お家騒動
テーマ:母屋の思想今の日本の政治状況はあまりに無味なので触れたくないのだが、それにしても二大政党のお家騒動ぶりは日本的すぎて恥ずかしいくらいである。あらゆる物事が保身のみで動いている。こういうときに、愚かしいと言わずに恥ずかしいと表現するところが僕の日本的なところだ。
「愚か」は相手を非難している。「恥ずかしい」は自分のことではないのに自分も恥じている。このようにして物事に深く入り込むことを微妙に避けるのだ。よほどのことがない限り、真正面から対立することをしない。この国では意見の対立に感情的なものが絡むのでとても面倒くさい。
小さい頃から異なる意見をそれぞれに尊重し、表現するという習慣が皆無なので、反対の意見を言うときはけんか腰になる。「そんなことを云うならお前がやってみろ」と。そういう話ではないだろう。
表現のエキスパートである有識者や文化人はその感情を押し殺した論理を展開するが、味方を増やそうとする論なのでまどろっこしい。どうも直球勝負は怖いようだ。よって、力ない変化球は見極められてボールになる。善い悪いは別にして、田母神さん(なんという日本を象徴するな名前だろう)などは直球(決して剛速球ではない)でポンポンとストライクを取りにきたタイプだろう。
一球だけ直球を投げさせてもらえば、僕は日本の議会制民主主義は天皇制の偽装だと認識しているので選挙にはいかない。正直に言うと一度も行ったことがない。だから、政治の話はあまり積極的になれない。が、湾岸戦争の時は戦争反対のデモ行進に、娘よ、君と一緒に行ったっけ。
僕の態度は国民としての義務を怠っていると非難されるのは目に見えている。それでも、一票はほんとに清きものなのだろうか?その一票が汚職議員や酩酊大臣を生んでいるとしても。しかし、誰かがやらねばならないらしい。苦しいね。僕はこの苦しさに参加するのを放棄したのだ。
選挙に行く人は何をもって選ぶのか。僕には地縁も血縁も業界も宗教もついでに金もない。多くの人はそのどれかがあるのだ。つまり、僕は「家なき子」というわけだ。
基本的に政界は権力闘争というよりお家騒動に明け暮れている。お家の騒動に門外漢の出番はない。騒動はあくまで騒ぎに過ぎないので何かが変るということはない。要するに、僕たちの国は外部からの要請なくして自らを変革するということは絶対にないのだ。
騒動は治まればそれでよしとなる。そして、騒動である限りはいつか必ず治まるの
である。つい先日のマスク騒動、あれはいったい何だったのか。タミフル耐性菌も出現し、感染は当時より広がっているというのに・・・
騒動はなぜ起こるかというと、ある出来事が発生したとき、そのことをもって「お家の一大事だ」と捉える民族習性があるからだ。自分のことは差し置いても、「お家」のことには参加しなければならない。その「家」とつながっているということをもって、自分のアイデンテティにするのだ。卑近な例だが、みのもんたさんのTVでコマーシャルされた商品は騒動まがいに盛り上がる。
そう、「騒動」に隠れているエネルギーとはおばさん的なのだ。要は、日本の母親たちのエネルギーなのだ。それは、日本の隅々まで染めつくし、誰も逃れることはできない。
既存の政党は自ら(お家)を守ることが国民のためだという。その論理がこの時代に通用するところがすごい。それを通用させている国民がすごい。日本は国と家と住人がひとつ(一枚岩)になっていると僕は考えている。そして、天皇制とはそれを象徴してあるのだと。
が、油断は禁物である。現代はその一枚岩を構成するもののひとつであるところ
の、家庭という意味における「家」の形が変形をはじめたのだから。






