第五章 女と家
テーマ:男を見限るまえに女が読む本● 「隠れる」と「隠す」
カ 戦後、日本は頑張って物質的繁栄は手に入れた。しかしながら、東アジアの小国が経済大国と言われるほどになっても、なぜこんなに個人として誇れないのか、自信がないのか、不思議だよね。日本の国や日本人に対して否定的な論調が常にうまれる。
ケ 経済大国になったのは日本の男たちが頑張って働いてきたことの証だよね。それでも、成し遂げた事に対して個人的にはどこか全面肯定していないところがある。それは自分の意志と決断による選択行動の結果としてその成果を汲み取らないことと、成果に間違いが露呈した時、内部の要請による変革の仕方を知らないからだ。別の言い方をすれば、すべて「みんなと同じ」ように行動してきたからだ。農耕民族はみんなで助け合って共同体を維持しなければならないので「みんなと同じ」は当然でもある。しかし、個人の成長プロセスに置き換えてみると「みんなと同じがいい」と思えるのは子供の時期の感性だ。
カ 個人の成果が集団としての誇りに収斂してしまう。「おかげさまで」と自分の成果をへりくだる。
ケ もちろん、自分ひとりの力ではなく、いろいろな人に支えられて成し遂げられたという理解は素晴らしいよね。それこそ「日本の心」だ。にしても、あまりに個を滅することが共同体への寄与であると思い込まされている。だから、個人の内面に発生する矛盾に自ら取り組もうとしない。まず「みんながよければそれがいちばんよい」としてしまう。僕は日本人ほど物事を考えるときに「みんなはどう思っているのだろうか」と、最初から全体とか集団のことを配慮して思考をする民族はいないと思っているんだが…。
カ それだととてもそとづら外面がよくなるよね。情熱の根拠が「みんなのため」であれば結果がどうあれ許してしまう。「まあまあ」、「なあなあ」の世界だ。
ケ 僕自身ももれなくそうだけど、日本論や日本人論がこれほど好まれること自体、みんなが日本という集団のことを強く意識している証拠だよね。でも、それは決して政治体制としての「国家」意識じゃない。個を滅するというのは実際は「個を隠す」つまり「隠れる」ということでしょ。僕は日本人の集団化・組織化への偏向的性質は、変な話、互いに見張って、牽制し合っているからだと思う。もちろん、力を合わせて事に当たるとか、気配りに長けるとか他の利点を踏まえて言うんだが…。なぜ見張るかというと、逸脱するものを防ぐためじゃないかと。日本人は出しゃばることを嫌う、目立つことをあまりよしとしない。とてもおとなしい。なぜそれほどに和を強調するかというと、見つかるからだ。誰に?それはわからない。しかし、見つかるとまずいということを想像すると、僕たちの古い祖先は大陸から追われて逃げてきた人たちなんじゃないかと思う。共同体の和が乱れることに神経質になるにしても、僕たちはあまりに臆病で緊張感が強すぎる。
カ 日本人の祖先は大陸からの逃亡者?人類史の中では迫害が普通に行われていたわけだから、考えられないこともないが…
ケ まあ、ひとつの比喩だけどね。逃げてきたか追い出されたか、とにかく人々は隠れた。日本は山が多いし、水と木が豊かだから隠れて生きるには最適でしょ。現代は「引きこもり」がいろいろ言われているけど、当初から日本の先住民は隠れて引きこもっていたんじゃないかな。それでも充分生きてゆけた。
古代から「籠る」ことで共同体の穢れを清めるようなこともしていて籠ることには馴染んでいた。
カ 子供の頃はよくかくれんぼして遊んだな(笑)。隠れていなければいけないということは、目立つ行動や新しいことを積極的にやれないね。一人のバカのおかげで全員が迷惑をこうむるから。
ケ 日本社会はひとりの突出した行動に異常に神経質なところがある。ゆえに連帯責任が常識になっている。また、オリンピックや大舞台におけるスポーツ競技では精神面の弱さが指摘される。選手はたくさんの成功よりひとつの失敗がもたらすプレッシャーに過剰な緊張を強いられる。思うに、日本人の緊張感の強さは日常的に何かに恐れているためじゃないだろうか。それは、誰かに、或いは、何かに見つかる危険性に怯えているからじゃないのかな。その何かこそが集団の目なんだと思う。交番という見張所の発達もそういう一面がある。どれほど治安がよくても、同一民族でも、人に面と向かったときに緊張している。そんな極端な牽制し合いが、今では子供たちの間にも広がってしまった。
カ 仲間はずれはいやだから、どこかで妥協する。自分の納得より他人の視線や評価のほうが気になるからいつもみんなに合わせていく。緊張ばかりで新しい創造は生まれない。いつの間にか事なかれ主義になるね。
ケ 政治家や官僚・役人が典型だ。自分の任期が終わるまでは何事もなく済んで欲しいと思っているから、自らアイデアを出して働きかけていくことは絶対にしない。その体質は隠れ人と同じだ。
カ 一般の人も新しい芸術作品や人物が現れると、国内では見向きもしなかったくせに、海外で脚光を浴びると手の平を返したようにもてはやす。自分で決められない。オタク文化だってはじめは眉をしかめていた人もいつの間にか日本の自慢の種の一つに加えているよね。
ケ 国内から発信される新しいものはまず否定してかかる。これも、出っ張るものは排除しようとする性質からくる。なぜそんなに憶病なのかを考えるとね、やっぱり逃げてきた民族なんじゃないかと勘ぐっちゃう。異民族とぶつからないで逃亡したという比喩を使うと僕たちの精神構造の作られ方がとてもわかりやすい。その決定打は、逃げて隠れたはいいが、それが見事に成功したことなんだ。見つからないように作ったシステムは、結局、誰にも見つからないがゆえにとことん強化されてしまった。追いかけてきた者など誰もいなかったんだ。ただ、自分たちの外側に対する注意力だけが発達してしまった。やがて、隠れ家は山の陰という場所ではなく、母親の懐、母性という隠れ家に移行した。したがって母性から独立するのはとても勇気がいることになる。そのような形で心の性質は温存されていった。
カ かくれんぼでもいつまでも鬼に見つからないと不安になる。見つかってしまうかもしれないという不安にいつまでも見つけてもらえない不安がプラスされたわけね。
ケ 対外的に憶病で緊張と不安の強い民族性には「隠れる」と「隠す」という習慣が張り付いている。外面が良いということは内面を隠していることで、日本人はそれを互いに探り合う。内面を隠してばかりいると自分でもほんとの内面がわからなくなってしまう。
カ ああ、それで「自分が何をしたいのかわからない」というクライアントがたくさんいるんだ。鬼などどこにもいないのに必死に隠れ、完璧に隠れたがゆえに窒息状態で苦しんでいる。自家中毒だ。
ケ 鬼にとって代わるものが世間の目(集団の目)だったんだ。
カ なんとも抽象的なものを引っ張り出しちゃった。
ケ そう、だから結局「みんなはこう思っているんじゃないかな」と、自分勝手に推測する癖がついた。自分を表明したり、行動する以前に、勝手な思い込みを投影する。評価の材料を提示する前から、ありもしない世間の非難を心配する。その無意識の反応傾向を理解しない限り僕たちの不安感が消えることはない。今、人々は社会が不安定だから不安になると思っているが、そればかりじゃない。不安は社会だけではなく僕たち日本人の根強い思考パターンが生みだしているんだ。世間の目というのは基準がありそうで実はない。各個人の推測を寄せ集めたところに怯えを加えて命を吹き込んでしまうんだ。
カ 省庁や企業の事件が発覚したとき必ず隠蔽体質が現われる。隠せば隠すほどボロが出てくる。最初から正直に告白するということをしない。
ケ 性懲りもなく最初はまるで手続きのように隠すよね。しかし、その「隠す」「隠れる」もネガティブなものばかりじゃない。「籠る」ことで男たちの集中力と技術は見事に磨かれた。さらに、話が大きくなっちゃうけど、日本的ということを考えた時、その特徴の一つに見えないものにたいする想像力がある。神社のご神体や秘仏などは隠しておく。枯山水のように水を置かないことで逆に水を想起させる。また、行間を読むとか間合いをはかるとか、「間」や「空」に対する意識が絶妙に繊細である。聖なるものはむやみやたらと姿を現さない。
カ 天皇も明治維新までは隠れていたと言えるんじゃない?
ケ うん、そう思う。敗戦の後また隠れたけどね。そもそも、日本神話の始まりからして黄泉の国に隠れたイザナミノミコトを追いかけたり、天の岩戸に隠れたアマテラスを誘い出したりと「隠れる」歴史がある。僕は「隠れる」と「隠す」が心理的なところで日本の母性という集合的無意識と密接につながっていると思う。男が隠れても誰も追いかけやしない。「家」や外面とか建前、責任の問題も母子の癒着も引きこもりも集団傾向も天皇制も主張の仕方もどこかで「隠れる」と「隠す」に通じている。そして、そこに発生した膠着状態こそが日本のジレンマの正体ではないのだろうか。






