日本の繁栄と衰退にちょっとした霊性をみる話
テーマ:jizouの眼
だが、彼らの神通力も尽きてきた。戦争を知るものが次々と消えてゆくに連れて、日本の国力は生きている人々の等身大の力として反映されてきた。バブル崩壊後の日本の不安定さはそれを如実に物語る。そして、今回の東北大震災と原発事故によってその内臓を抉られた時、国というものと僕たち自身の結びつきがいかに希薄なものであったかを知ることになった。あの三百万の若者と沖縄戦の殉死や内地における各都市の空襲や原爆の破壊力によって、どれほどの尊い命が失われたか。
この度の震災と原発事故を受けて、この状況はほとんど戦争状態であるとする論調がここかしこに見受けられるが、それでもその内的リアリティは過去に追いつくものではないだろう。もちろん死者や被害を蒙った人の数の話ではないが、実に数百万の魂が無念を残して消えたのである。津波にさらわれた親兄弟、子供を海の彼方に茫然と凝視するのと同じまなざしが、わずか紙一枚の事後報告で処理されてしまったのである。どんな戦争であろうとけっして救出劇にはなりえない。
被災地での、子を思い、親を思い、兄弟姉妹を思う情景に少しでも心が動かされるとすれば、過去の人々だって思いは同じはずだ。だが、彼らは文句ひとつも言えず、泣くことも忘れさせられ、嘘を信じ、戦った。いったい彼らは何と戦っていたのだろうか。ただ笑って過ごすだけが人生ではないが、可能性を試みるチャンスさえ奪われることの非情さにたいして、どのように自らの運命をあずけたのだろう。もし、自らの運命をあずけることの大義が「天皇陛下万歳」に収斂するなら、敗戦は大義を守れなかった自分たちの責任である。
しかし、あの戦争は天皇陛下を守るために始まったものではない。最初はこちらからの侵略である。敗戦の色が濃くなっていつの間にか天皇に殉死するための戦いになってしまった。どこかで何かがすり替わった。神国日本=天皇。日本という国自体に潜んでいた無意識があからさまに顔を出した瞬間である。この、「どこかで何かがすり替わる」ことに僕たちの民族の感受性は鈍い。まあまあ、なあなあで事を済ませる癖をみればよくわかる。今の原発問題にしても、必ずどこかで何かがすり替わろうとするだろう。僕たちは、その瞬間を絶対に見逃してはならないと思う。その変化は外側の仕組みよりも自らの心に発生しているのだ。
話が行ったり来たりするが、戦友を失って生還した者と国内で祈っていた者たちは力を合わせて「黙々」と、日本復興のためというより生活のため、生きるために働いた。その「黙々」はさまざまな鬱積した思いによって成されていた。それは、自責の念、憤り、悲しみ、後悔、不安、かすかな安堵などである。がむしゃらに働くことによって生活は向上していったが、何となく心は晴れない。喉元に引っかかる小骨のようにすっきりしないものがあった。それは、ひょっとしたら多くの人が気づかずに無意識の底に沈めていた思いであったろう。
敗戦処理において天皇は日本国の象徴として留まることになったが、働く者たちの無意識の底にくすぶっていたものは、その天皇及び皇室と国民との心の中の距離感であった。そうなってしまったことの経緯はすでに述べたが、そんな釈然としない国民の無意識的感情を取り持って、天皇や皇室への親しみを復活させた人物が登場したのである。美智子妃である。
僕は美智子妃の存在が三百万の若者の魂と共に日本という国を土台で支えていると信じるものであるが、この近代においても日本は女性シャーマンの国であることがよくわかる。天照皇大神然り、卑弥呼然りである。戦後十年も過ぎれば物質的に国民生活は向上しただろう。だが、皇室との精神的和解はでうであったろうか。そこにはまだ和解の徴はなかった。そんなとき、一人の女性が立ち上がった。歴史上はじめて民間から皇室に嫁ぐことにより、形の上で日本はこの一事をもってひとつになり得たのである。そして、その後の美智子妃の存在から、気配から滲み出る愛らしさ、気品、慎み、慈しみ、明晰さによって国民の鬱積した思いは溶解していくのである。
民族の総意としての霊性がこれほど一人の人間に象徴されるとは驚きである。・・・つづく






