2008-06-17 11:53:57

チャクラDEチャチャチャ28

テーマ:チャクラ

一夜漬けの試験勉強にしてもそうだが、どう考えてもにっちもさっちもいかないぎりぎりの状況になったとき初めて動き出すエネルギー、それも感情の一部である。


一芸に秀でた人は、その修行の中に精神の鍛錬を含めている。


そして、精神の鍛錬とは僕たちのいろんなエネルギーを突き動かす鍵となる感情エネルギーを透明にしていく作業である。無にするのでもなく、コントロールするのでもない。それは、消し去ることも操作することもできない。


つまり、感情のエネルギーというのは性エネルギーから意志・力のエネルギー、表現のエネルギー、知性のエネルギー、超常的エネルギーのすべてに密接に関連している。


そして、ハートチャクラのエネルギーは各エネルギー出力の調節というか、各エネルギーに重みを与えているのである。


「気持ちが強い」「気持ちを込める」などの言葉はそうした働きをうまく言い表している。


以前、ハートのチャクラはあらゆるエネルギーが一堂に会する集合点だと述べたことはそうした見解によるものである。


さらに、生命活動の目的を司るとも言ったが、それは人間の「抱きしめる」姿を思い浮かべれば理解されるだろう。


両手を広げ思い切り抱き合う姿は、歓喜の瞬間にせよ、悲嘆の極にせよ、愛おしさの熱情にせよ、人たるものが感極まったときの至高の姿である。


その姿を目的とせずに何を目的とするのか。


自分以外のものを己のなかに合体し融合させ、そして溶かし込んで外なるものと内なるものの流れをひとつにする。


まさに溶け合うのである。


そうした感覚と力をハートのチャクラは受け持っている。


僕には現段階における物質的身体の生命活動の目的がこの姿を超えて他にあるとは到底思えない。


人間という生物が他の生物よりもっとも進化した部分は、互いに抱き合いながらハートとハートを合わせて、性交ができるという形態にあるのではないだろうか・・・。


どんな創造も「こころ」を開くための知恵でなければならないと思う。


僕たちは事の原因を捕まえて肯しとしてはならない。原因に潜み、そこに絡みつく感情のありようを自覚することなのである。


ハートの第4チャクラは人間に目的を提示する。


どのような人間に成就するのかという内的な目的である。


僕が第4のチャクラを最後に持ってきたのはこのチャクラにおいて、多分人間として個としての閉じられた完成を見るのだ、と思うからである。


閉じられた完成を祈りという言葉に置き換えてもよい。


「水身体」は「地」と「火」と「風」と「電気」と「光」のエネルギーを纏ってこのハートチャクラに「こころ」を開こうとするものである。

2008-06-15 11:51:52

チャクラDEチャチャチャ27

テーマ:チャクラ

ハートのチャクラは主に感情をつかさどる。


(単に、喜怒哀楽というよりもっと複雑で多彩な心の動き全体を感情という言葉に含めて捉えてもらいたいのだが・・・。)


一般的に感情のエネルギーというのは人間が有するエネルギーの中でもっともパワフルなものだと僕は考えている。


どんなに理性的な振る舞いの中にもよく観察すれば必ず感情の色がある。


すでに構築された理論を踏襲する論文などにおいては感情の入る余地も必然性も希薄だが、新しく生まれ出ようとする理念や理論は感情のエネルギーなくしては生まれない。


他人が書いた文献を拝借引用して学者然としている輩は前者のこと、しかし、新しく生まれ出るものは必ず個人的な生活感情体験がその背景にある。


近代医学に命を救われた少年が医者を目指すように、貧困から脱出したボクシングの世界チャンピオンのように。


それは、あらゆるジャンルに通じる。


つまり、未来のヴィジョンは感情の質と強度が決定しているのだと僕は思っている。


自分の人生を振り返ってみれば、僕たちは理屈より感情を優先して物事を決めてきたことに気づくだろう。


その時々において、感動が運命を変え、恐怖や悲しみが未来を編んでいくのである。


人が感情で物事を決めている最たる証拠として、どんな国家も武器を捨てることができないという事実がある。

この場合の感情は恐怖と怒りである。


感情エネルギーの再発見、或は、再認識については、この現代社会に対する警鐘としてどんなに口をすっぱくして言っても言い過ぎるということはない。


頭部肥大化社会において、すべての人が感情エネルギーの処置に困っているのだ。


職場でも電車内でも家庭でも、日々みんなが遠慮しあって感情を抑圧している。


見て見ぬ振りを決め込む眼に生命エネルギーなど見えるはずもないだろう。いつの時代も好いた惚れたで事件は起きるものだが、感情とは抑圧すればするほど暴発し犯罪的になる。

2008-06-13 11:49:57

チャクラDEチャチャチャ26

テーマ:チャクラ

チャクラの開放イメージについては次のことを踏まえておかなければならない。


それは、基底部のクンダリニーが活性化して各チャクラを開いていく側面と、各チャクラが独自に開放する側面を併せもっているということである。


それはアナログ的な一方通行ではなく瞬時の同時多発性を有している。


さらに、僕たちのイメージというのは映像的であるがゆえに極めて物的である。


しかし、チャクラのようなエネルギーは実際、映像ではないので極めて事的(動きそのもの)である。


古代の導師たちは実際に事の運びを見たのだろう。


それを、それぞれの図柄に喩えたのだ。


現代の僕たちはイメージを被せているだけで、その眼は節穴に等しい。


そこにこういった話の難しさがある。


生命の物質的な側面に内包する力を象徴する第1から第3までのチャクラエネルギーと生命の物質から生み出される抽象的な力を象徴する第5から第7までのエネルギーはその方向性として第4の胸のチャクラでバランスされる。


このチャクラの図形は、上向きの三角形と下向きの三角形が重なって六ぼう星形をつくる。


このハートの位置における統合の図から、古代人の謙虚さと卓越した眼力がうかがわれる。


もしこれが現代だったら、統合のポイントを頭に置いたのではないだろうか?


死の判断が心臓から脳に移行しようとしているのと同様に。


僕は古代人の、黄金の宝探し「光」のチャクラを覗いてまでも、この絶望的に閉じている物質身体の中心に光明を見出そうとする根性に人間の域をまっとうしようとする覚悟をみるのである。


人間味を感じると言えば分かりやすいかもしれない。

2008-06-11 11:48:27

チャクラDEチャチャチャ25

テーマ:チャクラ

昔から、天才と狂人は紙一重であると言われる。


狂人扱いされ社会から疎外されてきた人々の発見や創作が偉大な文化遺産となり、僕たちはその恩恵にあずかっているわけだが、彼らの天賦の才と狂気はどう違うのだろう。


天才が「光」で狂人が「闇」というわけでもない。僕自身ある人物や事象に対してどちらとも断言する術は持ち合わせていないが、ただ、王冠のチャクラと呼ばれるエネルギーセンターはその紙一重のことだと想像している。


そして、たぶん心身の痴呆化が進み、機能不全に陥った生命が唯一息づくことのできる最後の領域としてあるのではないだろうか。


いずれにせよ第7チャクラは言語化が難しい。


ある意味エクスタシー感覚の働きだから、身体の肉的感覚よりは抽象的になる。


ただ、僕たちはどこから来てどこに行こうとしているのかという問いへの探求の道として、第1チャクラからの階梯は7番目の頭頂部のチャクラによってその扉が開くのである。


それと、生きながらにして神なる幻想に魂を売り渡すのか、死守するのか、その辺の難問を突きつけ、誘惑し、さ迷わせるのもこのチャクラのいたずらであることを言い添えておこう。

2008-06-09 11:47:31

チャクラDEチャチャチャ24

テーマ:チャクラ

古代の導師達は直接人間のエネルギーを凝視したが、それは純化された視線であった。


卓抜な生命エネルギーは、天に最も近いところにエネルギーの集中する頭部を据え、人はその頂に「光」を見た。


後光が射す人を見たとき、それは「光」より誕生したように見えたに違いない。


古来より例外なく人が魅入られるもの、それこそ黄金の輝きであり、宝石の煌きである。


歴史上の物語やドラマはほとんどがその「輝き」を取り巻くすったもんだ、七転八倒のおはなしである。


なぜ人はそうした輝きや煌きに参ってしまうのだろう。


僕が思うには、それらの輝きを前にしたとき人は瞬間的に『無条件』になるのではないだろうか。


「光」への希求は溶けて肯し、消えて肯しとする存在の最終段階なのだ。


逆に、「光」が内包する「闇」の罠にはまれば、全知全能感となる。一般論としては、前者は東洋に後者は西洋に根付いた。どちらも、「死」というゴールから「永遠」というゴール?にリセットされる。

2008-06-07 11:46:08

チャクラDEチャチャチャ23

テーマ:チャクラ

そうした観点からみると、第7チャクラの役割とは個人の脱身体的再誕生である。


時空を超えた功績である。個が失せるのである。できる限り個を滅していく力である。


僕が第7チャクラをエネルギーの昇華と位置づける理由は、個の完成から脱出を窺い、決して読み解かれることのない歴史を担う力へと変貌する可能性を見るからである。


言葉を変えれば、最も「死」に接しているチャクラと言えよう。


そうした「死」との関わりから生じていると僕は勝手に思っているのだが、頭頂部のチャクラは、一般に霊性と関わり、ここが開くとあたかも特別な選ばれた人であると思っている人がいる。


神や仏に近い存在と誤解する人もいる。


概して頭部というのはエネルギーが集中しやすいところである。


よってエネルギーの過剰流入がしばしばおこる。


それにより、心身のバランスが崩れ、非日常的、あるいは、超常的な感覚が芽生えたりする。


それは、人間の未知なる可能性を示唆する一端でもあるのだが、ほとんど畸形的である。


瞑想の世界では「魔境」という言葉もある。


畸形的とは他のチャクラとの連絡に不備が生じているということである。


昨今の多くの宗教の実効性が個人の安易な安心感を供与する程度のレベルなのは畸形(ひょっとしたら、単なる自我肥大)の証明でもある。


彼らには人間存在をエネルギー発動としてみる視点が欠けているのではないだろうか。

2008-06-05 12:43:27

チャクラDEチャチャチャ22

テーマ:チャクラ

チャクラの旅もその上昇気流においてはようやく雲間をつき抜け、天海にさしかかってきた。


其処は、頭頂部の第7チャクラである。


このチャクラは一千枚の蓮の花びらに象徴されるように異次元的なイメージがある。


(一千枚の花びらが描かれた図を残念ながら僕は見たことはないのだが)。


そのチャクラは西洋絵画に登場する天使たちの頭上に浮くあのエンジェルマークや仏像の光背に相当するものである。


「水」なる生命身体は「地」に支えられ、「火」の力により立ち上がり、「風」を纏(まと)って活動するようになった。

そうした個的生命身体が向かうところとは最終的に「死」である。


「死」には当然ふたつのイメージがつきまとう。


一方は「光」であり、もう一方は「闇」である。しかし、植物が太陽を希求する形容を示すように、生を表とする人間においては太陽信仰の普遍性もエネルギー的必然であろう。


なにしろ地球は太陽を母とする星なのだから。よって僕たちは「輝き」を志向するのである。


ただ「光」は創造と破壊の両面を併せ持つエネルギーの象徴だということを踏まえておかなければならない。


人間にとって、「光」は「闇を」抱き、「闇」は「光」を包み込んでいるのである。


これが、現段階の人間の内外を取り仕切るオーラ原則である。

2008-06-03 12:42:08

チャクラDEチャチャチャ21

テーマ:チャクラ

頭部は外部の情報を取り入れ内部に指令を送る。


脳の知的作業においては感覚器からのあらゆる情報が置換、変換、翻訳されるので脳が直に実体を知ることはない。


ここが人間の脳のすごいところなのだが、立ち上がった人間は脳の自由度を徹底的に広げ、インプットされた情報の模倣、複製、脚色、アレンジなどいとも簡単にやってのけ、夢想や想像を現実世界よりもはるかにリアルな内的現実として構築した。


文化的創造とは内的現実の表現に他ならない。


眉間のチャクラの知は身体や心のそれぞれを代表する1番目の仙骨基底部のチャクラから5番目の咽喉のチャクラをつなげ、統合させるのである。


そうして見事に織り込まれていく生命の精髄が「美」を目指さずに、何を目指すというのか。


僕は、「地」「水」「火」「風」のエネルギーをまとめ上げる眉間のチャクラにそんな想いを抱くのである。

2008-06-01 12:41:00

チャクラDEチャチャチャ20

テーマ:チャクラ

眉間のチャクラのノーマルな働きは、思考や意識の集中であろう。


よく眉間にシワを寄せて考えごとをする人がいるが、茫洋となりやすい脳内状況に活を入れる動きとして見ることができる。が、現代の若い人たちの中には、あまりに過剰な頭部エネルギーの消費によって思考や意識のフォーカスポイントを通過して、像(理解)が奥まったところに結ばれ、逆に現実に対応できない散漫な状態の人がいる。


そういう人々は頭と体が首のところでエネルギー的に切断されているのだ。


(余談だが、神戸の生首事件はそうした現代人の心身のエネルギー状況を象徴として示されたものである。)


そういう意味でも、健康という視点からだけではなく基本的な人間生命のあり方として、身体というものをエネルギー的に見直さなければならない。

2008-05-30 12:40:04

チャクラDEチャチャチャ19

テーマ:チャクラ

眉間のチャクラは第3の眼と重なるのであるが、俗に言う第3の眼とはなんだろう。


ここが開くと直感やひらめきに優れるらしいが何故だろう。


さまざまな宗教に眉間の光マークや赤マークや黒マークが見ることができる。


第3の眼は脳内に電気的に、あるいは化学的に発生する膨大な量の情報を神秘の網をかけて通過させるポイントなのだ。


しかし、神秘の網を通過できる感覚や情報は極めて少ない。


同様に、外的世界からの情報も、直接入ってくるもの意外は淘汰される。第3の眼へ参入が許されるものは光であり音そのものであり、色であり純粋に匂いそのものであろう。


馬は馬であり花は花である。


そして、それらの個の十全性をただエネルギーとして感受する。


僕たちの勝手な意味づけと価値観はその手前でへし折られる。


古代の先達者は長く過酷な修行によってその実体を感得したのである。


そんな訳で、眉間のチャクラは僕たちが想像さえできない物事の本質を直接純粋に観ずる力である。・・・と僕は想像するのである。

Amebaおすすめキーワード

    アメーバに会員登録して、ブログをつくろう! powered by Ameba (アメーバ)|ブログを中心とした登録無料サイト