も天皇制も主張の仕方もどこかで「隠れる」と「隠す」に通じている。そして、そこに発生した膠着状態こそが日本のジレンマの正体ではないのだろうか。









2009-12-26 22:49:33

第五章 女と家

テーマ:男を見限るまえに女が読む本

● 母性という妖術



ケ  それとね、天皇制が女性的な雰囲気がするのは天照皇大神や卑弥呼の神話もそうだけど、やはり女性シャーマンの流れがある。農耕における恵みは自然気候に左右される。山川から草木にいたるまで神が宿るとする自然崇拝は穀物の収穫を祈願したもので、シャーマンは自然や人々のエネルギーを逐次刷新していく儀礼や祭礼の指導的役割を担った。教義らしい教義のない神道の神通力は当初はシャーマン的な力を顕現させていたはずで、天皇家の発祥は女性シャーマン、すなわち巫女の力からだったと思う。聖徳太子がつくったといわれる「夢殿」はまさにシャーマンの夢見の部屋のことでしょ。




カ  女性シャーマンや農耕や自然崇拝などの背景があって母性的な皇室を形作っていったと…



ケ  全くではないが、教義がないということは言語的思想がないということでしょ。思想や論理は男性的エネルギーで女性エネルギーは身体や形にして見せる。実体として見せる。子宮の中で胎児を人間の形にしていくプロセスはその典型だ。女性はかつて嫁が姑の実力を見て驚いたように、言葉ではなく関係の在り方として見せつけるんだ。聖徳太子の「和をもって・・・」云々は母親が兄弟みんな仲良くしなさいというのと同じで、「家」の形を、つまり共同体の形を説いたんだ。



カ  日本最初の大権力の後ろ盾として女シャーマンがいたわけね。天皇家はシャーマン一族だったと…。



ケ  戦闘部隊よりその巫女的力を継承して理屈抜きのパワーや奇跡を見せたのかもしれない。当時は戦いより収穫のほうが大切だったんじゃないのかな。それだけ農耕技術が未熟で収穫が不安定だった。自然崇拝の儀礼を司る一族はもっとも重要だった。



カ  それであまり好戦的な感じがしないのかな。



ケ  戦いで相手をねじ伏せるというより、豊穣を願う神との交信の儀礼化や、情報戦略に長けていた。遣隋使や遣唐使を送っていち早く外来の文化を取り入れたことなどにそれが感じられる。それと土着の信仰と自分たちの家系(氏神)を神道にうまく昇華させながら、且つ、仏教と「習合」させて大規模な宗教対立を起こさせなかった。国の造られ方に男性的なエネルギーをあまり感じない。



カ  宗教対立を起こさなかったことは大きいね。当時は宗教を握ったものが国を制するわけだから、対立していたら大変なことが起きていた。天皇家が取り入れた情報は主に宗教情報だったのかもしれない。



ケ  日本の風土もそれほど戦闘的じゃない。風土自体がとても繊細で四季折々絶妙に変化する。時の流れに合わせて変化する女性特有の変幻性に相似していなくもないでしょう。そういう自然観を大事にしてうまく取り込んだ。



カ  日本では国を「国家」というよね。



ケ  「国」=「家」と仮定すると、天皇制は「国」の母性で時の政権は皆息子達(父親を兼ねる)。そして、最終的に母親(天皇)の責任(国家の継続)は、形はどうあれ果たされていく。



カ  日本はつい最近まで企業も家族と同一視した雇用形態をとってきた。終身雇用というのは、母親の息子に対する面倒見の構図と同じだね。



ケ  僕たち日本男子の依存癖はそういった二千年来の民族的風土と絡み合っている。また、宗教者のすごいところは絶対に自分たちが悪かったとは言わない。端から責任の埒外にいる。そういうところからも天皇家が自然崇拝を司る宗教的な家柄であることが推測できる。



カ  つまり、日本ほど母性的なエネルギーで成り立っている国はないということね。わかった!雅子さまは日本的母性を継承する女性のタイプではないんだ。彼女は「家の存続」や「男の子」にリアリティを感じていない。無意識レベルでは大切なことだと思っていないんじゃないかな。それでいて二千年のプレッシャーを背負い込んでいる。病気になるのも無理はないね。



ケ  天皇家は言葉や武力で日本を支配してきたわけではなく、その母系の形で範を示した。天皇個人が人格モデルにならなくても天皇家が日本の「家」のモデルになった。日本は皇室も一般家庭も会社も農耕型シャーマン的母性のエネルギーが満ち満ちている。だから、あのような歌詞の国歌(血統の歌)が許された。国旗の「日の丸」を見ると女性の生理を想像してしまう人もいる。国旗まで女性的だ。太陽の裏に「血」を滲ませている。



カ  日本の「家」の要として天皇制があって、その「家」を象徴する母性に去勢された形で息子たちが存在しているとなると、天皇制が崩壊しない限り男たちの自立は無理なのかな。



ケ  天皇制についてはいろんな角度から考えられると思うけど、どのような論よりもまず、自分たちに母性という妖術がどれほど巧妙に仕掛けられているかということを、男性自身が自覚し実感することが大事だと思う。



カ  象徴となった天皇制はもはや政治体制でもない。さらに日本は宗教国家でもない。では一体何を象徴しているのかを考えろと…



ケ  ここのところ加速度的に競争社会に突入していったのを、時代の流れだから仕方がないという見方で納得している人が多いかもしれないが、僕は日本人が競争社会に参入するに当たって心得ておかなければならないことを理解しているのだろうかという疑問がある。それは競争社会というのは徹底した父権的社会であるということだ。そこにはこれまでのような母性の擁護はない。余談だが、今の競争社会を推し進めたのは小泉元首相でしょ。彼は早い時期に離婚をしていて公には女性の影がちらついていなかったよね。とても父権的な人物だった。彼を介した容赦のない競争が不安と恐れを生み出す工場となり、すでにそれは新たな格差社会となって姿を現した。日本の男性はタブーに触れるのを恐れ、男として成長を果たすために一度くぐらなければならない試練を放棄して競争社会が生み出す諸問題にシフトしてしまった。



カ  男として成長するための試練とは?



ケ  僕たちは内面の問題としても、社会的な問題としても天皇制のことを本格的に考えたことがない。つい数十年前、三百万人の若者が何も知らずして「天皇陛下万歳」と叫び、まったく同じ意味で「お母さん!」を呼びながら死に赴いた。だが、やっぱり天皇は責任をとらなかった。今は神でも人間でもなく象徴。これほど不思議なものを僕たちは無条件にいただいている。それがどのように自分たちの精神性とつながっているのか。



カ  そういうことは過去のことでもう済んだことになっている。時代の波に乗り遅れまいとみんながただ焦っている。



ケ  全員が勝ち方だけインプットする。ほとんどが負ける仕組みなのに。負けて立ち上がる精神をどこで鍛えるの?ということになる。



カ  タブーに触れるというのは天皇制のことなの?でも、天皇制の話ほど普通の会話に乗せるのが難しいものはないよね。対相手と不思議な感覚の関係になる。



ケ  天皇が絶大なる権力を持っているならば話はもっと簡単なんだが…。天皇制を消滅させることが男たちをゼロから作り直す最大の機会になることは確かだけど、それだと日本国を消すことになる。二千年以上の歴史を閉じること、そんなもったいない話もない。歴代の権力者と同じ悩みだ。天皇はつねに誰も手を出すことができない権威の懐におわしまする。その権威は対外的に日本の誇りである。権威に責任は発生しない。僕たちは一般に、天皇について考えようとすると、思考そのものが天皇制のドグマでできていることに気づく。それは誇れるものと、自己の確立を邪魔するものが同じ起源であるというドグマなんだ。立ち往生してしまう。それを僕は天皇マジックと呼んでいるんだけどね。



カ  個人の中で感覚と思考が分裂したまま一つであり続ける形だね。



ケ  「心の中の天皇制」男たちはそれを互いに語らないといけない。母親にいかにやられたかを。そこで、母親が自分に示した愛情の数々によって、自分がどれほどの腑抜けになってしまったかがわかる。天皇制の是非の論議はそこをしっかりと押さえてからの話だと僕は思う。



カ  天皇制も母親についても理屈だけでは語れない。あまりに自分と同一化しているから天皇制や母親を否定すれば自己否定に行きつくし、肯定すればそれらの権威の下で自己変革ができない。語ろうとすると形容しがたいもどかしさというか、すぐに自分に跳ね返ってくる。



ケ  それは生存の根っこにあって解決不可能の絡み合いになっている。正直言って、日本の自信のなさの起源はそこにあると思う。触れたくないことの一つだ。



カ  日本では一般会話の中で宗教の事を話題にするのもタブーというか、憚るところがある。



ケ  そうだね。天皇の事も宗教の事も母親の事も話すとなるとどこか構えてしまう。同じ心情の仲間か信頼できる友人以外とは話さない。天皇については民衆のリーダーとしての経緯がよくわからない。どちらかと言うと神の側についている。殿上人は民衆に後ろ向きだ。日本人はお上に弱いが、天皇というリーダーははじめから民衆の手の届かないところにいた。顔を見てもいけないし、口の出しようもなかった。



カ  もし、天皇がシャーマンだとして、神官がお伺いをたてたら普通それを民衆に示すでしょう。



ケ  天皇はそれをしなかった。つまり民衆に言葉を示さなかった。言葉にしたとたん必ず反論が発生するからね。スタイルで表わした。言葉にすれば善悪勝負になってしまう。正しいか間違いかのね。天皇はそれを回避した。



カ  言葉は外来の仏教に預けたね。そこに聖徳太子が登場して神仏を混ぜちゃった。



ケ  二千年近くも天皇家が八百万の神という自然崇拝を根本にする教義のない宗教から一歩も出なかったことは特筆に値する。自らを表に出さないことが天皇家存続の秘術だった。天皇家は「隠れる」ことで「家」を守る。だから、国家神道の顔として出てきた明治から昭和にかけてが最大の危機だった。明治では戦争に勝ったからよかったようなもので危ない橋を渡った。



カ  昭和の敗戦はもっと危なかった。  



ケ  基本的に天皇家が神の系譜であるとするのは後付けの論だから話がややこしい。それでも、僕たちが天皇や宗教を論じにくいというのははじまりに言葉がなかったからじゃないかな。僕たちには現世利益を祈る習慣はあっても神について思考する習慣がない。それは天皇について思考する習慣がないということだ



カ  それも女性的な印象を受けるね。



ケ  そうした流れは新興宗教に対する妙な拒否感(触れ方に困る)にも通じる。加えて決定的なのは、敗戦のトラウマによって神や天皇に対して徹底的に黙した時期があって、この間に僕らは心の中の核心部分を腐らせた。天皇論議は難しい。ただ言えることは、天皇を崇拝している人達は母親に去勢された息子であることを公然と示している。彼らはよく威張る。そして天皇を崇拝する人たちに顔をしかめる他の人たちは去勢されたままさ迷い漂流している。



カ  権威をかさに着ると威張れる。



ケ  権威の下だと巨大な母親がついているようなものだから個としても安心だよね。守ればいいだけだからね。保守の側はどうしても威張っているでしょ。それを自立として勘違いしている人もいる。しかし、天皇は神の使いだけあって自我的な個を滅することが権威そのものになるという秘密を知っていた。



カ  面白いアイロニーだね。天皇自身は威張る感性からもっともかけ離れた人格を示す存在で、それを奉る人々(例えば右翼)がもっとも威張る人格を示すというわけか。それにしても天皇はよくあそこまで抽象化したね。人格を消した。



ケ  だから、天皇陛下になりたいという夢を持つ少年はいない。(笑)



カ  これまでの日本男児の物語は結局母親(天皇)を奉り、妻や子供たち(民衆)には威張らないと男としての威厳が保てない男たちの話となるね。天皇家のように見えない母性の庇護の下で去勢された男たちの父権社会が存続してきたということね。それがおおよその「日本の気配」だと…。













2009-12-23 11:35:52

第五章 女と家

テーマ:男を見限るまえに女が読む本

● 母性の象徴 


ケ  僕は甘ったれの無責任さを母親と息子の癒着関係に見てきたが、その構図はまさに日本という国の特徴になっていると思う。ちょっと考えてみて欲しいんだけど、日本の看板である天皇制というのはとても女性的というか母性的な制度だと思わない?



カ  というと?



ケ  天皇は日本国の象徴である。象徴ということは、国民とは直接的な関係を持たずに、実は民族の集合的な無意識の姿を現しているということでしょ。その民族の象徴がなぜ母性的かというと、天皇家にとって最大の関心事は男子直系のお世継ぎが生まれることだ。



カ  世のおば様たちはその手のお話に興味津々で、もういろんな噂が耳に入ってくる。皇室を支えているのは彼女たちか、と思うくらいだね。



ケ  万世一系というのは「家」=「血統」を永久に存続させることだ。天皇個人の意思や自由など重要視していない。それは家系に執着し「家」を仕切る母親のあり方だ。



カ  そういえば、天皇家の神様は天照皇大神で女神だ。僕の実家も正月には必ず床の間に天照皇大神の掛け軸を飾る。



ケ  それがいつからの風習かはわからないけどね。とにかく女性の結婚は「嫁ぐ」こと。女偏に家だ。それは平たく言えば、女性は単身でよそ様の「家」を乗っ取りにいくみたいなものだよね。しきたりの違いや姑や小姑との確執、数々の困難を乗り越えながら自分の色に染め上げていく。そうやって自分の分身(息子)に家を継がせていく。いわば、世をつなげていく。それは生命を産む母の役割とした。僕は天照皇大神は母性の力を示していたのではないかと思う。



カ  日本庶民の「家」は天皇家のミニチュア版であったと…。家の存亡の鍵は女性が握っていたというわけね。日本の一般家庭のマザコン構造は、実は天皇家が照射された形だったんだ。凄いね、天皇家は。そこまで民族の無意識にもぐりこんだ。



ケ  皇室に嫁いだ女性が自分の名を残すことより、あくまで「家」の継承に心血を注ぐ存在であったということが一般と同じだ。わかりにくくさせているのは、「家」の形が完成していた天皇家において、嫁いだ女性の役割は男の子を産むことのみであったから、一般の「家」のように母親個人の色合いに染めることができなかったということだ。でも、天皇になる人の母親であるということで相当の権力はあったと想像できる。歴史とか天皇制とか、あまりに大き過ぎて見えにくい事柄というのは、とても近すぎて判りづらいところに映し出される。僕たちは歴史というとどうしても男たちが作ってきたもののようなイメージがあるが、そういう男たちの感性を育て上げるのに母親のエネルギーがどれほど関与したかを想像しない。日本においてはそれがとても分りにくい。つまり、天皇制は僕たちの無意識的な領域に血肉化されていると思うんだ。天皇制は母性のエネルギーを見事に活用したシステムである。そして血肉化された領域というのはタブーの領域となる。



カ  とすると、雅子さまはタブーの領域に嫁いだことになる。厳しいね。皇太子の嫁になることは息子を生むことが至上命令なわけだから、皇室の存亡の責任を負うことになる。皇室の最大の関心事は世継ぎのことで、みんなそればかりを考えている。早い話、セックスのことだよね。雅子さまが皇室に入ってみたら何のことはない、周りの皆はセックスのことしか頭にない。非日常に生きる貴族たちの日常がそういうことなんだね。雅子さまの資質を活かしてあげようなんて人はいないのかね。本当に気の毒だね。外交官になりたい人だったんだよ、あの人。



ケ  象徴とは人間の原点(精子と卵子の結合)セックスのことであった。考えさせられるね。皇室の存続は女性が男子を生むことにかかるが、母親としての責任はそこまでで息子をどういう人間に育てていくかは母親の責任ではない。



カ  それを破ったのが美智子皇后だ。彼女は自分でも手をかけた。



ケ  しかし、皇族の構造上息子たちが個として自立した形では育たない。天皇という個人と国は一緒で、国が栄えていれば個人は完全に認められてしまう仕組みになっている。   天皇家は初期の頃から曽我氏をはじめとする武装勢力の力添えで成り立っていた。平安期からは国の舵取りを他の権力に任せてあまりパワートリップ(武力抗争)をしていない。そのことも女性的だ。そして、女性的であるがゆえに責任を負うことのできる息子(歴代の天皇)を作れなかったんだ



カ  母性に去勢されてしまうのね。



ケ  個としての息子は頼りにならない。したがって、敵に対抗して力を持つと天皇家そのものが危うくなるから権威だけを守って、権力は新興勢力に譲っていく。今と同じで国のシステムは変えずに政権の交代だけが繰り返されてきた。権威を利用させて家系の存続だけを図ってきた。歴史の記述はいろんな年代で○○天皇がなにしたとかこまごまあるけど、結果としての大筋は母性的家系の看板息子たちの歴史だと理解できる。僕は天皇家の個人的な女性の力のことを言っているのではない。こういう大きな流れは、天皇家であろうが征夷大将軍であろうが、個人の計らいではない。必然としてそうなった。大昔から天皇家は象徴みたいなものだ。天皇家という王室の形、構造、システムが母性エネルギーを基盤にしている。それは、日本という国の在り方「母性的な家系を存続させること」の象徴なんだ。皇室や右翼系の人の男子直系へのこだわりは日本的母性を死守しようとする姿勢そのものである。表面的には逆に見えるが、日本の父権性というのは母性の支えがあってこそのことだ。



カ  よその国から襲われたらまず天皇家は亡んでいた。



ケ  日本はもともとこれといった資源がないことが幸いした。辺境の地で外国からすると魅力がない国だ。そのぶん侵略を免れた。蒙古襲来くらいだよね、襲われたのは。それを除けば国内の勢力との戦いでしょう。天皇家はうまく立ち回ったと思う。所詮、武士や大名は田舎の成り上がりで、権力は持てても権威は持てない。権威は伝統の上に成り立つから、それを全部破壊したところに新しい文化を立ち上げていくことは田舎侍には無理でしょう。「畏れ多くも…」なんて言葉があるくらいだ。武士たちは天皇個人に対しては端から信じていなくて島流しなどもやっているけど家は潰さない。その権威を自分たちの後ろ盾として利用した。



カ  天皇家はいちばん最初に神話を作っちゃったからね。日本の国を造った家柄を絶つのは、自分を生み育てた「家」=「日本国」を潰すことになる。それは、先祖殺し、親殺しということになるね。特に、母親は殺せないよね。そうすると、天下統一を目指した武士や大名たちは天皇家という母なる家の息子たちという関係になってしまうね。



ケ  日本の内戦は征服という概念じゃなく統一だ。それは兄弟喧嘩みたいなものだ。敗戦後の政権は実質的にアメリカの傀儡政権だ。アメリカは見事に母なる家の息子になりすましたね。敢えて天皇家を潰さずに政権だけを、つまり、じつ実を取った。日本の国の統治の仕方を踏襲したんだ。



カ  アメリカは日本の国を支えているのは母性だと見抜いたのかな。それだけは温存した。



ケ  そのほうが自由に振舞うことができるからね。敗戦の責任を天皇がとらなかったということは、天皇の使命(もちろん天皇個人の一存ではない)が国を変えるということにないからだ。とにかく国(天皇制)が存続することにのみ意味があると考えている証拠である。貴族政治であろうが、武家政治であろうが、議会政治であろうが皇室(王家)としてあり続けることが唯一の目的である。それがあたかも国全体の総意として承認されうるところに日本という国の呪縛がある。











2009-11-23 21:09:42

第四章 母親と息子

テーマ:男を見限るまえに女が読む本

●  息子を消費する母親   


ケ  男性はこれまで、母親には去勢されても、妻や子供には虚勢を張れた。しかし、現代社会は虚勢も張れなくなった。誤魔化しが効かない。社会構造がシフトして大人が子供たちに尊敬されなくなった。尊敬されないということは子供たちの不満を吸収できなくなったということだ。暴力から手を引いたのはいいが、暴力を吸収する装置としての宗教や伝統が機能しないから去勢された息子たちのストレスは直ぐに行き着くところまで行く。つまりキレル。この日本で無差別テロのような事件が起きている。それは、娘たちにも波及し、その娘が母になってわが子を虐待してしまうことにもなる。非暴力のキャンペーンは効果なく新たな暴力が生まれている。



カ  さきほど話に出たことで、日本の母性の凄いところは貧しさに強かったという。しかし、社会が豊かになり、今、競争社会に突入してこれまでのような繁栄をその母性は支えられるのだろうか。



ケ  母親が息子を甘やかす根拠としての「家」の存続性はなくなったが、その代わりにどこそこの大学や大企業に入るステイタスの準備段階から競い合うことになった。あれは子供達の戦いではなく母親達の戦いでしょう。お受験ママ達の。いろんな事情でその競争に加われない母親もいる。「家」もない、競争にも加われない若い母親のストレスは幼いわが子に向かう。



カ  お受験は母親達の代理戦争か。代理もいいけど子供たちが小さいので勉強をさせる以外は甘やかす。しかも、人格は受験勉強では作られない。それでいて、あとになって自立していないなどと非難される。子供たちにしたら「えっ、こんなに甘やかされているのに、甘えちゃいけないの?」となるよね。(笑)



ケ  「甘えちゃいけないなら、はじめから甘やかすんじゃねえ!」って(笑)。母親も正面切って戦いにエネルギーを注ぎ込んでいる。もし負けたときは共倒れだよね。それに現代は受験が終わったら一人になる。就職でもすれば母親から離れていく。だけど息子にしたら頑張ってきた根拠は母親の方にあるわけだから気が付けば自分の中は空っぽ。自分も空っぽ、息子も空っぽ。その時になってこれでいいのだろうかとなる。妻として振り返ればご主人は枯れ木のようになっている。だから母親が子供の戦いに入り込んではいけないんだ。「みんながしているから」は理由にならない



カ  「みんながしている」ことの仲間に入りたがるのは日本の伝統みたいなものだからな。



ケ  うん、女性たちはよくつるむ。昔からその集団化傾向が日本社会全体の色合いをつくってきた。子供たちが仲間はずれを怖れるのも母親がもつ女性的な習性が影響している。現代のように情報が均一化すると我が身の程を忘れてそれに乗ろうとする女性たちが増える。父親は甘やかされてきた身だからそれに追従する。人々が自立した個としての競争を経験していないのに、社会の仕組みだけは競争原理になら倣った。子供たちは、陰で互いに足の引っ張り合いを競争している感じだ。







2009-11-16 21:54:53

第四章 母親と息子

テーマ:男を見限るまえに女が読む本

● 責任の行方



カ  女性特有の包み込み育んでいく母性の力は、反面、男性(息子たち)の自立を妨げる力としても働く。可愛がられ、甘やかされてばかりいると自分から能動的に決断できない人間になる。結婚したくてもできない男性は経済的事情のほかにそういう理由もあることが明らかになってきた。



ケ  今の若い男の子はもてることは甘えられることだと考えている節がある。結婚しても自分が甘やかしてもらえないことに耐えられない。そんな人が幼児虐待や奥さんに暴力を振るう。赤ちゃんが彼のライバルなんだから呆れるよね。一方で、母性というのは内側からせり出してくるエネルギーだからコントロールしにくい。へたをすると溺愛につながる。強力であるがゆえにうまく使わないと男が育たない。



カ  男は男で、もう少しなんとかならないのかな。何が自立を邪魔しているの?



ケ  息子の不始末に対して、母親がとる態度は最初「そんな子に育てた覚えはない!」と少し怒りが混じる。やがて「私の育て方が悪かったのだ」と嘆きのほうに変化する。言葉だけ聞くと正反対のようだが、よく探るとどちらも子供を育てたのは私だという意識が強くある。最終的に「私がなんとかしなければ」と決意してしまう。子育てを含め家の中のことは母親に任せられてきたせいもあるが、僕は母親の子供に対する思い入れの気持ちが曲者だと感じている。そこには当事者でもないのに責任を肩代わりしようとする母親がいる。日本社会を見渡すと、政治家も官僚も企業も教育界も(みんな男性だけど)不祥事が発生したときの反応は責任回避ばかりだよね。それは自分が持つべき責任意識を母親に取り上げられて育っているからだと思う。ということは、僕らもその一員なんだが…



カ  日本人は責任の取り方がとても曖昧だと言われる。馴れ合い、もたれ合い体質で、責任の所在がよくわからないと。



ケ  曖昧さが日本の特質だと言ってしまえばそれまでだけど、それぞれの業界なり職場ではみな優秀な人たちなんだと思う。しかし、こと「責任」に関しては、見事だと思われる事例がない。それは、日本社会が責任意識を奪われた形で発展してきたからだと思うんだ。では、誰が奪ったのか。それこそ集合的な無意識としての母性なんじゃないかと僕は考えている。日本の母親は息子たちの精神的な後ろ盾として、尻拭いする者として君臨してきた。子供の不始末に対して「代わって私がお詫びします」と言って、事態の渦中から息子をさっさと引き上げようとする。母親が謝ったからといって事が済むわけじゃないが、謝られる方も母と子を一体化させて見ているから子供が謝ったとみなす。そうしたうやむやで終了する。母親というのはそういう事態に至った経緯を論理的に思考しないだけでなく、息子たちを嵐の中に放り出さない。むしろ、早く忘れようとする。したがって、息子たちは責任をとらなければならない状況に至った時、どのような対処をすればよいのか全く学習されていないのではないだろうか。それは、生きていくということの出発点において、個人として物事の正当性を意識した感性を育めなかったということでしょ。



カ  まったくその通りの事件が一昨年起きた。「船場吉兆」の偽装事件の謝罪会見は日本の母と息子を象徴的に現していた。



ケ  そう“百聞は一見に如かず”だ。似たような関係は能楽師の和泉母子にも通じる。日本の母と息子の典型があの構図なんだ。僕のいう個人として物事の正当性を意識した感性とは、普遍的な正解とか善なる心とかの社会的な正論や良心とかではない。それは、自分が行動したり決断するときの根拠の明確さである



カ  行動や決断するときの根拠の明確さとは?



ケ  行動や決断の根拠とはあくまでも自分の心の納得感の深度である。それは、直感のようなものとしてもたらされる。断っておくが、直感は反論理ではない。一般に直感というものを超常的な特別な感覚だと理解しているようだがそれは違う。直感とは個人の内部において、言うなれば、超高速の研ぎ澄まされた論理のはずだ。論理だけれどその論理の行程があまりに速すぎて意識できない。だから、直に感じるのだ。そして、その直感による選択が迷える人生の課題を立ち上がらせてくれる。くり返すが、答えではなく課題が立ち上がるのである。大切なのは根拠の正誤ではなく「明確さ」である。そこには、「成功か失敗か」や「損か得か」の功利的な思惑がない。それはどんなに他人とは違っていても個人の内部では生存を賭けた魂の選択に合意できるのである。自分が行なう行為においては全責任を己が負うという魂の仕組みを拠り所にしない限り、日本の母性的愛情には太刀打ちできないと思う。



カ  要するに、この世に生を受けてあなたという個人は何を感得したいのか、何を感得したいにせよ、とにかくそれをはっきりさせろと…



ケ  息子は自分の意志による行いにおいてどこかで母親を裏切らないと、真綿で絞められながら去勢される運命にある。



カ  成功とか失敗、損か得かは母親が何かを選択する時に使う基準だよね。スーパーの買い物もそうだけど…。息子には失敗のない人生を歩んで欲しいと思っている。



ケ  気持ちはわかるが、失敗しないことが前提だと最初から責任のことは範疇にない。 


 
カ  日本の息子たちの責任に対する鈍感さは母親との「癒着という去勢」が原因で、そこから脱出するには損得抜きの直感から得た行為によって母を裏切らなければならないのか。裏切りとは過激な言葉だ。母親たちから猛反発を喰いそうだね。



ケ  母親たちもどこかで自身の日本的母性から脱却しないといけないんだ。母性も無意識的な領域から発せられているから彼女たちにも明確な根拠があるわけじゃない。そうした無自覚な愛情が「振り込め詐欺」を横行させる。あれは年取った世間知らずの母親がクローズアップされるけど、それだけの問題じゃない。犯人たちの言うことに騙されるのは、小さい頃から母親の言うことを素直に聞いた息子に自分のほうから騙されていたからだ。理不尽な子供の要求に対しても疑いを持たずに自ら応じてあげていたがゆえに、母親からしたら息子が素直ないい子に見えた。要するに僕に言わせれば息子の言いなりになってきたからなんだ。いい子のほうが期待もするし何かしてあげたくなるからね。通常の社会システムはこの関係を上手に利用して合法的(教育産業・スポーツ産業・ゲーム産業・ファッション産業など)にお金を吸い取っているわけでしょ。本来、息子のためになんでもしてあげる母性は貧しい時代に輝くものだ。



カ  ???



ケ  唐突だったね(笑)貧しいときは母親が自分の血と汗と涙を搾り取って息子に何かしてあげても、息子の満足には足らない。でも、その姿はボディブローのように息子の魂に響いてくる。振り返った時、母の行為は神々しく輝く。ただ、悲しいことに、そうした甘やかすのとは程遠い愛情によっても息子は去勢されてしまうんだ。
カ  個という意味においては母も子も自立していないんだね。自我がきちんと育っていないというか…



ケ  そう、個が弱いから日本人は集団を作る。集団にしておけば個の責任は薄くなる。日本の母性風土は個を育てるのが難しい。



カ  日本人の集団傾向そのものが女性エネルギーに包まれた民族の特質であるということか…。よくある話に、外国の人が日本人に「あなたは何をしているんですか?」と聞くと「私は〇○会社に勤めています」と答える。個を集団とか組織が肩代わりする。



ケ  「家」を名乗る風習の延長なんだよね。人が面と向かうときの心理は基本的に「お前は一体何者なんだ?」ということ。それは「あなたは、何をどのように考えて生きている人なんですか?」ということでしょう。



カ  日本人はそんなことは面倒臭いと思う。「いいじゃないか、俺が何を考えていようと、仕事はしているんだから…」と。仕事?を水戸黄門の御印籠にしている。内心ではいろいろと思っていても正面切って言うのを避ける傾向があるよね。



ケ  もし、言ったとしても「俺は好きこのんで毎日汗水流して仕事をしているわけじゃない。みんな家族のためを思えばこそだ。」と、働いていること自体が妻や子供を思いやっていることの証だと自分に無理やり思い込ませようとするところがある。そこには自分の意に反した心の持ちようがうかがえる。厭々やっているという本心など出せない。そんな本心には自分だって触れたくない。そもそも家族や他人とコミュニケーションするほどの考えや意見を自分は持っているのだろうかという疑いさえある。そのような中途半端な意志と心情は母親に対する反抗期の息子の心情と中途半端さにおいて似るところがある。反抗期には「いちいちうるせえんだよ」と、うっとうしいがって面と向かわない。母親もそれ以上突っ込まない。母親の会話の出所は常に「心配」だから、いつまでも子供扱いをしていることになる。母親の子ども扱いに対する恥ずかしさとうっとうしさ。だけど無意識では一番頼りにしている。日本の男性の日常生活における論理的思考はこの反抗期レベルでストップしている



カ  男性は結婚して家庭を持っても、どこかで一人の時間を欲しがっている。母親から離れたい気持ちがそのまま持ち越されているのか、妻子から離れて母への郷愁に浸りたいのか、どっちかわからないけど反抗期レベルの迷いだね。



ケ  この国においては男たちが個として何者であるのか、母との関係において考えてこなかったし、表明もしてこなかったから、大人になっても自分の考えなのか組織(集団)の意向なのかわからなくなってしまう。もう、責任の行方などわかるはずもない。



カ  母性は非常に情緒的なパワーだからそこを鍛えるのがとても難しいよね。今問題になってる「いじめ」にしても、先生が悪い、学校が悪い、教育委員会が悪い、文科省が悪い、親が悪い、子供が悪い、否、社会が悪いと責任のなすりつけ合いのたらい回しだ。



ケ  犯人の特定が重要なことじゃない。誰もが、自分が責任を引き受けるという覚悟を持たないで事に参加している。母親は自分が息子の責任意識を奪ってしまったことの代わりに犯人を特定して安心しようとする傾向がある。それは責任と犯人を混同することになる。



カ  見事に責任の所在を見えなくするよね。ある人は談合を例にとって、日本人は・和を尊ぶ思想があるから話し合いで決めるのが民族的な伝統なんだと言っていた。



ケ  神話の神々もよく集まって会議を開く。戦う代わりに話し合うというのはわかるが、そのわりには話がとても下手だ。ほんとに話し合っているんだろうか。僕はこれまでにいろいろな人から「不毛な会議」の愚痴をどれほど聞いたか知れない。契約やルールにのっとらないから、結局、義理・人情のしがらみで動くことになる。「恩がある」「可哀そうだ」が根拠になる。当事者同士はその経緯がわかっているので納得できるが他者にはわからない。個人対個人ならそれでもよいけど、仕事や、特に公の組織になるとそうはいかない。社会に対する意識が薄いから新参者やよそ者を排除して閉じた世界を作る。できるだけ責任問題が浮上しないように画策する。



カ  政界など公的組織の事件の時に必ず尻拭いする人が出てくる。キーマンとなる人が自殺する。暗に「お前が死ね」と言われているんだろうけどね。“死をもってお詫びする”のは責任をとることにならない。それは放棄でしょ。極端だよね、やることが。外から見ていると、みんな責任をとりたくないから、ウヤムヤにしちゃおう、そのためにはすべてを知っているアイツに死んでもらおうみたいな感じだよね。



ケ  責任というのは何かしらの解決の道を探るとかきちんと落とし前をつけることでしょ。解決には時間もかかる。そういう問題を抱え込んでいたくない当事者としては、早く忘れたい、忘れるためにはなかったことにする。死をもって尻拭いする人の登場は、最も早く忘れ、なかったことにする方法なんだ。問題の核心を別の関心(ショッキングな死がもたらす情緒)にすり替えちゃう。日本人は民族的に、いやなことは何とかしようとするより、さっさと忘れようとするのが特徴としてある。それは、心配性である母親の採る方法だった。



カ  なんでも「水に流して」しまう?



ケ  古代から日本ではまずいことやよくないことは穢れを祓うことで処理してきたでしょ。禊をすることで水に清めてもらう。そういう伝統がある。一神教の神との個人的な契約による罪の購いとは遠い。黄泉の国から逃げ帰ったイザナギノミコトが穢れを水で祓うことからアマテラスやスサノオが誕生したという話からしてそうだ。清めて(忘れて)しまえば新しく芽が出ると考える。いろんな祈りや願いを人形に託して川に流す風習も古くからある。昔から引き継がれた日本の慣わしは母親の無意識に母性として写し込まれた。或いは、もともとの母性のほうから慣わしが生まれたのかもしれない。母親は早くさっぱりしたいんだ。



カ  日本では個人が神と契約するという発想がないから、組織や集団から離れたときにアイデンティティも失われる。それは「家」との訣別なんだね。



ケ  うん、つまりは母親との訣別なんだ。だから、組織や集団から離れることをとても恐れる。その恐れのほうにフォーカスしてばかりいると、物事の九十九はうまく成功しても最後の百個目で失敗するとすべてがゼロになるみたいな見方になっていく。その見方には個を救うとか、支えていこうとする姿勢がない。個の尊厳を見ようとしない。大切なのは組織や集団のほうになる。



カ  敗者復活の道を自ら塞いでいるから負けることを極端に避けようとする。つまり、無難に無難に生きようとするのね。最近の国際的なアンケートでも、リーダーになりたいと思う子供たちの比率は他国より圧倒的に低い。



ケ  その数値こそが日本の伝統を示している。大人たちは今の若い子たちの意欲のなさを嘆くが、どっこい、その意欲のなさは大人たち自身がモデルになっているんだ。自らを知らなさ過ぎるね。



カ  最初から責任ある立場には立ちたくないと思っている人はたくさんいる。僕も人のこと言える立場じゃないけど、自省も含めて腰が引けてる。みんなに請われてしぶしぶ腰を上げる。



ケ  自己評価があまりに低い。近年はだいぶ個人的野心が肯定されてきたところもあるが、責任に対してはポジティブにとらえないで、負わされるみたいなネガティブな感覚がまだある。要するに、俺はやりたくないんだけどみんなが言うからやってあげているんだと、自分で意志した責任感がない。それは、母親の庇護のもとで「家」を継ぐ看板息子の発想と同じだ。二世議員が跋扈する政界が典型だ。彼らにとっての母親は地元の後援会がその役割を果たすが、その無責任さはほとんど醜態だよね。



カ  日本女性の無意識的母性の一面は、男の子の責任を自分が被ったり処理してしまうことで彼らから自分が何者であるのかを考えることを奪って自立の道を閉ざし、家系存続の駒として共依存的に一心同体となる傾向があるということだね。



ケ  結婚しても嫁の側につかないで姑の側につく亭主はみな日本の母性に去勢されているとみていいね。僕はね、現代は「家」の存続は断たれた時代だから母と息子の癒着はもうないと考えるのは間違いだと思うんだ。日本的母性は僕たちの精神の背景に強くインプットされているから、どういう事態にも反映し得る。むしろ、「家」という見える形がないぶんやっかいなことになってきている。










2009-11-12 11:40:11

第四章 母親と息子

テーマ:男を見限るまえに女が読む本

● 去勢された自立心




カ   定年退職して間もないご主人をもつ奥さんたちがご主人のことを「家にいても何の役にも立たない」とか「一日中家にいられると、うっとうしくてたまらない」と口を揃えて言う。ご主人は完全に見下されてる。同情したくなる。



ケ   本当に、亭主は元気で留守がいいんだね。



カ   とにかく三度の食事の世話が嫌だって。今は女性のほうが強いからきちんと主張して、三回を二回にするとか作り置きして自分は出かける。昔のようにかしずいている人は少ない。



ケ   一般的なサラリーマンは、退職して毎日家にいてもどう振舞っていいのかわからないんじゃないかな。家庭内の生活は圧倒的に奥さんが主導権を握っている。僕も家庭生活のレベルでは「すべての行為は女性の要請による」という日本男児の気質を受け継いでいるなあ。気をつけなきゃ。



カ   日本の男性は、特に中高老年は奥さんと一緒に家にいると何もしない人が多い。それは当然だと思っている。「家の中の女房の仕事に男は手を出さない」伝統が続いている。



ケ   昔は家族を養うだけの食い扶持を稼いでくるのは男で、その形に男尊女卑の考えが根を張っていた。男は外の社会、女は家庭内での仕事というふうに分業されていた。子育ても当然母親の仕事としてあった。よって、子供は家の中では何もしない父親をみて育つことになる。息子たちは男は家のことをしないのが当然だと思って大きくなる。母親は息子を甘やかし、家庭での動き方を教えない。結婚してそれを見た奥さんは亭主が自立していないと知る。



カ   豊かになった日本の母親は息子が子供の時は勉強さえしていればいたれりつくせりでどんなことも大目に見るようになった。成人しても母親は息子が仕事さえやっていれば家では何もしなくても許している。




ケ   男の人は結婚しても息子のままの意識だ。夫ということの意味をあまり考えてこなかった。亭主関白で威張っていても、我を通すだけの姿勢を奥さんがこれまで通り立ててあげているわけで、結局は甘やかしてもらっているんだよね。



カ   以前はそれで通ってしまったけど、現代は女性の地位も知見も向上したから、息子とお母さんの癒着関係がそのまま夫婦間でも成立することは少なくなってきた。いつまでも奥さんと母親を同一視しているとガツンとやられる。



ケ   奥さんは子供の母親であってもご主人の母親ではない。いいかげん自立して欲しいと思っている。さきほどから何回も、男性は女性に対して理解がないという話をしたけど、いつまでもしらばくれていると痛い目に会う。




カ   離婚までは考えない奥さんたちだって「私のことを理解してもらうのは諦めたから、せめて自分のことぐらいは自分でやって欲しい」が本音だ。



ケ  近年は奥さん任せにしないで自分でやろうとする人が増えてきたが、奥さんがしてくれないから自分でするという理由だ。それだとほんとうのところがわかっちゃいない。まだ幼いままだ。



カ  はるか昔のことなのに「ほら、僕ってこんなに可愛いでしょ」って、心理的には相変わらず子供時代と同じメッセージを出している。奥さんが本当に頭に来ていても察しない。分からず屋でイタズラばかりしていた子供時代、人によっては貧しく厳しい生活をしていたかもしれないが、それでも大事にしてくれた母親を奥さんに投影している。ご主人もそれなりの社会的地位や見識もあるだろうに…



ケ  その手の男性は社会や家庭のルールがとっくに変化していることについていけなくて、心理的には昔ながらの青春がずっと続いている。



カ  女性たちがお年寄りの男性に対して「まあ可愛いおじいちゃんね!」って表現することがある。男の最終的な姿にも可愛さを見てとろうとする。それと「ほら、僕ってこんなに可愛いでしょ」という心理は重なるところがある。母親には「馬鹿な息子ほど可愛い」という伝統もある。さらに、若い女の子はどんなものにも「可愛い」の連発。現代の日本女性の美意識は「可愛い」に集約されるほどだ。どうして「可愛いオーラ」がこんなにもてはやされているのかな。



ケ  「可愛い」という表現には緊張感がない。赤ん坊に接するときの母親の視線と同じものが感じられる。ペットブームも同根だ。ある意味、自分のほうが絶対的に優位だという立場からの目線がある。「可愛い」はまだ成熟しきれていないものに対して大雑把にくるんで飲み込んでしまう手応えのない情緒から発せられる。「美しい」には驚きや羨望や嫉妬が付随するが、若い女の子の「可愛い!」は小手先のお手軽な親近感だ。自分にも手が届く範囲の美意識に留めておこうとしているのか、その無難さは実に大衆的だ。だから、「可愛い」がもてはやされるのは時代が大衆的だということでしょう。男たちはその美意識に迎合していく



カ  日本女性は男性に「可愛さ」をみつけようとし、ゆえに、「可愛く」見えるように育ててしまう



ケ  しかし、母と息子の癒着からうまれる「可愛さ」は男性を成熟させない。ご主人は甘えん坊に育てられてきた。逆に奥さんからは成熟した人格を求められる。でも、求めてはいるけど期待はしていない。無理だとわかっている。なぜなら、自立心が去勢されていることを知っているからね。



カ  リリー・フランキーの「東京タワー」という本がベストセラーになった。モロに癒着の話だよね。最近では「吾亦紅」という歌が人気だ。これまでも「ヨイトマケの唄」とか「おふくろさん」など、日本では母を慕う歌は支持される。



ケ  うん、あったね。本を書いたり、歌を作るのは男だけど、癒着の話は誰が好きかというと、男より母親たちなんだ。ああいうふうに息子に慕われたいという願いが流行らせてしまう。今後、少子化もあって母親たちはもっとお節介になるだろうね。



カ  とすると、個はますます未熟になる。いつまでたっても自立ができない。



ケ  自立していないということは子供っぽいということで、「可愛い」も含めてそう見ると、現代日本は実に「子ども文化」であるとわかる。文化というのは音楽・映像・文学・科学・スポーツなんであれ、その表現の裏側に必ず理屈があるということでしょ。つまり、ある表現には根拠や美意識や理想や願いがその始まりに厳然とあるはずだよね。たとえ表立った言語化はされていなくてもね。しかし、日本の男性は大人になっても日常生活のなかでそれを語らない。理屈は専門家に任せておこうという雰囲気がある。



カ  女性は男の理屈っぽいのが嫌いだという。



ケ  いや、男が理屈を面白く語る術を訓練されていないんだ。なぜかというと、母親との関係が理屈以前にあるからだ。不思議なことに女性が母親になると理屈を拒否しだす。理屈は子供っぽくないでしょ。それこそ「可愛く」ない、生意気だ。それは母親にとって自分から遠い感じがするんじゃないかな。



カ  ただのクソ真面目は敬遠されるとしても、今の時代は全体的にキャーキャー騒いで楽しければ「面白い」ことなんだというイメージが蔓延している。いろんな意味で世相が少女趣味だ



ケ  現代はほんとにオモチャ文化だね。大人たちが堂々と子供趣味を表現している。曖昧さは日本人の得意とするところだが昨今は大人と子供の境も曖昧になっている。漫画やアニメのキャラクター商品も大人にすごい人気がある。日本の母親たちはそんな男を量産したんだ。僕は父親の責任を回避しているわけじゃないよ。むしろ父親はもともと影響するほどの力がなかったととらえている。



カ  結局女性はどっちなの?ずっと子供っぽい男がいいのか、自立した男性がいいのか。  



ケ  母親の心情としてはいつまでも子供がいい。妻としては自立して欲しいんじゃないかな。都合がいい。とは言っても、夫に自立を望むようになったのは近年になってからだ。それまでは妻という立場自体が正当に評価されてこなかったからね。



カ  どういうこと?



ケ  妻は自分の気持ちや意見など言えるものではなかった。昔は夫と妻の関係がまったく対等ではなかった。妻ではなく「嫁」だった。嫁は夫に嫁ぐのではなく「家」に嫁いだ。一般庶民の「家」が望む嫁はなんといっても働き者の女性だった。



カ  丈夫で長持ち、子供もたくさん産んで。そして、「家」のしきたりには従順で夫に口答えしない。



ケ  昭和の三十年代くらいまではそれが当たり前だった。しかし、そんな抑圧された生活環境の中でも光明があった。それが母親としての息子への、特に長男への思い入れである。長男が生まれると、肩身の狭い思いから解放されていく。



カ  父親より母親のほうが息子(長男)に嫁をもらって「家」を継いで欲しいという欲求は強いよね。「可愛い息子」とずっと一緒にいたいのかな。



ケ  母親にとってはお腹を痛めた息子が・・自分・の・男なんだ。唯一自分のモノと感じられる。結婚してもご主人は・・自分・の・男ではない。ご主人はご主人の母親のモノなんだ。他所から嫁いできた身には自分のモノなど何一つないわけで、小さな胎児が自分のお腹の中で成長し、生まれたらいつもそばにいて自分のオッパイを飲んで大きく成長する。喜びも苦しみもすべてそこから発生する。それこそ分身でしょ。母親たちはそこに自分のアイデンティティを見出したのではないだろうか。その自分の息子と比べたら、すっかり出来上がった状態で出会うご主人は足元にも及ばない。息子との同一化が起こっても不思議ではない。



カ  何気ない印象なんだが、離婚した子連れの女性たちと会うと、女の子はいても男の子がいない女性はパートナーを欲しがる感じがする。でも、男の子のいる女性はそれほどパートナーを欲しがらない。どこか充足した感じがある。息子の存在が彼女たちを安定させていると思う。父親に遠慮することなく息子は無条件に・私・の・男・だという感じ。



ケ  男の子は母親にとって「異性プラス+子供」の存在。無意識下で溺愛していてもおかしくない。それほどに母と息子は癒着しやすいということだ。母親たちは、ある意味、自分が生んだ息子たちを利用して母性のエネルギーを活かしている。しかし、まかり間違えるとそれは「自立心が去勢」されて、依存型の甘えん坊になる。結婚してもご主人が外で働いている時はそれがよくわからない。徐々に気がついてくるが、それほど一緒にいるわけでもないし、稼いでくるから見逃してあげている。それでも退職ともなれば「去勢された自立心」がモロに見えてくるから嫌になる。きっと昔だったら、とっくに「家」を継いだ息子に入れあげ、嫁という新しい敵と渡り合い、孫の世話でご主人どころではないだろう。三度のメシは嫁が作る。ご主人がボケようが女遊びに狂おうが気にならなかった。現代は二人っきりだからね。



カ  塾の送り迎えをしている奥さんの中に、すでに自分の息子に入れあげている人を見かけるね。その子は七、八才にして一家の中心になっている。家族の生活は彼を中心にして回る。考えてみると、幼児のときからはじめる受験とは恐ろしいシステムだ。それでなくとも自立心が去勢された国なのに、今の少子化時代の母子の癒着はそれこそインポテンツの増産に拍車をかけているようなものだ。子供のためを思い、きちんと自立できるように小さい時から教育に力を入れて、愛情も注いでいる。しかしながら、子供のためと思ってやっていることが実は自分の思いの投影だということが多い。



ケ  過ぎた干渉は子供の目前にいつも立ち塞がってしまうことになる。子供が成長していくときの視界を遮ってしまう。子供はお母さんが邪魔で自分の行く先が見えない。未来が見えない。ということは子供の自発的な想像力が生まれない。お母さんは子供の前に正面向いて立っちゃいけないんだ。



カ  僕もそういう経験をもつ若い男性を知っているけど、そういう子はやっぱり「いい子」なんだ。母親の期待に応えようと頑張るんだが、なんせ親のほうが全部してあげちゃうので、結果、子供がどうしていいかわからない。挙句の果てに「あなたの望みはこれなのよ」って本人の望みまで決めてしまう。



ケ  男の子は欠乏感覚から突破口を見出していくのだから、そこを埋められると突破する手立てがない。手立てがないということの欠乏感はつらい。気持ちそのものがさまよってしまう。



カ  理屈ではわかっていても「力」が身についていないから社会に出られない。今、世間では「もっと子供を抱きしめてあげよう」がブームだが、愛情の履き違えも起こっている。もっと甘やかすつもり?という感じだ。



ケ  要するに、日本の母親たちは去勢された男と結婚し、その男に愛想を尽かしながらも、新たに自分の男(息子)を去勢していくというサイクルを継承しているんだ



カ  結婚しない男性の中には、ぬるま湯のような家族関係(母と息子の癒着)にどっぷり浸かっている人がいる。僕のワークショップにはその類の男性がよく参加するが、なかなかそこから出ようとはしない。それに、今は核家族で引き継ぐほどの家でもないので背負う気もない。家系としての繋がりはあるときブチッと切れる。



ケ  もう日本中がブチブチ切れている。日本の母親の母性は「家と息子」に注がれる。だから息子が巣立ってしまうと、母性を注ぐほどの家でも亭主でもなかったという事実だけが残る。ならば、好きにやらせていただきますという感じじゃないのかな。奥さんたちは自分の楽しみに向かった。



カ  家系としての未来はないわけだから、あとは自分のためだ。ご主人は置いてけぼりを食っちゃう。



ケ  ご主人の方としては、奥さんを自由にさせたい気持ちはあっても、内在化してしまった甘えがどうしても出ちゃう。やり方がわからず奥さんの好きにさせることが唯一できること。口出ししないで、ただ言われるとおりにしておこうというのが正直なところだ。家の中では完全に受身のあり方しか知らないからね。



カ  だから、「今主人を調教してるのよ」という奥さんがいるんだ。



ケ  でも、それはやさしい方かもしれない。



カ  突然に捨てられるよりはね。あー、他人事じゃない話になってきた。調教される以外で道はないのかな?



ケ  いろいろなことをたくさん話し合うことからだろうな。知識や見解ではなく、特に気持ちを表現していくことだ。とにかく僕たちはそれが下手なんだから。自分の生まれ育った家族と父母の実家や生い立ちのことをたくさん話すことだね。そうすると自分の知らないことがたくさん出てくる。親父やお袋といかに話をしていないかがわかる。彼らのことを何も知らない人が多い。その辺については僕も心残りがたくさんある。



カ  まずは互いの家族をばらす。家族について語ることは自分の深い感情に必然的に触れるよね。男はそれを避けるからなあ。



ケ  子供が傍にいても大人同士が、または夫婦間で理屈(個人の意見)をもって語り合う、そんな家族の付き合いがいかに少ないか。日常生活の中心を子供にしてはいけない。大人が中心にならなければ…。



カ  三世代が一堂に会すと、孫は英雄になる。もう、おばあちゃんの無責任な可愛がりようは目を覆いたくなる。昔話もおじいさんとおばあさんに育てられる子供というシチュエーションが多い。おじいさんとおばあさんはお世話はするけど教育しない人が多い。



ケ  女性が仕事をするようになって、母親もおばあちゃんを頼りにすることが多くなった。日本のおばあちゃんはただ与えるのみ。よって子供の甘え性は助長される。それでいて大人のモデルがどこにも示されないから、子供は成人しても社会とどう向き合い対応してよいのかわからない。おまけに遊びはほとんどゲームだ。生の関係性のやりとりが未熟なまま、今度は自分が親になる。同じことが繰り返される。



カ  家族団らん、みんなで楽しむのはいいけど、子供へのサービス一辺倒になっている。



ケ  男性は親父らしくしようなんて考える前にひとりの人間として自分の内面に向き合ってそれを表現していくことを学ぶ必要があると思う。



カ  どのみち、親としての成長は子供の成長と並行してなされるわけだからね。



ケ  もともと感情豊かな女性が近年は論理性も身につけてきている。理屈で話し合える女性が増えてきた。男性もそれに見合う言語能力を身につけないとね。それは知識のご披露では追いつかない。「お前はそんなことも知らないのか」と言って昔は見下していられた。そりゃ社会に出ていないんだから知らないよね。だけど今は教育レベルも社会での役割も対等になりつつある。知識は男性のものだけじゃとっくにない。もっと自分の気持ちや心の事を語れる論を持たないと男は対等以下になる。



カ  聞くところによると、一流企業の入社試験でも上位はほとんど女性らしい。だけど男女比率の都合で優秀ではない男性もとらなければいけないんだって。



ケ  うん、ある企業の人事の人が中途採用をするために、「どこかに優秀な人はいないかねー」って聞くと「女性だったらいるよ」って必ず言われるらしい。その人は男性が欲しいんだけど、いないんだって。



カ  女性の社会進出はめざましい。しかし、そのパワーで自分たちの子育てに見境なくまい進するのは危険過ぎるということを知っておいて欲しいよね。




















2009-11-08 13:42:05

第三章 男の生態 Ⅱ

テーマ:男を見限るまえに女が読む本

● 女性にたいする不浄感 


カ   じゃどうして女性は不浄だという話が出来上がってしまったの?



ケ   女性は人生の通過儀礼的な節目に血を流す。毎月の生理とか子供を生むとか血なまぐさく動物的でグロテスクな感じがしたのかもしれない。実際、生理は女性の心身の毒出し的要素もあるから、古代の人々がそれを汚らわしいとするのもあながち的外れではない。でも僕の直感ではね、女性に対する不浄感には男性の複雑な深層心理があると思うんだ。一つには性交渉時の女性の反応が特別なこと。もう一つは時として女性は狂う。狂うというのも語弊があるけど…。両方とも個人差があるから全ての女性にあてはまるわけじゃない。これはとても言いにくい事で女性にも男性にも理解されないかもしれない。しかし率直に言って、女性の特徴のひとつは性的快感時も含めて「化ける」ことでしょ。性交時には官能というか恍惚というか日常の姿からは想像できない姿態を現す。僕はその狂態を「化ける」ということに含めたい。



カ   性交による女性の絶頂は何度もある。永続性も男性の比ではない。快感の質・量ともに女性のほうが優れている感じがする。



ケ   男性は性的に限界があるので終わりもある。女性の終わりはよくわからない。



カ   男は女性ほどエクスタシーに浸っていられない。それに終わった後になぜか虚しさのような感覚がある。あれは心の問題、つまり相手に対する好き度が少ないからだと思っていたけど、男にとっては当然の身体感覚なんだね。性のエネルギーが放出した後の空っぽ感というか…。



ケ   そのエネルギーが女性の方へと流れる。終わっても快感の余韻が体に残るという人もいる。セックスが男性自身の欲求から始まったとしても結果的な構図としては女性への奉仕みたいになる。そうした行為の中で男性は普段目にしない光景を見ることになる。よく「あられもない姿」なんて言われるけど、女性の快感に火が点いたその時、男性は女性が「狂った」=「化けた」と感じるのではないだろうか。男性は性に対して視覚的にとても弱い。もろいというか直ぐに反応してもっていかれる。男性は女性を見たがるでしょ。いわば女性の幻惑に引っかかる。性行為はその変幻性の極みなんだと思う。男性は女性の隠された変幻性に惹かれずにはおれない存在であり、辿り着いたら着いたでエネルギーを吸い取られ、女性はそれを持って宇宙的官能にまでいたる。男性はそこに届かない。自覚なく生理として男性は女性に惑わされるんだ。そうした事を男性が意識した瞬間、これは・・・化け物の仕業であるとする捉え方が出てきても僕は不思議じゃない気がする。女性を不浄だとする男性心理の奥底にある根拠はその変幻性ではないかと思うんだ。



カ   そうか、化けるものとしての不浄感ね。化粧にしても態度にしても女性は豹変する。「お化け」はたいがい女性だ。妖怪の妖という字も女がつく。あや妖しい。



ケ   そして、もう一つの・・・・時として・・狂うというのは、日常的に女性のホルモン系や自律神経系は自然や気候のサイクルに影響されて、体や感情が日々変化するがもっと見えないエネルギーを感受したり表出したりすることがある。今で言うスピリチャルなエネルギーに感応しやすい。憑依現象などは原因がわからず突然に体がかってに動いたり、奇異な言葉を喋ったり、魂が乗っ取られたような異様な振る舞いをすることがある。そうした現象が身に降りかかるのは圧倒的に女性が多い。実際、僕の周りにはもそういう感性の女性がたくさんいる。霊媒師や巫女、魔女はそういう女性を表現したものだ。



カ   霊的エネルギーを扱う女性を沖縄あたりではユタとかノロという。恐山のイタコもそうだね。



ケ   大本教や天理教など新興宗教の始祖も女性だ。社会的に認められるようになるのはかなりコントロールする力が身についてからで、それまでは敬遠されていた。今でこそ不合理な現象を頭ごなしに否定する風潮は少なくなってきたけど、昔の論理志向の強い、自然のエネルギーの感受に疎い身体の男性からすると一種の狂女に映ったのではないか。精神医学の観点はあるはずもないから、それは・・・化け物以外何者でもない。



カ   気がふれた娘の話は僕らが小さい頃田舎ではあった。



ケ   男性はそのような女性の変幻性や不可解な霊力のようなものに無意識のところで脅威を感じ畏怖していたんだと思う。生命力というのは変化することがその本質としてある。自然界もそうだ。女性も変化するメカニズムをもっている。一方、男性の武器は変化をコントロールする力だ。その代表が言葉であった。しかし、その言葉が化け物には通用しない。だから男はどんどん強権的になっていった。



カ   化かされた男は人生の道を誤るね。どんなに強い帝王もただひとりの女性にやられる可能性がある。



ケ   よって、聖なる境地を志す男たちは女性を蔑みでもしないかぎり、不浄だと決めないかぎり、化け物に引きずり出される性衝動と手を切れない。



カ   女性を諦める方法でもあった?



ケ   昔は人の不幸や世の混乱は穢れたエネルギーの仕業、つまり祟りと考えられた。それらは妖怪や化け物として登場した。特に平安期の権力争いに参加した誰もが妖怪や化け物に取り憑かれるに充分な資格をもっていた。その罪を理解していた。不吉なことや禍々しいことがたくさん起こり権力者たちは自らに降りかかる祟りをどう防ぐかに腐心した。そして、彼らは宗教に助けを求め、利用した。権力者たちの代わりに修行者たちがその浄化に務めた。女性に化かされることの醜態を遠ざけようとする修行者と醜い権力争いにつきまとう化け物たちの祟りから逃れようとする貴族たちが、互いに化け物を退けようとする思惑でつながったのである。忌み嫌うべきことが別々の理由でひとつになった。



カ   だから比叡山や高野山系に女人禁制があるのか。両方とも朝廷に庇護された。



ケ   こうして権力者自身がさらされる脅威と畏怖に対する防衛手段として、また、父権性の強化として女性蔑視が利用されたのではないだろうか。女性に対する不浄観が征服欲や支配的な暴力性にも波及した裏には宗教と結託した権力があったからだと想像できる。だから、何も宗教修行者のみが女性を不浄と定めたわけではなく宗教が発生する以前から男は女性の化け物的性質=変幻性、を複雑に感じ取っていたんだと思う。宗教と権力がその心を強調して形にした



カ   男の心の一部では女性はみんな魔女だと見ている。性的な暴力や犯罪は男がするよね。特定の関係を除けば、男はセックスをしたくてもやってはならないと耐える変な生き物だよね。自分から発生するエネルギーにこんなにも苦しんでいる。そして、行き場のないエネルギーを魔女のせいにして解消しようとする。女性にしたらとんでもない言いがかりだよね。



ケ   エクスタシーもそうだけど、男性は「そのもの」になりきれない。内部感覚が閉じられているぶんを視覚で補おうとする。男性は見ることによる想像力で内部感覚に通じようとするところがある。まあ、見るから化かされるんだけどね。



カ   男は・・見ることで興奮するということ?



ケ   うん、これも男女で決定的に違う。女子高生の下着を手鏡で覗いて捕まった大学教授がいたけど、大体が覗き見なんて男しかしない。ポルノ雑誌やアダルトビデオもなんであんなに氾濫しているのか女性にはわからないだろうな。



カ   女性は「女の裸を見てどこが面白いの?」って。あれには理由などない。ただ見たいのだ(笑)



ケ   性の話は真意を表現しにくい。医学的に捉えるか下ネタ話になるかだ。しかし人間の心模様はその性にこそ自分でもわからない形で映しだされていると思う。何しろ多くの人にとって影に日向に重要な関心事なわけだから。性にまつわる事柄に男女の元型的なメカニズムが顕著に示されるが、性に限らずとも女性は自分の中に色々な物を取り込んで興奮する。触れて感じて生命内部に快感を覚える。男は女性ほど内側で感じられない。これも、・・見ることを通して想像力を使いながら、結果として外側に創造する男と内側に結実させる女性の違いだ。



カ   話をまとめると、本当は修行者の頭の中が混乱(不浄)しているんだけど、男のプライドとしてそれをばらすわけにはいかないから、女性の化け物性(変幻性)を不浄の象徴に見立てた。権力のニーズにも合致して「女人これより入るべからず」という御札を立てた。



ケ   大体があの御札は山の中腹より上にあって、修行者に対してここから先は女の事など考えている場合ではないぞという警告なんだ。実際、過酷な修行を積んでいる最中に女性の姿がちらついていたら精神の越境などできやしない。



カ   それに男は見ることで興奮するから実際にうろついてもらっては困る。だから入ってくるなと…。



ケ   聖なる宗教的越境者達は禁欲という難しい冒険に挑戦した。そしてほんの一握りの者だけが向こう側に留まることができた。まあ僕たちはそんなことは想像だけにしておくのが無難だ。それにしても、禁欲に限らず、大宗教の越境魂は凄まじいよね。布教のためにはどんな未開地にも分け入っていく。それによって流された血に匹敵する恩恵があったかどうかは疑問だけどね。このままだと恩恵もなく血は流され続けることになる。



カ   有史以前から、それぞれの共同体の中核に原始的宗教があった。宗教というのは生と死を取り巻く問題の他にその性エネルギーをどう昇華していくのかを考え続けてきたところがある。



ケ   人間は性のエネルギーを中心にして感情や意志やパワーのエネルギーが渦巻いている。性エネルギーは放っておくと乱れる。だから宗教のような、とりあえず共同体を秩序立てていく仕組みが生まれた。性エネルギーをきちんと成長させていくまっとうな見取り図が現代社会にはなくなってきている。まっとうな見取り図というのはそれぞれの社会に見合った道徳とか価値観みたいなもので、今はその基本がないから自分を何で証明し、納得していったらよいのかわからない。子供たちのイジメや性に対する関心、たびたび引きおこされる残虐な事件の背後には、共同体を成り立たせていくために絶対必要なこととして性のエネルギーについて社会が考えていこうとしていないことがあると思う。



カ   昔は宗教を中心にしてすべての娯楽・文化があった。そして宗教に一番近いところに性を置いた。門前町の裏側は花街になっていた。今は娯楽が宗教から一番離れちゃったからね。 


 
ケ   というより、日本では宗教も娯楽化してしまった。性に限らず度を越した現代社会の混乱状況をいちいち挙げ列ねて対症療法を述べても仕方ない。僕たちの健全性への思惑と現実の社会現象は常に乖離していく。ただ、ひとつだけ言えるとすれば、地球環境の破壊によって自然への見方や取り組みが変わりつつあるということだ。僕はその流れが新しい形での自然崇拝につながることを期待しているんだが…。崇拝というのも誤解されそうだが(僕自身は身体という自然も含めてならばそれくらい強い言葉を使ってもいいと思っている)、ここまで文明を牽引してきた一神教的世界観と多神教的な自然崇拝の世界観をどのように融合して僕たちの身体感覚に根付かせることができるかだと思う。その前に頭ではなくからだの中に自然を、つまり生命の感覚を感じ取ることができるかだ。どういう社会がよいのかという前に、人格的な意味じゃなく身体の生理感覚的にどういう人間になろうとするのかという問題である。まず、人間生命自体が自然のエネルギーの集合体としてできているのだから、そのつながりをもっとからだで認識しようではないかと。僕たちは生活のどこかで本格的に聖性と取り組む時間をもつ必要がある。



カ   現代人にとって聖性とはどういうことになるのかな。



ケ   やっぱり、損得打算がからんだ欲望と出来るだけ離れた行為をある程度長期間続けることだ。訓練が必要なものがいい。そういう行為から発見できる生命への驚嘆だ。「生命は素晴らしい」的な発想はなんの役にも立たない。生命の善悪を超えた驚異的なダイナミズムを細部にわたって感じていくことが問われる。それは子供たちに教えるというより、大人が身をもって示していかなければならない。からだという生命イコール自然なんだとね。地球環境の破壊は僕たちの身体内環境の悪化ということでもある。単なる自然との共存共栄の技術理念じゃなく、生命感覚そのものの開発は個人が自分に対して行わなくてはならない。女性にもてたいという衝動から男の成長がはじまるとしても、何に向かうための成長なのかということだ。

















2009-11-05 09:51:26

第三章 男の生態 Ⅱ

テーマ:男を見限るまえに女が読む本

● 女人禁制





カ   近年は男性が軟弱だといわれるので、企業もメディアも「挑戦」を連呼して、男の好奇心を鼓舞しようとしている。



ケ   最近の「挑戦」は安全+用意周到、どちらかというとパフォーマンスだ。失敗しても「挑戦」したという事実が勝ちとなるから、恐れることのない「挑戦」だ。



カ   世間の誰もが認める形での「挑戦」ね。


ケ   そうだね、昔は、挑戦的なことは、必ず誰かが止めたよね。それを振り切っていくのが「挑戦」だった。「挑戦」というのは自分の夢や欲望の延長線上にあるのが普通だ。しかし、それとまったく逆の「挑戦」にも男はかけてきた。それは、本能との戦いとも言えるもので、誰にでもできるものじゃない。その越境こそが禁欲である。僕だけかもしれないが、大げさに言えば、男性の頭の中は九割がた女性のことで占められていると思う。意識の量的問題ではなく、強度としてそれくらいじゃないかな。男性は仕事とか、目の前にやらなければならないことから解放されたら、向かう先は女性でしょ。行動できない場合は想像として。



カ   まあ、週刊誌やコミックの表紙はみな女性だし、迷惑メールの類はほとんど女性のお誘いだ。性的な犯罪を犯すのは全て男性。卵子の誘引力は偉大だ。となると、禁欲は男による男自身に対する挑戦であると…



ケ   言葉の発達は外的にも内的にも越境を促した。人類はその内的越境の果てにまで分け入った。それは、あるかないかを確かめることのできない世界、見えない世界、自然と人間を生み出した世界、死後の世界を想像することだった。いつからか、その想像力が宗教的体裁をとるようになって、実践的な形態がつくられようとした頃、性的煩悩が内的冒険を妨げていると感づいた人々が出てきた。カ  わかりやすく言うと、涅槃とか悟りの境地は煩悩を消さなければ至れないという僧侶や修行をする人々が現れたのね。始末に負えない性的煩悩に立ち向かった。



ケ   宗教は目に見えない力を信じられるようになる精神や心の境地を得るための訓練を編み出していった。それを修行というんだが、そのまえに、宗教というのは圧倒的な自然の摂理の中に、それこそ人間の生死が翻弄されるほどの驚異的な力として見出された。災害にしても、食料の恵みにしてもこれは人為の働き以上の何かがあると。その神秘的働きに神を見出した。太陽も海も山も神そのものだった。



カ   人を生かすも殺すも自然しだいのときは祈るか崇める他はない。人工的な社会になって生き死にも自然の計らいではなくなった。今の日本は祈りに遠いね。



ケ   宗教の発達の仕方は東洋と西洋でだいぶ違うので気になる人もいるだろうけどその違いはここでは意図しないので端折る。で、言語的越境はその神に近づいていく道標を作る作業だ。



カ   神(自然)から自分を引き剥がしておきながら、また肉迫しようとする。人間は変な生き物だ。



ケ   うん、変ってる。で、原始の最初から苦行や修行をする人はいないはずで、たまたま冒険途中にアクシデントがあって、恐ろしいに目に逢いながら生死の境を一人彷徨い歩き続け生還したものがいた。彼は出かける前と別人になって帰ってきた。何かしらの啓示を授かったものもいたかもしれない。それらの変身は他の人間を驚かせるに充分だったに違いない。共同体の中で評価されうるだけの変貌を遂げていた。未知の言葉をつぶやく人もいたかもしれない。ある種の治癒力を備えた人もでてきた。時には自然発生的に神がかり的な能力を発揮した少年や少女が生まれたかもしれないが、まあそういう沢山の越境帰還者がいた。



カ   最近はあまり聞かないが、月探査に向かった宇宙飛行士たちが帰還後宗教家になったり芸術家になったりと百八十度の意識の転換を示した例があるがそれと似た感じかな。



ケ   そうだね、宇宙飛行士たちの変容よりもっと濃いと思う。そんな彼らが他の人に尊敬されうる能力を発揮し、また、体験そのものに各々似たような共通性があったとしたら、それが積み重ねられて、人間感性の中にそれらの経験のメカニズムを言語的に体系化しておまじない(シンボル象徴)のようなものが作られることは充分考えられる。記述された物語はもっとずっと後だ。



カ   今でも病気や事故で死を宣告された人の中に奇跡の生還を果たしたあと信仰心とか宗教心に目覚める人がいる。臨死体験の美談としてよく取り上げられる。それにいかんともし難い時はお祈りするしか方法がないものね。



ケ   見えない世界や死後への想像力に、死を潜り抜けてきたものの体験が取り敢えず答えとして出始めた。そう考えないと宗教は苦行とか修行をなぜ行なうのか説明できない。
人は極限状態になると脳内にノルアドレナリンやドーパミンという神経伝達物質、他にも脳内麻薬様物質が分泌されるのはよく知られている。多幸感やハイな感じになる。マラソン選手のランナーズ・ハイは脳内麻薬様物質の分泌だといわれる。その物質の過剰分泌は死さえ「恐ろしいもの」と思わなくなる。そのような脳の生理機能がもたらす幻覚や幻聴や妄想を含め、ぎりぎりの状態から戻ってきた人の体験が指針となった。



カ   狂気のうちに亡くなった芸術家などは脳内麻薬の過剰分泌の類なんだろうな。



ケ   天才と狂人は紙一重と言うね。で、修行者や苦行者は死に近づいていくことによって日常の雑多な意識が取り払われてハイになることを、よりクリアなすがしい境地とか大いなる啓示を授かると理解したんだ



カ   原始の時代は自然は奇蹟そのものだった。ならば、人間としての奇蹟は一度死んで生まれ変わること。修行や苦行は死の疑似体験としてあったんだね。



ケ   一部の宗教者はそうやって日常意識の超越を試みていった。いわば越境の究極を求めた。しかし、そこに立ちはだかったのは性欲という本能だった。



カ   食欲は絶てば必ず死ぬからね。それは超越じゃなくて自殺になっちゃう。伝説としては断食者はいるだろうけどそれにも期間があるだろうな。超越願望はたとえ死んだとしても、別の人物に生まれ変わったという発想を持ち出して辻褄を合わせることもした。



ケ   禁欲というのは本能との戦いだからその向こう側に行くのはかなりの越境だと思わない?それは実際に女性に触れないという話ではない。性エネルギーが挑発する頭の中の女性に対するイメージも絶たなければいけない



カ   うーん、何しろF1レーサーの精子群だからな~。男として生まれてきた以上それを絶つのは至難だ。それを目指してきたんだからね。・・立つ方に預けるか・・断つ方を選ぶか(笑)



ケ   そんなことを言うなら、・金にひざまづくか・禁ににじり寄るかだな(笑)冗談はともかくとして、男の性欲ほど特定のイメージや仮定なしに妄想をかきたてるものはないでしょう。それが日常の意識のもっとも雑多なものとしてある。隠れては現れ、現れては隠れ。いつまでもどこまでも付きまとう煩悩の王だ。



カ   至る所で性描写が氾濫している。あれこそ男の頭の中を露出している現象だね。



ケ   そこで、修行者たちや聖なる越境者たちは、道場、つまり、山に「女人禁制」の立て札を立てた。あの立て札は、自分達の頭の中のあまりに豊かな性的イマジネーションを禁じた御触れの立て札だったんだ。



カ   「女人禁制」の立て札は僕も何度か目にしたことがあるけど、修行者の聖地に不浄な者として考えられていた女性が入ることは許さんということだったんじゃないの?場が穢れると。



ケ  一般にはそう捉えられているし修行者当人もそのつもりだったと思う。しかしよくよく考えたら女性を不浄とするのは横暴だよね。僕が思うに女性が不浄なんじゃなくて、男の頭の中の方が不浄なんだよ。

















2009-11-01 10:09:04

第三章 男の生態 Ⅱ

テーマ:男を見限るまえに女が読む本
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