美智子妃の登場によって「黙々」の内容がすり替わった。それは日本民族本来の、「黙って仕事をする」に落ち着いていくのであるが、日本の「運」は、ただ待っているだけで、忘れるということだけで、少しの辛抱だけで、やがて「春が訪れる」風土の奇跡と相重なっている。
この三種の神器は僕たち日本人の民族的習性であるところの「甘え」に通ずる。よって、どんな災害に見舞われても「こんなことがあってたまるか!」などと思う人はいない。自然に殉じてしまう。
そして、必ず復旧させるのである。いやなことは忘れ、今までと同じように一生懸命働きながら辛抱して待つ。それほど新しい改革に取り組まなくても自然の営みに寄り添っていれば恵みをいただけると信じている。
だから、人為的な災害に対してもその当事者が責任を全うするという感性は薄い。最初から責任意識がないので、社会の仕組みがどんなに硬直化していようが、その構造やルールを変えることに手をこまねく。「わかっちゃいるけどやめられない!」のだ。
日本では人為的な社会の改革よりも「自然の流れ」に重きをおく。国や社会の制度がこうも変わらないのは、生活のイニシアチブを自然が握っているからであろう。
だが、今回の原発事故も自然災害としてとらえてはいないだろうか。国や東電や原発によって生業を立てている人々は、その習性に則って突っ走ろうとしている。反・脱原発を唱える人々に対して、今少しの辛抱をしながら、静かに待っていれば、やがて何事もなかったかのように忘れるだろうくらいに思っているかもしれない。
ひょっとしたら、そうした感覚で眺めている人々は案外多いのではないだろうか。そうした習性は無意識下にあるので相当注意しないといけない。日本を汚染列島に塗り替えた原発事故は「待つこと」によって解決はしない。原発事故はこれまでの災害と違い、生きるということを根底から考え直すことを人間自らが仕掛けたのだ。
それでも、このような事態を真正面から受け止め、自ら責任を引き受けることを名乗り出る人が大勢現れた。脱原発を実現するためにそれこそ様々な分野の専門家たちが論理をもって声を上げ始めている。
ここで言うところの、自ら責任を引き受ける人というのは、何も原発事故を完全に終息させ、二度と起こらないようにする役を引き受けますということではない。それは不可能である。なにしろ原発は世界中で稼働しており、また、使用済みの核廃棄物は増える一方なのだから。
では、責任を引き受けるとはどういうことだろう。それは、後世の人々に原発事故を起こしたのは私たちのせいなんですと名乗り出たということにほかならない。
国や電力会社や推進派の原子力研究者は彼らとはまったく正反対のスタンスをとる。彼らは後世の人々にこう記すだろう。私たちは原子力というものを研究開発活用し、社会の繁栄に多大な貢献をしてきた者である。
ただ、想定外の事故が起きたためにその影響はみなさんにも及ぶかもしれません。と。
僕はそういう心の在り方に責任を見る。前者は「あなたたちの不幸は私のせいなんです」と責めを負い、後者は「お前たちの幸せは俺のおかげなんだよ」とのたまう。東電や原子力関係者の一貫した姿勢が後者なのだ。
彼らは、もう作って動いているんだからそれに任せていこうと思考する。まあ、儲かるからなんだけど・・・
しかし、そうした成りゆきに任せる思考は常に受け身になる。彼らは多分に「運」を想定している。運よく国民を騙し通し、原発がなくてはならないものだと思わざるを得ない社会になると思っている。
ときには、その謙虚さにおいて称賛される日本特有の「自然に生かされている」という感性は人間の傲慢を抑制するものではあるが、同時に自我の発達も抑制されてきた。
原子力の開発に限らず、世界に類を見ない天皇制の継続も、それは制度が優れていたからではなく、僕たちの世界に対する向き合い方が単に受け身的であったからである。
僕たちの思考特性は、切羽詰まった事態に直面した時、ぎりぎりの状態であるという認識を思考そのもが回避してしまうことにある。それは、本質にはいつも届かない結果を招くことになる。僕たちは「運」のせいにしない意識をつくる最大のチャンスの時を迎えているのだ。
「運」が好転していくように見えるのは、日本の自然風土の恵みが作用している。「運」も「自然」も向うから転がってくる。自然の恵みは自然の破壊を帳消しにしてくれるのである。諦めることからも新しい何かが生まれると。
多分に自然と結びついている日本の霊性は自然に委ね切った感性から生まれた。そして、天地自然のあらゆるものに神が宿るとする多神教が日本人の宗教原理であるとすることに異論をはさむ人は誰もいない。
しかし、特に現代の日本人が本当に石や草木を神として、宗教的な精神をもって崇めているとは思われない。僕は至極当然のごとく刷り込まれている、日本は多神教の国であるとする前提に懐疑的である。
自然が好き、或は、自然に対してさまざまな感情が湧き出るというのと、宗教的大前提としてある「信仰」の対象となり得る結びつきは全く異なるだろう。みんな「信仰心」があるから初詣にいくとは思えない。
それは単に儀式であって、みんながするから自分もお参りするのである。どれほどの人が日常的に「神様」のことを考えたうえでの行動をとっているだろうか。
多神教そのものの宿命なのかもしれないが、そこにはお飾りの「神」はあっても魂とつながる「信」がない。「信」のない宗教は、宗教ではないだろう。だからもう、文化人類学者や宗教学者や歴史学者は日本のことを多神教の国であるなどと言わないでほしい。民族としての信仰はないのだから。
なぜ、日本に「信仰」が根付かないのか。それはさきほどから言うように僕たちが受け身だからである。日本人は自然を崇めているのではない。自然を眺めているのだ。これほどただただ自然を眺めるのが好きな民族はいないと思う。
自然のほうが勝手に変化するので、こちらからわざわざアクションを起こす必要がない。僕は日本人はこの自然を眺めるのと同じように政治も原発も社会もみんなで「眺めて」いるのだと思う。
だから、この国は変わらないのだ。信じることや信念を鍛える方法が昔の軍国的な精神論しかないとは情けないことだ。
そして、このように僕たちの集合的な無意識下の習性を自覚してゆくことは、当然のごとく日本の霊性を考えることにつながる。多神教から信仰のこと、自然のことや受け身の精神は、自らを変えることができない我が国の
地層深くに横たわっている。さらに、それらのまなざしは天皇家及び皇室のまなざしにほかならないのである。
天皇家とはまさに日本的霊性のモデルであり、その在り方が民族習性にしっかりと根を張っている。僕は右翼でも左翼でもないが、天皇制というシステムを国民ひとりひとりが意識の表に引っ張り出さなければ、日本の真の意味での変革はないと思っている。このタブーに踏み込むことは未来への踏み絵となるに違いない。