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「竹鶴政孝 竹鶴リタ」

日本のウイスキーの父と呼ばれる竹鶴政孝と、妻リタが眠るこの墓は、リタが亡くなって4年後の1965年、政孝が建てたものだ。


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淡いピンクを帯びた墓石の肩越しに、北海道・余市(よいち)湾に注ぐ余市川と、対岸に重なるニッカウヰスキー余市蒸溜(じょうりゅう)所の赤いトタン屋根が見える。


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「IN LOVING MEMORY OF RITA TAKETSURU……」。墓石の裏には、ふたりの名前と生まれた日付、亡くなった日付が、政孝の没年月日だけを空欄にして刻まれた。

「はるばる未知の国日本までやって来て、私より若いのに、先立った妻の運命がかわいそうでならなかった。もし英国人と結婚していたら、リタの妹たちのようにまだ生きていたのではないか、という思いが私の胸を締めつけた」。政孝は後年、著書「ウイスキーと私」にそう述懐した。


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サントリーのウイスキー製造の基礎を築き、ニッカを興した政孝がリタと結婚したのは、日本人として初めて本場スコットランドでウイスキー造りを学ぶため英国に留学中のことだった。

グラスゴー大学に籍を置いた政孝は、柔道を教えるためある少年の家に招かれ、少年の長姉・リタと出会った。ホームシックに耐えながら学んでいた政孝は柔道を教えるうち、第1次大戦で婚約者を亡くし、どこかさびしげなリタと恋におちた。


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政孝はリタに求婚した。「あなたが望むなら、日本に帰るのを断念して、この国で職を探してもいい」。リタはこたえた。「私たちは日本へ向かうべきです。日本で本当のウイスキーを造ること。私もその夢を手伝いたい」

双方の家族の反対を押し切り、20(大正9)年1月、正式な教会ではなく登記所で式を挙げると、政孝は新妻をつれて実習に向かった。きれいな文字でつづられたこの実習のノートは、帰国後のウイスキー造りを支えた。


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政孝が余市へやってきたのは34(昭和9)年。リタと帰国してから十余年がたっていた。原料の大麦、麦をいぶすための草炭(ピート)、たる用の木材、良質の水、冷涼で澄んだ空気、海からの風――ウイスキー造りに必要なほぼすべてのものがそろう理想の土地に、ようやくたどりついたのだ。

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政孝が琥珀(こはく)色の酒に人生を賭けるかたわらで、愛情深く、完璧(かんぺき)主義だったというリタは、主婦として支えた。進んで日本料理を覚え、和食好きで味にうるさい政孝の食事の支度に腕をふるった。繊維に直角に切って食べやすくしたイカの塩辛、豆や野菜の煮物、麹(こうじ)を入れてまろやかにした数の子――19歳で養子となった威(たけし)さん(82)や妻の歌子さん、親しかったニッカの元社員らは、今もその味を懐かしむ。

「本物のウイスキー」を造るという夢を追ってふたりで過ごした家が、余市蒸溜所の一角に残っていた。



台所の向かい側に、二つのドアが並んでいた。左が竹鶴政孝の和室、右がリタの洋室。趣が異なる部屋は、壁ではなくふすまで仕切られ、気軽に行き来したり、一つの部屋として使ったりできるようになっていた。

ふたりの家がいまの形になったのは1948(昭和23)年、工場の敷地内から郊外に移築したときだが、政孝はその際、ふたりが暮らしやすいよう事細かに指示を出し、1年もかけて改築したのだと、ニッカ元社員の高田勇さん(78)が話してくれた。

つぼが一つ、台所にあった。リタが漬けた梅干しだという。ふたをあけると、白い塩の結晶の奥に赤みの潜む梅とシソが見え、鼻を近づけるとおいしそうな香りがした。


リタは高熱を出しても、「私の仕事です」と台所に立った。トウモロコシをゆでるときは、湯をわかしてから畑でもぎ、たくあんは食べる直前にたるから出した。温かい昼食を綿を入れた布で包み、工場へ届けた。竹鶴威さんと歌子さんに子どもができると、一針一針、ベビー服を縫った。

プロの主婦として、家族と、家族を支える仕事に愛情と誇りを持ち、楽しく義務を果たしていたのだろう。優しい青い目にとび色の髪をしたリタについて、政孝は「リタほど日本人になりきった外国人も少ないと思う」と話していた。

「でもおふくろは、当時の日本人女性と違って、たまに言い返していましたね。ある意味で、お互い我慢した夫婦だと思いますよ」と威さんは言う。

リタは、政孝が留守の時には「オニのいぬ間に……」といそいそと洋食を作ったりもしたが、日本風に夫をたて、尽くした。典型的日本男児である政孝だが、リタの誕生日には愛の言葉を添えた本などを贈り、夜はともにウイスキーを楽しんだ。


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リタにとって、余市の風景も大切なものだった。サケが帰る川、ニシンが押し寄せる海――スコットランドによく似ていた。余市川にかかる田川橋の上で、よく足をとめ、うっとりと風景を眺めた。ここから見る夕映えのなだらかな山並みとフゴッペ海岸が、リタのお気に入りだった。

しかし、第2次大戦が始まると、余市は針のむしろになった。町に出れば、石を投げられることもあった。特高警察につけられ、ラジオのアンテナは暗号発信器と疑われた。

戦後6年がすぎたある日、歌子さんがリタと町を歩くと、高校生が「アメリカ、アメリカ」と後をついてきた。リタは、驚く歌子さんに「戦争中は、鼻を低くして髪を黒く染めたいと思ったのよ」ともらした。

戦後、周囲に勧められても故国へ戻らなかったリタに、余市も、次第にやさしさを取り戻した。

竹鶴家の近所に住んでいたタクシー運転手三宅善夫さん(57)は、よく声をかけてくれたリタを懐かしむ。七夕の夜、子どもたちが訪ねると、他の家は白いろうそくだったが、竹鶴家ではカラフルでしゃれたものをくれた。「リタさんがにこにこしながらくれたろうそくを学校で自慢したものです」

晩年、リタは肝臓や肺を病み、政孝がよく滞在する東京に近く、治療にも便利な神奈川・逗子で過ごすことが多くなったが、60年の秋、どうしても帰りたいと余市へ戻った。

クリスマス前夜、威さんは、窓の外から賛美歌が聞こえるのに気づいた。「リタさんのお加減が悪いと聞きましたので」。日本キリスト教団余市教会の吉岡一牧師と信者だった。

正月は家族で過ごし、「おすしが食べたい」と言うリタのために、威さんが好物の赤貝を握った。


1月17日朝7時、工藤光家さん(81)は突然、政孝に呼ばれた。ニッカの若手社員だった工藤さんは竹鶴家を手伝うことが多く、リタを母のように慕っていた。

「リタが、こうなってしまったよ」。政孝にみとられて、リタは静かに息を引き取っていた。

号泣する工藤さんの横で、しばらく泣いた政孝は「工藤、もう泣くな。すまないが、あとを頼む」と自室にこもった。葬儀の相談にも出てこない。「社長は泣いていらっしゃいました」。竹鶴家の手伝いをしていた礒田幸子さん(65)は、そう振り返る。

葬儀が終わり玄関を出ようとしたひつぎを、政孝は何度も何度もなでた。

政孝と威さんは翌年、悲しみを振り払うようにして「スーパーニッカ」を完成させた。これが当たり、ニッカの経営は軌道に乗った。

余市産の上質の原酒だけをブレンドした、まるで政孝とリタの40年間の集大成のようなウイスキーだった。


文 ・魚住ゆかり (10/21)

竹鶴政孝は1894(明治27)年、広島県竹原市の造り酒屋の三男として生まれた。大阪高等工業学校を出て摂津酒造(大阪)に就職。ウイスキーの製法を学ぶため英国・スコットランドに派遣された。リタ(本名ジェシー・ロベルタ・カウン)は英グラスゴー郊外の医師の家に生まれた。

ふたりが1921(大正10)年に帰国すると日本は不況だった。摂津酒造に本格ウイスキー造りに取り組む余裕はなく、政孝は退社。中学で化学を教え、リタも英語やピアノを教えて稼いだ。政孝は23年、本格ウイスキー製造を目指す寿屋(現サントリー)に請われて入社、大阪・京都境の山崎に日本初のウイスキー蒸溜所を建てた。

だが若いウイスキーはなかなか売れず、政孝は寿屋を出た後、34年に大日本果汁を余市に設立。リンゴジュースなどの販売でしのぎ、創業6年後に第1号ウイスキーを「ニッカ(日果)」のブランドで発売。52年ニッカウヰスキーに社名変更。


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日本のWhiskyの父、竹鶴政孝氏と妻のリサの話を記事よりUPしました。

後発のJapaneseWhiskyを世界に誇れるWhiskyとして造り上げてきた竹鶴政孝氏。

こんな物語もあったのです。



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