2009-07-04 15:47:35

お家騒動

テーマ:母屋の思想

今の日本の政治状況はあまりに無味なので触れたくないのだが、それにしても二大政党のお家騒動ぶりは日本的すぎて恥ずかしいくらいである。あらゆる物事が保身のみで動いている。こういうときに、愚かしいと言わずに恥ずかしいと表現するところが僕の日本的なところだ。

「愚か」は相手を非難している。「恥ずかしい」は自分のことではないのに自分も恥じている。このようにして物事に深く入り込むことを微妙に避けるのだ。よほどのことがない限り、真正面から対立することをしない。この国では意見の対立に感情的なものが絡むのでとても面倒くさい

小さい頃から異なる意見をそれぞれに尊重し、表現するという習慣が皆無なので、反対の意見を言うときはけんか腰になる。「そんなことを云うならお前がやってみろ」と。そういう話ではないだろう。


表現のエキスパートである有識者や文化人はその感情を押し殺した論理を展開するが、味方を増やそうとする論なのでまどろっこしい。どうも直球勝負は怖いようだ。よって、力ない変化球は見極められてボールになる。善い悪いは別にして、田母神さん(なんという日本を象徴するな名前だろう)などは直球(決して剛速球ではない)でポンポンとストライクを取りにきたタイプだろう。

一球だけ直球を投げさせてもらえば、僕は日本の議会制民主主義は天皇制の偽装だと認識しているので選挙にはいかない。正直に言うと一度も行ったことがない。だから、政治の話はあまり積極的になれない。が、湾岸戦争の時は戦争反対のデモ行進に、娘よ、君と一緒に行ったっけ。


僕の態度は国民としての義務を怠っていると非難されるのは目に見えている。それでも、一票はほんとに清きものなのだろうか?その一票が汚職議員や酩酊大臣を生んでいるとしても。しかし、誰かがやらねばならないらしい。苦しいね。僕はこの苦しさに参加するのを放棄したのだ。

選挙に行く人は何をもって選ぶのか。僕には地縁も血縁も業界も宗教もついでに金もない。多くの人はそのどれかがあるのだ。つまり、僕は「家なき子」というわけだ。

基本的に政界は権力闘争というよりお家騒動に明け暮れている。お家の騒動に門外漢の出番はない。騒動はあくまで騒ぎに過ぎないので何かが変るということはない。要するに、僕たちの国は外部からの要請なくして自らを変革するということは絶対にないのだ。


騒動は治まればそれでよしとなる。そして、騒動である限りはいつか必ず治まるの
である。つい先日のマスク騒動、あれはいったい何だったのか。タミフル耐性菌も出現し、感染は当時より広がっているというのに・・・


騒動はなぜ起こるかというと、ある出来事が発生したとき、そのことをもって「お家の一大事だ」と捉える民族習性があるからだ。自分のことは差し置いても、「お家」のことには参加しなければならない。その「家」とつながっているということをもって、自分のアイデンテティにするのだ。卑近な例だが、みのもんたさんのTVでコマーシャルされた商品は騒動まがいに盛り上がる。


そう、「騒動」に隠れているエネルギーとはおばさん的なのだ。要は、日本の母親たちのエネルギーなのだ。それは、日本の隅々まで染めつくし、誰も逃れることはできない。

既存の政党は自ら(お家)を守ることが国民のためだという。その論理がこの時代に通用するところがすごい。それを通用させている国民がすごい。日本は国と家と住人がひとつ(一枚岩)になっていると僕は考えている。そして、天皇制とはそれを象徴してあるのだと。


が、油断は禁物である。現代はその一枚岩を構成するもののひとつであるところ

の、家庭という意味における「家」の形が変形をはじめたのだから。

2009-07-01 18:33:24

母と息子

テーマ:母屋の思想

「母を裏切る」などという物騒なことは誰も賛同しないかもしれない。


しかし、それは母の期待に対する反動としての裏切りではない。母の期待に応えるための人生イメージを捨てることなのだ。


母なるものの世界イメージは安定と安心である。つまり無難な路線を望む。なぜか、息子に苦労をかけたくないを信条とする。社会の枠組みの中で偉くなることは望んでも、権力や既成の価値観に反旗を翻すような言動を母は望まない。


母の愛は通常、個人的である。「お前にはこの私がついている」と。いつぞや、船場
吉兆の偽装事件が発覚したことがあった。


娘よ、君は女将とその息子の記者会見を覚えているだろうか。それは、まこと強烈に、見事に日本の母と息子を分りやすく示してくれた。テレビを見ていた日本の母たちは誰も自分のことだとは思わなかっただろう。しかし、僕にはあれこそ日本の日常風景の鏡であった。


5,6歳の子供を連れた親子。その母親の知り合いか、または友人にはじめて会ったとする。そうしたとき、友人は言う「まあ大きくなったわねえ!」そして尋ねる「ボクいくつになったの?」「名前はなんていうの?」と。


少し照れくさそうにしていた子供が喋ろうとした瞬間、「○○ちゃんは○歳になったんだよね、もうすぐ幼稚園に行くんだよねえ」と母親が子供に言い聞かせるように話す。或いは、母親が同じ質問を子供に言う「名前は?」「○○ちゃんはいくつになったの?」と。


母親に言葉を奪われた子供の末路があの船場吉兆の息子の姿である。それでも、「子供が成長すれば私はあんなことはしない」と、みんな思っているだろう。


記者会見など一般の人が遭遇することではないので、自分には当てはまらないことだと思ってしまう。ところが、そういうパターンは形を変えて関係性に染みつくのである。


妻ではなく母に味方するご亭主たちや、オレオレ詐欺に騙される人々。職務放棄の大臣たち。家庭内別居のような熟年夫婦。怒りを胸に引きこもった若者も、愚痴しか言えないサラリーマンも根っこは同じ母子の関係性である。


現代日本の教養ある母親たちは、意志と言葉を奪うことで、とても陳腐なルールに適合する息子を量産しているのだ。



僕は日本男児のふがいなさを母親のせいにしているが、それほどに強烈なエネルギーを母は子に注ぐ。それは母個人の意志ではなく、日本民族の根を支える遺伝子なのである。


そして、近代化によって社会や産業、家、時代を取り巻く状況が変化したとき、その遺伝子が育てたものは変化への対応が鈍い種であったということが明らかになったのである。僕は何も犯人探しをしているのではない。


責任転嫁をしているわけでもない。男も女も「自覚」にいたるための手掛かりを提示しているのである。


2009-06-26 18:56:34

女の力

テーマ:母屋の思想

娘よ、僕はこれからも同じようなことを言い続けるだろう。「家」のシステムから母・先祖・土地・天皇制・息子・無責任・集団性・情緒・防衛的・言葉・甘え・引きこもりにいたりオタク・職人技・見る文化・身体性へと数珠繋ぎに辿ることになろう。


ところで、欧米諸国の成り立ち方が男性性のエネルギーに導かれたとするなら、日本は女性性のエネルギーに支えられて立ち上がってきたものだ。


ところが、日本の男児はそのことを自覚しない。困ったことに、その自覚の力の芽を摘んでしまうのが女性性のエネルギーなのだ。そのかわりに男たちはつまらないプライドにしがみつく。男の優位性にこだわる性癖は自らを盲目にする。娘よ、君はアホらしいことですぐに自慢したり、怒ったり、決め付ける男たちにどれほど出合ってきただろう。社会に出るようになって、男には生来のパワハラ気質があることにも気づいてきただろう。


家庭における夫の幼稚さに辟易している女房たちの不満を僕はどれほど聞いてきたことか。男は男で、女房の口うるささや感情的な物言い、思慮の浅さにため息をつくのであるが・・・もちろん女性たちも自覚がないのは確かだ。しかし、女性の本能生理は子供を慈しむ目である。これは、非常に厄介な代物である。もし、日本の男児が自立していないとするなら、それこそ、自らが突破しなければならないものが誰よりも自分を守ってくれているという構図に因る。それが「母」なのだ。


日本という国はその構図を利用したといえる。財布のヒモを女たちが握る国。「カカア天下」が一般に流布する国。千年以上も前に女流文学が花開き、女文字まで作られ、その文字によって僕たちは学習が容易になっている。神様は天照皇大神、その前は卑弥呼の国、出雲の阿国さんも舞踊の祖である。田楽の田植え歌でも女たちが歌いはじめたものだろう。


日本の男児は社会に出ると文化に触れなくなる人が多いといわれるが、日本の文化は女たちが支えてきた。文化の頂点に君臨するのは大体男だが、それはマニアックな男の性質からきたもので、基本的に文化の層はゆるく広いものだ。女の教養、たしなみは上流階級に限らず身につけようとした。無意識的に女性の位置づけは極めて高かった。


嫁はいびれても母には弱い大人げのない男尊女卑。そんなことにも気がつかず、「女は産む機械」などとのたまわった国会議員がいたっけ。時代が時代だから、口には出さない、頭の中でも充分注意はする。しかし、感性はいまだにそんなもんだの男たちなのだ。


娘よ、もし君に息子が生まれることがあったら、母を裏切ることのできる息子を育てよ。そして、その裏切りは悲しみと共に享受せよ。息子の勇気がやがて母を超えることを信じて!




2009-06-22 18:35:05

幼児賛歌

テーマ:母屋の思想

日本のルーツは母性(家の思想)のオーラに包まれる。それを、現代社会に見て取ることはさほど難しいことではない。


国会議員に限らず、家を継ぐ世襲制の強固さは随所に見られる。茶道、華道、能、歌舞伎などの伝統芸をはじめ、老舗の旅館や商店(蔵元など)。それでなくても、昔はその家に生まれたら、その家の仕事を継ぐのが普通であった。百姓の子は百姓をした。いろんな職業が生まれると、次男坊三男坊は外に出るようになったが。それでも、いまだに死んだら「家」の墓に入ることになる。死んでも家のしがらみは解けないのである。


名家ともなれば、嫡男は一家の職能を幼少時から叩き込まれる。母は家の看板を背負うことに免じて他のすべてを甘やかす。しかし、受験を控えた子供にあらゆるサービスを施す現代のお母さんたちは、継ぐ家もないのに習性だけは本能として働く。私はこれだけのことをしてやっている。結果、菅谷さん型の男子が量産されていく。


問題は、現代は社会の仕組みも「家」の形もすっかり様変わりしてしまったのに、母の子に対する向かい方が遺伝子組み換えされていないことである。子に対するサービスは度を越え、電話一本で何百万円ものお金を無条件に振り込む。オレオレ詐欺の本質は、自分の言うことを聞いてよい子に育った息子への溺愛につけ込んだものである。ここでも「よい子」の側は被害者になる。


極論を言わせてもらえば、母にとっての「よい子」は社会の変容にそれほど役に立たないのだ。日本の現状を憂える人々は、リーダーたちの構想力やその力量を云々するが、それこそなんの役にも立たない戯言である。なぜなら、日本の強固な母性(家)システムはそういう人物を生むようにはできていないからだ。あの二世三世の総理大臣たちを見ればすべてわかる。あれが、僕たちなのだ。だから、家システムそのものを極端に利用し、その頂点に立った田中角栄のような人が強烈なリーダーシップを発揮したように見えるのだ。


「よい子」の集団、日本。よく働く日本人。善良なる人々。世界一の借金の上に胡坐をかいて、俗を謳歌する。純朴以上のアイデアがない日本人。しこたま人生を経験して老人となり、最後にかけられる言葉は、なんと「まあ、可愛いおじいちゃんねえ!」なのだ。日本の母性の子供扱いは永遠なり。それが日本の感性である。すごい!

2009-06-18 17:14:52

被害者

テーマ:母屋の思想

   お知らせ


今月のブレスワークの日が近づいてまいりました。


時:6月21日(日曜日)AM10:00~PM8:00
於:からだはうす


月に一度の心身の大掃除の日です。
ダイナミックな生命エネルギーがもたらすさまざまな気づきは心身の変容を促します。ちょっと停滞気味の人は是非一度試して見てください。


問い合わせ:0422-47-8626

参加をお待ちしています。


さて、母屋の思想の続きだが、僕は「守るもの」の章で日本人の「謝罪の態度」を示すことで許す習性について述べたが、昨日その典型的な姿をテレビニュースに見た。1990年、栃木県足利市でおきた幼女殺人事件。菅谷利和さんはその犯人に仕立て上げられ、17年の服役後今月の4日に無罪釈放となった。僕は事件そのものを云々するつもりはないが、釈放後の菅谷さんを追ったテレビ報道を垣間見たとき、特に昨日の会見には「謝罪」と「許し」の構図がはっきりと映し出されていた。


栃木県警の本部長なる人が公式に菅谷さんに謝罪したのである。菅谷さんは「とにかく謝ってくれさえすれば私は許すつもりであった」と。ねっ、娘よ、僕たちは相手がどういう態度に出るかが重要であるということがわかるでしょ。弁護士は捜査の責任追及は今後もやっていくと言ってるが、それは当然のことである。


それにしても、謝った人は事件当時の当事者とは関係が無い職責として謝罪したに過ぎない。要するに、謝るという態度は形であり、許すという言葉は情緒である。母と息子の関係と同じではないか。


確か、菅谷さんは釈放されてすぐに、寿司屋とカラオケに行った。僕はマイクを握ってうれしそうに飛び跳ねている菅谷さんを見たとき「ああ、軽い人だなあ」と感じた。そして、隠しようのないうれしさからは、彼の純朴さが窺われた。少し調べると、彼は幼稚園の送迎バスの運転手をし、自分の家があるにもかかわらず実家に寝泊りして、朝は親に起こしてもらい、ご飯も作ってもらっていたらしい。


もし、それが本当だとすれば、彼には無邪気な(自立していない)幼児的精神が色濃く残っている部分があると察しがつくだろう。実は、菅谷さんのように純朴で、軽くて、楽しい性質を持つものは日本の母親が息子(あくまでも幼少時)に望む姿である。しかし、実際は精神的に幼児のまま大人にしてしまう日本の母性。母は「したたかさ」を養えない。


現代も母親は子供にいたれりつくせりで、「よい子」を量産する。子供はサービスされれば不満がない。不満がなければ、成長後に必ず訪れる葛藤に対する処理システムがきちんと作動しない。菅谷さんは、その軽さゆえに自白の強要に耐えられなかった。(もちろん僕だったら耐えられると言っているのではない)。彼はどこかで、言いなりになりやすい傾向を保持している。それは、「よい子」だからなのだ。そして、「

よい子」は徹底的に被害者になりやすいのだ。もっと言えば、「言いなりになりやすい傾向をもつよい子」とは、権力とマスメディアがこんなにも操作しやすい僕たち大衆のことだったのである。


今、日本は被害者意識が満ちている。これは古き女性の方法論である。娘よ、強いものは弱いものを相手にしない。つまり、適当にあしらうだけである。強きものが恐れるのは本当に強きものであることを僕たちは肝に銘じなければならない。


さて、そんな大人を誰が作れるというのか・・・


2009-06-17 17:08:00

念ずる人々

テーマ:母屋の思想

自然や集団との仲良し一体化民族としての日本。個を際立たせる(自己主張)ことなく、目に見えないところでの努力を賛美し、孤独な忍耐を受容する。集団と意見を異にすることは我慢して言わない。そのぶん、どこにエネルギーを注ぎこむかというと「念」である。日本では一般人であっても「心に念じる」力を信じている。言葉に出さない。神様に祈る時も、音に出して言わない。言葉にすると安っぽくなるのだ。


自然崇拝はいたるところ、あらゆる物に神霊が宿っていると見るので、人間だけが使う言葉では神霊との交信はできないのだろう。入魂の念力を使うのである。いまだに「念の力」は健在である。野球選手にも「一球入魂」などと色紙に書く人がいる。日本人はいまだにいざとなるとシャーマニックになる。


しかし、「念の力」は刹那的現象には効力を発揮することはあっても、制度やルールには関与しないので長期の展望が開くことはない。道徳的に悪いことをしなければ、いつか天が味方してくれる。たとえ味方してくれなくても、それは「天が決めたことだ」から仕方がないと諦める。


この近代社会に過労死が続出している。会社や同僚に迷惑をかけられない。ああ、なんという人の好さ。一方で簡単に職務を投げ出す総理大臣たちがいる。いけしゃあしゃあと議員を続ける。それを糾弾する人はいない。僕もその一人に違いないのだが、絶望的に人が好い。黙々と一生懸命働いても「念」も「天」も支えてはくれないのだ。


豊かさとは死を賭けて手に入れるものなのだろうか。それ以前に、豊かさとはなんなのだろう。人間らしい生活とはなんなのだろう。それよりも、この地球上で人間たちが作り出している世界ははたして生きるに値するのだろうか。娘よ、言葉とはそういうことを考えるために表現されていかなければならない。人間とは自らに魔術をかける天才なのだから・・・


かけがえのない人生。虫けらのような自分。拾う魔術に、捨てる魔術。どちらでもよい。娘よ、いつかあなたの精神がたった一人になったとき、それが自ずとわかるだろう。


2009-06-08 18:06:08

一体化

テーマ:母屋の思想

やってしまったことは仕方がない。起こってしまったことは取り返しがつかない。取り返しはつかないが、まあ、とりあえず謝っているし、反省の態度を示していしるから「水に流そう」というのが、僕たちの事後処理のやり方である。今はたとえ辛くても、冬が終われば春がくると。じっと我慢しなさい、一生懸命耐えていればやがて良いこともあると。やっぱり、みんなで仲良くが一番だ。事実、そういうやり方で乗り切ってきたのが日本の民衆だったと思う。いまだに農村部ではそういう意識が濃い。


僕は、日本の場合、歴史が記述される以前の石器時代や縄文・弥生の時期に育まれた言葉による思考の仕方、意識の作り方が、その後の文化文明の基礎になっていると思っているのだが、それは現在の近代日本に暮らす人々の思考感性にも反映していると信じている。超高層の都会に暮らし、最先端の情報を自由に操っているとしても、それは借り物のお遊びである。借り物のお遊びがよくないと言っているのではない。借り物のお遊び上手の根拠が、はるか数千年以上も前の思考感性に拠っているのではないかと思うのである。


徹底的に責任を追及しない性分などもそうである。起きてしまった出来事には被害者であろうが、どこか責任の一端を担っている節がある。人為的な事柄であっても、天の采配によるひとつの運命のように考えてしまうところがある。また、政治や行政機関などに顕著にみられるが、そういったところでの不都合が生じた場合、法律や制度やルールを変えることに常に二の足を踏む。人間が作った制度はいつだって

改変可能なのに・・・。うまくいかなければ自力で変えて試してみればよい。僕たちにはそういった意味での積極性に欠けるところがある


ルールは日常生活を規定するが、特に「世界観」ではない。にもかかわらず、明文化されたものに対する取り扱い方は大仰である。僕たちはなぜ、決まりごとに対して柔軟な思考を駆使できないのだろうか。それが、仲良し思想から育まれたものだからだと僕は思う。地域住民は仲違いすることを恐れ、我慢しながらも仲良しであることを選択する。しかし、その仲良しも表向きそうしているだけである。


そういう本音と建前の二重構造を抱えていると、意見の対立自体が仲良し組みを壊してしまう可能性があるのだ。だから、できるだけ意見を対立させないようにする。意見の対立が感情に絡んでしまう。日本人は意見が異なることと信頼ができないということが一緒くたになっている気がする。


日本の場合、意見とは常に人間性にかかわってくる。これでは、自分の思っていることを正直に発言することなどできない。やがて思考することさえやめてしまう。要するに思考することに付随する責任を放棄してしまったのだ。意見は人格と一緒ではないのに、日本ではそれくらいに論理思考が育まれなかった。その原因を僕は日本の自然気候風土に一体化した暮らしから生まれた言葉に対する脳内感度に見るのである。全体性から個を切り離すことをしなかったのである。


2009-06-02 17:13:09

小さな宇宙

テーマ:母屋の思想

娘よ、日本人の防衛意識のなんたるかが少しは見当がついてきただろうか。


古代より、海の幸、山の幸、そして清らかな水、安定した食糧としての稲作、変幻の四季。日本の絶妙なる食文化も当然こうした豊かな自然が背景にある。そうした恵みを生み出す土地に人々が思いを入れるのは無理からぬことだ。日本では各地に名所があり、和歌の枕詞には行ったこともないくせに地名をかぶせる。


花見は今でも盛況だ。僕たちはいまだに奈良・平安期の眼差しを持っているのか。虫の音にだって、蛙が飛び込む池の音にだって、風流を捉える。なんだ?風流って?素晴らしい自然観賞能力ではないか。我が民族は列島の空間・場所やそこに生起する現象をを愛でてきた。


の愛し方を声にした。つまり、みんな歌っていたのである。和歌は貴族が始めたわけではない。でなければ、無名の防人や、詠み人知らずの歌が万葉集に載るわけがないだろう。


今でも、短歌や俳句や川柳が一部盛んだが、文字が使われる前は、もう日本中で歌っていたのだ。きっとそうだったと僕は思っている。それは、優雅とかの問題ではなく、風土によって日本人の思考がそのように作られていったのである。


日常のコミュニケーションに使う考え方も、歌を詠む思考に侵犯されるほどだった。原初に歌を詠む感性が根付いてしまった。だから、僕らの感性はいまだに情緒的と言われるのだ。


そのように、空間・場所・土地にくっついた思考にプラスして先祖の魂や霊への思慕があった。こうした時空から人々は何処へ出かけていく必要があっただろうか。列島と人々の中身がこれほど豊かであったがゆえにその世界は、いわば、自己完結していた。


その小さな宇宙の中で、季節も人も出来事も循環していたのである。僕は日本人が手放すことができないものの最深部にあるのが、この循環型の世界意識なのではないかと思うのである。(よって、突破する力がひ弱である)


外部との接触が始まって、大陸の文化を上手に取り込んで日本流にしてしまう才能を叩き壊されなかったことは、ある意味、小さな宇宙観の恩恵といえるのではないか。我が民族はしたたかに自らの等身大を守り続けてきたのである。明治に開花?するまでは・・・


2009-06-01 12:06:47

守るもの

テーマ:母屋の思想

もともと日本人は防衛意識が強いと言ったが、では、僕たちは何を防衛しているのだろう。個人として考えた時、母親が子供を守るほどの大切なものが自分にあるとは思えない。才能か、力か、プライドか・・・?そんなものはたかが知れてる。財産だってみんながそれほど持っているとは思えない。奪われてはならぬもの、消えてはならぬもの、破壊されてはならぬものとは・・・。


思うに、それこそが「家」だったのではないか。日本は恥の文化と言われる。恥の文化はこの「家」から生まれたのではないか。「家の恥」、母はこれを最も恐れる。個人の愚かさであっても家の恥なのである。個人の意見は「家の意見」になってしまうのだ。


家族の誰かが不始末をすると、母はこう言って罵った。「この恥さらし!」「お前は家の面汚しだ!」と。実際、僕は田舎にいた頃耳にしていた。江戸期の最大のお仕置きは「お家の断絶」であった。


高校や大学の運動部の誰かが不祥事を起こすと連帯責任として部活動の中止とか、大会への不参加とかになる。会社でも例えば社員に横領されて会社としては被害者であるにもかかわらず、社長が公的に謝っちゃたりする。日本ではどんな組織も「一家」となる。近年はだいぶその仕組みも個人を尊重する形態に変わりつつあるが、そんな慣れないことを始めたので、今度はコミュニケーションが取れないとか言って頭を悩ましている。


現代は各家庭や組織も、形として昔の「家」は崩壊しつつある。しかし、僕たち一人一人の精神構造にはたっぷりと「日本の家」がまぶされている。


娘よ、テレビでは連日、公的機関や企業の幹部が揃って頭を下げる映像が流れるね。日本では謝った時点で事の詮索は終了するのだ。論理的な是非よりも「態度」が重んじられる。「態度」がよければまあいいかとなる。謝るという姿において恥をさらしたのだからという訳で許されるのだ。


そのような現象は「馬鹿な息子を可愛がる母親の甘さ」を示唆する。息子が不始末をしでかした時、とりあえず怒っている母ちゃんには謝っちゃう。たとえ口に出して表さなくても、心の中の風情は「申し訳ない」である。事件などを起こした当事者は「家族に迷惑をかけた」という。マスコミも世間もすぐに「家族ぐるみ」の思考で注視する。それは、マスコミも世間も「大きな母ちゃん」に変貌した瞬間なのだ。


「大きな母ちゃん」が登場すると、息子に代わって当の母親が謝る。芸能人の二世たちが麻薬所持で逮捕されると必ず親が出てきて涙顔で謝る。「家」を代表した謝罪によって「大きな母ちゃん」は許す。母の気持ちがわかるのは母である、ということか。何事もなかったかのように、事は元の鞘に収まる。


母ちゃんはだいたいが情緒的だから、自分が怒ったことと、息子が反省の態度を示しているということで差し引きゼロで納得してしまう。そこで終わってしまうのだ。だから、何かを変えていくことはしない。特に母親自らを省みて変えようとはしない。


マスコミの前で頭を下げるお偉いさんたちのこちら側にいるのは、僕たち大衆(大きな母ちゃん)である。そして、その母親こそ日本の大衆根性(世間意識)のことなである。僕たち日本人には「家」とは変えてはならぬものの象徴として浸透しているのではないだろうか。


僕たちは「母」=「家」を必死に守っている。なぜならば、それによって僕たちは「守られている」からだ。

2009-05-31 00:27:44

マスク

テーマ:母屋の思想


日本民族は個としてあまり考えない民である。そうだとして、では何故にここまでの繁栄を築くことができたのか。その答えこそ、まさに個として考えない民だからである。では、僕たちは考える代わりに何をしたのか。真似をしたのである。


かつては中国の、明治からは徹底的に西洋文明の真似をして追いかけた。こういうとき、「みんなと一緒」の習性は強い。自分たちの目標とするモデルがあるとき真似するものはその真価を発揮する。政治、経済、軍事から衣食住まで見事に真似をし、そして最大の武器である器用さとアレンジ力と勤勉さをもって、日本はのし上がっていったのである。


真似をするぶんには深い思索はいらないが、それでも働き者たちは一定程度の恩恵に授かることができた。一億総中流の時代がその頂点だったかもしれない。真似した結果がよければそれでよい、というより、その程度の結果以上の想像力を僕たちは持ち合わせてはいないというのが正しい言い方か。まあ、なんだかんだ言っても、世界のほとんどはは欧米の色に染められてしまったのだから。


そういったことから、現代のネガティブな世相や社会の流れをついて、日本のリーダー達に長期的なヴィジョンがないとか構想力が乏しいなどという批判がいたるところから発せられたとしても、僕に言わせれば、そんなことは当然のことで、大和朝廷が皇位を名乗って以降日本国として独自のヴィジョンなどあった例はないのだ。


考えない民などというと突然いきり立つ人がいるだろう。だが、僕たちは天地自然=天皇制=母性のふところから出ようとする試みをしたことはなかった。母性とは胎内で児を育てるがごとくとても内向きである。よって、とても防衛的な性質をもつ。


現在、世界を騒がしている新型インフルエンザへの反応などにも日本の特徴が映しだされている。他国の人には奇異に映るらしい日本人のマスク姿。花粉症もそうだが、日本人は明らかにマスクが好きである。


ほとんどの人がそう信じているが、マスクをするのはホントに清潔好き、進んだ衛生観念からきたものだろうか。清潔好きも衛生的も要は防衛的な意識から発生する

わけだから、それだけでも日本人にフィットする。しかし、僕はそれ以上の無意識をマスク姿に感じるのである。それが、「口を利かなくてもよい」ことだ。マスクで公然と口をガードできることが精神的にラクなのである。


日本人が他者に対して異様な緊張感をもっていることは前回述べたが、話すことはもっと下手くそである。話すことは自分をさらけ出すことにもなる。日本人はそれをはしたないと思う。それは、自分に自信がないからである。「みんなと一緒」のみで個人で思考しないことの弊害である。


話さないから余計に自分の内部に敏感になってしまう。訓練されていないぶん、話すということで浮き彫りにされる自分の内部の驕りや愚かさや醜さや幼さやいやらしさがやたらに気になるのである。黙っている方がラクだという人は多い。


特に女性はその部分を隠そうとする。マスクは公然と隠すことが許される安心グッズなのである。マスクとは仮面である。黙っていても不可解な日本人なのに、加えて誰も彼もがマスクとは・・・外国人に異様に映るのは、彼らは日本人の心に隠されたエネルギーを感じているからではなかろうか。出してしまえば消えてしまうものなのに、そっちのほうがずっとラクなのに、なぜに、そんなものを隠すのか。僕にとっても不思議である。


娘よ、ついでにもうひとつ教えてあげよう。過剰防衛という怖れの病はやがて自滅の道を歩むことになるのだ、ということを。



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