無念の行方
テーマ:世界の見え方いきなりだけど、僕たちの社会はストレスに溢れている。否、ストレスがたくさん溢れるように社会を作っていると言ったほうが当たっているかもしれない。この社会は多くの人のからだやこころが健全に働く範囲を基本にして設定されていない。人間の有り余る欲望は効率性や利便性を追求し、いつの間にかわが身を滅ぼしかねないような状況を作り出している。そして、このようなことはバブル崩壊後ずっと言われ続けている。世界は広いから、いまだに飢えで苦しんでいる人々もいる。戦争をしている国もある。しかし、僕は日本に生まれ日本に暮らしているので肌で感じるのはこの国の雰囲気である。だから、その肌で感じる雰囲気に限って最近思うことを綴ってみたい。
つい先日、尼崎で脱線事故が発生し多くの人が亡くなったり負傷した。当日の昼のニュースで知ったのだが、事故現場の映像を一目見たときから僕の内側が異様にざわつき始めた。スマトラ沖の大地震による津波の映像も、中越地方や福岡の地震災害もニュースで見たがその時の動揺とは違うのだ。不安定なざわつき感は自覚的には三日ほど続いた。それは完全におさまったかというとハッキリと元に戻ったとは断言できないくらいにおさまった、という感じである。
似たような心のざわつきでも、尼崎の鉄道脱線事故は多くの被害をもたらす他の災害や事故となにが違うのだろう。テレビでは遺族の涙の怒りと訴えが映し出される。見る側もほんとうにやり切れない。四日も続いた救助作業が終えて事故原因もしだいに明らかにされつつある。具体的な事故原因は当局に任せるしかないのだが、僕が事故当初よりうすうす感じていたことはこうした人為的事故に遭遇した人々の無念の行方のことである。とくに遺族の方々の晴れようのない無念さはどこに吸い込まれていくのだろう。どんなに賠償されようと戻ることのない愛する人への想いは消えない。怒りの矛先は当然JRに向く。引き起こしてしまったことは取り戻しようがない。泣いても怒っても無念さは増幅するばかりである。
不思議に思うのだが自然災害は最終的にどこかで諦めがつく。大いなる自然がその圧倒的な力によって人間を飲み込むとき人間はそれは仕方がないと思えるのである。相手が自然だと理不尽な死を遂げても怒りはあまり生まれない。僕はこの仕方ないと思える感性を無念さの吸い込まれるところとしてイメージする。
古くは大自然は神でもあった。人間は神には逆らえないと信じていた。しかし、一方で神の解剖をはじめ、切り刻み作り変えてきた。それに同調するかのように自分を神と名乗るものも現れた。具体的な神(自然)から抽象的な神(人格神)にイメージが変化してきた。外なる神が内面に宿ったのである。神は生死の境界に顔を出す。生まれた子供を「授かりもの」としてとらえ、死を「天に召される」と考えた。
神とは人間を包含するものであった。ところが近年は人間が世界に君臨してきた。人間は何重もの支配構造に取り巻かれて(勿論人間が作ったのである)生活しているわけだが、自然を神とする観念が遠のいた今、生死を決定するのは人間自らにゆだねられてしまった。これが、あらゆる責任論の根っこにある。
すべてが人為的、作為的な仕掛けの世界にあっては、今回のような被害者の悔しさや無念は当然人に向かう。それでも諦めることはできないだろう。僕たちはそうした無念を誰も引き受けることができないのだから・・・。「犠牲をはらって改善されていく」ほんとにそうなのだろうか。それこそ、人間界の神話なのではないか。原発になんらかの事故が起きたら、なんて想像しなくても、身の回りには想定内の中に想定外の犠牲者が日々生まれている。無念の行き場もなく・・・ストレスだけが増殖していく。






