2005-05-03 15:30:45

無念の行方

テーマ:世界の見え方

いきなりだけど、僕たちの社会はストレスに溢れている。否、ストレスがたくさん溢れるように社会を作っていると言ったほうが当たっているかもしれない。この社会は多くの人のからだやこころが健全に働く範囲を基本にして設定されていない。人間の有り余る欲望は効率性や利便性を追求し、いつの間にかわが身を滅ぼしかねないような状況を作り出している。そして、このようなことはバブル崩壊後ずっと言われ続けている。世界は広いから、いまだに飢えで苦しんでいる人々もいる。戦争をしている国もある。しかし、僕は日本に生まれ日本に暮らしているので肌で感じるのはこの国の雰囲気である。だから、その肌で感じる雰囲気に限って最近思うことを綴ってみたい。


つい先日、尼崎で脱線事故が発生し多くの人が亡くなったり負傷した。当日の昼のニュースで知ったのだが、事故現場の映像を一目見たときから僕の内側が異様にざわつき始めた。スマトラ沖の大地震による津波の映像も、中越地方や福岡の地震災害もニュースで見たがその時の動揺とは違うのだ。不安定なざわつき感は自覚的には三日ほど続いた。それは完全におさまったかというとハッキリと元に戻ったとは断言できないくらいにおさまった、という感じである。


似たような心のざわつきでも、尼崎の鉄道脱線事故は多くの被害をもたらす他の災害や事故となにが違うのだろう。テレビでは遺族の涙の怒りと訴えが映し出される。見る側もほんとうにやり切れない。四日も続いた救助作業が終えて事故原因もしだいに明らかにされつつある。具体的な事故原因は当局に任せるしかないのだが、僕が事故当初よりうすうす感じていたことはこうした人為的事故に遭遇した人々の無念の行方のことである。とくに遺族の方々の晴れようのない無念さはどこに吸い込まれていくのだろう。どんなに賠償されようと戻ることのない愛する人への想いは消えない。怒りの矛先は当然JRに向く。引き起こしてしまったことは取り戻しようがない。泣いても怒っても無念さは増幅するばかりである。


不思議に思うのだが自然災害は最終的にどこかで諦めがつく。大いなる自然がその圧倒的な力によって人間を飲み込むとき人間はそれは仕方がないと思えるのである。相手が自然だと理不尽な死を遂げても怒りはあまり生まれない。僕はこの仕方ないと思える感性を無念さの吸い込まれるところとしてイメージする。


古くは大自然は神でもあった。人間は神には逆らえないと信じていた。しかし、一方で神の解剖をはじめ、切り刻み作り変えてきた。それに同調するかのように自分を神と名乗るものも現れた。具体的な神(自然)から抽象的な神(人格神)にイメージが変化してきた。外なる神が内面に宿ったのである。神は生死の境界に顔を出す。生まれた子供を「授かりもの」としてとらえ、死を「天に召される」と考えた。


神とは人間を包含するものであった。ところが近年は人間が世界に君臨してきた。人間は何重もの支配構造に取り巻かれて(勿論人間が作ったのである)生活しているわけだが、自然を神とする観念が遠のいた今、生死を決定するのは人間自らにゆだねられてしまった。これが、あらゆる責任論の根っこにある。


すべてが人為的、作為的な仕掛けの世界にあっては、今回のような被害者の悔しさや無念は当然人に向かう。それでも諦めることはできないだろう。僕たちはそうした無念を誰も引き受けることができないのだから・・・。「犠牲をはらって改善されていく」ほんとにそうなのだろうか。それこそ、人間界の神話なのではないか。原発になんらかの事故が起きたら、なんて想像しなくても、身の回りには想定内の中に想定外の犠牲者が日々生まれている。無念の行き場もなく・・・ストレスだけが増殖していく。

2005-04-20 13:58:27

泡の島

テーマ:世界の見え方

通常、僕たちの喜びや満足は泡の中の出来事である。僕たちは日常的に無意識という言葉を使っているが、無意識というのは意識に対峙する言葉ではない。反対語ではない。意識とは言ってみれば、無意識の海に浮かぶ泡の島のようなものだ。意識は言葉や感覚や力がぎゅっとひとつにまとまる状態である。

 

ある種のエネルギーが言葉に成る、感じる、力として表出したとき意識となる。それ以前の状態は無意識である。いや、意識外である。人間は意識して物事に当たるように訓練してきた。しかし、どんなに意識の網の目を細かくしても拾い上げられないもの、また、そこからこぼれ落ちてしまうものがある。意識するが故に無意識の海を深く広くしてしまうことも多々ある。

 

意識は自然に存在する島のように揺るぎなく存在するものではない。にもかかわらず、人類は意識がどこまで揺るぎなく存在できるかにチャレンジしてきた。いや、そう思い込もうとしてきた。われわれが作り出すもの、生み出すものは泡ではない!と。

 

無意識(意識外)の領域には自然がある。運命とか宿命がある。縁もそこに含まれるだろう。偶然も、相性も・・・それらが海の上にポコッと顔を出したとき、エネルギーは形として、事として登場する。そして消える。

 

意識は連続しない。意識の動き方は点滅である。その証拠に僕たちは全く同時に二つのことを意識できない。泡の灯りが点いたとき瞬間的に対象につながる。すぐに消える。消えてしまうものをとどめようと僕たちは記録する。記憶の部屋に詰め込む。そして、事が連続している
かのごとく都合良く引っ張り出してつなげる。自分や世界が安定しているように感じる。

 

一生懸命に夢中になるときというのは泡の島が消えても僕らのエネルギーが海の中に深く潜っていく。我を忘れる状態だ。それを繰り返し反復するとからだに秘密のエネルギーが埋め込まれる。反射的に動き自動的に形を作る。スポーツ選手やアーティストはそれを訓練する。意識という泡の島の架空の連続性を超えるときそれをスーパープレー、または、傑作という。


意識するということの行き着く先は意識そのものから離れること。無意識の海を自由に泳ぐ魚になること。意識にとどまろうとすると溺れる。だから昔から手放すことの重要性が説かれてきた。


意識はコントロールする力である。何をコントロールするかって?それは、圧倒的に無意識的存在であるところのこの現象界をである。コントロールする力はルール作りに励み、外の世界を確定していく。合理の世界は積み重ねる石の文化だ。石は外側の世界に揺るぎなく君臨する。とにかく硬いから壊れにくい。近代はその流れに従った。強いものの弱点は他を破壊しやすい。かくして創造と破壊という狂気の循環に突入する。

 

これは誕生と消滅という自然循環とは決定的に違う。「神」がいない。破壊あっての創造は当然強引な自己肯定に走る。自己肯定のために創造し続けるだろう。そして、セットとして破壊もし続けるのだ。

 

泡のごとき力で石を動かすことができるようになったのはいいが、意識と石を同一化してしまった結果、無意識の変幻自在な曼陀羅界に水没する者も増えてきた。つまり、ルールを作り出すための意識の力をルールに合わせるために使いはじめたのである。すでに伝統として地位を確立したことがらに携わる者はその権威によって、自己肯定もたやすいが、さあ「あなたは何をしてもいいんですよ」って言われても海を知らずに泡の島を石だと思っているくらいだから、さてどうしていいかわからない。

 

自分の気持ちはどうしてこうも定まらないのか、迷い子の群が無意識の海で溺れている。

 

基本的に意識の定位置は生命賛歌か生命怨歌である。現代はみんな喜ぼう楽しもうの一大合唱である。内心の孤独や疑問は隠したまま、仲間はずれにならないように、とりあえず乗り遅れないように周囲に合わせていく。本心がなんだかわからなくなる。心の中に聞こえるのは生命を怨む歌、カラオケで歌うのは生命を讃える希望の歌。

 

全ての災難は人為的災害であり、そのいずれにも責任が問われる時代となった。言葉を変えれば、あらゆる事件の加害者は人類であり、どんな事件も被害者は人類全体なのである。そういう理屈が暗に世界を覆ってしまっているが故に、人の感情は突拍子もない形で暴発するようになった。行き場のない感情を吸ってくれる「神」が消えたからである。日本の世間では「神」の話は論外になってしまった。僕たち自身がひとつの神話のはずなのに・・・僕たちは意識外の領域を想像することさえできない生き物になってしまうのだろうか。
 

2005-04-19 11:23:24

独楽

テーマ:世界の見え方

自分の日記のようなものを綴ってネット上に公開するブログの利用者は数十万人?いや、もっと多いだろう。みんな自分を表現したがっているんだろうな・・・。僕もそんな仲間(?)の一人としてはじめたはいいが、なかなか毎日は書けない。友人に言わせると、年中記していくものなんだそうな・・・書けない理由は忙しいということもあるが、とにかくトロいからなのだ。頭の回転が鈍いのだろう。

 

言葉に表現されたがっている感覚や衝動はたくさんある。ような気がする。それが、まとまった言葉にならない。ような気がする。なんだかはっきりしないうやむやした世界に棲んでいるようだ。それを、はっきりさせようとして僕はブログをはじめたのかもしれないな。とにかくフットワークを軽快にしたいな・・・

 

さて、人は十人十色というけれど、人間個々の生命が辿る旅の仕方ほど複雑巧妙なものはないと僕はかねがね感じている。僕たちはまったく新しいチャレンジを課されているかのごとく、それぞれが独特の道を歩んでいると思う。それは、言葉にならない、否、言葉にするとスルスルと逃げていってしまう歩き方だ。言葉で捕まえようとすると存在というか実態はもう「それ」ではない。僕はにはいつも「意識外エネルギーのあざ笑い」が聞こえる。僕は、「疑い」の道をさ迷っているのだろうか。まあ、そう言うからにはきっとそうなのだ。

 

僕には「夢も想像も含めた実態」の後を追いかける人間の「言語社会」は、例えると自分のシッポの先に夢や希望や正義や安定や理想をぶら下げて必死に追いかけ回す犬のグルグルダンスに見える。これはどう見ても「閉じられたモノ」の遊び方だ。小さい頃、ベイゴマという鉄のコマを回し合って相手のコマを弾き飛ばす遊びがあった。強いコマにするためによくヤスリをかけて鋭利に磨いたものだが、僕はコマの漢字が気に入っている。コマは「独楽」と書く。「独り楽しむ」のである。「閉じられたモノ」は独り楽しむのだ。

 

小さい子供は両手を広げてグルグル回ることが好きだ。このグルグル回りは人間の基本運動に思える。なぜなら、僕はそこに母なる「地球の自転」を想起してしまうから。地球の自転と人間界のグルグル回りはそうして重なる。

 

自分の状態を変化させれば動かないようにみえる世界も動いて見える。独楽には独り遊びの極意が隠されている。「閉じられたモノ」はそうして自分の内面を旅する。外側のものは内面を刺激し触発してくれるものとしてある。しかし、「閉じられたモノ」のエネルギーは、閉じられているがゆえに開く方向をめざす。そこに、創造や生産や開拓や改良が生まれる。言葉はその最たる力となる。

 

だが、内面エネルギーの過剰な露出を煽り、あらゆるものを人工的作為によって提示する現代は言葉を実態そのものに置き換えた。つまり、経験によって蓄積される知恵の力を重んじなくなり、マニュアル的知識で事に当たるようになった。典型としてスーパーやコンビニのレジに聞く「いらっしゃいませ~またお越しくださいませ」というテープに録音されたかのごとく発せられる一様な挨拶がある。言葉は気持ちを伝えるものではなく決まりを示すだけのものに変質してきた。物質を扱うように言葉を扱いはじめたのである。

 

日々の日常生活で繰り返し行われる作業からその習慣を身に着けていくという方法が消えて上澄みの形だけを覚えて対処していくようになった。難しい漢字は書けなくてもキーボードさえ打てればなんでもでてくるのと同じで、すべてが浅く速い。重いもの、濃いものは速くなれないのは道理だ。そんな日常言語の脱個性化、均質化はボーダレス時代の潮流と流れをひとつにするものであろう。ボーダレスは市場経済のみならず、あらゆる関係性にみてとれる。

 

大人と子供に境がない、友達のような親子関係、「性は大人になってから」は過去のもの、情報は若い人のほうが多く持ってる、年寄りはもう偉くないのだ。新しいものも一夜にして古くなる。昨日の社長は今日のホームレス。言葉はばら撒くものになった。そして、ばら撒かれた言葉をマニュアルを覚えるように、鵜呑みにしてしまう子供たちが増えてきた。彼らはコミュニケーションがうまくとれなかったり、実態世界の層の厚さと相の変化に適応できず苦しんでいる。マニュアル言語は表層の流れにしか対応できない。

 

つまり、「輝かしい未来」などというスローガンは誰も信じない時代になったのだ。それにしても何を信じて
よいのか皆目見当が付かない時代の子供たちの「閉じられた感覚」はいよいよもって、シッポの先に夢や希望や正義や安定や理想をぶら下げなくても、表層言語の内側でグルグル回りを加速させつつあることを誰が知ろう。人間は新しい「独楽」への変貌をこうして企んでいるのだろうか・・・
 

 

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