2006-06-28 13:06:29

死にたい病 2

テーマ:人の見え方

人間にはとても素敵な能力があって自分以外のものに想像力を映し出すことができます。自分が死んだらあの人は悲しむだろうとか困るだろうとか、親は子供の将来をイメージして今をそのために捧げていきます。もし病気になったら大変だから保険金をたくさんかけておこうとか、あの人は私のことを好きに違いないとか・・・ほとんどが架空の希望と恐れからくる想像力で自分の脳は埋まっています。


頭ではわかっていても、どうしても「死にたい」という観念が湧きおこってしまうのは、ある種の無意識的な想像力が働いている可能性があります。みずちさんにとってそれはお母さんに会いたいということかもしれません。「死」はお母さんのいるところなのです。


人によっては現在の家族にリアリティを感じない場合があります。そうなると、自分の故郷はもっと別の目に見えない世界だと思うことだってありえます。「ここじゃない」という感覚は肉体として誕生したときすぐに発生してしまう感覚のひとつだと僕は考えています。果たして生きてることは謳歌に値するか否かは人それぞれでしょう。


歴史的に人が感動してきた物語はどれもが悲劇をベースにしています。悲劇の主人公にはなりたくないけど、悲劇を見るのは大好きなのです。「死にたい病」の人は悲劇の主人公になってもいいかなくらいのゆるい勇気を持っています。もっと、積極的に悲劇の主人公に憧れている場合だって多々あります。


多くの人が無意識ですが、人はこの世界が巨大な劇場であることを理解しています。あらゆるところでさまざまな劇が生活として行われています。ほとんどが、「たてまえ」の劇です。そんな「たてまえ」に飽き足らない人は本物をやりたくなります。「死にたい病」は本物志向の人がかかりやすい。ただ、実際に死ぬことと、「死にたい病」は分けて考えなけれなりません。みずちさんのように「死にたい病」を患いながら誰よりも元気に過ごすこともあるのです。


僕は死んだことがないので、「死」についてはよくわかりませんが、「死にたい気持ち」はわかります。ただ現実生活の絶望と死を結びつけたくはありません。考えてみれば、現実など絶望することばかりですから、そんなこと考えていたら何千回も何万回も死ななければなりません。


「死」とはその人間の作品としての成就です。死に方も含めて人は自分という作品を創造しているのです。これは、たんなる言葉としてのきれい事ではありません。僕は知っています。人間が自分を作品化しているという営為を。人間は自分自身をいかに「劇的なるもの」に仕立て上げていくかを無意識界の最大のテーマにしているということを。そして、人生と自分そのものが作品であるがゆえに、人は自分の死を見届けて欲しいのです。その無意識の前においては善悪という便宜上の観念は霧散していきます。


「死」そのもを悪、或いは、恐ろしいものとして漠然とイメージしている現代人は死を遠ざけようとします。考えることさえ邪悪なことのように思っている人もいます。「死にたい病」の人は死を考える人なのです。それは、魂の深層に近づいていく道には必然なことです。命の危険にさらされた大病を患った人が世界や人間の見え方がガラリと変わって感謝や慈しみの心境が芽生えたという話はよく聞きます。ですから、「死にたい病」の人は病名を変えればよいと思います。「魂の深層を知りたい病」というふうに。


みずちさんが「死にたい病」の先にイメージするのは「自殺」や「若死」のことなんでしょうけど、それは身体的心理的に苦しいから「自殺」をするという結びつけかたです。苦しい=自殺という構図はわかりますが、それ以前に、その苦しさに自らを導いていくプロセスがあります。それこそたぶんに無意識的なエネルギーの力やおかれた状況との関係性が作用します。そうなると、本人だけの問題ではなくなります。つまり、「自殺」や「若死」にいたるプロセスに関わった人々全員が「死」について深く考えなければならなくなるのです。悲しみや、後悔や、慙愧の念や、憤りなどを通して「魂の深層を知りたい病」に罹っていくのです。どこかでそういう人々を作っていかなければ僕たちの世界はそれこそ救いのない世界に堕ちていくことになるでしょう。その課題を強力に提示させられてしまうことに耐えられない心性が頭から「自殺」を否定し「死」を遠ざけようとしているのです。


2006-06-27 19:38:18

死にたい病

テーマ:人の見え方

死にたい病

みずちさんコメントありがとう。みずちさんの努力は人並みではないからいろんなことが改善されていったのでしょう。その集中力にはいつも敬服してます。


人間は生々しい動物的なエネルギーの外側にどんどん理性の重ね着をしてカッコつけてきた。その重ね着に押しつぶされてしまう部分がある。身体は直接的にそれに反応しているし、こころはなんとか誤魔化してやれる部分もあるけどそのうち耐えられなくなる。しかし、誤魔化したぶんこんぐらがって、うまく解きほどくのが難しくなってしまうのだ。みんな一見平気そうだけど、その内実は無意識的に綱渡り状態だと捉えておくべきでしょう。


で、「死にたい病」ですね。「死」は人類永遠のテーマですからねえ・・・僕たちの生命の謳歌には常に死の危険が必要です。死に近ければ近いほど生きてることを感じられる。きっと僕が年老いたら一日のうちの半分以上死のことを考えるのではないでしょうか。


人間は「生きたい」と思うのが自然であたりまえ、「死にたい」と考えるのはおかしい、狂ってる、間違ってるといいはじめたのは誰なんですかねえ?死こそ最終的な冒険ですから、日常の夢や希望とか面倒くさいことはどうでもいいから、はやく極上の冒険をしたいと考えるのも人間的な感じがします。


こころの中を掘り起こせばみんな、生きたいという欲望ともう死にたいという絶望がシーソーのように交互に浮かんでは消えています。表面的にはなにか不幸な事情がないかぎり人は「死にたい」とは思わないはずだと思い込んでいます。しかし、不幸な事情というのも客観的に定義できません。ですから、ある人にとっては傷つくこともある人にとってはなんでもなかったりします。


人には不幸な事情にしてしまう性癖というか、思考の癖があります。周りの人々と自分を比べるという恐ろしい癖です。同じなら自分やその事情を許すが、特に少数派に属していたり、周りの人々より劣っていると、その事態がとても不幸に思えてきます。先日の奈良の母子が焼死した放火少年はそのわかりやすい例です。


県内一の中高一貫校に入るだけでも凄いじゃないですか。少年にとって周りとは医者です。医者になった人々と自分を比べていたのです。周囲の「こだわり」が少年の世界の領域とレベルを決めていった。それは僕たちの社会のひとつの縮図です。「死にたい」なんてもってのほかというのも、思想上の感情の上での生物的本能上の「こだわり」がそう決めているだけなのです。つまり、人間というのはこだわらないととても生きにくい生物なんですね。


昔から、偉い人々が「こだわるな、こだわるな、手放せ、手放せ」と言ってきました。この奥義を社会の構図の基盤にすえる知性はまだ登場しません。こだわらないと始まらないし、こだわってると自滅するし、トホホですね。つづきはあしたです。




2005-05-06 16:03:31

自縛テロ

テーマ:人の見え方

イスラムのテロ組織には自爆というテロ戦術がある。あれほどの華々しさしも天国に行けるという約束もないが、今の日本人はまさに自縛テロ状態に見える。現代社会のシステムはよりシビアに人間を縛っていく。より速く、より強く、より正確に、よりおもしろく・・・競争競争競争、ミスは許されない。ことが起これば基準を厳しくし、さらにプレッシャーをかけていく。そして、安全第一、利益が第一、効率第一、ゆとりが第一、人間らしさが第一、サービスが第一、いったいどうすりゃいいんだ!。


尼崎の事故もマスコミはこぞってJR西日本の体質をなじる。そういうマスコミの視聴率稼ぎの体質もJRとなんらかわりはしない。僕の友人や知人たちも企業に勤める人は「自分もあの運転士に置き換えられる」と言う。奴隷化する人間たち。

レジャーにしても遊んでるつもりが実は遊ばされている。とにかく金を使えと。お客様は神様ですとおだてられ、時をたがえて今度はお客様と神様が逆になりながら・・・。こうしたネット参加も同様である。自分だけが蚊帳の外というわけにはいかない。

「お客様の(消費者)のニーズに答える」いかにもごもっともな言葉である。しかし、ニーズとは本来ごく限られたところにある。僕ら大衆は提供する人や企業が設定したニーズに乗らされているのである。乗っていかないと浦島太郎になってしまうから、いやいやでも乗らざるを得ない。そこで、乗ることを回避できないならば、つまりどうせ乗るなら、最初に乗らなきゃと思う。そして我も我もと群がっていく。

動物の群れには必ず限界値があるが人間の群れには限界値がない。何十キロの渋滞でも人は出かけるのである。そうなると楽しむためというのは嘘だ。目的地に着くまでにグッタリしてしまう。たぶんそのグッタリが達成感なのだろう。「俺は群れに参加したぞ」というのが満足感につながるようだ。群れが嫌いな人種は生きにくい世の中だ。群れが栄えるというのは、それほどに僕らは孤立しているのかもしれない。とすると、どちらにしろ根っこは「引きこもり」ではないか。

小さなことに満足しているのはホントに満足しているのか疑わしくもなる。よく「自分がほんとうは何をしたいのわからない」という声を聞く。世間に振り回され、周りを気にして合わせてばかりいるから自分のことがわからなくなる。だいたいが親や先生の言うことをよく聞いていい子だったという人がうつ病やいろんな神経症になりやすいという。


犯罪事件でも「まさかあの人が・・・」「まじめないい人だったのに・・・」という印象を語る人は多い。いい子になって従っていると、いつのまにか縛られちゃう。悪い子だと競争のスタートラインにもつけないから、それはそれで世界は狭い。今の日本は全員で自分に対する自縛テロを敢行しているとしか思えない。すべての思考をストップしてただ群れにもぐりこみたくなる気持ちもわからなくはない気がする。死ぬのだって独りは寂しいから・・・



2005-04-20 14:10:47

僕らの気質

テーマ:人の見え方

虎視眈々と機を狙いながら寒さにグッとこらえていた桜が一挙に爆発した。開花宣言から二日と経たぬうちに満開の狂乱ぶりである。3月の末頃は桜もついに「引きこもり症候群」に罹ったかと思っていたくらいである。

 

しかし、僕自身は内心、今年の満開に興奮している。我が家のベランダからは桜の乱舞が拝める。昨年の3月末に伊豆にまで出かけて桜の下で踊ったのだが、このときは時期が早くて桜もちょぼちょぼで少しがっかりしたことがある。そんな苦い思い出があるせいか、今年は特に華々しく感じられるのかもしれない。この満開との競演はまたいつかの楽しみにとっておこう。

 

 

しかしまあ日本人は花見が好きらしい。花見の名所では咲いてもいないのに朝から場所取りの人たちが群れている。そんなニュースを聞くと、あー平和でいいなーと思う。でもそれだけかというと違う。咲いてもいないのに老いも若きも花見に群がる様子を「そんなんでいいんかい?!」と怒りと嘆きの声も確かにするのである。僕には若者たちの単なるドンチャン騒ぎを批判する資格などないのであるが。なぜなら、その姿はひと昔前の自分に重なるから・・・しかし、僕は若い頃(30歳前)に友達と花見をした経験がない。そんなものは年寄りがすることだと思っていた。だからかもしれない。温泉だ、花見だと若者が年寄りじみてる感じがするのは僕が年寄りになった証拠なんだろう。そろそろ中高年にブームの山歩きに参加しなければならないかなー。

 

 

そんなことより、前稿で「花粉症」と「引きこもり」はつながっていると書いたが、僕は「引きこもり」は日本人の特性ではないかと思っている。そのもっとも顕著な例が江戸二百数十年にわたる鎖国である。日本は国を挙げて引きこもったのである。一言で二百数十年というが、いくら昔であってもこれはちょっと異常な長さである。

 

日本人はそうしたことが可能なくらいの引きこもり気質なのだ。いま問題となっているニートにしても根っこ
には引きこもり気質が影響しているはずである。大競争時代にはちょっと厄介な気質である。こんなことを考えているうちに桜は散りはじめてきた。

2005-04-20 14:08:43

見ざる聞かざる言わざる

テーマ:人の見え方

時の経つのは速い。前回書いてからすでに二週間も過ぎてしまった。ところで、今年の花粉の飛散状況はすごいらしい。僕の周りでも今年から花粉症になってしまったという人が何人もいる。今年は白いからす天狗を思わせるマスクが流行っている。肌にピタッとフィットして具合がいいらしい。その群れを想像するといささかぞっとするが・・・。

 

実際花粉症で苦しんでいる人には反発を買うかもしれないので、最初に他意のないことをお断りしておく。僕だって明日はわが身なのだ。僕はあの白いマスク軍団を見ると現代病として蔓延している「引きこもり」を連想する。「引きこもり」は文字どおり家にこもって社会との接触を断ち、独りワールドに浸ってしまうことである。それは、とにかく他者とのコミュニケーションを避ける、拒否する姿勢でもある。

 

コミュニケーションを取りたくないということは、見たくない、言いたくない、聞きたくないということである。花粉症は鼻だけでなく眼にもくる。その眼を保護するために専用のサングラスを掛けてる人もいる。今のところ直接耳がどうということは聞かないが、眼と鼻と耳はつながっているから、間接的には影響していると思う。重症の人は鼻づまりで呼吸困難に陥る。酸素が行き渡らないから頭がボーっとして考えることもできない。知り合いに子供の頃から花粉症だった人がいる。彼に言わせると、「春の遠足など行きたくもなかった」そうである。楽しいはずの遠足が最もつらい一日だったと。つまりコミュニケーションどころではなかったのである。

 

うがった見方だが、「引きこもり」も花粉症も象徴的にはコミュニケーション不能状態に行き着く。どちらも自己免疫疾患と言えなくもない感じがする。僕の実感ではやはり蓄積されたストレスによって慢性的に緊張してしまった身体の人が花粉症に罹りやすいようだ。慢性的に緊張した気持ちのほうをクローズアップすれば「引きこもり」でしょう。要は、自然とも世間とも他者ともうまくコミュニケーションできない状況を作り出してしまう。

 

花粉症の人は「引きこもり」ではないが、眼をふさぎ、鼻をふさぎ、口をふさぐ。マスク姿の群れはとても珍しい社会的な象徴現象である。それらは、僕たちの病理が同時多発的に自爆の方向を向いていることを示している。杉の大樹に囲まれた日光の照宮には「見ざる聞かざる言わざる」の三猿がいる。花粉の飛散は、その戒めを忘れて何事にも無関心を決め込む時代風潮に対する家康の警鐘やも知れぬ。

 

もうひとつ付け加えると、近年多くなった家族間)の殺人事件(金や恨みを動機としてもたない)も「引きこもり」時代の漏出エネルギーが化けたものであろう
 

2005-04-20 14:02:10

解っていてもできないよ

テーマ:人の見え方

僕たちにはやらなければいけないなと思っていることがある。やりたいな欲しいなと思っていることがある。その中には、なかなか手がつけられないで、いつの間にか延び延びとなって結局闇に葬ってしまうこともある。一生のうちでは、そうやって闇に消えるもののほうが多いかもしれない。


最近、体重が気になりだしたという人は、運動しなくちゃ、食事を少し抑えなくちゃとムシャムシャおやつをほおばりながら心に誓うのである。自分には絶対必要だし、正しいと解っていてもそれができないということを、まるで自慢話のようにまくし立ててうなずき合うご婦人方を見かけたりもする。片方が実行に移して成し遂げてしまったら二人はきっと決裂してしまうのだろう。私たちってホント駄目よねー、ガハハハハハ・・・でスッキリし、目出度し目出度しである。


独りになれば、こっちは抜け駆けしても、相手の抜け駆けは許さないと再度誓って不安を消しているに違いない。


人の生活は解っていてもできないことで溢れている。しかし、おかしなもので自分のことはやらないが他の人のことについてはからだがボロボロになってもする人がいる。


仕事もそうだが、どうやら自分の役割がはっきりとすると人は無理もできるらしい。余計なお世話の掛け合いがこの日常の空虚さを感じなくさせてくれるのはいいが、空しさの中にこそ激しく濃い思いも湧き出てくるものだと思う。解っていてもできない癖のようなものは、ひょっとしたら個人の空しさを知っているからこそ、そこに近づかないようにしているのではないだろうか。「私がやせたところでうちの主人は・・・・」。激しく濃い思いはコミュニケーションをシビアにしてしまうから。


「自分を褒めてあげたい」何かを成し遂げたときに、他人からの評価以前に自分を抱きしめる言葉がある。それだって、孤島に独りでは興奮もしないだろう。僕たちはどこかで行為の優先順位をつけている。自分のことを後回しにする人と他人のことは考えられないタイプの人いる。


本来なら、成長過程で自分のことから家族のことに広がり社会全体のことに水の波紋が広がるように人間が大きくなっていくことが理想なのだろうが、現実はそうもいかない。いくつになっても、未熟な自分と自分を逸脱する自分が混在して、程よいところが難しい。それにしても程よいところなどあるのだろうか、とも思ってしまう。


とにかく僕たちはどうでもよいことに熱狂したがるし、架空の想像をコミュニケーションの材料にしているのだ。昔の聖人とか覚者といわれる人たちはどうして誰もいないところに篭ったのか、そうしないと自分と向き合えないからだろう。解っていてもできないことはホントに解ってはいないのだ。

たとえどんな事情や理由があろうとも。独り篭るということはそんな言い訳が発生しない状況を設定することになる。人がいなけりゃ寂しいし、いればいたでうっとうしい。それが、妥当なところだろう。

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