死にたい病 2
テーマ:人の見え方人間にはとても素敵な能力があって自分以外のものに想像力を映し出すことができます。自分が死んだらあの人は悲しむだろうとか困るだろうとか、親は子供の将来をイメージして今をそのために捧げていきます。もし病気になったら大変だから保険金をたくさんかけておこうとか、あの人は私のことを好きに違いないとか・・・ほとんどが架空の希望と恐れからくる想像力で自分の脳は埋まっています。
頭ではわかっていても、どうしても「死にたい」という観念が湧きおこってしまうのは、ある種の無意識的な想像力が働いている可能性があります。みずちさんにとってそれはお母さんに会いたいということかもしれません。「死」はお母さんのいるところなのです。
人によっては現在の家族にリアリティを感じない場合があります。そうなると、自分の故郷はもっと別の目に見えない世界だと思うことだってありえます。「ここじゃない」という感覚は肉体として誕生したときすぐに発生してしまう感覚のひとつだと僕は考えています。果たして生きてることは謳歌に値するか否かは人それぞれでしょう。
歴史的に人が感動してきた物語はどれもが悲劇をベースにしています。悲劇の主人公にはなりたくないけど、悲劇を見るのは大好きなのです。「死にたい病」の人は悲劇の主人公になってもいいかなくらいのゆるい勇気を持っています。もっと、積極的に悲劇の主人公に憧れている場合だって多々あります。
多くの人が無意識ですが、人はこの世界が巨大な劇場であることを理解しています。あらゆるところでさまざまな劇が生活として行われています。ほとんどが、「たてまえ」の劇です。そんな「たてまえ」に飽き足らない人は本物をやりたくなります。「死にたい病」は本物志向の人がかかりやすい。ただ、実際に死ぬことと、「死にたい病」は分けて考えなけれなりません。みずちさんのように「死にたい病」を患いながら誰よりも元気に過ごすこともあるのです。
僕は死んだことがないので、「死」についてはよくわかりませんが、「死にたい気持ち」はわかります。ただ現実生活の絶望と死を結びつけたくはありません。考えてみれば、現実など絶望することばかりですから、そんなこと考えていたら何千回も何万回も死ななければなりません。
「死」とはその人間の作品としての成就です。死に方も含めて人は自分という作品を創造しているのです。これは、たんなる言葉としてのきれい事ではありません。僕は知っています。人間が自分を作品化しているという営為を。人間は自分自身をいかに「劇的なるもの」に仕立て上げていくかを無意識界の最大のテーマにしているということを。そして、人生と自分そのものが作品であるがゆえに、人は自分の死を見届けて欲しいのです。その無意識の前においては善悪という便宜上の観念は霧散していきます。
「死」そのもを悪、或いは、恐ろしいものとして漠然とイメージしている現代人は死を遠ざけようとします。考えることさえ邪悪なことのように思っている人もいます。「死にたい病」の人は死を考える人なのです。それは、魂の深層に近づいていく道には必然なことです。命の危険にさらされた大病を患った人が世界や人間の見え方がガラリと変わって感謝や慈しみの心境が芽生えたという話はよく聞きます。ですから、「死にたい病」の人は病名を変えればよいと思います。「魂の深層を知りたい病」というふうに。
みずちさんが「死にたい病」の先にイメージするのは「自殺」や「若死」のことなんでしょうけど、それは身体的心理的に苦しいから「自殺」をするという結びつけかたです。苦しい=自殺という構図はわかりますが、それ以前に、その苦しさに自らを導いていくプロセスがあります。それこそたぶんに無意識的なエネルギーの力やおかれた状況との関係性が作用します。そうなると、本人だけの問題ではなくなります。つまり、「自殺」や「若死」にいたるプロセスに関わった人々全員が「死」について深く考えなければならなくなるのです。悲しみや、後悔や、慙愧の念や、憤りなどを通して「魂の深層を知りたい病」に罹っていくのです。どこかでそういう人々を作っていかなければ僕たちの世界はそれこそ救いのない世界に堕ちていくことになるでしょう。その課題を強力に提示させられてしまうことに耐えられない心性が頭から「自殺」を否定し「死」を遠ざけようとしているのです。






