ジェンダーのお話 3 ハビトゥス(習慣的行動)とジェンダー | 共同合宿所

ジェンダーのお話 3 ハビトゥス(習慣的行動)とジェンダー

江原由美子著『自己決定権とジェンダー』に、ジェンダーを「ハビトゥス」という概念を用いて説明されている。ハビトゥス=習慣、慣習的行動、とのことで、もともと社会学者ピエール・プルデューが「文化的再生産論」をこの概念を用いて主張している。
*文化的再生産論・・・人の趣味、言葉遣い、行儀作法、といった慣習は、出身階級により大きく規定される。一見機会の均等に見えるような学校教育においても、中産階級の慣習的行動が高く評価される規定図式があり、労働者階級出身の子供たちの慣習的行動に品が無いとか学力がない、という評価を与えがちになり、それが学校での達成意欲を低くし、その階級が再生産されていってしまう。(御神崎流に言えば、天皇家はピアノと弦楽器で三重奏を奏でるが、かつて御神崎家ではレーザーディスクカラオケで大宴会、そんな家庭だった。前者を趣味が悪いとは誰も言わないが、後者は悪いという人もいるだろう)。慣習的行動はあたかも人柄や教養の証のように扱われ、それが階級再生産を促す。
このハビトゥスをジェンダーに置き換えると、こんなことになるそうだ。
・男の人は人の話を聞かない。他者の気持ちに配慮しない話し方は、男性の権力に結びついている。女の人の話し方は感情には配慮するが、断定をしない。だから女性には「合理的な判断力がない」と思われる。それをわかってはいても、女の人は話し方を変えることはできない(そして再生産されていくということだろう)。その話し方の差異はあたかも男女本来の性向であるように捉えられ、話し方を脳の構造の性差として位置づける見方は「人の話を聞かない男、地図のよめない女」という本が象徴されるだろう。(ブログを見ても、女性の表現の方が婉曲的かもしれませんね)
「男らしさ/女らしさ」の多くは、「女はこういうものだ、男はこういうものだ」という言語化された知識ではなのではなく、ほとんど意識にあがることがないほど慣習化され身体化されたハビトゥスになっているのではないか。(江原氏)
また別の例。こちらは、プルデューによるものですが。
・「男らしさ/女らしさ」というのは、どれだけ空間を占めていいかという構えによる違い。男の人は、権力を誇示するために空間を大きく占有する。だから足を広げ肩をいからせるのが「男らしい」。女性は、ひざを閉じ、できるだけ小さく見せ、空間の所有を邪魔をしない。結果、やせて、小さい女性が「女らしい」となる。「空間」占有という身体経験は、他のすべての行動に拡張していく。たとえば「時間」。女性は相手が忙しそうにしていると、他の人の時間を占有することに躊躇し、「ほんの一、二分よろしいでしょうか」となる。することに女性は気を使うようになり、「今お時間よろしかったでしょうか」というような気遣いをするようになる。例外はあるだろうが。
(御神崎流にいえば、ある日、わきの下が逆三角形になっていることに気づき、筋肥大のトレーニングをやめたことも、ハビトゥスによるものなのか?)
男女の慣習的行動の相違は、身体経験の相違を生み出します。それはまた「身体的性差」の探索行動を正当化する根拠を生み出す、つまり「身体的性差」という知識を生み出すことにも影響を与えます(江原氏)。
一部、今の時代にそぐわない感じもしつつ、我々が意識していない慣習的行動の部分が、あたかも身体的性差と誤解されている部分は実に多いかもしれない。
(本日はほとんど要約 汗)