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2011-07-25 00:02:38

日本の繁栄と衰退に霊性をみる話 4

テーマ:jizouの眼


美智子妃の登場によって「黙々」の内容がすり替わった。それは日本民族本来の、「黙って仕事をする」に落ち着いていくのであるが、日本の「運」は、ただ待っているだけで、忘れるということだけで、少しの辛抱だけで、やがて「春が訪れる」風土の奇跡と相重なっている。


この三種の神器は僕たち日本人の民族的習性であるところの「甘え」に通ずる。よって、どんな災害に見舞われても「こんなことがあってたまるか!」などと思う人はいない。自然に殉じてしまう。


そして、必ず復旧させるのである。いやなことは忘れ、今までと同じように一生懸命働きながら辛抱して待つ。それほど新しい改革に取り組まなくても自然の営みに寄り添っていれば恵みをいただけると信じている。


だから、人為的な災害に対してもその当事者が責任を全うするという感性は薄い。最初から責任意識がないので、社会の仕組みがどんなに硬直化していようが、その構造やルールを変えることに手をこまねく。「わかっちゃいるけどやめられない!」のだ。


日本では人為的な社会の改革よりも「自然の流れ」に重きをおく。国や社会の制度がこうも変わらないのは、生活のイニシアチブを自然が握っているからであろう。

だが、今回の原発事故も自然災害としてとらえてはいないだろうか。国や東電や原発によって生業を立てている人々は、その習性に則って突っ走ろうとしている。反・脱原発を唱える人々に対して、今少しの辛抱をしながら、静かに待っていれば、やがて何事もなかったかのように忘れるだろうくらいに思っているかもしれない。


ひょっとしたら、そうした感覚で眺めている人々は案外多いのではないだろうか。そうした習性は無意識下にあるので相当注意しないといけない。日本を汚染列島に塗り替えた原発事故は「待つこと」によって解決はしない。原発事故はこれまでの災害と違い、生きるということを根底から考え直すことを人間自らが仕掛けたのだ。

それでも、このような事態を真正面から受け止め、自ら責任を引き受けることを名乗り出る人が大勢現れた。脱原発を実現するためにそれこそ様々な分野の専門家たちが論理をもって声を上げ始めている。


ここで言うところの、自ら責任を引き受ける人というのは、何も原発事故を完全に終息させ、二度と起こらないようにする役を引き受けますということではない。それは不可能である。なにしろ原発は世界中で稼働しており、また、使用済みの核廃棄物は増える一方なのだから。


では、責任を引き受けるとはどういうことだろう。それは、後世の人々に原発事故を起こしたのは私たちのせいなんですと名乗り出たということにほかならない。

国や電力会社や推進派の原子力研究者は彼らとはまったく正反対のスタンスをとる。彼らは後世の人々にこう記すだろう。私たちは原子力というものを研究開発活用し、社会の繁栄に多大な貢献をしてきた者である。
ただ、想定外の事故が起きたためにその影響はみなさんにも及ぶかもしれません。と。

僕はそういう心の在り方に責任を見る。前者は「あなたたちの不幸は私のせいなんです」と責めを負い、後者は「お前たちの幸せは俺のおかげなんだよ」とのたまう。東電や原子力関係者の一貫した姿勢が後者なのだ。
彼らは、もう作って動いているんだからそれに任せていこうと思考する。まあ、儲かるからなんだけど・・・

しかし、そうした成りゆきに任せる思考は常に受け身になる。彼らは多分に「運」を想定している。運よく国民を騙し通し、原発がなくてはならないものだと思わざるを得ない社会になると思っている。


ときには、その謙虚さにおいて称賛される日本特有の「自然に生かされている」という感性は人間の傲慢を抑制するものではあるが、同時に自我の発達も抑制されてきた。



原子力の開発に限らず、世界に類を見ない天皇制の継続も、それは制度が優れていたからではなく、僕たちの世界に対する向き合い方が単に受け身的であったからである。



僕たちの思考特性は、切羽詰まった事態に直面した時、ぎりぎりの状態であるという認識を思考そのもが回避してしまうことにある。それは、本質にはいつも届かない結果を招くことになる。僕たちは「運」のせいにしない意識をつくる最大のチャンスの時を迎えているのだ。



「運」が好転していくように見えるのは、日本の自然風土の恵みが作用している。「運」も「自然」も向うから転がってくる。自然の恵みは自然の破壊を帳消しにしてくれるのである。諦めることからも新しい何かが生まれると。



多分に自然と結びついている日本の霊性は自然に委ね切った感性から生まれた。そして、天地自然のあらゆるものに神が宿るとする多神教が日本人の宗教原理であるとすることに異論をはさむ人は誰もいない。



しかし、特に現代の日本人が本当に石や草木を神として、宗教的な精神をもって崇めているとは思われない。僕は至極当然のごとく刷り込まれている、日本は多神教の国であるとする前提に懐疑的である。



自然が好き、或は、自然に対してさまざまな感情が湧き出るというのと、宗教的大前提としてある「信仰」の対象となり得る結びつきは全く異なるだろう。みんな「信仰心」があるから初詣にいくとは思えない。



それは単に儀式であって、みんながするから自分もお参りするのである。どれほどの人が日常的に「神様」のことを考えたうえでの行動をとっているだろうか。



多神教そのものの宿命なのかもしれないが、そこにはお飾りの「神」はあっても魂とつながる「信」がない。「信」のない宗教は、宗教ではないだろう。だからもう、文化人類学者や宗教学者や歴史学者は日本のことを多神教の国であるなどと言わないでほしい。民族としての信仰はないのだから。



なぜ、日本に「信仰」が根付かないのか。それはさきほどから言うように僕たちが受け身だからである。日本人は自然を崇めているのではない。自然を眺めているのだ。これほどただただ自然を眺めるのが好きな民族はいないと思う。



自然のほうが勝手に変化するので、こちらからわざわざアクションを起こす必要がない。僕は日本人はこの自然を眺めるのと同じように政治も原発も社会もみんなで「眺めて」いるのだと思う。



だから、この国は変わらないのだ。信じることや信念を鍛える方法が昔の軍国的な精神論しかないとは情けないことだ。




そして、このように僕たちの集合的な無意識下の習性を自覚してゆくことは、当然のごとく日本の霊性を考えることにつながる。多神教から信仰のこと、自然のことや受け身の精神は、自らを変えることができない我が国の
地層深くに横たわっている。さらに、それらのまなざしは天皇家及び皇室のまなざしにほかならないのである。



天皇家とはまさに日本的霊性のモデルであり、その在り方が民族習性にしっかりと根を張っている。僕は右翼でも左翼でもないが、天皇制というシステムを国民ひとりひとりが意識の表に引っ張り出さなければ、日本の真の意味での変革はないと思っている。このタブーに踏み込むことは未来への踏み絵となるに違いない。













2011-06-28 02:03:47

日本の繁栄と衰退に霊性をみる話

テーマ:jizouの眼

美智子妃のたたずまいにはただならぬ品格が漂う。僕が皇后陛下を評するのもおこがましい話だが、才能や生きざまにおいて、また、その人格や影響力において、人々を魅了し尊敬される人間はそれぞれの分野にいるだろう。しかし、民族全体の精神性の奥の院に座を占める人は美智子皇后を除いてはいまい。


国民との精神的和解を望んだのはむしろ皇室の方かもしれない。わざわざ民間から妃を選ぶという英断はもしかしたら皇室や宮内庁の懐柔策かもしれない。いや、たぶんそうだろう。それを知りつつ美智子妃は未知なる世界に名乗りを上げた。


粉屋の娘と蔑まれながらも自らの信念を貫いていく。子育てからして自ら改めていった。想像してみるがいい。美智子妃が道を切り拓いた後を辿ろうとした雅子妃でさえあのストレスである。皇室とは尋常ならざる世界であろうことは誰もが知っている。しかし、その内幕が公になることはない。実際にはほとんどの国民が皇室の内部を知ることはない。陛下より切に請われたとしても、秘密に埋もれ隠された世界に民衆の代表として彼女は一人乗り込んでいったのである。そして、日本の母となった。僕はそこに大きな霊性の働きを感じる。


戦後の日本の繁栄は生き残った者たちの力というより命を落とした数百万という人々が見た夢の実現なのではないだろうか。母の力を借りて。夢はやがて覚める。美智子妃の齢も残りは限られている。たぶんそのとき、死者たちも夢から覚め、戦争を知る最後の一人と一緒に全きあの世に旅立ち、日本の米国頼みの虚ろな繁栄はそこで終焉を迎えるだろう。


それは、高齢化社会の到来と共に忍び寄ってくる。少子化や既婚率の低下、人口減少等々。泥沼政界や官僚組織の硬直化、産業界の効率至上主義の変わらぬ景色をみれば、これまでの繁栄は現に今生きている者たちやこれから生まれてくる子供たちの未来を想定したものではないことは明白である。繁栄は結果として単に経済の力が世界第二位であったというだけの話である。それでも、その内訳をみれば、小さな国の予算を何十も合わせたほどの大借金を抱えているのである。


僕はただの悲観を述べているわけではない。日本の繁栄は単に呪縛であって、その呪縛が必然的に解かれるときが来るだろうと思うのだ。霊的な力を考慮に入れた洞察なくして呪縛からの正常な開放はあり得ない。


古来より日本は「運」がいい国だと思う。天皇制もしくは人民ははこの「運」を使って生き延びてきたのだ。だが、「運」だけに頼れない時代がやってきているという自覚が必要なんだと思うのである。・・・つづく

2011-06-25 18:35:13

日本の繁栄と衰退にちょっとした霊性をみる話

テーマ:jizouの眼


だが、彼らの神通力も尽きてきた。戦争を知るものが次々と消えてゆくに連れて、日本の国力は生きている人々の等身大の力として反映されてきた。バブル崩壊後の日本の不安定さはそれを如実に物語る。そして、今回の東北大震災と原発事故によってその内臓を抉られた時、国というものと僕たち自身の結びつきがいかに希薄なものであったかを知ることになった。あの三百万の若者と沖縄戦の殉死や内地における各都市の空襲や原爆の破壊力によって、どれほどの尊い命が失われたか。


この度の震災と原発事故を受けて、この状況はほとんど戦争状態であるとする論調がここかしこに見受けられるが、それでもその内的リアリティは過去に追いつくものではないだろう。もちろん死者や被害を蒙った人の数の話ではないが、実に数百万の魂が無念を残して消えたのである。津波にさらわれた親兄弟、子供を海の彼方に茫然と凝視するのと同じまなざしが、わずか紙一枚の事後報告で処理されてしまったのである。どんな戦争であろうとけっして救出劇にはなりえない。


被災地での、子を思い、親を思い、兄弟姉妹を思う情景に少しでも心が動かされるとすれば、過去の人々だって思いは同じはずだ。だが、彼らは文句ひとつも言えず、泣くことも忘れさせられ、嘘を信じ、戦った。いったい彼らは何と戦っていたのだろうか。ただ笑って過ごすだけが人生ではないが、可能性を試みるチャンスさえ奪われることの非情さにたいして、どのように自らの運命をあずけたのだろう。もし、自らの運命をあずけることの大義が「天皇陛下万歳」に収斂するなら、敗戦は大義を守れなかった自分たちの責任である。


しかし、あの戦争は天皇陛下を守るために始まったものではない。最初はこちらからの侵略である。敗戦の色が濃くなっていつの間にか天皇に殉死するための戦いになってしまった。どこかで何かがすり替わった。神国日本=天皇。日本という国自体に潜んでいた無意識があからさまに顔を出した瞬間である。この、「どこかで何かがすり替わる」ことに僕たちの民族の感受性は鈍い。まあまあ、なあなあで事を済ませる癖をみればよくわかる。今の原発問題にしても、必ずどこかで何かがすり替わろうとするだろう。僕たちは、その瞬間を絶対に見逃してはならないと思う。その変化は外側の仕組みよりも自らの心に発生しているのだ。


話が行ったり来たりするが、戦友を失って生還した者と国内で祈っていた者たちは力を合わせて「黙々」と、日本復興のためというより生活のため、生きるために働いた。その「黙々」はさまざまな鬱積した思いによって成されていた。それは、自責の念、憤り、悲しみ、後悔、不安、かすかな安堵などである。がむしゃらに働くことによって生活は向上していったが、何となく心は晴れない。喉元に引っかかる小骨のようにすっきりしないものがあった。それは、ひょっとしたら多くの人が気づかずに無意識の底に沈めていた思いであったろう。


敗戦処理において天皇は日本国の象徴として留まることになったが、働く者たちの無意識の底にくすぶっていたものは、その天皇及び皇室と国民との心の中の距離感であった。そうなってしまったことの経緯はすでに述べたが、そんな釈然としない国民の無意識的感情を取り持って、天皇や皇室への親しみを復活させた人物が登場したのである。美智子妃である。


僕は美智子妃の存在が三百万の若者の魂と共に日本という国を土台で支えていると信じるものであるが、この近代においても日本は女性シャーマンの国であることがよくわかる。天照皇大神然り、卑弥呼然りである。戦後十年も過ぎれば物質的に国民生活は向上しただろう。だが、皇室との精神的和解はでうであったろうか。そこにはまだ和解の徴はなかった。そんなとき、一人の女性が立ち上がった。歴史上はじめて民間から皇室に嫁ぐことにより、形の上で日本はこの一事をもってひとつになり得たのである。そして、その後の美智子妃の存在から、気配から滲み出る愛らしさ、気品、慎み、慈しみ、明晰さによって国民の鬱積した思いは溶解していくのである。
民族の総意としての霊性がこれほど一人の人間に象徴されるとは驚きである。・・・つづく

2011-06-24 14:32:24

日本の繁栄と衰退に霊性をみる話

テーマ:jizouの眼

日本の繁栄と衰退にちょっとした霊性をみる話


このことは以前から思っていたことではあるが、つい先日、呼吸法のワークショップ後の食事会でみんなに少し話したら、ある人に、それは非常に面白い話だからブログに書いたらいいんじゃないか、と言われたので調子に乗って書いてみることにした。


それは、3・11後の日本にあっては見過ごすわけにはいかないものであろうと思われる。日本という「国」に対して誠実に考えようとするなら、また、わが国の「民族性」というものを真剣に考えようとするなら、それは必然的にクローズアップされるものである。そして、この問題は今後多くの人々に語られるようになるだろう。


では、「それ」とはなにか。「それ」とは日本のスピリチュアリティ(霊性)と皇室のことである。僕は太平洋戦争の敗戦による混乱も峠を過ぎた頃に生まれ、俗にいう高度経済成長とともに成長してきた世代であるが、日本が経済大国と称されるようになったことも、平和な国に住んでいるということにも、それは驚くようなことではなく、至極当然のことであって、敢えて賞賛に値するようなことだという認識も実感も持ち合わせていなかった。しかし、年を重ねるにしたがい、そうしたことがらがどのような背景によって成り立っていたのかを考えるようになったとき、わが国の驚くべき集合無意識的な力を想像せざるを得なかったのである。


1940年に開催された東京オリンピックを成功のうちに導いた後の日本という国の誇りは、やがて世界の第二位にまで登りつめた経済の繁栄であった。その背景には朝鮮戦争による軍需景気などいくつかの要因が重なっていたであろうことは容易に察しがつくが、それにしても敗戦後の焦土と化した日本を復興したのは国民の勤労精神であった。なぜそれほどまでに
当時の日本人は働き者だったのか。僕はそれが気になって仕方がなかった。


それは単純に民族の性質として真面目さや勤勉さに由来するとしていいのだろうか。特に昨今の政治的状況をみるに、わが国のリーダーたちにまともな政治的能力があるとは思えないことは誰もが納得することである。僕は日本のリーダーたちの実力は基本的に昔からそう高かったとは思っていない。過去のリーダーたちがうまくいったとすれば、それは日本が置かれた状況と時代の流れのせいであり、アメリカという大国に逆らわずに追随してきた結果である。よって、国民の真面目さや勤勉さは彼らが導く教育によって感化された結果だとは到底思えないのである。もし、かつてのレベルが高かったとするなら、現代にもその成熟さは引き継がれているはずである。


ならば、何故にその繁栄は築かれたのだろうか。僕はそれをもともとの真面目さに加え、「お国のため」に戦地に赴き、帰らぬ人となった三百万を超える若者たちの魂の力ではないかと思うのである。実際、僕の父方や母方の男兄弟はみな戦死している。父親は運良く生還できたが、彼にしても軍隊には三度召集されている。一度目は徴兵で、二度目は満州事変に、三度目は太平洋戦争に足掛け十年にも及ぶ戦争生活であった。20世紀を「戦争の世紀」と一言で総括する人もいるが、そうした悲劇が世界中で起こっていたことを思うと空恐ろしくなるのは僕だけではないだろう。


戦争から生還した若者は焼け野原になった自分の故郷に帰り何を思っただろうか。しかし、どんな悲惨な状況でも「戦地」よりはましだと思えただろう。家族と一緒の生活、戦争と比べたら貧しさなどさして気にならなかった。みんな貧しかった。そして、彼らは生活を立て直すために働いた。それも「黙して」働いた。僕はこの「沈黙」の中身を想像する。


敗戦後、生き残った人々はあまり戦争の話をしなかった。狂気の世界では人間は何をしでかしてしまうのか。おとなしい性格の僕の父親だって何人の敵を殺し、他国の民間人を酷い目に会わせてきただろうか。それは映画や小説ではないのである。だから、彼らは心の奥に記憶をしまいこんだ。父親はよく戦争の夢を見ては寝言を言っていた。


もうひとつ彼らが黙するには訳がある。それは生き残ってしまったということに対する自責の念である。戦友は死に、自分は生き残ってしまった。日本人はそれを申し訳ないと思うのだ。生還に諸手をあげて喜ぶわけにはいかない。また、天皇陛下のために身を捧げることができなかったと思う人がいたかもしれない。逆に、「天皇陛下万歳」と唱えて玉砕していった戦友の無念を直接ぶつけることができないもどかしさは、もし、戦争責任を天皇に負ってもらうことになれば、逝った者たちはもっと浮かばれないことになる。死者は信じて逝ったのだから。


そうしたことがらは忸怩たる思いの塊となって生還者たちの口を硬く閉ざしたのであるが、ただ唯一、死んでいったものたちの魂を引き継ぐこと、つまり彼らの分まで生きるという力に変換し、ただ黙々と働いたのである。そう考えると、三百万の絶望が敗戦後の未来を支えていたと思えるのである。絶望に散った魂がもっていたであろう希望を力にして高度経済成長は実現したのである。三百万の魂が死して「お国」を支えたというそこに、僕はスピリチュアルな力、「霊性」を見るのである。・・・ つづく 




2011-05-18 00:33:29

忘れるという事を忘れるな

テーマ:jizouの眼

先日、映画「十万年後の安全」を観た。いやあ、面白かった。
面白かったというのは、深く深く考えさせられたということであって、
楽しかったという意味ではない。


映画は原子力発電所で使用したウラン燃料を捨てるゴミ捨て場の話。
フィンランドが始めた世界で最初の本格的なゴミ捨て場建設のドキュメンタリーである。

フインランドではその放射性物質を廃棄する場所を「オンカロ」と呼ぶ。
「オンカロ」とはフィンランド語で「隠れた場所」を意味する。

その半減期が十万年といわれる放射性廃棄物の墓場建造の話は人類に大きな命題を突きつける。


福島原発のリアルな事故により、もはや、私たちも放射能の脅威に無視を決め込むことはできない。事実として、私たち人類は本物の悪魔を生みだした。生みだしてしまったことに気付いた。


しかし、原発に対する私たち日本人の意識は「できたてのほやほや」である。そして、今ある私たちの意識構図は反原発及び脱原発か原発推進を肯定するかの対立図である。しかしながら、このドキュメンタリー映画は原発推進か反原発かを問いかける話ではない。


原発の問題はそれぞれの国の「お家の事情」が絡む。
実はフィンランドでも原子力発電には積極的に取り組んでおり、現在5基目を建造中である。フィンランドは歴史的にロシア(旧ソ連)との確執があって、国土を占領されたり、奪われたりと酷い目に遭ってきた。


ロシアの恐怖がトラウマとして潜在的にあるにもかかわらず、いまでも電力や天然ガスをロシアに依存している。ロシアがパイプラインの栓を閉めたら、フィンランド人は凍死をまぬがれない。

よって、ロシアのクビキから開放されて、エネルギー源を確保することはフィンランド人にとっては最大の安全保障となる。フィンランドの原発政策は国民の苦渋の選択であった。


私たちの国と比べるに、その苦渋こそ未来への責任意識の表れである。それでも、「忘れる事でしか、その脅威を葬ることはできない」とオンカロの関係者は語る。脅威とは放射性廃棄物のことである。


確実に存在するものに対して、絶対に触れることのできない処理の仕方を模索したとき最後に行き着いた場所、それは、空でもなく海でもなく、母なる大地の懐の奥だった。18億年の硬い地層の下500mをゴミ捨て場に選んだのだ。


放射性廃棄物が生命にとって無害になるには10万年かかる。数字で言えば一言だが、10万年という年月は、人にとってはほぼ不死に近いものだ。人間も10万年前はネアンデルタール人の時代であったという。


不死こそが最も想像を絶することであるならば、人間にとっての10万年後も想像を絶する。10万年という年月のいつか、どこかで、誰かが(自然の変化も含め)放射性廃棄物の毒性を絶つことはあり得ない。フィンランドの国民はそこまで想定をした結果、なお原発を選択した。


彼らは今の時点における人間生命の意識と注意深さと技術力が、そのまま10万年後まで引き継がれていくだろうという幻想に立脚していない。10万年は誰も予測ができない。何が起きるかわからないという前提に立っている。そして、その最大の可能性を私たち自らの生命体としての変化に置いている。


私がこの映画で感じ入ったことは、そのことに尽きる。長い年月においては、この身体生命のメカニズムだってどう変化していくかわからないのである。何かの突然変異に因るか、生命体そのものの賞味期限か、環境異常に因るのか。


いずれにしても、そこには未来は常に今よりも明るいであろう、また、明るくしなければならないとする、都合のよい進化肯定論を鵜呑みにして大衆を煽動する権力支配者たちの性根とは対極に位置する慧眼がある。


国だってはたしてあるだろうか。お金だって存在しているだろうか。
最善の方法はそれに近づかないこと。そのためには忘れることだと。しかし・・・


私たちは戦争があってもどんな災害にみまわれても人間はなんとか凌いできた。そして、今ある豊かさを手に入れることができた。だから、これからも技術を磨いて工夫して頑張ればなんとかなると思っている。


しかし、この原発に関してはそんなもっともな考えが通用しない。むしろ、浅はかでノーテンキな成長神話に聞こえてしまうほどである。エコ回帰も役に立たない。


世の中が平和であろうが、国民が豊かであろうが、お金があろうがまったく関係ない。私たちは精神の真ん中に悪魔を据えてしまったのである。逃げることも、消し去ることもできない。


すでに、原発とはその社会においても精神においても中心に坐した。絶対に触れてはならぬものでありながら、そのものから離れることが絶対にできない。まるで、神の如くに、である。


私には今回の原発事故が示したことは、アダムとイブの禁断の果実やギリシャ神話のパンドラの函が人間の心の間違いや迷いを示唆するに抗して、言葉を超えた、いや、言葉以前に、生命そのものの危機が常に生命それ自身に棲み続けるという、とんでもない神話が現実に登場したことだと思う。


狂騒と実験の20世紀の申し子たる原発神話の最終テーゼは「忘れるという事を忘れるな!」である。はたしてこんな恐ろしいテーゼがあろうか。


その波は、もうすぐ日本にもやってくる。もし、それでも私たちが明るく過ごすことだけを目指すなら、「人間というのは自らを欺き続ける生命種」として
後世の変種した生命体に語り継がれることになるのだろう。

2011-04-23 17:52:14

福島原発にロボット入る

テーマ:jizouの眼

近代が発明した科学技術の檻の中で、人間はロボットと化した。しかし、そのロボットたちはもっと素晴らしいロボットを創造した。肝心なことはこのロボットでなければできないようになった。そして、人間は手をこまねいているだけ。手を使わないということは、我々が何処にいるのかわからないということに繋がっていく。

2009-05-13 12:11:44

熱狂

テーマ:jizouの眼

からだはうすからの「お知らせ」です

カタルシスブレスのグループセッションの日が近づいてまいりました。

時 : 5月17日(日曜日)AM.10:00~PM8:00
所 : からだはうす
料金: 10500円

まだいくらかの余裕があります。ときには、からだとこころの大掃除をしましょう。


昨日の続き


人の「気」というのは他者にとっては一種の食物である。

だから、その「気」に触れることによって元気になったり、場合によっては具合が悪くなることもある。「気」はある程度意識が関与できる部分と意識のレベルでは触れられない領域がある。頑張りがテンションを引き上げてくれることもあれば、気持ちではどんなに頑張ろうとしても力が萎えてしまうこともある。


集団心理の高揚感は自意識の垣根を取り払って全体に渦巻き、巨大な龍(ドラゴン)=エネルギー態に化ける。人は子犬のような自己を巨大な龍に偽装させてくれる対象に熱狂する。それはやがて、「熱狂する自己に熱狂する」図に移行する。そういう図はスポーツの応援やタレントのイヴェント、ロックコンサートなどによく見られる。世界各国が協力して対処しなければならないような事象もある意味そうである。



熱狂はたぶん、歴史が進むほどに安くなってきた。人はとにかく興奮に飢え、いろんな媒体、仕掛けによって安っぽい興奮が提供されるようになった。そこに潜むのはむろん「大衆には考えさせない」「考えさせてもしょうがない」という思想である。よって、提供する側も考えることができなくなってしまった。


現代の熱狂的な「気」の消費は思考の力を消耗させる。つまり、意識が関与できる部分が破壊される。熱狂とは別の言い方をすれば「異界」である。意識のレベルでは触れられない領域、それも「異界」である。本来「異界」に赴いたものは還ろうとするものだ。なぜなら、そこに自らの「志(こころざし)」を見いだすからである。「志」は「自らの熱狂」を意図しない。というより、自らの熱狂を突破していくものだろう。

しかし、僕たちの「のぼせあがった気」を覚ましてくれるような冷徹な現象は現代にはない。それよりも僕たちは熱狂に参加する自己に熱狂する。その熱狂こそ現代の思い出作りの方法である。だが、、それは内容を伴わない。「その気になる」ことで思い出がたっぷりと重くなる。具体的な内容はおぼろでも、私はそれに参加したという記憶は深く残る。それは記憶というものが「気の興奮度」に数値化されていくプロセスだ。

僕たちの生きた証を「質」で問うことはできなくなってしまったのだろうか。

巨大な龍(ドラゴン)は全きフィクションの中に僕たちを連れ去ろうとしている。

それが現代の「気」の扱われ方である。


2009-05-11 17:56:42

人気

テーマ:jizouの眼

今年の黄金週間は行楽に出かけた人が多かったようだ。渋滞や混雑などものともせず、みな思い思いにストレス軽減の戦略を練りながら国民的行事(高速道千円キャンペーン)に参加する。僕は人ごみが大嫌いである。店の前に並ぶのも嫌いである。だから、人ごみの中にはめったに出かけない。都心など数年に一度行くか、行かないかである。それでも、僕は全国でも有数のお気に入りの街、吉祥寺に25年以上住んでいる。住んではいても、必要な用事以外は出ないので街のことはよく知らない。花見でなくても、土日には近隣から人が押し寄せごった返している。人が集まると活気が出る。場に活気が生まれるともっと人が集まってくる。


僕には混雑するとわかっていながらそこにわざわざ参加する人の気持ちがわからない。個人の中ではそれぞれに特別な思惑があるのだろうが、それにしてもである。吉祥寺にはメンチカツで有名な肉屋がある。常に30メートル以上の列が出来ている。土日は100メートルにも及ぶ。昔、知り合いがどんなものかと並んで買ったのを一個頂いて食べたことがある。そんなに旨いか???メンチカツである。


集団の心理はすごい。みんながその気になると自分もそうしてみたくなる。人は物の価値や行為の意味以上に場や他者のエネルギーを食している。そのことに参加するだけで気が活性化する。僕も暇で鬱々とした気分でいるとき、来院した患者さんに触れたり話したりしていると気分がどんどん盛り上がっていくのがはっきりとわかる。ああ、こうやって人同士はエネルギーを交流させているんだなと・・・


行楽地にいっても人気のスポットは自然と交流するというより、内実はたくさんの人びとが作り出す場のエネルギーと交流しているのだろう。たくさん集まるところに行ってしまうのは、人気に弱い性質を示している。イヴェントやお祭りが花盛りの現代社会。僕たち自身の自家発電装置(個の意思や価値観、美意識)はその役割を終えた。なにが自分を満足させてくれるか。それは、人が群がるものに参加したかどうかである。はじめにランキングありき。変な思想ではないか、何も知らなくても一票だけは与えられている。


僕はそんなことを思いながら人気の吉祥寺に25年以上も住んでいる。きっと人の群れから離れるのがこわいのだ。そして、ダイナミックなエネルギーに直接巻き込まれないようにしながら、盗人のように振る舞っているのだ。人が恋しいのは僕だって同じだろうから・・・

2009-05-05 13:42:07

日本のオーラ

テーマ:jizouの眼

昨日の続きになるが、


母と息子の関係は日本の国を見渡した時、最大のキーポイントになると僕は考えている。母、つまり、母性はあらゆる善きにつけ悪しきにつけ日本的現象の核にあるのではないかと思うのである。


先日来、政界では二世議員に対してなんらかの規制をしていくという話が勃発してきたが、こうも続けざまに二世・三世の首相の醜態を見せられては、斯くありなんというべきだろう。


世襲制は日本の専売特許ではないが、他民族の侵略がなかったぶん、伝統が壊されなかった。世襲の大義名分は伝統を守ることだ。職人や芸事に従事する人は当然のごとく「家」を継いできた。


実は「家」を継ぐことに執心するのは母である。母とは「家」を守り、つなげていくものである。日本の「一家」には隠然と母なる力が働いている。もっともわかりやすいのは老舗旅館の「女将」である。これほどに数多の男衆を束ねて力を振るえる地位も少ない。「旅館」は仕事が家の中におけるお世話なので女性的感性がその空間作りにぴたっとはまるのだろう。母なる女性の心遣いとおもてなしによって日ごろの重荷や旅の疲れを癒すことができる。相撲部屋も「女将さん」の威光は並みではない。


そう考えると日本の女性の地位は精神的には男を上回る。看板が相撲や歌舞伎のように男衆だけの世界なら、まだ陰に隠れていることができるが、「旅館」の看板は「女将」である。女性は「家」、つまり「ブランド」に弱い。肩書き、地位、血縁、富、権力が幅をきかす世界はある意味とても女性的である。よって、男はそれの奪い合いになるのだ。母なる「女将」にごろりんと甘えんがために。極上のおもてなしを得んがために・・・政界の高級料亭での密会は日本の母の懐内での謀議である。だから、なにも生まれないのだ。何も変らないのだ。それこそが、制度的には天皇制という「家」制度の内部での権力ごっこを示していることになる。唐突になるが、政界の向こう側を見渡せば、いつも不可侵の領域が暗然とある。日本の母を象徴した天皇制という「家」制度が。


二世・三世の問題は議員の問題ではなく、日本の土台にある「家」思想の問題として私たちに降りかかっている。その目でみると、いろいろな事件や出来事がこの「家」思想を根として発生していることがわかってくる。家とはクラスター爆弾のようなものである。爆発させて無きものにするには危険すぎる、かといってそんな危険なものを保管しておくにはこちらがもたない、さてどうするか・・・気づかないフリはもう限界だろう。かつてはその時、玉砕という道を選択したことがあったっけ・・・

2008-04-26 14:25:17

チャクラDEチャチャチャ3

テーマ:jizouの眼


以前メールしてくれた人がいて、彼は呼吸法などの変性意識の状態にあるとき、自分の身体の特定の場所に、緊張感やある種の反応を感じることがある。


チャクラというのはそういうものと関連するのではないかと言っていた。


僕も全く同様の根拠を施術やワークを通して感じるものである。


チャクラの位置は、浮上しやすいブロック(抑圧された緊張)の位置と実に重なる。


不調として訴えるときもこうした位置に重なる臓器や場所である。


僕の行うカタルシスブレス(浄化の呼吸法)は喉元を軽く押してセキを出させるものだが、大きなセキになると全身の筋肉を使うことになる。


これを続けていくとからだのつまり(緊張感)がとれていく。


或いは、つまりがはっきりと自覚されるようになる。


特に胸から上の部分は誰でもすぐに気がつく。


その特定のつまりの場所とは、おもに頭部(第3の眼の奥)、喉、胸部、みぞおち、下腹部である。


実際、セキ出しをするとそれらの場所からつまりが物質となって出てくる。


それのみというわけではないが、頭部からは鼻水、涙となって、喉はセキ、ツバ、タン、胸はタンやゲップ、みぞおちはゲップや吐き気、下腹部は大小便、女性は生理にも影響する。


全身的には汗や熱となって排出される。


これらはみな水分が主である。


考えてみれば、人間の身体の7割方は水分であるという。


僕らはほぼ水でできているのだ。若さを「みずみずしい」と言い、老いを「枯れる」と言う。


人間生命の基本は水分代謝なのだ。


そこで、チャクラの図に蓮の花びらが描かれる理由が明らかになる。


蓮こそ水の中に根をもち水面に鮮やかに咲く花の代表ではないか。


僕たちはH2Oは覚えたが、この生命が水から生まれたことを忘れがちになる。


蓮の花びらは人間が水の生き物であることを象徴している。     


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